第一章 事件

「いい眺めですね」

 窓からまばゆい光が差し込んでくる。
 男が手をかざして目を細めていると、首筋に視線を感じて振り返った。
 椅子に座る人物が男を見上げていた。
 ──考えを聞かせてほしい。
 口調こそ強気だが、はったりだとすぐにわかった。すがるような眼差しが向けられている。
 早く結論をいってもよかった。だが、あっさり口にすれば、その思いを秘めていたことが見透かされてしまう。
 男は、はやる気持ちを抑えて、わざと少しだけ表情を曇らせた。
 そして、仕方ないふうを装ってこう告げた。

「殺すしかないです」

 椅子に座る人物は、何もいわなかった。
 じれったくなって、もう一度、諭すように口にした。
「殺すしかないです」
 やはり言葉は返ってこなかった。
「もしかして、我々が失敗するとでもお思いですか」
「そうは思っていない。だけど、殺すなんて……」
「前にもったことがあるのはご存じでしょう? 失敗なんてしませんよ。それに──」
 わずかに歪んだその顔を見据えた。
「これは、やらなきゃいけないことでしょう。違いますか? あなたのためです」
 元から殺意があったと悟らせてはいけない。あなたのため。そう思わせなければならない。
 男が一歩前に出ると、歪んだ顔が縦に振れた。承諾の意──。
 ぞくりと快感とも悪寒ともつかない感覚が突き上げてきた。
 ──アイツは、さぞかし喜ぶだろう。
 男は口元が綻びそうになるのをこらえながら、重いドアを押して部屋を出て行った。

