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 刑事部屋のデスクでパソコンを立ち上げると、副署長の塩見しおみからメールが届いていた。署のすべての課長あてだった。
『人事異動の内示は本日午前十一時。全職員にメールを一斉配信する予定──』
 刑事課全員にメールを転送した。机に向かう部下たちの表情に、軽い緊張が走った。
 比留のほうに顔を向けた赤塚と目が合った。昨晩は強行犯係で打ち上げをしたはず。ガサ入れに失敗し、帳場が立った。苦い酒だったことは想像に難くない。
「昨日はつるやか?」
「一階も全部貸し切りでした」
「毎年この時期はそうだ」
 つるやは、東部署の裏通りにある古い定食屋だ。夜は一品料理を出す居酒屋にもなる。二階の広い和室は東部署の懇親会に利用されることが多く、署員が周囲を気にせず酒を飲むにはうってつけの場所だった。
 おい、と赤塚に向かって手招きをする。「昨日、渡すのを忘れてた」
 デスクの前に立った赤塚に一万円を差し出した。刑事課長になってから、課の飲み会があるときは参加するしないにかかわらず一万円を渡している。
「今回はお気持ちだけいただいておきます」
 赤塚の表情が浮かない。心なしか目も赤い。赤塚には珍しく、二日酔いか。
「遠慮するな。次に使えよ」
「でも……」
「いいから」語気を強めて札をぐっと前に押し出した。
「ありがとうございます……」
 赤塚は渋々受け取ると、「課長、すみませんでした」と急に頭を下げた。
「どうした」
「新藤を逮捕できないまま、これで終わりだなんて……」
 ほかの強行犯係の面々も立ち上がって頭を下げる。
 誰も手を抜いていたわけではない。赤塚をはじめ強行犯係は、署に寝泊まりしながらずっと捜査に当たっていた。
「まだ捜査は終わったわけじゃない。明日、捜査本部ができる。これからだ」
「ですが、課長は……」
 赤塚はハッとした顔をして目を伏せた。合点がいった。目が赤いのは酒のせいではない。おそらく昨晩、酒の席で比留が“鬼ごっこ”の責任を取らされて異動するという噂を耳にしたのだ。
「ところで──」
 しんみりした空気をぬぐおうと、比留は未解決となっている案件の進み具合を尋ねた。
 赤塚に促されて、担当している刑事たちが順番に説明した。異動の時期を見据えて、すでに一覧表にまとめてあったらしい。
 大きなものとしては、昨年の夏に起きた山間部の林道でのひき逃げ事件と、今年に入って発生した深夜営業のラーメン店での連続強盗事件が残っている。
 アポ電強盗の事件を最優先してきたために、二つの事件には十分力を注げなかった。強盗事件のほうは、聞いたときは耳を疑ったが、つい十日前にも同じ店で再び強盗事件が起きている。
「店主の証言から、どうやら同一犯のようで、ホシはほぼ特定できています。早めにガラを押さえます」
「残るのは、ひき逃げだけか。最近、進展はあったのか」
 担当の生原いくはらへ目を向けると、申し訳なさそうな顔で「何もありません」とこたえた。
 迷宮入りは避けたかったが……。比留は宙を見上げて、事件のことを思い返した。
 昨年の八月、金沢市在住の三十代男性が林道から転落して死んでいた。被害者はヘルメットをかぶり専用のウェアを着ていたのでサイクリングの途中と思われた。だが、現場に物的証拠は何もなく、被害者が乗っていたであろう自転車さえ見つからなかった。早朝の山間部の林道で目撃証言もない。事故、自殺、殺人、どの可能性も否定できないまま、半年以上が経過した。当初は交通課との合同捜査だったが、今は刑事課が引き取っている。
 昨年末には、生原と被害者の自宅に線香をあげに行った。仏前で何としても犯人を挙げると誓ったが、結局、かなわぬまま異動を迎えようとしている。
