『#ハッシュタグストーリー』の発売を記念して、全4篇の冒頭を公開。今回は柿原朋哉さん『#いにしえーしょんず』をお楽しみください。木爾チレンさん、カツセマサヒコさんの作品は公開中で、麻布競馬場さんの作品も次回公開です。
『#いにしえーしょんず』は勇気をもてるいい話です。「ヲタク」をまるでファッションアイコンかのように使う、同じバイト先のあの子が苦手だった──。ヲタク趣味は隠すもの、と思っている「古のヲタク」である私は、そんな彼女を見返してやることにした──。新旧の価値観がSNS、そして対人関係を通して浮き彫りになる傑作ヲタク文学。
#いにしえーしょんず
ツイッターがXになった。
かれこれ十年以上の付き合いになる慣れ親しんだその名前が、あっけなく消えた。
アプリのアイコンが小鳥からXの文字に変わったのを見て、あまりの無慈悲さに心が痛んだ。
特別、その小鳥が好きだったわけではない。ツイッターという名称を好んでいたわけでもない。それらは、私のスマホ画面に配置された無数のアプリのひとつに過ぎなかったはずだ。
それなのに悲しかった。
もし自分が、ツイッターという名称を考えたり、小鳥をデザインした人間だったとしたら、その悲しみ(あるいは怒り)が生まれることは自然だと思う。でも私は単なるユーザーだ。ツイッターを改革したイーロン・マスクに文句を言う権利はない。
黒く染められた「ツイッター」のアイコンを力なくタップすると、タイムラインにいたフォロワーたちも得体の知れない悲しみに暮れていた。それを見て、私だけじゃないんだなと安堵する。
私はこの安心感に、幾度となく救われてきた。
連載休止が発表されたときも──。
連載の移籍が決まったときも──。
アニメ化が決定して新規ファンが大量発生したときも──。
このタイムラインにいるフォロワーたちと苦悩を分かち合い、共鳴し、あの漫画をずっと愛してきた。誰よりも深く理解しようと作品を読み込み、そこから得たインスピレーションを惜しみなく注ぎ込んで二次創作絵を描き、それを一万人のフォロワーたちに披露した。
私にとってここは、決して誰にも侵されたくない聖域なのだ。
若々しい草木がどこまでも果てしなく生い茂り、清らかな水質の川が美しい音色を奏でるように流れ、青い小鳥たちがさえずりあっている──。
そんな安住の地に、人工的な黒い雲が覆いかぶさったことを私はやっぱり許せない。
と、いった具合に、今日も心の声が止まらない。
無論、「心の声」と書いてモノローグと読む。「聖なる剣」みたいに、ルビが振られている。
ヲタク、とくに「古のヲタク」である私はセルフモノローグを脳内で繰り広げる。漫画・アニメ・ライトノベルの主人公たちが当然のようにやるそれを、自身も体験したくなってしまう。ときに感情的に、ときに客観的に。まるで自分が主人公であるかのように。
──人工的な黒い雲が覆いかぶさったことを私はやっぱり許せない。
このモノローグは少々やりすぎだ。
厨二病臭さが充満している。
まあ実際、私がヲタクになったのは中一の頃だったし、当時からそういった表現を好んでしまう傾向があるのは否めない。でも御年二十六歳である。すこしは自重すべきだ。
「……田さん」
遠くから女の声が聞こえる。
「羽田さん」
誰かが、私の名前を呼んでいる。
「羽田さん」
自分だけの世界に没入していたことに気付き、意識が現実に引き戻された。
「休憩中ごめんなさいなんですけど、キッチン戻れませんか?」
目の前に立っていた彼女は、つややかな肌にうっすら汗を滲ませていた。バイトの同僚、成田杏子だ。眉をハの字にして、縋るような目つきで私を見ている。いつかCMで見た、上目遣いでこちらを見つめるチワワのような放っておけなさがあった。
「いいですよ。すぐ行きますね」
そう告げると、彼女は表情を明るくした。
「ありがとうございます! なんか、ふれあい広場でヒーローショーがあるらしくて、いまになって混みはじめちゃって……助かります!」
