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「近所の子だ」という話は、パート先のスーパーで何度か耳にしていた。どのぐらい近所かということについて、昨日休み時間が重なっていた村沢むらさわさんにたずねると、かなり具体的な町名まで教えてくれたのだが、近所の地図ほどちゃんと見ないし、そちらに知り合いもいないので、どれだけ近いと言われても、正美まさみにはぴんとこなかった。自分がここに戻ってきて二年足らずだという事情もあるのかもしれない。正美がうかない顔をしていると、村沢さんは、山崎さんの住んでるところからしたら、隣町ってほどの近さではないけど、隣の隣ぐらいの所ね、小学校とか中学校の校区は同じなんじゃないの、と説明してくれた。
 警官にも会った。起きて顔を洗ってすぐにゴミ出しをしていると、斜め向かいの矢島やじま家の姉妹のお姉さんもゴミ袋を両手に抱えて出てきた後、また家に戻って重そうな袋を持って出てきたので、正美が「手伝いましょうか?」と声をかけていたところに、警官の制服を着た若い男が自転車に乗ったまま路地に入ってきて、声をかけられた。警官は、おはようございます、とあいさつをした後、逃走中の受刑者についてはご存じですか? と話しかけてきた。
 正美が何か言うより先に、矢島さんの姉妹の姉であるみづきさんが、知ってます! と答えたので、警官は、まだ確保できていないのですが、この近辺に向かっているかもしれないという情報がありました、何かありましたらすぐに110番でお知らせください、そして自宅の戸締まりや、近隣を出歩かれる際は充分お気をつけください、と言い残して去っていった。
 怖いですね、と正美がみづきさんに言うと、みづきさんは、何をやって刑務所に入った人なんですか? と見上げてきたので、正美は、おそらく小学四年ぐらいと思われるみづきさんにわかるだろうかと考えながらも、横領ですね、と答えた。
「おうりょう?」
「どろぼうみたいに家に来るわけじゃないんだけど、仕事をしている会社のお金を盗んだりすることですね」
「なんて書くんですか?」
「たてよこの横に、領土の領です。領土はわかります?」
「わかりますよ。イギリス領インド、みたいなやつですよね」
 よく知ってるな、と正美が思うと、みづきさんはそれを察したように、『小公女』って本に書いてあったんですよ、小一の時に読んだんだけど、とたかだか二、三年前のことのはずなのに、ずいぶん昔のことのように答える。気をつけてくださいね、とこちらが言わなければいけないようなことを、正美はなぜかみづきさんの側から言われて、首をかしげながら家に戻った。
 インターネットの記事には、顔写真も出ていた。三十六歳。普通の女子だ、五十八歳の私からしたら、と正美は思った。襟のある白いシャツを着た彼女は、きちんとした身だしなみで、それ故にほとんど特徴らしい特徴はなく、顔つきはあくまで無表情だった。顎のあたりで髪は揃えられていて、前髪が邪魔にならない長さに斜めに短く切られていることが、印象に残るといえば残った。自分の部下にいてもおかしくないと思った後、すぐに、いや自分は会社を辞めたんだった、と正美は思い返した。
 彼女は横領した金のためだけの口座を作っていて、くすねた金の最初から最後までの全額をそこに貯金していたというのも気にかかった。横領した金は一銭も使わず、質素な生活をしていたらしい。
 廊下を歩いて台所に向かいながら、「女の子が刑務所から脱走するって珍しいよね、男の人ならたまに聞くけど」と口に出して言ってみるものの、母親はもういないのだった。頭ではわかっているのに、強く感銘を受けたことがあると口にしてしまう。しばらくは、独り言は言わないようにしようと心がけてきたけれども、スーパーでのパート勤務を一時間増やしたら思ったより疲れるようになって、それも自制しなくなった。こんなふうにして人間はへんになっていくのかもしれない。けれども正美は、特に誰にもそのことについて遠慮することがない立場に自分がいることを、自由でいいような、けれどもかすかに寂しいようにも思った。
 ゆで玉子とトーストを作って食べながら、少し食事に飽きると、新聞に入っていた不動産情報のチラシをながめた。一人暮らしの自分にこの一軒家は大きすぎるような気がするし、だったらもっと便利なところに小さい部屋でも借りようと、物件の情報があったら毎日チェックしつつ、その一方で、母親はこの家に長いこと一人で暮らしていて物でいっぱいにしてしまったから、自分も下手に狭いところに引っ越さない方がいいのかもしれないとも考えている。
 母親が家の中に溜め込んだ物々の片付けは、あまり進んでいない。気力がわかなかった。母親は生前、ゴミを集めるような真似こそしていなかったけれども、まだ使えるもの、使えるか使えないかの境界にあるもの、入手したのは数十年前でもまだ使っていないものは一切家から出さなかったようだ。当面はお金に困っているというわけでもないので、パートの時間数を元に戻してもいいのだろうけれども、家の中で母親の遺品を前に絶え間なく取捨の判断をし続けるよりは、スーパーに出勤して仕事をする方が気分が楽だと正美は思っていた。たとえ体が疲れても。
 廊下に積み上がっている、大量の食器をしまった段ボール箱を横目に、正美は仕事に出かけることにする。段ボール箱の隣には、唐突に料理酒とみりんとしようの大きなボトルがおいてある。賞味期限は五年前に切れていた。その隣には日本人形がある。さらにその隣にはミシンの箱があり、その上には茶道の道具が積んである。そこから靴箱までは、また食器の入ったケースが四つある。正美は自分でも知らないうちに溜め息をついている。
 これらを判断せずに放置し続けると、うちもごみ屋敷と言われるものになるんだろうか。ミシンの箱とみりんのボトルに挟まれて、おかっぱの日本人形は、ふくよかなほっぺたをふくらませて、そうかもね、と言っているように見える。
「怖いよね」
 正美はうなずき返しながら、自宅での義務から逃げるように、徒歩で十分のスーパーマーケットに出勤した。お昼を食べに家に帰ることもあるけれども、今日は仕事先で食べようと思った。