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 強行犯係の捜査員たちが刑事部屋に戻ってきた。皆、疲れた顔をしている。
 赤塚の話によると、室内には、スーパーで買った食材、使った皿の様子から、日奈子のほかに誰かがいた形跡はあったという。
「日奈子は認めませんでしたが、新藤がいたことは間違いないと思います」
「いつ、どこから逃げたんだ」
 各所に捜査員は待機していた。
「我々が部屋に入る直前に逃げたのではなく、昨晩のうちに逃げたのではないかと」
 昨晩の段階では、二名の捜査員がマンション近くで車のなかから監視をしていた。そのときに玄関から出て行ったのであれば、気づかないはずがない。
「バルコニーから裏の民家の屋根に飛び移って逃げたと思われます」
「土砂降りのなか、屋根をつたってか?」
 疑問を呈しつつも、可能性としてはあると思った。
「マンションの裏側に住む六十代の男性の話だと、夜中に、何かが屋根にぶつかるような音を聞いたとのことです。強い雨が降っていたので、雷かと思って気にしなかったそうですが、その時間、雷は鳴っていません。さらに、新聞配達員への聞き込みで、午前四時三十分頃にマンション近くの路上で傘もささずに走り去る男を目撃したとの証言を得ました」
「配達員が目撃したのは、新藤で間違いないのか」
「写真を見せましたら、視界が悪かったので間違いないとまではいえないが、こんな感じだったと」
 またしてもあと一歩。おのずとため息が漏れた。悔しさはあるが、それ以上に妙な違和感が残った。どうして──。
 そのとき、刑事部屋の出入り口が急に騒がしくなった。
「なんだか辛気くせえな」
 太い声に思考が遮断された。大きな影がぬっと現れた。分厚い体躯たいく、ぐるりと首をまわす仕草。今では見かけなくなった角刈り──こんな人物は一人しか知らない。石川県警刑事部捜査第一課長の冨島有成とみしまゆうせいだ。その背後には、捜査一課の取り巻きが五人ほど控えている。
 反射的に立ち上がりながら、どうして冨島がここに? と比留は疑問に思った。
「中央署の捜査会議が終わったんで、ついでにこっちに寄った。あっちは今日で手じまいだ」
 先月、片町でクラブホステスの殺人事件が発生した。管轄する中央署には、捜査本部が設置された。事件から十日後、同僚ホステスとその交際相手の男を逮捕し、起訴に至った。
「比留。また下手を打ったらしいな」
 冨島があごを上げた。その様子はどこか楽しげだ。
「申し訳ありません」
「早朝のガサ入れなら、空振りでも一般人には迷惑をかけないし、マスコミにも気づかれない。そこんとこだけは、年末の反省が生かされたようだな」
 比留は目を伏せた。嫌味を連発されても、いい返す言葉はない。刑事の世界は結果がすべてだ。
 短い金属音がした。冨島が愛用のライターをもてあそんでいた。いつのまにか煙草をくわえている。東部署は二年前から建物内は全面禁煙である。
 冨島は自然な動作で火をつけた。しんと静まる空間に白い煙が立ち昇る。ゆっくりと広がっては消える煙とは対照的に、空気は張りつめていく。
 比留は、遠目でこっちを見ている庶務係の女性に、灰皿の準備を頼むと小さく目くばせをした。
 冨島が盛大に煙を吐き出した。唇の端をつり上げて東部署の捜査員をめまわす。
「大人っていうのはガキの頃にしたくてもできなかったことをやるらしい。お勉強ばかりしていたせいで遊び足りなかったんだろ」
 捜査員は誰も反応しない。いやできない。まるで雷に打たれたように硬直している。
 冨島が続ける。
「念仏聞いたような顔してるが、俺のいってること、わかんねえか? 比留。長い付き合いのおまえなら、わかるよな?」
「──はい」
「じゃあ、いえ。おまえの部下たちに説明してやれ」
「いつまで……鬼ごっこを続けるのか……ってことです」
「もっと大きな声でっ!」
「いつまで鬼ごっこを続けるのか、ってことです」