私が勤めるファストフード店は、ショッピングモールのフードコート内にある。ふれあい広場というのは、ショッピングモールの中心部にある催事場のことだ。休日はヒーローショーやアイドルのフリーライブ、大道芸人のパフォーマンスで賑わっている。私が敬愛してやまない漫画家先生のトークショーでも催される日にはバイトを無断欠勤してでも参加する所存だが、私がここで働くようになった三年間、そのようなイベントは一度も開催されていない。
休憩時にだけ羽織るグレーのカーディガンを脱いで、キッチンに戻った。
「羽田さんが戻ってくれなかったら詰んでました」
突然のピークタイムをやり過ごした成田杏子が疲労交じりの息を吐いた。
私は、いつの間にか指紋の付いた丸メガネをハンカチで拭いた。
「よかったです。今日のヒーローショー、集客すごいんですね」
「ですね。宮園稜っていう若手俳優が主演なんですけど、いますごいバズってるんです」
宮園稜。聞いたことのない名前だった。
一つの趣味に没頭していると、そのほかの界隈に疎くなる。
「え、でもヒーローショーだからその俳優は来ないですよね?」
冷静に返す私を見て、成田杏子は笑った。
「たしかに。でも、間接的に宮園稜の空気を感じ取る力がヲタクにはありますから」
「あー」
私もそういう経験あります。と危うく言いそうになって、咄嗟に口を閉じた。
私がヲタクであることを彼女には明かしていないのである。
理由はただひとつ。
成田杏子と私は、絶対にわかり合えないからだ。
店の締め作業が終わって帰路についた。
ここから家までは、分割払いで買ったタントに乗って二十分、飛ばせば十五分だ。
エンジンをかけると、ボイスドラマCDの音源が再生された。運転中に『バイブル』を摂取する方法はこれしかなく、ほぼ毎日のように車内で聴いているため、いまや暗唱できるレベルに達している。
私が愛してやまない『バイブル』は『バイバイブルータス』という漫画の略称だ。略称といっても公式が認めている呼び名ではなく、ファンがそう呼んでいるに過ぎない。
私が『バイブル』に出会ったのは高校生の頃だから、もう十年前になる。
中学生で深夜アニメにどっぷりハマった私は、下校するやいなや過去の名作を見漁る毎日を過ごしていた。レンタルビデオ店のアニメ棚を端から端まで借りたのではないかと思うほどの作品数を、たった一年あまりで見尽くした。新クールがはじまると全番組を録画していた私は次第に、のちにアニメ化するであろう漫画を自分で見つけたいと思うようになった。
レンタルビデオ店のつぎは書店に足繁く通うようになり、漫画雑誌を読み漁った。そうして、アニメ化予想を何度も的中させた。連載時代からこの作品の良さを見抜いていた、という優越感があった。
そして高校生になった私は、ついに『バイブル』と出会う。
「何故、ぼくは戦っているのか──」というキャッチコピーがつけられた『バイブル』のざっくりとしたあらすじはこうだ。
すべての記憶と引き換えに、人知を超える高IQを手に入れた主人公・ブルータス。
彼は、世界征服を目論む四つの勢力に頭脳で立ち向かう。
ところが、いったい何のために戦っているのか、彼は覚えていない──。
高度な頭脳戦が繰り広げられるバトルアクションでありながら、主人公の過去が次第に解き明かされていくミステリでもある。作者の黒岩ガク先生が描く少年たちは儚げで美しく、腐女子や腐男子(ボーイズラブ作品への嗜好がある人)のファンも多い。私は腐女子ではないが『バイブル』の世界観に魅了され、原作漫画はもちろん、グッズや雑誌の切り抜きを収集するようになった。月々のお小遣いのほとんどを『バイブル』に捧げた。
その愛は収集だけに留まらず、二次創作絵を描くようにもなった。
愛の深さゆえか、絵のクオリティはみるみるうちに向上した。
そしてつい先週、絵師として活動しているツイッターのフォロワーが一万人を超えた。
私はこの十年間、食事、睡眠、学業、仕事以外の時間すべてを、愛する『バイブル』に費やした。
もちろん恋愛などしていない。する暇もない。強いて言うならば、『バイブル』の主人公であるブルータスに恋をしている。知的で、冷静に物事を判断しながらも、ときに人情深さが浮き彫りになるブルータスの姿に、私は恋い焦がれている。こんな人が現実にいたらいいのに、と何度思ったことだろう。やはり、男は二次元に限る。
