1.人々


 時間通りに起き出すと、亮太りようたはのろのろと中学の制服に着替え始めた。制服のスラックスにも、シャツにもアイロンがあたっている。むしろぴしっとしすぎていて、服に無理やり立たされようとしているような気分にさえなる。以前なら、起きた直後は何か口にするまではいつベッドに戻ってもおかしくないような心持ちでいたのだが、こんなに繊維が硬直したものを着てまた寝そべろうなどという気分にはならない。
 亮太は、上半身の違和感を緩和するように両腕をぶらぶらさせた後、床に置いた通学用のリュックサックのストラップをつかんで自分の部屋を出る。そして隣の母親の部屋に直行する。いつも通りの真っ暗な部屋で、膝でベッドに乗り上げ、窓と網戸を開け、重い金属製の雨戸を脇にどける。突如差し込んでくる太陽の光のうとましさに、顔を伏せて身を縮める。亮太は、なんでこんなことしないといけないんだという理不尽に軽く震える。
 それから窓を閉めて、母親の部屋に光と空気を取り込む作業を終えると、家族の雑多な物が収納されている六畳間に行き、ベランダに出て、洗濯物を取り込む。もう朝洗濯物取り込むのやなんだけど、と父親に言うと、でもずっと干しっぱなしにしていると、お母さんはどうしてるんだって言われてしまうだろう、と父親は言う。いや自分が取り込んでることを見られる方がぜんぜん母親どうしたって思われない? と亮太が反論すると、ベランダは通りに面してないからいいんだよ、と父親は言う。
「でも両隣のおっちゃんとかおばちゃんがベランダに出てくるかもしれないだろ? 同じ方向にあるんだから」
松山まつやまさんは全部コインランドリーで済ますし、山崎やまざきさんが洗濯物を取り込むのはパートから帰ってきた夕方だから大丈夫だよ」
 あんたそこまで両隣の一人暮らしのおじさんとおばさんのこと観察して失礼だな、と父親に言ってやりたくなるのだが、それ以上父親と話すこと自体がストレスだったので、亮太はこらえた。
 とりあえず洗濯物を取り込んで、ハンガーを掛けたまま部屋に積んでおく。畳むのは父親の仕事だ。亮太はリュックのストラップの片側を肩に引っかけてやっと一階に降りる。ベーコンが焼けるやたらいい匂いがする。台所にいる父親から、おはようという声が聞こえてくる。亮太は洗面所で顔を洗って歯を磨いたあと、食卓に着く。朝食は、ベーコンとスクランブルエッグののったイングリッシュマフィンとジャガイモの冷たいスープと、野菜ジュースだった。手を合わせてマフィンにかぶりつくと、スクランブルエッグがぱさぱさしすぎず柔らかすぎることもなく、良い加減なのがわかる。父親はわりと料理がうまいことが、母親が家を出ていってから判明したのがなんだか腹が立つ。
「見ろ亮太」
 父親がテレビの方を示すのだが、顔を上げずに黙々と食事をしていると、父親はもう一度、テレビ見てみろ亮太、と言う。二度言われると、仕方がないのでテレビの方を見てみることにする。おとといあたりからときどき話題になっている、逃亡犯のことをやっている。二つ隣の県の刑務所から逃げ出したらしい。
「女性の脱獄囚とか珍しくないか?」
「知らんよ」
 そうか、俺は聞いたことないな、とあしらわれてもめげずに父親は話を続ける。
「気をつけろよ。こっちに向かってるらしいぞ」
 父親は、逃亡犯が映ったと思われる駐車場や商業施設などの防犯カメラの位置が、少しずつ自分たちの住んでいる地域へと近付いてきていることがわかるテレビの地図を指差す。亮太自身はすでに、ネットのニュースと学校での話で知っていることだった。
 まったく、何が目的でこんなことするんだ、そんなに長い懲役でもなかったのにって別のニュースで見たぞ、と父親がとがめているのを聞きながら、亮太はジャガイモの冷たいスープに口を付ける。やはりまあまあうまい。父親はこだわりが強い人なので、やるとなったらすごく研究してちゃんと作るんだろう。そういうところを母親は嫌がっていたのかもしれないが。
「この人、このへんの人らしいよ」
 父親とあまり話をしたくないので、言うか言わないか迷ったのだが、自分の方が知っていることもあるということを示してやりたいという気持ちが抑えられなかったので、亮太は学校で聞いてきたことを口にする。「このへん」どころか、どこの町内の人かまで亮太は知っている。
「ほんとか?」
「ほんと」
 父親は目を丸くして口をぽかんと開けて、亮太の思惑通り驚く。亮太は少しだけ満足する。
「いや、仕事が忙しかったから近所のことになんてかまってられないし、知らなかったよ。先月この並びの自治会長の役が回ってきたんだけど」