 こたえながら腹のなかで思う。なぶられている。相変わらずのラスボスぶりだ。
 ラスボス──冨島のあだ名。誰がつけたのか、たしかにうまいネーミングである。戦いの最後に出てくるボスキャラという意味だけではない。古い時代の警察気質そのままの存在。最低の上司。だからラストボス。略してラスボス。
 捜査一課長は、体力、知性、仁徳そのすべてを兼ね備えた特別な警察官が就くポストといわれている。実際、歴代そうした人物が名前を連ねてきた。だが冨島は仁徳という点で異質だ。
 捜査一課長に就任して丸一年になるが、パワハラの犠牲者は二名。能登地区の署の刑事課長が年度の途中で配置替えとなり、捜査一課でも課長補佐の一人が精神疾患で休職に追い込まれた。
 冨島が捜査一課の次席だったときに、比留はその下で仕えていた。当時、冨島の口から聞いたことがある。警察は理不尽な組織でなければいけない。警察官が無菌状態の温室で仕事をするようになったら、終わりだ。まともではない犯罪者の思考に到達できるわけがないし、追い詰めることなんてできない。
 そんな旧時代の象徴のような冨島が評価される理由。それは抜群の実績だ。昨年も、着任早々、長年未解決だった殺人事件の犯人を逮捕した。
 冨島がすぐれているのか、あるいは部下たちの力なのかはわからない。ただこれだけはいえる。冨島が捜査一課長でいる間、一課に敗北は許されない。そうした圧力が捜査員たちに極度の緊張感を与え、それが結果につながっている。
 比留自身、冨島に心酔していた時期もあった。一緒に仕事をしていた頃は、冨島の課す理不尽な仕事の指示にもこたえ続けた。刑事の仕事とはそういうもの。平然とこなしてこそ自分も上に行けると思っていた。
 それが今では、冨島と比留の間に隙間風が吹いている。冨島が比留を遠ざけた。その理由もわかっている。
「今朝の現場の状況を詳しく聞かせろ」
 冨島が勢いよく白い煙を吐く。
 赤塚が説明した。黙って聞いていた冨島は、赤塚の説明を聞き終えると、フンと鼻で笑った。
「ガサ入れの前の晩に逃げたってか。なあ比留。おまえ、どう思う? そんな都合のいい話があるのか」
 比留も疑問だった。マンションへの張り込みが気づかれたのかとも考えた。だが、それはありえない。現場の捜査員たちは、普段以上に慎重を期していた。
 こたえに詰まった比留は「申し訳ありません」と再び頭を下げた。
 冨島は用意された灰皿に煙草を押しつけ、宙に目を向けた。
 緊張感が再び漂った。何を考えている? 新藤の行方か。それとも、また俺を責める材料か。
 数秒の時間がとてつもなく長く感じられ、ようやく冨島が口を開いた。
「ここに帳場を立てろ。上は了解済みだ」
 比留は息を呑んだ。アポ電強盗事件の捜査本部ができる。つまり、捜査一課が出張る。
「わかったな」
 冨島の言葉に、比留は、「はい」というしかなかった。

 各課の若手職員が駆り出されて捜査本部設置の準備が進められていた。
 ホワイトボード、パソコン、ファックス、無線機、長机が三階の講堂に次々と運び込まれていく。その様子を眺めながら、今さらではあるが、冨島が東部署を訪れた意味を悟った。
 中央署のヤマが片付いてふらりと立ち寄ったわけではなかった。東部署の刑事課が犯人をまたも取り逃したとの情報が入った。東部署の刑事課長は比留。殺人事件でもないのに捜査本部を設けるのは、自分の力を見せつけて、比留のプライドを踏みにじるつもりなのだ。
 捜査本部の設置をいい渡されたときは、視界が歪むほどの屈辱を覚えた。だが、それもつかの間だった。捜査本部ができたからといって、刑事課の仕事が減るわけでもない。本部の捜査一課から派遣されてくる刑事たちと一緒に、今度こそ、失敗の許されない捜査が始まる。
 講堂の出入り口に「山の上アポ電強盗事件」の戒名が掲げられ、捜査本部ができあがった。
「殺しでもないのに、帳場ですか」
 女の声がした。振り返ると南雲芽衣なぐもめいがいた。
「捜査本部ができるから、露払いに行けと指示されました」