「君がいないと、この世界は終わる!」
車内にブルータスの声が響き渡る。
私も。私もそう思うわ、ブルータス。
あなたがいないと、この世界は終わる。
ブルータスが私に向かって手を差し伸べるシーンを妄想して、ひとりきりの車内でニヤニヤしているとトンネルに差し掛かった。周囲の光が一気にシャットアウトされる。
フロントガラスに映ったニヤけ顔の自分と目があって、一瞬で真顔になった。
「おかえり」
帰宅すると、リビングから母の声が聞こえてきた。なにか食べながらテレビでも見ているのだろう。もごもごと、くぐもった声だった。
長時間勤務で疲れ果てている私は、母に届くかどうか怪しい声量で「ただいま」と返した。
バイトから帰ると、まず風呂に入る。
ファストフード店独特の油のにおいが全身に染み込んでいるからだ。このまま夕食を摂ることも、自室に入ることも躊躇われる。
入浴を済ませ部屋着姿になったあと、母が用意してくれていた夕食を摂る。
父と母は、リビングのソファで晩酌をして寛いでいた。かなり仕上がった様子だ。
「この貝柱、なかなかイケるわね」
「だろ? 信用できる筋から教えてもらったんだ」
さすがお父さん、と母が父を煽て、父は満足気に笑っている。
私は両親の喧嘩を一度も見たことがない。まるで付き合いたてのカップルみたいにアツアツで、却って私の居心地が悪いくらいだ。黙々とハヤシライスを口に運んだ。
「ええ! お父さん見てこれ。街コン参加者募集だって」
アルコールで上機嫌になった母が、テレビを指さした。街コンに興味があったわけではないが、二人の様子が気になって、私も視界の端でテレビを捉えた。そこにはお見合い番組の一般参加者を募集している旨が記載されていた。
「ほお。なるほどな……」
画面を見ていたはずの両親が静かに目を合わせた瞬間、嫌な予感がして、私は急いでハヤシライスに視線を戻した。
私の左側面に熱い視線が注がれているのを肌で感じる。
やばい。いつものやつが、くる。
口の中にまだ咀嚼物が残っていたが、いま話しかけられても困りますよと言わんばかりにもう一口、掻き込んだ。
そんな時間稼ぎも虚しく、母は「ねえ瑞姫」と私を呼んだ。
「見てこれ」
聞こえていないかのようにそっぽを向いていた私に、母は、
「これ。ほら。テレビ」
と追撃を仕掛けてきた。
さすがに無視を続けるわけにもいかず、私は泣く泣くテレビに目をやった。そこに表示されているものが何なのか、私はすでに知っているのに。
「今度、うちの市で街コンやるみたい」
このあと母が何を言いたがっているのか、即座に想像できた。ちいさく息を吸った母が、つぎの言葉を吐き出すタイミングに合わせて、私は心の声を重ねた。
「そろそろ良い人、見つけないとね」
(そろそろ良い人、見つけないとね)
私と母の言葉がぴったり重なったのを確認して、やっぱりな……と落胆する。
「そうだな」と母に加勢した父の声が、鋭利な刃物となって心臓に刺さる。
二十六歳、独身、フリーター、実家暮らし、男っ気なし。
そんな私の身を案ずる両親が、一切の悪意なしに提言する。
自分でもわかっている。いまの自分の状況が、両親にとってどの程度の不安要素になり得るのか。自分たちがこの世を去ったあと、愛娘が孤独になってしまうのではないかという親心が、親になったことのない私にもわかる。いま私が孤独だと思っているのか、はたまた、いつか孤独だと感じるのか否かに関係なく、世話を焼こうと努めるのだ。それも、一〇〇%の、善意で。
街コンに参加する気など微塵もない私だったが、彼らの良心を逆撫でするのはむしろ逆効果だと知っているので「まあね」と曖昧な相槌を打った。
翌日、朝からシフトに入って昼のピークを終えた私は、休憩室にいた。
そこにいる私以外の四人のバイトメンバーたちは、仲睦まじそうに談笑していた。いつもと変わらず、会話の中心にいるのは成田杏子だ。
「ライブいいなあ。成田さんって強運よね」