++

 昨夜の大雨は嘘のように過ぎ去っていた。
 午前五時五十分。広い刑事部屋にはファンヒーターの音だけが聞こえてくる。この時間、署の暖房はまだ稼働していない。
 ここは、石川県警金沢東部警察署──通称「東部署」の四階。ドアは締め切っているが、どこからともなく冷えた空気が入り込んでくる。ファンヒーターが一台動いていたところで気休めにすらならない。だが、今は寒さなど感じていなかった。緊張感がそれを上まわっている。
 部屋には一人。刑事課長の比留公介ひるこうすけは、固唾を呑んで無線の声を待っていた。
 ふと見上げると、窓が白く光っている。この時間、外は薄明るい。いつまでも冬だと思っていたが、もう三月の中旬だ。季節の変化を感じる余裕などなかった。
 昨冬の事件発生から今日まで、比留率いる刑事課はアポ電強盗事件の犯人逮捕に全力を挙げていた。
 アポ電強盗──強盗と詐欺を融合させた新手の犯罪だ。
 還付金の支払いの件でお電話いたしました──。犯人は、巧みな言葉で役所や金融機関の職員などを装い、高齢者に接触を図る。家に大金があるとわかると、その宅へ押し入り、住人の身体を拘束して金を奪う。
 近年、こうしたアポ電強盗事件が増えている。振り込め詐欺などいわゆる特殊詐欺への防犯意識の高まりが、皮肉にも事件増加の原因になったといわれている。高齢者も簡単にはだませない。それなら力ずくが手っ取り早い。犯行グループにそうした意識の変化をもたらしたという。
 ここ東部署管内でも昨年の十一月にアポ電強盗事件が起きた。黒ずくめの三人組が深夜に八十代の夫婦宅に押し入り二人を拘束、現金六百万円を奪った。事件の前日、被害者宅には銀行を装って現金のありかを聞き出す電話がかかっていた。
 刑事課の強行犯係が中心となって三人組の行方を追った。事件から一週間後、容疑者のうち二人が逮捕され、残る主犯格を指名手配した。新藤達也しんどうたつや。住所不定、三十一歳。窃盗と恐喝の前科ありという肩書つきだ。
 比留にとって新藤は因縁浅からぬ相手だった。十年前、東部署の強行犯係長だった頃、二十歳そこそこの新藤を恐喝の容疑で逮捕した。身に着けていたアクセサリー、体に刻んだタトゥーの模様……新藤の特徴は、その姿から性格まですぐに思い出せる。何より、比留の脳に深く刻まれていたのは新藤の人間性だった。
 刑事をしていれば、性根が腐った救いようのないやからとも幾度となく遭遇する。世間を憎んで生きるチンピラ。犯罪を繰り返しては刑務所とシャバを行き来する。新藤もその一人だった。
 新藤は十年たっても変わっていない。このまま、のさばらせておくわけにはいかない。年内の事件解決を目指して、刑事たちは全力を挙げた。だが、有力な手がかりは得られず、東京へ逃げたという嫌な噂まで耳にした。
 年越しまであと二日。そこで事態は動き出した。新藤らしき人物が、石川県随一の繁華街、片町かたまちの飲食店で白昼堂々酒を飲んでいるという情報が飛び込んできた。
 指名手配犯の大胆な行動にまさかという思いはあったが、刑事たちは通報のあった場所へと急行した。だが、たどり着いた飲み屋に新藤の姿はなかった。不穏な空気を察知した新藤は、すんでのところで店から逃げ出していた。
 刑事たちは新藤を追った。新藤を発見したのは、盗犯刑事一年生の山羽やまはねだった。片町からおよそ一キロ離れた近江おうみ町市場の裏あたりで新藤を見つけた。コソ泥を捕まえるのが本業なだけあって、山羽は若いながらも捕り物の経路は熟知していた。
 新藤の動きを予想した山羽は、先まわりをした。道をふさがれたと気づいた新藤は、細い路地に入り込み、ベビーカーを押していた母親と接触した。新藤は転倒した母親を飛び越えて走り去った。山羽は母親のけがの程度を確認した。再び追いかけようとしたときに、すでに新藤の姿はなく、追跡劇はここで終わった。
 乳児は無傷。しかし母親は転んで右手首を骨折する大けがをした。刑事課は、年内に事件を解決するどころか大失態を演じて年を越す羽目となった。比留は、大晦日、けがをした女性の家を訪れて謝罪した。
 年が明けた。恒例の署長訓示のあと、比留は署長に進言した。新藤取り逃がしの件について、本部への報告とマスコミへの自主的な公表をしたほうがいいでしょう。
 だが──。
「必要ない。正月早々、嫌な話をするな」
 甘い判断としか思えなかった。煙たがられても、もっと強く促すべきだった。案の定というべきか、大波が東部署を襲った。全国紙T新聞の記者が情報を掴んだらしく、比留へ年末の追跡劇の裏取りの取材があった。ノーコメントを貫いたが、翌日、T新聞の社会面には『年の瀬 犯人逮捕に失敗』の大きな文字が躍った。小見出しには『市民負傷 県警の隠ぺいか』と掲載された。事細かに書かれたのには、相応の理由があった。T新聞の記者は負傷した女性の親類だった。
 テレビやネットのニュースでも大きく取り上げられ、“鬼ごっこ事件”というありがたくないネーミングまで頂戴した。東部署は大慌ての事態に陥り、署長は緊急の謝罪会見を行った。普段はおとなしい地元紙をはじめ、マスコミ各社からの質問は辛辣だった。後追いの記事にも厳しい論調が相次いだ。
 石川県警はかつてない批判にさらされた。鎮静化を図るには、幹部が責任をとるしかなかった。県警は、一月末に金沢東部警察署の署長を更迭する措置に踏み切った。
 だが、これは対外的なポーズに過ぎなかった。三月末で退職予定だった署長は辞めるのが少し早まっただけで、実際には痛手を負ったわけではなかった。むしろ、処分されなかった比留のほうが目に見えない傷を負った。昇任を目指すうえでの明らかな失点だった。
 比留は長く刑事部門で生きてきた。凶悪事件で何度も犯人を逮捕し実績を上げた。プライベートな時間など皆無に等しい激務の合間を縫って勉強し、昇任試験にも早いペースで合格していった。将来の捜査一課長候補という声が、最近、比留の耳に聞こえてくるようになった。
 刑事課長の次は本部ポストを二、三経て、捜査一課長。ルートも現実味を帯びてきた。そんな比留にとって、鬼ごっこ事件は将来の道を阻む大きな失点だった。
 失点を挽回するには、一日でも早く新藤を逮捕し、地域住民の信頼を取り戻す。今日、その最大のチャンスを迎えていた。