 すまし顔の南雲が、メタルフレームのブリッジを指先で押し上げた。
「さっそくですが本部から何人ほど必要ですか」
 そんなもん、いらん、といいたいのを我慢していると、南雲は「比留課長にお聞きすることじゃなかったですね」といって、唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。
 南雲は、捜査一課唯一の女性警部。四十六歳、未婚。比留と同い年とはいえ、年次では高卒の比留のほうが大卒の南雲より四年先輩だ。
 刑事畑一本の比留に対して、南雲は、刑事部、警備部、警務部と広く経験している。殺人や強盗などの凶悪犯罪を専門とする捜査一課で、女性の管理職は珍しい。実際、南雲が第一号だ。昨年四月に捜査一課の事件担当の課長補佐に就いたときは周囲を驚かせた。噂では女性登用の目玉として、本部長指示のもとに断行された人事だという。
 南雲は黒いパンツスーツ。一見地味に見えるが、左手首にはカルティエの高級時計をつけている。車もよく買い替えるらしい。
 ライバル登場かもな──。いつか、他署の刑事課長が比留に囁いた言葉だった。あのときは気にも留めなかったが、今は案外そうかもしれないと思う。南雲が捜査一課長を目指しているという噂も耳にした。女性の登用──外向けのPRにはちょうどいい。その成功例が、ここ東部署にいる新署長の中池久美子なかいけくみこだ。
 比留と南雲。同い年の二人のうち、どちらかが捜査一課長の座に就けば、もう一方はその座を逃す。現時点では“鬼ごっこ”の失点で南雲にリードを許している。だが、それだけではない。比留には別の問題もあった。
「一つ訊いていいですか」南雲が物怖じしない声でいった。「冨島課長と比留さんって何かあるんですか」
「どうしてだ」
「なんだか比留さんへのあたりがキツいような気がして」
「冨島課長は誰に対してもあんなふうだ」
「そっか、そうですよね」
 比留が捜査一課にいた頃、南雲はいなかった。当時、一緒に仕事をした一部の刑事だけが、冨島と比留の関係を知っている。しかし、この女警部はよく見ている。侮れないと思った。
「捜査本部はいつから動くんだ?」比留はさりげなく話題を変えた。
「明日は人事の内示なので、早くても明後日ですね。それだと困ります?」
「いや。面倒をかけるが、よろしく頼む」
 比留は、南雲から離れて廊下を進んだ。自然とため息が出た。いい表せないが、何か違う。刑事部における南雲は異分子だ。カイシャの幹部は、アイツが刑事部に必要だと思っているのか? 
 刑事部屋に戻って事務仕事をしていると、内線電話がかかってきた。署長の中池だった。
「ちょっと、こっちに来てくれないかしら」
 何だろう。今朝のガサ入れの結果は、すでにメールで報告してあった。
 署長室へ向かう途中、廊下で出入りの花屋とすれ違った。デニム地のエプロンを着けた男は軽く頭を下げた。中池が署長になってからときどき見る顔だ。花のことで中池とよく話し込んでいると警務課長がいっていた。
 扉をノックして署長室に入った。濃厚な花の香が鼻腔びくうを刺激する。目隠しの棚の前に大ぶりの花を挿した花瓶が置いてある。花に詳しくない比留でもわかる。今週はユリだ。
 前はレンタルの観葉植物しか置いてなかったが、中池が署長に就任してから生花が生けられるようになった。花は週ごとに入れ替わる。聞いた話によると、中池が自腹で置いているらしい。
 署長室を飾るのは、客をもてなすための演出だと中池はいう。焼き物や絵画は元々あったものを撤去し、自分が選んだものを持ち込んでいる。壁のクロスも張り替えたいといったらしいが、警務課長がなんとか説得してクロスだけは前のままだ。
「どうぞ、座って」
 比留は中池とソファのテーブルを挟んで向き合った。どんな手入れをしているのか知らないが、顔にしわはほとんど見当たらない。肌のつやもいい。昨年、県警発刊の広報誌に、サーフボードを抱きかかえてウェットスーツを着た姿の中池が大きな写真で載っていた。長くミス石川県警といわれた美貌は変わらず、細身の体型も昔のままだった。知らない人間なら、四十代にしか見えないだろう。
