『#ハッシュタグストーリー』の発売を記念して、全4篇の冒頭を公開。初回は木爾チレンさん『#ファインダー越しの私の世界』をお楽しみください。カツセマサヒコさん、柿原朋哉さん、麻布競馬場の作品も順次公開していきます。 『#ファインダー越しの私の世界』は切なくていい話。育児に疲れ果てた主人公が大学時代の淡い恋を思い出します。夢中になったインスタグラムの投稿や元カレとの思い出。誰しもが経験する青春の1ページと大人になった「今」を切り取った恋愛小説は心に沁みます。

 

#ファインダー越しの私の世界


 深い海の底のような場所から、子供の泣き声で目が覚めた。
 はっとして、一年前に産んだ子だと思い出す。幼い頃の自分にうり二つの女の子。
 髪も整えぬまま、私は急いでなみを抱き上げ、外へ出た。また隣のオバサンに、うるさいと貼り紙を貼られるのが怖くて、息ができないからだ。
 連日の激務で疲れ切っている夫の洋介ようすけは、どれほど波の夜泣きが激しくても朝まで起きることはない。
 昨日と同じく、マンションから少し歩いた先の石のベンチに腰掛けて、波が眠るのを待つ。
 生暖かい八月の夜風が心地いい。
「大丈夫」
 波に囁きかけながら、それは、自分に言っているのかもしれないと思う。
「今日は満月やね」
 月明かりの下、私の心が凪ぐにつれて、波の泣き声も小さくなる。
 泣き声が止んだとき、ふと足元に、干からびた蝉の死骸が転がっているのが目に映った。それは明らかにもう復活することのない命で、私は思わず溜息を吐いた。いつからだろう。蝉が死んだあとも夏が永遠のように続くようになったのは、この、何の変哲もない人生が始まったのは。
 波の頭を撫でながら、インスタグラムを開く。
 友達と知り合いの境界線にいる誰かの充実した日常を眺めながら、この世には不幸なことなど何もないんじゃないかと思う。
 昨年コロナが収束してからは、旅行の投稿が増えた。
 #韓国 #カンジャンケジャン #美味しすぎた
 という投稿にいいねをつけながら、羨ましくて病みそうになる。子供が小さいのもあるが、ブラック工場に勤める夫の給料では、海外など夢のまた夢だ。
 思えばこの三年間の自粛期間は私にとって安堵の時間だった。
 窮屈さはあったけれど、誰もが平等に不幸な気がして安心した。このまま、誰も、どこにも行けない世界が、続けばいいのにと思っていた。
 もちろん誰も、私がそんなことを考えて生きていたなんて知らない。
 だって私のフィードにも、不幸は存在しない。
 #お食い初め #生後一〇〇日
 #ふたりで最後の旅行 #奮発して露天風呂付き客室
 #フォトウエディング #花見小路 #桜満開
 #ユニバホラーナイト #こわすぎ #初デート
 まるで、人生の走馬灯のように、幸せが切り取られている。
 私は周囲に追いつくのに必死だった。同じようにステージアップしなければ、取り残されていくような気がしていた。
 でも思えば、いったい何に、誰に、追いつきたかったんだろう。
 子供を産んで専業主婦になった今、私はもっと取り残されているような感覚になっている。

 いいねの通知が下りてきたのは、それから三十分が経ち、波が眠りに落ちたときだった。
 こんな夜中に、誰だろう。
 ぼうっと見ていた水溜りボンドのYouTubeを閉じて、再びインスタをひらく。
 しかし新しいお知らせはない。ここ一カ月は、育児に疲れ切ってストーリーすら上げていないのだから、過去の投稿をさかのぼって見る奇特な友人はいないだろう。
 けれど確かにさっき、いいねの通知があった。
 はっとして、アカウントを切り替える。
〈yuu_film20〉
 十年前に作った、フォロワー数二百人にも満たないそのアカウントの存在を、私はすっかり忘れていた。
 お知らせを確認すると、いいねがついたのは、京丹後の八丁浜で撮った海の写真で、いいねをしたのは、大学時代に付き合っていた恋人だった。
〈nagigram.7〉
 そのアカウント名を見た瞬間、母である証のように巨大化した乳房の奧の、本来の小さな胸が途端に締め付けられる。
 大学生だった私の過去を閉じ込めたフィードには、今の時代でいうエモい写真が並んでいる。
 青空に線を描く飛行機。廃線路に咲くたんぽぽの綿毛。透明なビー玉が入ったラムネの瓶。深夜のコンビニで買ったパピコ。床屋の前で回っているやつ。古風なスナックの看板。
 そしてすべての投稿に、〈#ファインダー越しの私の世界〉そのタグがあった。
   #世界のすべてに意味を感じていた


