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 仕事の帰りは二十四時間営業のスーパーに立ち寄って総菜を買う。娘と二人暮らし。どんなに忙しいときでも署で寝泊まりすることはない。
 一年前、妻の千夏にがんが見つかった。例年より十日も早く兼六園けんろくえんで桜が咲き始めた頃だった。病院の帰り道、咲き誇る桜を眺めながら、長い闘病生活を覚悟したが、千夏は半年で、あっけなくこの世を去った。
 もとは千夏も警察官だった。高卒で同期採用。警察学校時代に交流はなく、名前と顔が一致する程度の間柄だった。二人の接点ができたのは、比留が交番勤務を経て、能登半島のなかほどにある小さな警察署で初めて刑事になったとき。その署の交通課に千夏がいた。
 再会した千夏は、少女のようなあどけなさが消えて大人の女に変貌していた。そんな千夏に比留は心をひかれた。
 千夏から聞いた話では、どうやら千夏も比留に対して同じ印象を持っていた。少年っぽさがなくなり、警察官の顔になったと感じたという。
 署内で顔を合わせれば、たわいもない話をした。刑事になって緊張した日々を過ごしていた比留にとって、千夏と話すのは、ほっとするひとときだった。
 再会から一年後、千夏は金沢の警察署へ異動することとなった。離れる前に、比留は気持ちを伝えた。──結婚を前提に付き合ってほしいと。
 交際が始まり、自然な流れで結婚へと進んでいった。二十代半ばでの結婚を早いとは思わなかった。千夏は結婚を機に警察官を辞めた。
「警察官になるより、刑事の妻に憧れてたの。なんだか、かっこいいでしょ」
「そんなの、どこがかっこいいんだ」
 口ではそういいながらも、千夏の思いが嬉しかった。比留は仕事に邁進した。千夏は刑事の妻として、激務の比留を支えてくれた。
 結婚して二年が過ぎた。子供はなかなか授からなかった。まだなのかという周囲の声に比留は少し敏感になっていた。焦る必要はないと千夏はことあるごとに口にしていたが、比留は嫌な予感を覚えていた。もしかして妊娠しないのは自分に原因があるのではないかと。
 しかし病院で検査を受けるのは、ためらいがあった。お互い一度検査を受けてみないかと千夏にそれとなく提案したが、やんわりと拒否された。
 結局、千夏には伏せて、比留は一人で病院に行き、精密検査を受けた。予感は当たった。検査の結果、精液中に精子が存在していないことがわかった。原因は、原発性精巣不全。思春期以降におたふく風邪にかかった場合にまれに起きる症状だという。心当たりはあった。中学三年の春にかかったおたふく風邪が原因だろうと思った。
 自分には生殖能力がない。その衝撃は大きかった。男として不完全だと烙印を押された気がした。足元が揺らぎ、暗い谷底に落ちていくようだった。
 誰にもいえない悩みと強い劣等感。それ以上に千夏に申し訳ないと思った。千夏がためらいもなく警察官を辞めたのは、近い将来、子育てをしたいとの希望を持っていたからだ。
 だが、自分といる限り、それはかなわない。刑事というのは家を空ける時間の長い仕事だ。外に出たまま、子供のいない妻をずっと置き去りにする。子供と一緒にいる親子を見るとどんな思いに至るのか。俺のせいで千夏の人生を不幸にしてしまうのではないか。
 一人で考え込んでいても、こたえは出なかった。いたずらに日々が過ぎていくのは千夏にも申し訳ない。あるとき、意を決して話すことにした。
「聞いてほしいことがある」
 もしも千夏が絶望して悲しみに暮れるようなら、離婚を切り出すことも半ば覚悟していた。だが、何かが喉に詰まったかのように、声はすぐには出なかった。
「どうしたのよ。幽霊でも見たような顔しちゃって」
「俺と一緒にいても……一生子供を授かることはない」
「どうして?」
「実はな」
 千夏は硬い表情で話を聞いていた。ショックを受けているのは、明らかだった。
 話のあと、千夏は「子供がいなくても幸せよ。これからも二人で仲良くやっていこうね」といって少し首を傾げた。
 意外な反応に熱いものがこみ上げた。それが余計に比留の胸を締めつけた。世の中に子のいない夫婦はいくらでもいる。幸せの形は一つじゃない。そう思い込もうとした。しかし、千夏のために子供が欲しいという気持ちはおさまらなかった。
 俺の子供じゃなくてもいい──。それまで抱えていたわずかな思いが膨張した。
 悩んだ末、比留は千夏にある提案をした。

 車を降りて自宅を見上げた。二階の窓に明かりがともっている。本当は、すぐに美香の部屋に行き、話をしなくてはいけない。だが、顔を合わせてもまともな話し合いが成立するとは思えなかった。結局、話が別のところに行きつくのは目に見えている。
 美香のために買ったミートソーススパゲティを冷蔵庫に入れた。美香の部屋に行くのは、寝る前と決めて、自分用の総菜を電子レンジで温めてテーブルに広げた。
 冷蔵庫から安いワインとプロセスチーズを取り出した。結婚したときから、この組み合わせでずっと飲んでいる。ただ、一年前までは目の前に千夏がいた。
 コルクを抜いてグラスにワインをなみなみと注ぐ。耳の奥から千夏の声が聞こえてくる。
 ──どうしたの? 何かあったの? 