 中池は、五十五歳、独身。一月に更迭された前署長の後任として、金沢東部警察署長の座に就いた。前職は、県警本部の交通部ナンバー2にあたる首席参事官だった。
 中池の人事異動には、必ず女性初がついてまわる。石川県警本部で女性初の課長、今回も女性初の署長である。県警は女性登用の広告塔として、中池を活用している。ルックスのよさも武器ではあったが、配置されるポストにおいても手堅い成果を上げていた。
 今回の署長就任は、警察の不手際でマスコミや市民から浴びたバッシングを、女性署長の就任でやわらげようとする狙いがあるのは明らかだった。実際、中池の就任後、警察への批判は減った。中池は県警の広告塔として長年メディアに露出しているので、地元マスコミの幹部にもコネがあった。
 中池は、部屋の片隅に設置した自慢のウォーターサーバーからグラスに水を注いだ。テーブルに置いた一つを丁寧な動作で比留にすすめる。いつもの中池ペースだ。
「今朝は残念だったわね」
「申し訳ありませんでした」
「ウチにアポ電の捜査本部が立つのは、冨島クンの発案らしいわね」
 比留は黙ってうなずいた。冨島クン──中池と冨島は同期採用だ。
「今後の仕事のこともあるから、比留課長には早めに伝えておこうと思って」
「なんでしょうか」グラスを手に取りながら尋ねる。
「次の課長に仕事を引き継ぐ準備をしておいてもらえる?」
 グラスを口に運ぼうとした手が止まった。
 内示前の非公式な人事異動の知らせ──いわゆる内々示というやつだ。
「私は刑事課から離れるってことですか」
「そうよ。不満?」
「……いいえ」
 感情を押し殺して、それ以上の言葉を呑み込んだ。“鬼ごっこ”の後始末は署長更迭だけでは終わらなかった。自分も責任をとらされるのだ。
「比留課長の人事は本部の意向だから私は関わっていないし、狙いもわからない。だけど、この一年、比留課長は公私とも大変だったから、職場を変えて気分を一新するのもいいと思うの」
 公私とも大変だったから──。署長である中池は、東部署の課長全員の身上書に目を通している。いや、それだけじゃない。女性警察官のネットワークを駆使して身上書の枠外の情報まで集めているに違いない。
「そういうわけだから、刑事課が抱えている未解決事件の進み具合をあとで教えてくれる? 地域の会合で、事件はどうなっているのかってよく訊かれるの。署長が何も知らないってわけにもいかないでしょう」
「はい」
 生返事をしながら頭のなかでは次のポストはどこだろうかと考えた。一年での異動。本部行きはまずない。中堅警察署の警務課長あたりか。いや、そんな甘い人事はないだろう。マイナス評価が大きく響いているなら小さな警察署の刑事課長へ左遷か。
 その後もしばらく中池の世間話に付き合ったが、異動先の具体的な明示はなかった。
 比留はグラスの水を一気に飲み干して「そろそろ戻ります」といって席を立った。
「奥さん……千夏ちなつちゃん。かわいい人だったわね」中池が同情を含んだ目をしていった。
「昔ね、一緒に仕事をしたことがあるの」
 知っていた。千夏も中池の話題を口にしていた。
 ──ミス県警っていわれるだけあって、とてもきれいな人で仕事もできるのよ。面倒見もよくて、まわりへの気配りもできて。憧れるわ。
 中池はどうして急にこんな話をするのか。どこか居心地の悪さを感じた。
 俺の何を知っている? ネットワークを活用して、我が家の事情は把握済みか? だが、中池に相談したいとは思わない。どうせ、どこかでまたネタにされるだけだ。
 扉のところで「比留課長」と呼び止められた。
「なんでしょうか」
 中池が真剣な表情であごをあげている。にわかに警戒心が芽生えた。
「この部屋の電灯。省電力設計はいいんだけど、形が平板なの。もっと華やかな感じのものに替えたいんだけど、どう思う」
「……悪くないと思います」
