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『#ハッシュタグストーリー』の発売を記念して、全4篇の冒頭を公開。今回はカツセマサヒコさん『#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ』をお楽しみください。木爾チレンさんの作品は公開中で、柿原朋哉さん、麻布競馬場の作品も順次公開していきます。
『#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ』はスカッとするいい話。ストーカーににじり寄られて大ピンチの主人公。そのとき思い出したのは高校時代の文化祭のテーマ。勇気を奮い立たせるあの言葉を胸にストーカーをぶっ飛ばせ。この魔法の言葉を作ったかつての友達・和田はどうしているのか。悩める大人に勇気を与える傑作短篇です!

 

#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ


 なんだっけ、それ。
 頭の中に浮かんだ文字列に、南条なんじよう涼香すずかは覚えがあった。だが、単語の並びまで正確に把握しているのに、その言葉が持つ意味までは思い出すことができない。
 携帯で調べれば、何か出てくるかもしれない。しかし今は手元になく、あるのは膨らみ続ける恐怖心と、現実から逃避しようとする正常化の本能だけだった。
 南条は頭の中で、稚拙な単語のつながりを繰り返す。ウルトラサッド、アンド、グレイトデストロイクラブ。ウルトラサッド、アンド、グレイト、デストロイ、クラブ。ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ。徐々にその言葉の真意に近づいている気がするが、あとわずかのところで、輪郭はぼやける。そのうち脳では処理しきれなくなり、南条は経を唱えるように、ぶつぶつとその言葉を口にし始めた。
 ウルトラサッド・アンド・グレイトデストロイクラブ。
 絶望的な状況を前にして、捻り出された言葉の音とリズム。意味はわからずとも繰り返しているうちに、南条は、全身から抜けていたはずの力が、再び湧き起こってくる気がした。
 いけ。ぶっとばせ。いけ。いけ。
 呪文に背中を押されるように、南条は一気に床を蹴って、体を起こした。リビングから扉一枚隔てた先の寝室に駆け込むと、すぐに鍵をかけようとする。しかし、男の腕が一秒未満の戸の隙間に入り込み、それを防いだ。
 南条は渾身の力で、扉を押し返した。
 ウルトラサッドだよ。
 誰かに言われた言葉。なんだっけ。踏ん張るために腰を低くすると、後ろに伸ばした左足が、何かに触れた。ずっと使っていなかったゴルフバッグが、出番かと南条に呼びかける。
 南条は腕で押していた扉を肩で押し替えると、ゴルフバッグを斜めに倒し、手探りでクラブを抜き出した。その瞬間、扉にぶつけていた力が弱まったせいか、男の体が、勢いよく寝室に入り込んでくる。
 いけ。ぶっとばせ。
 男が勢い余ってベッドに突っ込んだ瞬間、南条は両手に握りしめたそれを、スイングした。壁や天井に当たらぬように鋭い軌道を描く必要があり、うまく力が入らない。しかし、クラブのヘッドは男の側頭部を、確かに擦める。
 男は、視界に一瞬、南条の姿を捉えた。だが彼女が持っていたクラブを目で追うと、すぐその視界は揺れ、膝からストンと崩れ落ちた。
 男の細くて大きな体が、うつ伏せになって倒れ込む。
 なにこれ。なにこれ。なにこれ。
 荒くなった呼吸が、余計に頭を混乱させた。
 全身が心臓にでもなったように、体は激しく脈打ち、伸縮を繰り返している。下半身に力が入らなくなり、その場の重力に負けるように、南条も座り込んだ。
 分泌されたアドレナリンが、目の前の光景をスローにさせて、南条は走馬灯のようなものを見た。
 あれは、十年前の記憶。十七歳だった南条たちの、最強だった高校時代の記憶。