 仕事で失敗したとき、うまくいかなかったとき、千夏とワインを飲んだ。腹の底に溜まった澱が不思議と消えていった。心身をリセットして翌日はまた仕事に打ち込めた。
 テレビをつけた。惣菜を食べる気にもなれず、ワインとチーズを交互に口に運んだ。チャンネルを変え続けるも、興味がわかず、電源を切った。
 ボトルの中身は半分ほどに減っていた。携帯電話の画面に触れた。いつもの動画。昨年、千夏の病が見つかるひと月ほど前に撮ったものだ。
 ぼんやりと映る千夏と美香の顔が、炎で揺れていた。白いデコレーションケーキを前にして、ハッピーバースデーを歌っている。二人の誕生日は二日違い。その間の日に、毎年、家族三人で誕生会をした。
『お母さん、フーッてして』
 千夏が息を吹くと、一つだけ火が残った。何十回も見たシーンだ。涙で焦点を失い、赤い火がぼやけていく。
 初めて捜査一課の刑事となって売り出し中だった頃、比留のあだ名はデビルだった。苗字をもじってつけられたのは明白だが、悪魔のように頑丈な心と体という意味があった。パワハラが当たり前の時代、怒鳴られても決してひるまない。徹夜続きでも音を上げない。それがデビルの由来だった。
 だが今は違う。外では平静を装ってなんとかぎりぎり踏みとどまっているが、実際は、心も体もひどく疲弊していた。家で仮面を外せば、女々しい男の素顔が現れる。
 画面のなかの美香が『お母さん、もう一回!』と声を上げる。
『じゃあ』と千夏が微笑む。
 息を吹きかける音とともに、携帯電話の画面が真っ暗になった。
 
 浅い眠りから覚めた。視界がまぶしいのは、窓から差し込む朝の光のせいだった。
 ソファから起き上がると、水中からはい出したように身体が重かった。壁の時計は午前七時十分。ダイニングテーブルには空いたワインボトルとチーズのアルミ包装紙。結局、リビングで寝入ってしまったようだ。
 キッチンで水を飲んでいると、ドアが開き、美香が現れた。
 一瞬目が合うも、美香が露骨に目を逸らした。シャワーを浴びていたのか、髪が濡れている。
 美香は、冷蔵庫を開けてペットボトルのお茶を取り出した。
 学校のことを伝えなくてはいけない。比留はごくりとつばを呑み下した。だが、どう切り出せばいいか、言葉がすぐに見つからない。諍いにならないように、美香をうまく説得しなければ……。
「なあ、聞いてくれ」
 水で潤したはずの喉が渇いて、声が上ずる。「昨日学校から連絡があってな。このままだと、退学になるかもしれない」
 美香はグラスに注いだお茶を飲んでいる。比留の声がまるで聞こえていないかのように無反応だ。
「今日、二人で学校に行って先生と話をすることになったから。いいな」
 ペットボトルとグラスを片付けた美香は、言葉を発しないまま、リビングを出て行こうとした。
「待て」自分でも驚くほど強い口調になっていた。
 美香が振り返る。冷えた目。
「話すことなんて何もないから」
「そんなわけにはいかないだろ。おまえの学校のことなんだぞ」
 冷静に話をしなくては。わかっているが、口調がきつくなるのを抑えられない。
「私のことをだましていた人と話したくはないの」
 陰鬱な思いに心が染まっていく。
 この言葉を何度聞かされたか。今日もまた同じことの繰り返しか。
「私が気づかなかったら、ずっといわないつもりだった。そうでしょ」
「話す必要がないと思ったから、黙っていただけだ」
「必要ない? それってどうでもいいことなの?」
「いや、そういうわけじゃ」
「やっぱり、だましていたんだ。警察官のくせに、ホント嘘ばっかりつくよね」
「どういう意味だ」
「私、知ってる。去年の十二月に犯人を取り逃がして、それを隠ぺいしたの、あんたでしょ」
「あれは──」