 答えのない物語が好きだった。
 薄暗くて狭いキッチンがついたボロアパートが舞台の、決してハッピーエンドにならない恋愛映画が好きだった。
 美術館でよくわからない作品の意味について考えるのが最高に有意義な時間の使い方で、iTunesに洗練されたアートワークが追加されるのが快感で、一眼レフで退屈な世界をノスタルジックに切り取るのが生きがいだった。
 つまるところ、大学時代の私は、完全にサブカルをこじらせていた。
 当然、こじらせようと思っていたわけじゃない。
 私は全身全霊で、特別な存在になろうとしていたのだ。
 前と後ろで長さの違うスカートを穿いていたのも、誰も知らないゆるキャラのトレーナーを着ていたのも、青のカラータイツを皮膚のように感じていたのも、特別な自分を演出したかったのだと思う。
 恵文社やガケ書房でマニアックな本を探しながら、河原町の喫茶ソワレの二階で宝石のようなゼリーポンチを食べながら、私は夢見ていたのだ。
 いつか自分の人生が、答えのない物語のなかに攫われることを。
   #ユニクロも無印良品も絶対着なかった


 十年前のその夜が、ひどく蒸し暑かったことを覚えている。
 二〇一三年の夏、私は、ゼミで一緒だった彩子さいこに連れられて、河原町の和民にいた。
「フジモリジュンヤでーす。経済学部の三回生でーす。よろしくでーす」
 彩子が、勝手にセッティングした学内の先輩とのコンパに、参加させられていたのだ。
「お金は先輩たちが出してくれはるやろし、隅っこのほうでポテトとか好きなもの食べとくだけでいいから」という彩子の口車に乗せられたが、実際参加してみるとそうはいかなかった。
 帰ることもできたのだろうが、そこまでの空気の読めなさを発揮する勇気はなかったし、初っ端から抜け出すいい訳も思いつかなかった。
古賀こがゆうです。二回生です。文学部です。よろしくお願いします」
 自分の順番が回ってくる。私はせめて誰の記憶にも残らないように、できるだけ早口で言った。
「夕ちゃんの服、個性的やなあ」
 地獄のような自己紹介が終わって間もなく、隣に座った男が話しかけてくる。経済学部の三回生だということしか思い出せない。
「ありがとうございます」
 当時、ハンジローで古着を買うのがマイブームで、その日は襟元のレースがお気に入りだった青地に白でwonderfulと書かれたトレーナーに、パッチワーク・スカートを穿いていた。
 こだわりの服装であり、だからけなされていることには少しも気が付かなかった。それに、個性的というのは、私にとって何よりの褒め言葉だった。
「夕ちゃんはさあ、なんか趣味とかあるん」
 一年くらい早く生まれてきたからと、慣れ慣れしく名前を呼んでくるのも、ざっくりした質問の仕方も、何もかも気に入らなかったけれど、とりあえず笑顔で答えた。
「映画は週五で観てます」
 週に一度、TSUTAYAで、旧作を五枚千円で借りるのが、その頃のルーティンだった。
「うそ。おれもめっちゃ映画好きやねん。好きな作品とかあるん?」
「邦画やったら『ジョゼと虎と魚たち』ですかね」
 また質問の仕方に苛立ちながらも、私は答えた。
 それは私を邦画の沼に突き落とした作品だった。
「へえ、聞いたことないわ。どんな映画なん」
 喉元まで「は?」と言いかかったが、間一髪で呑み込んだ。
 確かに『ジョゼ』は最近の作品ではなかった。だが仮にも映画好きと公言するのなら、『ジョゼ』も知らないなんて、ありえない。
「説明するのは難しいんですけど、えっと……逆に、なんか最近面白かった作品とかありますか」
 あの映画の良さは、絶対に説明できない類のものだ。
 心の中で苛立ちを爆発させながらも、私はなんとか微笑みを崩さぬまま訊いた。
「最近やったら、『テルマエ・ロマエ』かな。おれ、原作も読んだけど、結構忠実に再現されてたよなー。バリ笑った」
 記憶が確かなら、昨年の映画だった。
「キャスティングは最高でしたね」
 無難な受け答えをしながら、もはや顔が引き攣るのを隠せなかった。
 決して『テルマエ・ロマエ』が悪いわけではない。
 私だって原作漫画を買って読んでいたし、それこそ彩子に誘われて映画も観に行った。阿部寛演じるルシウスが銭湯にタイムスリップしてきたシーンは最高に笑った。
 けれど、『ジョゼ』を知った上で『テルマエ・ロマエ』を語るのと、『ジョゼ』を知らないで語るのとでは、もう、なんというか、全然違うのだ。
「じゃあ、あの、最近じゃなくていいので、本当にいちばん好きな映画、教えてもらいたいです」
 言うまでもなく、ロマエ(名前を思い出せないので、心の中でそう呼ぶことにした)の好きな映画を知りたかったのではない。
 きっと私は、この怒りに似た感情を鎮めるために問いかけた。
「最近じゃなかったら、やっぱり『ジュラシック・パーク』やな」
 それは、映画好きが一位に選ぶ映画として、全く間違っていなかった。誰がなんと言おうが『ジュラシック・パーク』は名作なのだから。
 壮大なBGMとともに、博士たちの前にブラキオサウルスが登場する場面は忘れがたい。
「なるほど。マジで最高ですよね。あ、ちょっとお手洗い行ってきます」
 しかし、あの頃の私の求めていた答えではなかった。
 せめて『ショーシャンクの空に』と答えてくれたら、私は会話を続けたのかもしれない。ブルックスとからすのジェイクの絆についてや、あの美しいラストシーンについて、語ったかもしれない。
 いや、と思い直す。
 たとえどんな答えだったとしても、そんなのはただの延長措置に過ぎない。先輩というだけでいきっている上に、尖った靴を履いているこの男の名前を、私は覚える価値すら見出せないでいたのだから。
 そして『ジョゼ』を知らないと言った時点で、私の世界の住人として拒絶していた。