「本当に。この前も良席当たってたし」
「私にもその運分けてほしいくらい」
主婦の飯島さん、大学生の三俣くん、フリーターの古坂さんが口々に言った。みんなに囲まれた成田杏子はどこか誇らしげな照れ笑いを浮かべていた。
「こんなに美人で強運だなんて羨ましいわ」
「しかも色んなことに詳しくて、話も面白いし」
この狭い休憩室では、聞き耳を立てなくても会話が筒抜けだ。かといって、会話に入っていない私が堂々と聞くのも忍びないので、手元のスマホに意識を向けようとする。
「いやいや、ただヲタクなだけですよ」
謙遜する成田杏子の言葉が引っ掛かって、ちらりと目線をやってしまう。
「アニメとアイドル……のことしか知らないですから」
飯島さんたちは恐縮する成田杏子の姿を見て、さらに表情を綻ばせた。いくら煽てても図に乗らない彼女が、可愛くて可愛くて仕方がないのだ。
成田杏子は「ヲタク」という言葉を日常生活で、しかも自分のことを指して言えてしまう。ヲタク文化がいまよりもアングラで、陰湿な意味を含んでいた時代に育った「古のヲタク」である私は、成田杏子の振る舞いに違和感を覚える。ヲタク度合いをカミングアウトする行為が、自分をより良く見せるためのファッション的な意図があるように思えてしまう。「ヲタクなのに、社交的なんです」「ヲタクなのに、可愛いんです」とでも言いたげだ。自分の存在をより輝かせるための踏み台として、下位の存在であるヲタクを利用しているように映るのである。
しかも、アニメだけならまだわかるが、アイドルのヲタクでもあると言うのだ。
はたしてそれは「ヲタク」なのだろうか。
どちらの分野にも浅い愛だけで接している、ただのライトファンだ。ヲタクではない。
しばしば自分はヲタクだと語る成田杏子を、私は好きになれない。
「あ、そうだ」
主婦の飯島さんがなにかを思い出したらしい。
「この間話してたアニメあるじゃない。ほら、あの。タイトルなんだっけ」
ど忘れの多い飯島さんはいつも、記憶を呼び起こしたいときに人差し指でこめかみを押す。
「ほら……あれよ……カタカナ四文字のやつ」
「『バイブル』ですか?」
成田杏子の口から『バイブル』の話が出て、私は思わず身体を捻った。端に座っていた学生の三俣くんと目があった。その三俣くんの視線を追いかけるように、全員が私のほうを振り返った。
「どうかしました?」
不思議そうな表情をした三俣くんが私に尋ねた。
「あ……いえ」
私は咄嗟に首を横に振った。一瞬だけ変な間が生まれたが、何もなかったかのように会話が再開された。
「そうそう。『バイブル』ね。うちの息子が大ハマリしてるやつ」
「すごく面白いですよ。私も毎週欠かさず観てます」
もちろん私も毎週観ている。そして、原作を読んでいる。
しかし成田杏子は違う。観てしかいない。
アニメ版しか観ていない人が世の中に多く存在することは理解している。が、私が許せないのはそこではない。原作を読んでいないにもかかわらずヲタクぶる行為が癇に障るのだ。
私たち「古のヲタク」が培ってきたヲタク文化を、我が物顔で占拠し、コミュニケーションを図るためのツールとして利用する魂胆が許せない。
ボーカロイドヲタクであるネット上の知人が似たようなことを言っていた。
「変な声」と一般人から避けられていた初音ミクを、ネットの住人たちはこよなく愛した。曲をつくる者、絵を描く者、動画をつくる者、何度も繰り返し聴く者。陽の当たらないところで皆が大切に育て、守り抜いてきたボカロという文化は、いつしか紅白歌合戦に出演するまでに成長した。
ヲタクたちは歓喜した。自分たちが育てた初音ミクが、あの紅白に出ている。こんなに幸せなことはない。
「俺たちが、ミクを育てた」
そう喜んだはずなのに、気がつけば「にわかヲタク」が増えていた。昔の曲を知ろうともせず、お作法を平気で破る、決してわかり合えないファン。そういう人に限って、声を大にして言うのだ。
「私はヲタクだ」と。
土曜日、事件は起きた。
今週末はふれあい広場での催しがなかったので、昼と夜のピーク時を除いてフードコートは閑散としていた。窓際の席に長居する客が数組いるくらいだった。