 比留は署長室を出ると、長い息を吐いた。
 ──あんなのでも署長だ。
 署長室で嗅いだユリの香は、鼻腔の粘膜にこびりついて、ずっと離れなかった。

 早朝のガサ入れに始まって、冨島の登場、捜査本部の立ち上げと、気の抜けない時間が続いていた。さらには、中池からありがたくない異動の内々示まであった。
 夕方、比留の身体は、どっしりとした疲労感に侵されていた。刑事部屋の部下たちも同じように疲れているはずだが、皆どこかさっぱりした顔をしていた。
 理由は、明日、人事異動の内示があるからだ。現体制での仕事は一区切り。今宵、警察官はなじみの飲み屋で、これまでの憂さを晴らす。酒の肴は人事の予想だ。
 この時期になると、比留も当たり前のように杯を酌み交わしていたが、今年はそんな気にはなれないし、誰からも誘いの声はかからなかった。みな、家庭の事情は薄々気づいている。
 午後六時過ぎ、東部署を出た。東部署から百メートルほど離れたところにある月ぎめの駐車場に、自車のインプレッサを停めていた。
 携帯電話に着信履歴が残っていた。ほんの数分前だ。比留の仕事を知っているから、夕方この時間に連絡してきたのだろう。
 車に乗り込んでボタンを押した。着信の番号は娘の美香みかが通う高校だ。
 担任の教師を呼び出してもらった。担任は北原きたはらという三十代後半の女性で、美香のことではいろいろと世話になっている。
 一分ほど待って北原が出た。あいさつを交わすと、〈美香さんの今後のことを学年主任と話し合いまして〉とさっそく本題に入ってきた。
 仕事とは別の緊張感が体内で膨らんでいく。ずっと学校に行っていない美香は三年生に進級するための単位が不足している。このままでは進級は危ういと、先月、北原と面談したときにいわれた。
「やっぱり留年、ということでしょうか」
〈欠席日数については理由をつけてどうにでもできます〉
「では、進級できるのですか」
〈美香さんに学ぶ意思があればできます。でも〉北原の口調は重い。〈もし、ないようでしたら留年も難しいかと……〉
 退学──予想だにしなかった二文字が急に脳裏に浮かんだ。
「退学になるってことですか? なんとかできないでしょうか。まだ精神的に立ち直っていないんです。もう少し時間をいただければ」
〈こちらとしても、美香さんのためにカウンセリングなどいろいろ提案してきたはずです〉
「それは時間切れという意味でしょうか」
 電話の向こうでは北原からの返事はなかった。
 北原はいろいろと骨を折ってくれた。おそらく、比留の知らないところでもかなり尽力してくれたはずである。高校側も義務教育でないとはいえ、退学者は出したくないのが本音だ。
「退学だけは。先生、なんとかなりませんか」
〈年度の変わり目が近いので時間的にも厳しくなっています。でも……美香さんから前向きな気持ちが確認できるなら、学校に残ってほしいと思います。とりあえずは、お父さんと美香さんのお二人で学校へ足を運んでいただけませんか。できれば明日にでも〉
「明日ですか」
〈本当にもう時間がありません。こちらも教頭か学年主任に同席してもらいますので〉
 手帳のページをめくって明日の予定を確かめた。人事異動の内示は午前中だ。ほかは何もない。
「明日の午後一時に娘を連れて学校へうかがいます。いかがでしょうか」
〈ではそうしてください。もし、明日、お会いできないようであれば……〉
 そのときは退学ということか。
 電話を切ってフロントガラスの向こう側を眺めた。夕陽は沈み、周囲は薄暗くなっていた。高校を中退させるわけにはいかない。今日こそは美香と話し合わなければ。だが、話すとなれば、学校に行く、行かないだけの話では収まらないだろう。
 フロントガラスには美香の虚ろな表情が浮かんでいた。
 ──私、普通の子供じゃないんだよね。
 エンジンをかけようとした。キーをまわす指先がひどく重かった。

 

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