 お手洗いから戻ると、ロマエと彩子が、好きな芸能人の話で盛り上がっていた。おそらく、好きな映画の話を引き継ぎ、その世界一ありふれた話題に移行したのだろう。
「てか、彩子ちゃんってさ、上戸彩に似てるって言われへん?」
 その下心たっぷりの指が、彩子の下品なほど茶色い髪に触れた瞬間、私は悟った。
 ロマエは、上戸彩を目当てに『テルマエ・ロマエ』を観に行ったのだ。原作も、なんとなくネットカフェとかで読んで、『ジュラシック・パーク』も、子供の頃に金曜ロードショーで観て面白かった記憶が残っているだけに違いない。
 わざわざ確かめはしないが、絶対にそうだ。
「上戸彩なんて、そんなんはじめて言われました。あ、夕はさ、誰か好きな芸能人いる?」
 トイレから戻ってきてから、私が一言も発していないことを気にしたのではなく、あからさまな照れ隠しとして、彩子が話を振ってくる。信じられないことに、その甘ったるい喋り方から、彩子はロマエを気に入っているようだった。
「松山ケンイチ」
 板尾創路と迷ったけれど、微妙な空気になるのを察して、そう答えた。
「Lやん」
「バリなついですね」
 ふたりが、『デスノート』のポテチのくだりで異様に盛り上がるなか、『人のセックスを笑うな』の松山ケンイチだと言いたかったけれど、タイトルを言うことも、もはや全てが憚られた。
 それから私は、青りんごサワーを片手に、冷めたポテトをケチャップにつけてつまみながら、上戸彩が演じた本来登場しないキャラだったヒロインについて、ヤマザキマリ先生はどう思ったのだろうと、飲み会が終わるまで無駄に考え続けていた。
   #死ぬほどサブカル女子こじらせてた


 飲み会のあと、気が付けば彩子は、私に何も言わずロマエと消えていた。そういう、自分勝手な女であることは知っていたから、いっそのこと清々すがすがしかった。
 私が腹を立てていたのは、割り勘だったことだ。
 あの日私は、合コンなど二度と行かないことを誓った。三千円も支払って、下らない会話をして、最悪な気分になっただけだった。
 それにしても、彩子がロマエの何を気に入ったのか、私にはさっぱりわからなかった。いわゆる雰囲気イケメンではあったが、何を摂取して生きているのか不思議になるほど、中身が空っぽだった。そもそも、コンパに喜んでくるような男に、魅力を感じられない。
 相手選びのハードルが低すぎることに、羨ましささえ覚えながら、深いため息が漏れた。
 いったい人は、どういうふうに恋に落ちるのだろう。
 恋愛映画を観るたびに、恋人が欲しいという願望が生まれ、出会いを求めている自分はいるけれど、私が思う恋は、和民では生まれない気がした。
「帰ろ」
 iPhoneにイヤホンを挿し、アジカンの『Re:Re:』を流す。
 飲み会のあとは、地下鉄に乗らず、音楽を聴きながら歩いて帰るのが好きだった。
 好きな芸能人の話より、こうして夜風を浴びながら一人で音楽を聴いているほうが、よっぽど楽しいと感じる私はおかしいのだろうか。
『ジョゼ』も知らないなんて、なんて愚かで、可哀そうな人生なのだろうと思ってしまう私のほうが、世界のはみ出し者なのだろうか。
 河原町を抜けて、鴨川に下りる。イヤホンからは、くるりの『ハイウェイ』が流れ始める。