 二年E組は、文化祭で何をするか、もしくは何もしないのか、その選択を迫られていた。文化祭も体育祭も、やる気があるのは運動部の一部の人間だけであり、教室に二割もいない彼女ら彼らが決めるクラスの意向は、帰宅部だった南条からしてみれば、実に退屈なものばかりだった。
「ホストクラブみたいなカフェ開こうぜ! 女子がたくさん来そうなやつ!」
「えーやだ! キャバクラやろうよ! 男子がボーイしてさ!」
「てかお化け屋敷よくね? ガチこえーやつやろうや!」
 サッカー部と、バスケ部と、野球部の連中が、おもしろくもないアイデアを次々に投げ込む。南条はそれら全てをくだらないと思いながら、ただ黙って時が過ぎるのを待っていた。おそらく南条だけでなく、多くの生徒がみな、そうしていた。
「なんで誰も意見言わねーんだよー。協力しろよ、協力。団結だよ、こういう時こそ。オールフォーワンだろー? ほら。じゃあ、えっと、和田わだ! なんか言えよ、和田!」
 学級委員であり、サッカー部のレギュラーでもある渡良瀬わたらせが、和田を指名した。すかさず野球部の男が「和田って誰だよ。え? あいつ、和田っていうの? 知らねー!」と椅子に乗って叫び、運動部の人間を中心に、教室がそれを笑った。
 最前列の端に座る和田ひかりは、頭を下げたまま、机の一点だけを見続けていた。
「和田ー、なんかねーのかよー、言えよなんでもいいからー」
 野球部の男は椅子の上から和田を責付いた。南条は和田のすぐ後ろの席にいて、こんなひどい状況において誰も声を上げない教室を、憎んでいた。頭の毛が薄くなってきたことを呑気に気にしている担任の安藤あんどうにも、同調圧力に屈してヘラヘラしたまま黙っているクラスメイトたちにも、それらと同じように沈黙を貫いている自分にも、同じだけ腹が立った。しかし、どれだけ憎しみが溢れても、行動するという一点には、どうしても辿り着くことができなかった。
 沈黙が、教室を通り過ぎた。「場が冷めるからなんか言えや」と野球部の男がまた責付き、学級委員の渡良瀬は、じっと和田を見ていた。
「無茶苦茶にするのがいいと思う」
 そんなとき、小さな声が聞こえた。
 そう。無茶苦茶にするのがいいよな、と、南条も素直に頷いた。
 もうこんなクラスは、無茶苦茶に壊れてしまえばいいんだ。
 深く共感して、ふと前を見れば、その発言が、目の前に座る和田から出たものだと気付いた。
 和田の声は本当に小さく、今にも裏返りそうなほど揺れていた。
 運動部の人間たちは、特大の豆鉄砲でも食ったように、目を見開いて黙っていた。あの大人しそうな、名前も覚えてもらえないほど存在感のない和田の口から、「無茶苦茶」だなんて乱暴な言葉が飛び出すとは、微塵も思っていなかったようだった。
「なんだそれ」
 例の野球部が、茶化そうとした。しかし「無茶苦茶にする」という言葉の響きは、高校生が持て余したエネルギーを発散させるキーワードとしては、十分すぎるほどの魅力を放っていた。
 学級委員の渡良瀬が、「え、おもろそうじゃん!」と、これを認めると、「いいね、無茶苦茶にするやつ、やろうよ!」と教室はにわかに盛り上がり始めた。
 その盛り上がりに反比例するように、和田の背中は、さらに小さくなったように感じた。次のチャイムが鳴るまで、和田の頭が上がることはなかった。

「和田」
 放課後、すぐに教室を出ようとした和田の腕を、南条が掴んだ。和田の腕はこれまで陽を浴びたことがないように白くて、細かった。
「さっき、ごめん」
「え、どれ?」
 和田は表情を変えず、雲にでも乗れそうな、やわらかい声を出した。
「文化祭のやつ。私、なんか言えばよかった」
「え、なんで? 指名されたの私じゃん」
「いや、そういうんじゃなくて。ごめん。ひどかったじゃん、ミセシメみたいで」
「別に、あんなのいつもでしょ」
「そうだけど」
「それに、ムカムカしてたから、言えてよかったよ」
「え?」
 和田も、ムカムカするのか。
 さっきの「無茶苦茶」という発言も、和田から出てきた言葉とは思えなかった。
「意外だった」
「なにが?」
「和田の口から、あーゆー場で、そーゆー言葉が出ること」
 説明せずとも、和田には伝わったようだった。
「別にわざわざ口に出さないだけで、思ってることや考えてることは、うるさいくらいにあるよ。南条もそうでしょ?」
 和田が何かを企むように笑った。自分は和田ほどいろいろ考えているだろうかと、南条は思った。
 前を歩く和田の、癖毛のショートボブが揺れている。
 和田の髪の色は入学当初から明るく、頭髪検査でしょっちゅう引っかかっていた。特に担任の安藤はどうしても和田をこらしめたいらしく、何かあるたびにそのことに触れた。ガッツリと染めているサッカー部の男子のことは何も言わないくせに、和田ばかり責めた。その説教があまりにしつこかったので、クラスの女子から反感を買っていた。
「無茶苦茶にしてやりたいのは、安藤だな、私」
 南条が言うと、和田はクスリと笑って、「安藤デストロイだ」と呟いた。
「何それ、ダサ」
「ダサい単語、面白いから好きなの」
 褒めたわけでもないのに、和田は照れた様子で言った。
「まあ、安藤もいいところあると思うけどね」
 何故か安藤をフォローしながら、和田は別れ際、南条に手を振った。
 南条がひとりになった途端、ポツポツと雨が降り出した。その翌々日に、和田の父親が死んだと、学校に訃報が流れた。