またしても成田杏子と休憩時間が被り、私と彼女だけが休憩室にいた。
「これから面接あるから、よろしくね」
アクリル板の向こう側から、店長が私たちに声をかけた。休憩室は二つに区切られていて、向こう側は社員専用のスペースとなっている。本部との連絡や事務作業、電話対応のために社員が使っている。
「了解です」
「はい、わかりました」
よろしくねとは言われたものの、私たちバイトが何かをする必要はない。志望者の出入りがあるから、それなりにおとなしく頼むよという意味である。店長に言われなくとも、私と成田杏子が賑やかにおしゃべりすることはないのだが。
店長が「来た、来た」と言って、従業員通路のほうへ出ていった。
店長が出ていったことを確認した成田杏子が囁いた。
「どんな人でしょうね」
この店は大学や高校から距離があるため、学生バイトが少ない。大量消費を前提としたファストフード店は存外、重い荷物を運ぶことが多いので、若い労働力が来てくれたらいいなと私はひそかに願った。あるいは、目の保養となる美少年か。
「店長のことだから、美女なら即採用にするでしょうね」
「私はイケメンがいいな。寿命が延びる」
成田杏子の言う「寿命が延びる」は、近年のヲタク用語だ。推しの尊さを感じたときに、「助かる」とか「白米何杯でもいける」とか「寿命が延びる」と言うのだ。
私のような古のヲタクは、「墓を建てた」り、「召され」たり、「吐血した」りしてきた。
古のヲタクは基本的にネガティブな人が多いのか、感情が昂ぶった際に「死」へと向かおうとする。一方で、新しいヲタク──令和のヲタクは「生」へ向かおうとするのだ。その思想には、陽キャ・陰キャくらいの差がある。
社会学的に見れば興味深いちがいであろうが、古のヲタク当事者からしてみると、令和のヲタクはおめでたいなと思う。それは、賑やかで楽しそうですねという皮肉でもあり、私もそんなふうに「生」を求めて生きたいという羨望でもあった。
どんな人が来るのだろうと雑談をしていると、店長が戻ってきた。
「狭いところですが、どうぞ中へ」
成田杏子の期待交じりの視線が、休憩室の入り口に注がれていた。彼女はイケメンの参画を望んでいるのだ。私の恋愛対象は完全に二次元なので美少年を期待するというのはほとんど冗談だが、アイドルヲタクを公言する成田杏子は本気の可能性がある。
店長の陰に隠された志望者の姿が、すこしずつ見えてきた。
細長く伸びた脚。
まっすぐ芯の通った姿勢。色白で血管が浮き出た手。
白と黒のコーディネートに引き立てられた蛍光グリーンのバッグ。地毛っぽいナチュラルな色合いのパーマ。小さな顔に配置された、ハイライトたっぷりの大きな瞳。上がった口角から覗く、きれいに並んだ歯列──。
私は驚愕した。
三次元に、美少年が現れたのだ。
彼から発される強烈なまばゆさに、私は思わず、墓を建てた。
美少年・風間空は無事、採用された。
そして、私は彼の研修トレーナーに任命された。
数日を共に過ごすうちに、わかったことがあった。風間くんは東京出身で、大学進学のためにこの県にやってきたらしい。いまは三年生。二年間バイトしていた居酒屋の縦社会っぷりに疲弊して辞め、代わりとなる仕事を探していたそうだ。彼はかなりインテリであり、どんな作業も丁寧にやる。几帳面すぎる一面もあるが、その価値観を他者に押し付けることはなく、コミュニケーションをしていて心地よい。
丁寧で、知的で、愛情深くて──ブルータスみたいだった。
私は、ブルータスの影を風間くんに重ねるようになっていた。
「あ、俺が持ちますよ」
「えっ」
突然、背後から聞こえた風間くんの声に驚いていると、彼はショートニングが入ったアルミ缶を軽々と私から奪った。私だけ特別扱いされているみたいで、身体の底からふつふつと興奮が湧き上がってくる。と同時に、彼の骨ばった華奢な手を汚してはならない、という庇護欲も掻き立てられた。
アルミ缶を抱えた風間くんは遠慮する私を安心させるために、「筋トレになるんで」と、はにかんだ。