 本部に報告して公表しましょう、署長にそう進言した。だが、そんなことを美香に話しても意味がない。それより何より、あんたという言葉が胸に突き刺さって、言葉が出なかった。もうお父さんと呼ばれなくなって久しい。
「あんたは本当の父親じゃない。私は何の関係もない中年オヤジと一緒にこの家に住んでいるの。これって普通じゃないよね?」
 美香の目に涙が溜まっていく。
「私のいってること、間違っていないでしょ? 私のことも、仕事のことも。嘘ばっかり!」
「落ち着け」
 比留が一歩前に出ると、美香が後ずさった。
「私は……普通じゃない! 普通に生まれた子供じゃない!」
 美香の不登校は、母親の死、そして比留が実の父親でないことを知ったのがきっかけだった。
 こうなるくらいならと、今は後悔していた。千夏が生きていたときに出生の秘密を告げていれば、千夏が美香の心をうまく包み込んでくれたかもしれない。
 十七年一緒に暮らしてきた。親子仲も悪くはなかった。真実を受け止めて乗り越えてくれると思った。しかし美香は苦しんだ。ずっと隠されてきた真実、血のつながっていない父と二人きりの生活。精神的な苦痛が美香の心に重く覆いかぶさった。
 千夏が死んだ一月後、美香は手首を切った。どこまで本気だったのかはわからない。あのときは部屋からうめき声が聞こえて、気づいた比留がすぐに病院に連れて行った。
「私は何者なの? 本当のお父さんはどこにいるの」
「それは前にも説明しただろ」自然と声が大きくなった。「そういうのはわからないんだ」
「そんなの、おかしい。どうして本当のお父さんが誰かわからないの?」
 顔も声も千夏と似ている。美香の瞳が亡き妻に重なった。
 ──どうして、そこまで……。
 あのときの千夏の目は何かにおびえているようだった。
 比留は自分に生殖機能がないことを千夏に伝えたあとも、子供を得たいとの気持ちを抱き続けた。むしろ、以前よりも思いは増していた。里子や特別養子縁組も考えたが、千夏の身体に問題があるわけではない。家庭的な千夏は、妊娠、出産という経験をしたいはず。
 ありとあらゆる不妊治療について調べた。そのなかに第三者からの精子提供によって人工授精を目指す非配偶者間人工授精、通称AIDという方法があることを知った。
 自分の遺伝子は残せなくても、千夏には実の子を産んでほしい。自分たち夫婦にふさわしいのはこの方法だと思い、試してみないかと千夏に提案した。
「どうして、そこまで……」
 賛成してくれると思ったが、意外にも千夏は否定的だった。
「誰かわからないんでしょ」
「精子ドナーが誰なのか、知ることはできない決まりになっているんだ」
 そのあとも口ごもる千夏に何が嫌なのかと訊いた。
「だって……」
 千夏が硬い表情で口を開いた。好きでもない男の種が体のなかに入り込んでくることに抵抗感があるという。
「でも、そうしてほしいんだ」
 金沢市内に人工授精を得意とする産婦人科があった。千夏を何とか説得して連れて行った。何度か治療法の説明を聞いてようやく千夏も決心した。はたしてAIDによる人工授精はうまくいき、翌年、女の子が生まれた。それが美香だった。
 千夏は子育てを楽しんだ。これで人並みの幸せを与えることができたと思った。
 比留は仕事に打ち込んだ。過酷な捜査が続くときも、深夜に帰宅して妻と娘の顔を見れば癒された。休日は睡眠不足だろうが二人を連れて遊びに行った。
 しかし、昨年の春、比留たち家族に突然の不幸が訪れた。
 千夏の首の付け根に、ほくろがあった。前よりも大きくなっていたので、気になった千夏は病院で診察を受けたところ、メラノーマという皮膚がんだとわかった。
「肺にも転移しているらしいの」
 いつも明るい千夏もさすがに平静ではいられなかった。比留の胸に顔を押しつけて泣いた。