 まだ、生きてる。
 南条は、気を失って倒れている男の脈を恐る恐る確認し、大きく息を吐いた。
 もしも、殺してしまっていたら。自分の人生がこの男に黒く塗りつぶされる未来を想像し、現実がそうならなかったことに、強く安堵した。
 南条はベッドに手をついて重たい体を持ち上げると、引っ越しの際に使ったガムテープを机の引き出しから取り出した。男の手首と足首に、それを強く巻きつける。その途中で、男のデニムのポケットから、何かがはみ出ていることに気付いた。
 ナイフ。
 刃渡り一〇センチも満たない、携帯用の果物ナイフだった。
 男は、これで自分を刺すつもりでいたのだろうか。
 血の気が引く感覚があり、南条もその場で倒れそうになった。どうにか持ち堪えて、ナイフを男から取り上げると、ゆっくりと寝室の扉に向かった。
 部屋を見回し、男に反撃される心配がないことを確認してから、リビングまで戻る。キッチンカウンターに置かれた携帯電話を手に取ると、一一〇番を押し、深呼吸した。
 できるだけ、簡潔に状況を伝えようと、気持ちの整理を試みる。しかし、南条はそこにきてもなお、自分の身に起きたことに実感が湧いていなかった。
 荻原おぎわらたけし。五年前に出会ったきりだった男。そいつが突然、マンションまで来た。オートロックのエントランスを潜り抜け、インターホンも鳴らさずに、まるで自分の家かのように、悠然と玄関の扉を開け、リビングに入ってきた。
 部屋の鍵を、かけ忘れていたのだろうか。夕飯の支度をしていた南条は、突如現れた男の姿を見て、声をなくした。固まって立ち尽くしていると、荻原が静かに笑みを浮かべた。一七〇センチある南条よりもずっと背が高く、芯から細い印象は変わらないが、出会った当時よりもずっと髭が伸びていて、顎全体を、真っ黒な綿が覆っているようだった。
「涼香ちゃん」
 口元は笑っているものの、瞳は大きく見開かれ、その端は少し血走っている。その状態で荻原武は、ゆっくりと南条に近づいた。南条は、ダイニングテーブルの反対側に逃げるように距離を取る。逃げろ、という緊急信号だけが、脳内でけたたましく響いていた。
「付き合お。全部、許すから」
 荻原が、手を広げながら距離を詰めてくる。南条は、拒否するように両手を突き出した。
「来ないで」
 殺される、と思うより早く、腰が抜けた。その場にしゃがみこむと、もう、土下座の姿勢でも取るほかなかった。
「帰って。帰ってください」
 あの言葉が、頭をよぎったのは、その直後だ。
 ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ。
 南条は、湧き出てきた力によって走り出し、ゴルフクラブを手にすると、男を撃退した。
 警察官は電話越しに、五分ちょっとで駆けつける、と言った。どうしていいか分からず、リビングに置かれたソファに腰掛けると、南条は大きく息を吐いた。
 過ぎ去ったはずの恐怖が、まだすぐそこにいる気がしてならない。
 ゴルフクラブを取りに戻り、寝室に体を向けたまま、意識的に呼吸を繰り返す。そして何度も、あの呪文を唱え直した。ウルトラサッド、アンド、グレイトデストロイ、クラブ。