 ちゃんと情報収集しないとな、と父親は腕組みをする。うーんとうなったりもする。亮太は芝居がかってていやだと思うのだが、父親が何の意図もなくそういう動作をしてしまう人だということも知っている。知っているからといって何の気休めにもならないのだが。
 逃亡犯のことは、同じクラスで塾も同じで毎日一緒に帰っている野嶋のじま恵一けいいちが詳しい。あまり人の噂話などはしないし、ニュースにも興味がない男なのだが、なぜか逃亡犯の話はときどきする。ノジマと亮太は、小学校では違う校区だったのだが、ノジマと同じ小学校出身の連中が逃亡犯について、実家は小さな塗装業者だったが倒産して、という親から聞いてきたようなことを得意げに言っているのを見かけると、ノジマは、違うよ工務店だ、などと亮太に向かってだけ訂正していた。
 勉強はできたが、家業が倒産したことで学歴のレールに乗り損ね、やがて犯罪を犯した女。学校の人間の話を寄せ集めると、そういうイメージができあがる。亮太も学年では比較的勉強ができて(客観的なことだから仕方がない。それ以上のおごりはない)、母親が出ていっているためあまり幸福とも言えない家庭の息子なので、なんとなく気にかかるものはある。少しは共感していると言ってもいい。だから学校で聞いてくる以外に、ニュースについて熱心に調べてもいた。なんでこんなことするんだばかだな、と思いつつだが、逃げ切れよ、とふと願うこともあるし、会ったら助けるかもな、と想像したりもする。中学生の亮太には、横領おうりようという罪にあまり実感はなかった。
「亮太はこのことについて詳しいか?」
「べつに」
 父親の目に軽く光が宿って、言葉つきが引き締まるのが面倒だな、と思う。いつものように、このことに対してもリサーチし、何らかのやるべきことを見つけ、うまいやり方を模索し、それを周りに押し付けるのだろう。亮太に、自分は月・水・金に妻に連絡するから、おまえは火・木・土に連絡しなさい、塾が終わった後がいいと思う、日曜日は考える時間をあげよう、などと言ったように。亮太と母親は、一応メールのやりとりをしているが、父親のメッセージやメールのたぐいは、母親はすべて無視しているらしい。仕事をするように事務的に復縁を打診しているからそんなことになるのではないか、と亮太は考えていた。
「自治会長になったんだから、ちゃんとやらないとな。幸い今日は休みだし」
 父親は月一回、有給を規則正しく消化している。仕事の忙しさによるのだが、だいたいは月末の金曜日に。ジグソーパズルを作ったり、バッティングセンターに行ったり、読書をしたりしているが、楽しいと言いつついつも物足りなそうだ。だから今回のこの問題は、この三連休では手頃だと捉えてるんじゃないかと亮太は思う。
「地域の人と協力して、逃亡犯がこっちに来たりしないか見張りとかしないと」
 地域の人って言い方がすごくしらじらしい、と亮太は思う。「地域の人」なんてべつに考えてないくせに。父親は、外面がよくて堅苦しいので、もちろん近所の人をばかにしたりはしないが、自分の人生とは関係ない人たちだと思っていることを、亮太はなんとなく察している。だから母親が出ていったことも知られたくないのだ。
「とりあえず、路地の出入り口にある笠原かさはらさんの家の二階からが見張りやすいかもな。通りの側にも路地の側にも窓があって、二手ふたてから侵入経路を見張れる」
 父親は、笠原さんの家の二階について知り尽くしているかのような口ぶりだが、笠原さん夫妻とはあいさつを交わす以上の関係でないことを亮太は知っている。亮太の家がある路地は、三橋みつはしさんという家で行き止まりになっていて、西側に四世帯、東側に五世帯が住んでいる。世帯数が違うのは、路地の出入り口の西側の角に住んでいる長谷川はせがわ家が隣と裏手の家を所有していて、それらとつなげて住んでいるからだ。笠原さん夫妻の家はその向かいの東側にあり、亮太の家は、東側の五世帯の奥から二軒めだった。
「でも、笠原さんの家の窓から見張るとして、長谷川さんの家の花壇が死角にならないだろうか」
 だんだん話を聞いているのが苦痛になってきたので、亮太は食事の残りをかき込み、野菜ジュースを飲み干して床に置いてあるリュックを手に取る。
「どうだろう亮太? いってらっしゃい」
 どっちを言いたいんだ、と亮太は混乱するが、とりあえず、近所の人に迷惑かけんなよ、とだけ言い残して家を出た。今日は普通ゴミの収集日で、父親はすでにゴミを出していた。