 がんは急速に進行した。痛みを緩和するために強い薬を投入していった。やがて投薬の影響で幻覚を見たり、うわごとを口にしたりする、せん妄という症状が現れた。
 美香は学校が終わると、毎日病院で母親を看病した。
 ある日のことだった。美香が怪訝そうな顔で比留にこういった。
「お母さんが変なこというの。美香は、本当はお父さんの子供じゃないって」
 比留は心にずしりと圧を受けた。美香が知ってしまったことより、千夏がずっと気にしていたことのほうが胸に響いた。
 美香が生まれてから、千夏とAIDのことを話した記憶はない。千夏は気にしていないものと思っていた。しかし、本当は心の奥にわだかまりを抱えていた。比留に気づかれないよう、その思いをひた隠しにしてきた。
「せん妄の症状が出ているときは、わけのわからないことをいうらしい。気にするな」
 美香には、とっさに嘘をついた。美香もそれ以上訊いてくることはなかった。
 その十日後、夏の終わりとともに、千夏は息を引き取った。
 葬儀の翌日、自宅に美香と二人だけのときだった。
「これ見て。タンスのなかにあった」
 思わず息が止まりそうになった。美香が手にしていたのは、AIDの同意書だった。千夏がそんなものをずっと保管していたとは想像もしなかった。
「私……お父さんの子供じゃないんだね」
 美香の声が震えていた。
「いいや。おまえは、お父さんの子だ。お父さんとお母さんの娘だ」
「じゃあ、これは何? ここに書いてあることは、嘘なの?」
 言葉が見つからず、ただうろたえた。仕事で凶悪事件に遭遇したとき、捜査に行き詰まったときに、次の一手をパッと思いつく思考回路がこのときばかりは働いてくれなかった。
 おまえはお父さんとお母さんの娘だ。それを呪文のように何度も唱えた。
 美香が「やめて!」と叫んだ。
「お母さんがベッドの上で話していたことは本当だった。薬の副作用だなんて、おかしいと思ったの」
「実は、お父さん、中学生のときに重い病気をして、子供を作ることができないんだ。わかってくれ」
「そんなこと、どうでもいい」美香がかぶりを振る。「私はだまされていた。ねえ、どうして嘘をついたの?」
「美香には話す必要はないと思っていた。世の中には、知らないほうが幸せなことだってあるんだ」
「それはあんたの勝手な考えよ!」
 あんた。その言葉が比留の皮膚を切りつけた。
「この嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!」
 聞いたことのない女の叫び声だった。身体を貫くような眼差しを比留に向けていた。
「やめろっ」
 叫び声が止んだ。
 美香が千夏の位牌の前に駆け寄った。供えてある果物のなかから、巨峰の房をわし掴みにして比留の鼻先に突きつけた。
「あんたってこれと同じだ」
 目に涙をためて笑っていた。ハハハ。
 葡萄──その意味を悟った。種なし葡萄。瞬間、我を忘れた。十七年間、誰にも触れられたことのなかった急所をえぐられた。自分がどんな思いでAIDを選択したのか。千夏を幸せにするにはこれしかなかった。それをコイツは──。
 こらえろ。今の美香は普通じゃない。父親のおまえが冷静にならなくてどうする。心のなかの自分が叫ぶ。だがその声が遠くなった。かわりに猛獣のような唸り声がした。指先が熱くなった。平手が美香の頬を打っていた。短い悲鳴とともに美香が壁に吹き飛んでいた。
「あんたは最低だ」
 赤くひび割れた目をして、美香が比留を見上げていた。
「父親なんかじゃない!」
 その日から美香は壊れ始めた。

 我に返ると、美香はリビングからいなくなっていた。案の定ともいえる展開に手の打ちようがなかった。
「昼には帰ってくる。準備しておけ」
 家を出る直前、二階に向かって声をかけたが返事はなかった。