 和田の父親の告別式は、南条が普段からよく通る街道沿いに建っているセレモニーホールで行われた。
 南条は、葬式というものを物心ついてから一度も経験したことがなかった。お焼香を上手にあげられるだろうかとそれだけが不安で、喪に服す、という感覚を理解できないまま、遺影の前に立った。
 和田のお父さんは、遺影で見る限り、とても優しそうに見えた。手を合わせてみるが、その人が和田の父であり、和田にはもうお父さんがいないのだ、という事実を、やはりうまく飲み込めずにいた。他のクラスメイトが遺影の前でぐずぐずと鼻を鳴らして泣いているのを見て、南条は羨ましく思った。
 しかし驚いたのが、親族席にいた和田もまた、泣いていないことだった。和田はうつむいてはいるものの、その目元を見る限り、悲しみに暮れている様子はなかった。
 あまりに大きな悲しみを前にすると、涙は流れないものなのだろうか。
 南条にはまだ、近しい人が亡くなった経験がなかった。飼っていたハムスターが死んでしまったときは大泣きしたが、それより大きな悲しみに出会えば、自分も涙が引っ込むほどの感情にのまれるのだろうか。
 告別式が終わり、南条が母親と共に葬儀場を離れようとしたとき、和田に声をかけられた。
「この後、ファミレス行かない?」
 南条より先に、すぐ横で立っていた南条の母が、頷いた。南条の母は涙ながらに千円札を折りたたみ、南条に握らせた。
「行ってらっしゃい」
 告別式から帰宅し、ひと息ついてから私服に着替えて、自転車に乗った。セレモニーホールと同じ街道沿いにあるファミリーレストランに向けて、ペダルを漕いだ。
 日は高く、乾いた風が心地よかった。この風の中に、和田のお父さんが溶けているのだと思った。台風が近づいているらしいが、空には雲ひとつなかった。
 ファミレスに着くと、すでに和田の姿があった。
「今日、出てきて大丈夫だったの?」
 南条は葬儀というものの全体像が、終わった今でも分からなかった。故人の唯一の子供がこんなところにいて問題がないのか、急に罪悪感のようなものに駆られた。
「大丈夫、夕方までに戻ればいいって言われたから」
 和田は疲労感と解放感を滲ませた表情をして、デニムのポケットから自転車の鍵と携帯電話を取り出すと、テーブルに放った。自転車の鍵にはカバのようなマスコットのキーチェーンが付いていて、それが心なしか、和田のお父さんと似ているように思えた。
 二人でドリンクバーに向かうと、和田は野菜ジュースのボタンを押しながら、聞き慣れない言葉を吐いた。
「何?」
「ウルトラサッド、だよ」
「何それ?」
「ちょー悲しい、ってこと」
 ストローをグラスに挿すと、和田はテーブルに戻っていく。その後ろ姿が、いつもよりさらに小さく見えた。
 和田のお父さんは、飲酒運転で亡くなったらしい。南条は母親から聞いたが、母がいったいどこの誰からその情報を聞いたのかは分からなかった。ただ、告別式のスピーチで、和田のお母さんが「お酒が好きな人だった」と話していたので、おそらく、事実で間違いなさそうだった。
「お酒飲むと、ひどいことしちゃう人でさ」
 和田はそこまで話してから、一度、下唇を噛んだ。
「お母さんのこと、殴ったりもしてた。私には手を出さないけど、でも、しょっちゅうパシリに使われてたし。だから、飲酒運転で誰も巻き込まずにって聞いて、自業自得だし、なんか、むしろ安心してた」
 つよがりには聞こえなかった。葬儀の場で和田が泣いていなかった理由を、南条はなんとなく悟った。同時に、家族の死に安心する家族がこの世界にいることも、初めて知った。
「てか、そのことは別に、サッドでもなんでもないんだけど。私、そのせいで転校することになったの」
「え、どういうこと?」
 話が読めなかった。和田が転校することは、和田の父親の死とどんな関係があるのか。
「お母さんだけじゃ、稼ぎが少ないんだって。だから、家を売って、おばあちゃんちに戻るって」
「嘘、いつ?」
「二学期が終わったらって」
「まじ。すぐじゃん、そんなの」
「すぐだね」
 和田は脱力したように、ソファに寄りかかって天井を見上げた。南条も、同じことをしたい気分だった。
「ウルトラサッドだよ、それ」
「でしょ」
 和田は店員に向けて手を挙げると、メニューを見ずに、フライドポテトを頼んだ。