  僕が旅に出る理由はだいたい百個くらいあって
  ひとつめはここじゃどうも息も詰まりそうになった
  ふたつめは今宵の月が僕を誘っていること
  みっつめは車の免許とってもいいかな
  なんて思っていること

 何度も聴いて、覚えてしまったその歌を口ずさみながら、四条から三条へと続く鴨川沿いの道を進んでいく。
 川に反射する夜の光がきれいだった。
「ジョゼ!」
 もしもあのとき、ケーブルイヤホンじゃない、ノイズキャンセルイヤホンを嵌めていたら、私はその声に気づけなかっただろう。
 この物語が開幕することはなかっただろう。
 声がした方を振り向くと、文庫本を片手に鴨川の岸辺に座っている男の子がいた。
「それ、ジョゼ虎の主題歌やろ」
 エスニックな洋服で身を固めた男の子は、挑発的な目線――いわゆるシャフト角度で私のほうを見て、得意げにそう言った。
 同い年か、少し歳上くらいだろうか。横顔がどことなく、松山ケンイチに似ていた。
「うそ!」
 しかし、私が叫んだのは、松山ケンイチに似ていたからでも、いつの間にか大声で歌っていた『ハイウェイ』が『ジョゼ』の主題歌だと、男の子が知っていたからでもなかった。
 その男の子が、『ジョゼ』を読んでいたからだ。
 言わずもがな、映画の原作となったその短篇小説も傑作としか言いようがない。
「ジョゼ虎、好きなんですか」
 酔っているせいだろうか。それとも夜の鴨川にはそういう力があるのだろうか。気が付けば話しかけていた。
「好きじゃないやつ、いるん」
 男の子は言った。
 私は首を横に振った。
「あの、折り入って訊きたいことがあるんですけど」
 私はイヤホンを外すと、そう言いながら、岸辺に歩み寄った。
「なに」
 鼓膜に、その声と、川の音が、ダイレクトに響いた。
「自分のこと、映画好きって公言しておきながら、『ジョゼ』も知らんのって、軽く、ありえませんよね」
 誰かに共感してほしかった。
 私のことを変じゃないと、変なのは世界のほうだと、そう教えてほしかった。
 男の子は、本を閉じて、ふうと息を吐いた。
 そして、私のほうをじっと見て、深く頷いて言った。
「それは、軽くじゃなく、ありえへん」
   #あの瞬間人生はじまった


 それが私となぎの出会いだった。
「それでロマエ、最近観た映画のなかで、いちばんよかったの『テルマエ・ロマエ』って答えたんですよ。一瞬、溜め息でそうになって」
「だから、ロマエなんや。でも『ジョゼ』のくだりのあとにそれは、ため息でそうになるな。最近の邦画なら、『そして父になる』がおれはよかったけど」
「同じく。私、是枝監督の映画やったら『空気人形』が狂おしいほど好きなんですけど、観たことあります?」
「うん、観た観た。板尾さんの演技、めっちゃよかったよな」
「わかる。私あれからめっちゃ板尾さんのファンで」
 あの夜私たちは、鴨川に居座り、好きな映画について話し続けた。
 まだ七月になったばかりだというのに、本当に蒸し暑かった。でも、ふたりとも帰ろうとはしなかった。途中、喉が渇いて、ローソンに水を買いに行って、明るいところで顔を見られるのが妙に恥ずかしかったりした。
「てか君はなんで、鴨川で本なんか読んでたんですか」
 じわじわと空が白んできて、もうすぐ始発が動きはじめるというタイミングで、私は訊いた。
 そのとき、知らない男の子を、君と呼んでみたかった微かな夢が叶った。
 朝まで話し続けたのに、私たちはまだお互いの名前を知らなかった。同じような京都の賢くもバカでもない大学に通っていることも、同じ二十歳だということも。
 でもやはり、相手を知るのに、くだらない質問合戦もいらなければ、自己紹介すら必要ないのだと、私はなんだか勝ち誇った気持ちになっていた。
 それによく考えてみれば、『ジョゼ』の主人公も、クミ子という名前を勝手にほかして、恋人にジョゼと呼ばせていた。そっちのほうが素敵だからと。
「好きやねん。こうして、部屋じゃなく、夜の雑踏のなかでする読書は、誰かの物語の登場人物になれた気がするから」
 空を仰ぐように寝転がって、凪は言った。
「自分の物語じゃなくて?」
「そう。やってみたらわかるで」
 言わずもがな、あのとき凪も、サブカルをこじらせていた。
「ふうん」
 いっきに体温が上がるのを感じながら、私は凪を見下ろした。
「おれ、明日の夜もここで本読む予定やけど、来る?」
 そう誘われることを、知っていたからだ。
「来てもいいけど」
 だって私たちは探していたのだ。
 LINEの交換じゃない、私たちの物語に相応しいはじまりを。
 隣同士で座った瞬間から、こうして朝になるまで。
   #三条京阪から始発で帰った