〈五分前〉
 無線連絡が入った。現場の捜査員たちがいよいよ動き出す。
〈車から降りて、マンションに向かいます〉
 声の主は、強行犯係長の赤塚あかつかだ。三十五歳、東部署の前は金沢中央署の刑事課に所属。警部補に昇任すると同時に東部署刑事課で係長の座に就いた。フットワークが軽く、何より刑事としての情熱に溢れている。この一年、一緒に仕事をした比留の評だ。
 赤塚が中心となってずっと新藤を追って来た。赤塚に手錠をかけさせてやりたかった。
 今日は三月十三日。刑事課の現メンバーにとってのラストチャンスといってもよかった。明日は県警の人事異動の内示日。今日でこのヤマをなんとしても片付けてしまいたい。
 強行犯係は、新藤の交際相手、南日奈子みなみひなこの行動確認をずっと続けていた。金が尽きれば新藤は必ず日奈子のところへ逃げ込むと踏んでいた。
 ここ二か月、日奈子に目立った動きはなかったが、一週間前、行動に変化が現れた。自宅とは別のマンションに出入りするようになった。車でスーパーマーケットに行き、買い物をする。移動してコインパーキングに車を停めると、すぐ近くのモルタルづくりの古い三階建てのマンションに入って行く。
 調べたところ、マンションは築四十二年の分譲で、日奈子の父親の名義になっていた。場所は金沢市寺町てらまち三丁目。名前のとおり寺がいくつもあり、古い家と新しい家が混在している住宅街だ。かなり古いマンションなので防犯カメラもなければ常駐の管理人もいない。新藤が出入りしたことを確認する手段はなかった。刑事たちはマンション周辺で集中的な聞き込みをし、やがて決定的な情報を得た。日奈子がマンションに通い始める前日、付近のコンビニエンスストアに新藤が買い物に訪れていた。店の防犯カメラにもその姿が映っていた。
 三百メートルほど離れた古い空き家からマンションの監視を始め、カーテン越しに新藤と思われる男の人影を数回確認した。
 裁判所に請求して捜査令状をとった。ガサ入れは今日の朝六時と決まった。
〈非常階段、待機〉
〈建物裏、待機〉
 立て続けに無線が入る。
 開始の六時まで一分を切った。比留は背筋を伸ばして一呼吸した。
〈部屋に向かいます〉
 赤塚の声。その後ろで階段を上る足音が響き渡る。
 逃走防止のため、非常階段もバルコニー下も押さえたとはいえ、安心はできない。逮捕のときは、何が起きるかわからない。容疑者が暴れたり、あるいは無理やり逃走を図ったりすることもある。
 失敗は許されない。もしまた、新藤の逃走を許すようなことになれば、今度は本気の処分──自分の首が飛ぶかもしれない。
 無線の足音が消えた。
〈ピンポーン〉
 反応はない。もう一度、赤塚がチャイムを鳴らす。少し間があってから、インターフォン越しに、〈どなた?〉と眠たげな女の声がした。
〈警察です。朝早くにすみません。少しいいですか〉
 静寂。短い時間がとても長く感じられる。
 カタン。短い金属音。ドアの鍵が開いた。
〈なんでしょうか〉
 不機嫌そうな女の声。
〈失礼ですが、南日奈子さんですか〉
〈……はい〉
〈つかぬことをおうかがいしますが、こちらに新藤達也さんはいらっしゃいますか〉
〈……〉
 日奈子はこたえようとしない。驚いている顔が目に浮かぶ。
 間違いなく新藤はいる。逮捕まであと少し。焦るな、焦るなと比留は自分にいい聞かせた。
〈達也ですか? いませんよ〉
 思いのほか堂々とした声だった。
〈お部屋を拝見させてもらえないでしょうか。ここに家宅捜索の令状もあります〉
 赤塚は丁寧な態度を崩さなかった。まるで紳士的なセールスマンである。令状は出しても、よほどのことがない限り強引に押し入ることはしない。
〈部屋に入るってこと?〉
 日奈子の不満そうな声が聞こえてくる。
〈お願いします〉
〈ちょっと部屋を片付けたいから、待ってもらえないかしら〉
 ガンッと鈍い音がした。閉めようとしたドアに赤塚が靴を挟んだようだ。
〈何すんのよ! いいじゃない、少しくらい〉
〈申し訳ありませんが、すぐになかを確認させていただけないでしょうか〉
 日奈子の舌打ちが聞こえた。おそらくドアの前に立ちはだかって赤塚と対峙している。時間稼ぎのつもりだろう。日奈子とのやり取りは、マンションの外で待機する捜査員にも聞こえている。全員、新藤の逃走に備えている。
 またも沈黙が流れた。赤塚は何もいわない。これも駆け引きの一つだ。プレッシャーをかけ続ける。もしも部屋に新藤がいるなら焦りを感じているはず。逃げようとして、バルコニーに姿を現すかもしれない。
 無線から大げさなため息が聞こえた。日奈子だった。
〈じゃあ、いいですよ〉
 ドアがきしむ音がして、次々と足音が重なっていく。服のすれる音、ふすまを開ける音、おのずと緊張が高まってくる。
 ──早く、確保しろ。
 人が行き交う音が続く。ただし、声はない。
 ──遅い。どうしたんだ。
〈マル被、いませんっ〉
 胃袋がキュッと縮みあがった。
〈非常階段、異常なし〉
〈建物裏、異常なし〉
 無線からはいくつもの足音だけが聞こえてくる。
 ──新藤はどこに行った? 誰か見つけろ。早く。
 しかし、聞こえてきたのは、赤塚の声ではなく、日奈子のものだった。
〈ねえ、もういいかしら〉
 どこか勝ち誇った声を耳にしながら、比留は天を仰いだ。
 窓から差し込む光がひどく目に沁みた。