 刑事課長の職を離れる前に遺族宅へ行かなくては。遺族へ謝罪、と比留はメモを書いた。
 各担当からの説明が終わると、キーボードを打つ音が刑事部屋に響いた。皆、事務仕事が溜まっている。刑事も役人だ。外に出ることが多いからといって書類仕事が少ないわけではない。
 比留の机の未決箱には、決裁文書が積み重ねられていった。
 時計を見ると九時四十分。内示のメール配信は十一時だ。それまでに、まわってくる決裁を一つでも多く片付けておきたい。
 また一つ書類に押印して既決箱にファイルを入れたときだった。
 耳の近くで虫が飛ぶようなブーンという音が部屋に響いた。無線連絡の前触れだった。
〈本部から金沢東部、PC東三一、森本交番〉
〈金沢東部です、どうぞ〉
〈高坂駐在所で倒れている駐在員を発見、殴打された模様。サワイという男性からの通報です。現場は未確認。整理番号六四一〇番、担当小林こばやしです、どうぞ〉
〈金沢東部了解、担当村瀬むらせ
 巡回パトカー、最寄り交番からも、「了解」の返事が相次ぐ。
 無線の言葉を反芻する。倒れている駐在員を発見、殴打された模様──。
 いつもの順序なら、通報を受けた最寄りの交番の警察官がまず現場確認をする。いたずら電話の可能性もあるからだ。だが、たとえその可能性があったとしても、署員がすぐに現場へ向かうほうがいい場合もある。一分一秒を争う凶悪事件のときだ。
 刑事部屋の温度が急に上がっていく。部下たちが手を止めて比留を見ている。どの顔からも二日酔いの色は消え、刑事のそれに戻っている。
 視線を受け止めながら、すばやく思考を整理した。いたずらで済めば、それにこしたことはない。しかし、万が一、通報が事実なら、捜査員の到着が遅れたことで犯人が逃走し、解決が遠のくこともある。しかも今回は、警察官が襲われたという重大な情報だ。
 比留は立ち上がり、声を張り上げた。
「強行犯係は拳銃を携帯してすぐに出動。鑑識係も同行しろ」
 上着を着た刑事たちが次々と部屋を出て行った。
 ──駐在所で何が起きたんだ?
 場所を確かめようと、壁に貼られた東部署管内の地図を眺めた。高坂駐在所は、金沢北部の山間の場所、富山県との県境手前の集落に位置している。東部署からだと距離にしておよそ十キロ。サイレンを鳴らしてパトカーを飛ばせば十分ほどで到着する。
 早くも窓の外からパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
 近年、交番や駐在所で勤務する警察官を狙った犯罪が全国的に発生している。警察のほうも、万が一の襲撃に備えて、現場で勤務する警察官の訓練を強化している。
 襲撃されれば、被害に遭った警察官が緊急発信装置で状況を伝えてくるはず。だが、駐在所からの連絡はなかった。となると……。脳内に嫌な想像が駆け巡る。
 駐在所では、警察官はたいてい家族と一緒に住んでいる。ほかに被害者はいないのかも気になる。高坂の駐在員は、たしか久本ひさもとという五十代半ばの巡査部長だったはず。
 駐在所を管轄するのは署の地域課だ。比留は、地域課長の田子たごに内線電話をかけた。
 ワンコールも待たずに田子が出る。田子は比留よりも年次が一つ下で、昨年、警部に昇任したばかりだ。茫洋とした雰囲気で人当たりもいい。
「高坂の駐在員は久本さんだったよな」
〈そうですッ〉
 慌てた声が返ってきた。いつも温厚な田子も、さすがに興奮しているようだ。
「久本さんの家族構成は」
〈独身です。駐在所に一人で暮らしていました〉
 知らなかった。だが、かすかに記憶の扉が開いた。久本といえばたしか──。
「久本さんって、柔道のコーチをしていなかったか」
〈そうです。昔は国体にも出た猛者です〉