 とびきりいい映画を観終えたあとみたいに、余韻が醒めなかった。
 電車に揺られているときも、切符を通したときも、シャンプーをしているときも、歯を磨いているときも、私はずっと凪のことを考えていた。
 ベッドに横たわり、本棚を眺めた。どの本を持っていくべきだろうか。心臓が波打って、なかなか寝付けなかった。
 凪のことを考えずにはいられなかった。
 つまるところ、完全に恋をしていた。
 昨日まで、恋のはじまり方さえ知らなかったのに、私はもう恋の全てを知っていた。

 目が覚めると、昼過ぎだった。
 五限目のただ座っていれば単位がもらえる授業だけ受けに行くと、昨日と同じ花柄のセットアップを着た彩子が話しかけてきた。
「昨日、ごめんな」
「何が」
 割り勘だったことか。それとも、何も言わずに抜け出したことか。
「え、やっぱり怒ってる? ほんまごめーん」
 その顔に謝罪の色はなかった。そして彩子が謝っているのは、割り勘だったことじゃなく、ロマエと抜け出したことだろう。
「あれからロマエとどうやったん」
 私にそう訊いてほしいからだ。
「ロマエ?」
「あ、ごめん。違う。えっと、なんて名前やっけ」
藤森ふじもりくん」
「そうそう、その人」
 名前を思い出したところで、もう私の中ではロマエだった。
 しかし昨日、あんなに悪口を並べたものの、ロマエがいなければ、あんなふうに凪と打ち解けることはなかっただろうと思えば、急にキューピッド的な神聖な存在にすら感じてきた。
「うん。ほんでな、あれから部屋行って、一緒に寝てん。朝はマクド行って朝マック食べて、めっちゃたのしかった」
「なんと。流石、モテる女は違いますなあ」
 褒めながら、バカだなと思った。
 先輩といえども、知り合ったばかりの男にすぐに股をひらくことに関してもそうだけれど、イントロもAメロもBメロも演奏しないで、いきなりサビを歌ってしまうところが、いちばんバカだと思った。
 でも私は、わざわざ彩子に説教したりしない。
 彩子は、私の世界の一時的な登場人物でしかないからだ。私はただ、大学に友達がひとりもいないという状況を回避できればよかった。彩子のバカさは、変に気取っている女子よりも面白かったし、何より彩子と一緒にいると自分がものすごく知的な人間になれた気がした。
「えへへ。部屋もめっちゃおしゃれでな、家具とかも白と黒で統一されてんねん」
 個人的には最悪な配色センスだと思ったが、口にはしなかった。
「付き合うの」
「わからんけど、たぶん。今日も会う約束してるし」
「そっか、おめでと」
 よくてセフレ止まりやなと思いながら、私は指先だけで拍手をした。
「うん。夕もはよ、彼氏つくりや」
「頑張るわ」
 彩子に凪のことは言わなかった。
 喋ってしまったら、物語が台無しになるような気がしたから。
「なあ、彩子のいちばん好きな映画って何」
 知りたかったわけじゃない。ただ、確認したかった。
「えー、そんなん急に言われてもわからへん。あ、でも、人生でいちばん泣いたんは『恋空』」
「わかる」
 私は言い、確信した。
 やっぱり世界は、同じレベルのもの同士が惹かれあうようにできているのだ。
   #セカチューは青春だったけど