 和田が転校する、と二年E組に発表されたのは、告別式の翌週のことだった。
 担任の安藤に促されて和田が教壇に上がると、教室内は奇妙なほど静かになった。あの運動部の人間たちさえも、口を慎んで、和田に注目した。
「今、先生が言ったとおりで。二学期が終わったら、転校します。岡山県に行きます」
 和田は国語の教科書でも読み上げるように、淡々と話した。相変わらず声は小さく、おそらく最後列の生徒には届かなかっただろう。それでも、誰も和田を茶化すことはしなかった。親が死んで、住んでいた街を離れる。十代の自分たちには想像しきれないほど大きな不幸が和田にのしかかったのだと、誰もが和田に同情した。
 それによって和田は、皮肉にも教室で息がしやすくなったように、南条には映った。
 和田の短いスピーチが終わると、悲しい拍手が静かに響いた。学級委員の渡良瀬が立ち上がらなければ、いつまでもその音は鳴り止むことがなさそうだった。渡良瀬は、和田が教壇から降りるより早く、クラスメイトたちに言った。
「文化祭、マジで派手にやろうぜ。和田のウルトラサッドをぶっとばすんだよ!」
 みんな単純だった。和田が何気なく使った「ウルトラサッド」という言葉は、南条が教室で使い、渡良瀬がそれを広げ、あっという間に教室中に伝染していた。そして、E組の文化祭の出店名は「ウルトラサッド・アンド・グレイトデストロイクラブ」に決まった。文化祭を盛り上げることこそが、和田への誠意を示す方法なのだと、全員が全員に言い聞かせるようなムードがあった。
「教室の中に、もう一つ小屋を作って、その中に壊れてもいいものをたくさん入れておく。それで、一回三〇〇円くらいで小屋に入ってもらって、中のものを好きなだけぶっ壊していいっていう仕組み。怪我とかはしないようにするけど、あとは好きなだけ暴れてもらって、ストレス解消って企画。どう?」
 渡良瀬が提案した「ウルトラサッド・アンド・グレイトデストロイクラブ」の内容に、反対する者はいなかった。それから一週間は、各自で「壊されてもいいもの」を学校に持ち寄るようになった。
 中には赤点の答案用紙もあったし、一留している黒田くろだは昨年使い古した単語帳も出品した。和田は父親のものと思われるプラモデルをいくつも持ってきて、クラスメイトは何も言わずにそれを受け取った。
 いつの間にか、クラスは強く強く、団結していた。
「#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ」はE組独自の流行語としてSNSに頻繁に登場し、次第にその意味は、ただの出店名を飛び越え始めた。中間テストの結果を嘆く投稿に使われるときもあれば、遊園地で撮った集合写真に使われることもあった。悲しいときや怒っているとき、嬉しいときや楽しかったとき、その感情を増幅させるような言葉として登場し、教室という限られた空間において、確かな影響力を持つようになっていった。





 あれから、十年が経つ。和田は、元気でいるだろうか? 
 南条は、ようやく思い出した長ったらしいカタカナの羅列の意味に触れて、クラスメイトの現在を案じた。
 警察はまだ来そうになかった。
 不意に思いつき、南条は携帯電話の連絡先リストから和田の名前を探してみた。しかし、以前、携帯を急いで解約しなければならなくなったことがあり、そこで電話帳をリセットしたことを思い出した。当然、いくら探しても、和田の名前を見つけることはできない。
 SNSで検索してみようかと、ソファの背もたれから姿勢を正したところだった。過去から呼び戻すように、自宅のインターホンが鳴った。
 モニターを覗くと、男性警察官が二名、マンションのエントランスに立っている。
 