 記憶は正しかった。表情と体格がおぼろげながら脳裏に浮かんできた。若い頃、柔道の稽古で指導を受けた。大柄で、朴訥ぼくとつな話し方。あれが久本だった。
 無線連絡を待つべく、受話器を戻した。久本の安否のほかに気になることがもう一つある。拳銃の所在だ。警察官を襲う目的としては、拳銃奪取がまず考えられる。
 壁の時計を眺める。一分……二分……待つ時間がとてつもなく長い。
 不意に、〈現着〉の短い声が無線で連続した。
 機動捜査隊と付近の交番警察官が到着したようだ。すぐに現場を確保して、指令室に状況を伝えるだろう。
〈こちら本部〉
 さっそく指令室からの無線が入った。全神経を集中して耳を澄ます。
〈現場から報告。倒れている駐在員の死亡を確認〉
 部屋に残っていた署員たちから、嘆きともため息ともつかない低い声が漏れた。
 さらに詳しい報告が続く。被害者は一名。死因は頭部を強く殴打されたことによるもの。事務室の拳銃保管庫と銃弾薬庫の扉は開放され、犯人に奪われた模様──。
 比留の首筋が粟立った。警察にとって最悪の事態が起きた。
 無線の最後に、ひときわ明瞭な声が響いた。
〈県内全域に緊急配備指令!〉
 部屋中が騒がしくなる。強行犯係以外の面々も一斉に外に出る準備を始めた。
 比留は赤塚の携帯あてに、現場の状況を把握したら連絡してほしいとメールを打った。
 部屋の出入り口に目が向いた。次々部屋を出て行く刑事たちとは逆に、部屋に入って来る人物がいた。広い額、しもぶくれの顔、四角い大きな眼鏡。副署長の塩見が早足で近づいてくる。
「どうなってる?」
「じきに赤塚から詳しい報告があります。少しお待ちください」
「少しでも早く情報をもらえ」と塩見が語気を荒らげていう。
 奇異に感じた。刑事畑が長かった塩見は、凶悪事件が起きたときの“鉄火場”状態はよく知っている。中池ならともかく、刑事課をせっつくことのない塩見がいきなり来るとは珍しい。
「どうかしましたか」
「今しがた本部から連絡があってな」眼鏡の奥で塩見の目がぐるっと動いた。「記者会見の準備をしろといってきた」
 事件が起きれば、管轄する署が会見を開く。マスコミへの通告や会見の司会進行は、副署長が担う。しかし、重大事件の場合は必ずしもそうとは限らない。
「今回は、本部対応じゃないんですか」
「東部署でやれといってきた。当然、会見には捜査一課長あたりが来るんだろうけどな」
 冨島の顔が頭に浮かんで、胃のあたりが重くなる。
「署長室で待ってるからな。状況がわかったら、すぐに来い」
 きびすを返す塩見の背中を見ながら考えた。本部から会見の準備をしろといわれて塩見は焦っている。その思いはよくわかる。だが、本部はどういう了見か。事件直後にわざわざ署へ指示してくるとは。凶悪事件ならまずは犯人追跡ではないのか。
 しかし、その疑問はすぐに解けた。“鬼ごっこ”の件で年明け早々マスコミから叩かれた。それで県警本部の上層部はマスコミ対応に神経質になっているのだ。
 ──捜査よりも組織防衛、つまり保身か。
 刑事課長という立場を忘れて苛立ちを覚えた。まずは、現場の初動捜査をいかにバックアップするかを考えるのが上の人間の仕事ではないのか。
 机の携帯電話が細かく震えた。赤塚からのメールの着信だった。
『鑑識係が課長のパソコンあてに画像を送りました。もう少ししたら電話します』
 パソコンのロック画面を解除した。届いていたメールを開くと、画像が二枚添付されていた。一枚目は、大柄な男がうつ伏せで倒れていた。ひと目で死んでいるとわかった。体格からして久本に間違いない。まるで大きなイノシシが倒れているようだ。