「男はどちらに」
 玄関の戸を開けた途端、警察官が入り込んできた。リビングまで案内してから、南条は家の中がかなり散らかっていることに気が付いた。せめて部屋干ししていた洗濯物くらいは片付けておくべきだったかと、頭の中が急に冷静になり始める。南条は、下着が干されていないことだけ視界の隅で確認しながら、寝室を指した。
「あっちの、部屋にいます」
 警察官は足早に寝室の扉を開けた。すると、荻原武はまだ目を覚ましておらず、先ほどと同じように、床に寝そべったままでいた。
「この、ガムテープは?」
 荻原武の手首と足首に何重にも巻かれたガムテープを指さして、警察官は言った。
「あ、私が、やりました」と答えると、男たちは一瞬目を合わせ、そのあと微かに笑った。そこに嘲笑の意味が含まれていることを南条は見逃さず、しっかりと腹が立った。
 警察官が、荻原武の頬を二度、三度と叩いて起こそうとした。南条は自分の心配よりも荻原武の心配をされている気がして、バツが悪くなる。「起きそうですか?」と聞こうとしたところで、荻原武が顔を歪ませて、ゆっくりと目を開いた。すぐ目の前に警官がいることに、明らかに動揺しているようだった。
「無事だな」と、太っている方の警官が言った。警察は外にも待機していたらしく、荻原武はおとなしく別の二名の警官に連れられて、あっという間に部屋からいなくなった。長く置いていた粗大ゴミを運んだ後のような、そこにあったものがなくなった感覚だけが残った。
 荻原武が出ていくのを見届けたあと、先ほどの太った警察官が、南条に尋ねた。
「あなたは、怪我などありませんか」
「え?」
 怪我、と言われて、南条は初めて自分の体に意識を向けた。しかし、改めて自分の状況を考えてみれば、南条は荻原武から物理的な攻撃を一切受けていないことに気が付いた。
「怪我は、ないです」
 どうしてか、申し訳なさを覚える。
「じゃあ、部屋の中を壊されたり、荒らされたりとかは」
「それも、ないです」
 そう言った途端、南条は、警官が自分に興味を失いつつあることが、手に取るようにわかった。男は退屈そうに部屋を見回しながら、南条には目も合わさずに状況をまとめ始めた。
「では男はナイフを忍ばせて突然ご自宅に侵入してきた、ということで、それ以外の被害はない、という認識でよろしいですか?」
「はい。大丈夫です」
 被害は、ない。
 死すら覚悟した経験をしたのに、被害はない? 私がナイフで刺されなければ、あの男の罪は、ただの不法侵入に過ぎないのか? もしかして、それすら立証するのが難しいのか? 
 南条は焦り、混乱した。こちらが完全なる被害者であるはずなのに、どうしてもそうとは受け取ってもらえない気配に、心が糸のように細くなっていく感覚があった。
「男性からの話も聞いてみないといけませんし、一度、署まで同行願えますか」
 警察官は、南条を品定めするように眺めて、言った。





 文化祭当日まで残り二週間を切った、月曜の朝のホームルームのことだった。
 話がある、と言って切り出した担任の安藤は、クラスの誰ひとり想定していなかったことを口にして、生徒たちの熱意を凍り付かせた。
「うちのウルトラなんとかな、やらないことになった」
 数秒の間が、とても長く感じた。ようやく数名の生徒が言われたことを理解したように、途切れ途切れに質問を切り出した。
「は? なんで?」「誰が決めたの、それ」
 渡良瀬を筆頭に、運動部の人間が安藤に食ってかかった。
「意味わかんねえんだけど」
「どういうことだよ」
 それも予想通り、といった様子で、安藤は目をつむって、生徒たちの反論が止むのを待った。
「まあ、俺も予想はしていたけどな。怪我をしたら危ないとか、学校が暴力を肯定するのか、とか、いろいろ懸念点はあっただろ。お前らがわーわーぎゃーぎゃー騒ぎすぎたから、親御さんたちがそれを心配して、学校に連絡してきたんだよ。一人だけじゃなくて、複数人な。それで、先生たちも話し合ったけど、まあ、万が一のことがあったら責任取れないってことで、中止だ。お前らももう高校生なんだから、そんくらいのことわかるだろ」
 元から、大して興味もなかったのだろう。ここまで一度も口を出してこなかった安藤が、今になって教師らしいことを言ったことに、南条たちは怒りを通り越し、呆れた。安藤はこういうとき、決して生徒側に立ってはくれない人間だとわかっているからこそ、もうこの決定は覆らないことを、南条も察した。
「このホームルームの時間、お前らの好きに使っていいから。文化祭で他のことやるか、それともやめるか、自分たちで決めな」
 そう言って、安藤は教壇を降りた。しばらく沈黙が続いた後、渡良瀬が頭を掻きながら、渋々といった様子で、その場所に立った。
「どうするか、考えよう」
 この数日、美しすぎる団結が教室に熱を持たせていた。何かに反抗することこそが青春だと、体が叫んでいるようだった。しかし、その幼稚な熱も、学校側の圧力には呆気なく負けた。クラスは見事に士気を失い、つまり、和田が転校してしまうまでの最後の思い出作りもまた、ここで有耶無耶に消えようとしていた。