 久本は制服姿ではなかった。上下グレーのスウェット、その上に薄手のダウンジャケットを羽織っていた。飛び散った血が久本のジャケットにところどころ付着しているが、衣類に乱れはなく、争った形跡も見られない。抵抗したあとがないのはどうしてか。久本のような男が簡単にやられるはずはない。
 次の画像を見て、思わず顔をしかめた。殴打された頭部をアップにしたものだった。短く刈りあげた頭頂部から後頭部にかけて大きく陥没している。潰れた箇所から血がにじみ出て、頭皮を赤く染めている。
 誰がこんなことを……。強い怒りがわき、顔面がじわりと熱くなった。
 携帯電話が着信を告げた。赤塚だった。
〈現場の状況を報告します。被害者が倒れていた場所は、駐在所の裏の畑です。襲われたのは勤務時間よりも前。居室の様子からして朝食の途中だったようです。七時から八時の間に襲われたものと思われます。鑑識の見立ても、殺されて二、三時間くらいじゃないかと〉
 であれば、犯人にはそれだけの逃走時間があったことになる。広域的な捜査が必要だ。
「凶器は?」
〈見つかっていませんが、おそらく鉄パイプか金属バットではないかと。事務室がかなり荒らされて、備品がことごとく叩き壊されていました。玄関の上に取り付けられていた防犯カメラも〉
 防犯カメラと、ノートに書きとる。
「画像からだと、着衣の乱れがあまりないように見えたが」
〈私もそこのところは気になりましたが、今の時点では何とも……〉
 争うことなく警察官を撲殺している。犯人は複数か、戦闘に精通した者か、あるいは顔見知りによる不意打ちか。
「拳銃は、盗まれたとみていいのか」
〈はい。被害者が身につけていた鍵を奪って保管庫の鍵を開けたようです〉
「拳銃のほかに盗まれたものは」
〈財布と私用の携帯電話が見当たりません〉
「第一発見者のことを教えてくれ」
沢井勉さわいつとむ。六十八歳。高坂地区の町会長です。小学校の春休みが近いので、地区内の防犯パトロールについて相談しようと午前九時半頃に駐在所を訪問したそうです。駐在員がいないので不審に思い奥の事務室を覗いたら、室内がめちゃくちゃになっていて。慌てて外に出て駐在員を捜していたら、裏の畑で倒れているのを見つけたそうです〉
 情報管理のこともある。第一発見者はしばらく“隔離”しておいたほうがいいだろう。
「そのマルもく、このまま署に来てもらえ」
〈誰かに指示して署へ連れて行かせます〉
「見物人やマスコミは、いるか」
〈現着したときは誰もいませんでしたが、パトカーの音を聞きつけて、今は近所の住民が十人ほど集まっています。マスコミらしき人間は来ていないと思います〉
「駐在所で何が起きたかは、今の段階で住民には絶対にいうな。捜査員全員にも徹底しろ」
〈わかりました〉
 わずかでも漏れたらネットで一気に広がる。
「情報は、無線を通じて随時、共有してくれ」
 電話を切ると、デスクの受話器を取り、田子の内線電話の番号を押した。
「比留だ。駐在所には去年から防犯カメラを設置したんだよな?」
〈ええと、あ、そうでした〉
 茫洋な田子らしいといえば、らしい反応だ。比留は舌打ちをこらえて早口で続ける。
「駐在所のカメラが壊されていた。直前までの映像が見たい。すぐに準備できるか」
〈ちょっとお待ちください〉
 田子の声が受話器から遠くなった。比留からの質問を部下に伝える声が聞こえてくる。
〈本部のサーバーで管理しているので、ここにはありません。至急、手配します〉
 本部となると、生活安全部か。
「犯人が映っているかもしれない。急いでくれ」
 比留は、現場から届いたメールを中池あてに転送して、署長室へ向かった。
のは、まぎれもなく新藤達也だった。

 

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