訓練施設は多摩川沿いに設けられているそうで、車でなければ行きにくく、まずは事務所を訪ねた。自分で作った地図を片手に、慣れない駅で降り、コンビニや喫茶店を通り過ぎて目当てのビルを見つける。
エレベーター前で電話をすると若い女性が降りてきた。三階まであがり、フロア内の小部屋に案内される。どうぞと言われて椅子に腰かけていると、女性よりも年上だが十分若い男性が現れた。ひととおりの挨拶の後、会社のあらましや、番犬の貸し出しについて説明が始まる。会社はペットに関わる事業を手広く展開し、犬に限らず猫やハムスター、熱帯魚など、扱うジャンルは多岐にわたっているらしい。直営のペットホテルやトリミングサロンも着実に増え、訓練施設はごく最近、二ヶ所目がオープンした。
「訓練と言いましても主に二種類ありまして、家庭で飼われているわんちゃんに基本的なマナーを教えるコースと、災害救助犬などの専門技能を習得させるコースに分かれています。興味を持っていただいた番犬の貸し出しは後者になります」
照子が恐縮しながら「はあ」とうなずくと、男性は微笑んで、じっさいの犬を見てもらった方がわかりやすいでしょうと言う。
「ご不安もあると思いますが、番犬については社会的に十分意義があると自負しています。無理強いはしませんので、そこはどうぞご安心ください」
「まだ何も決めてないの。番犬を飼うなんて考えもしなかったから、未だによくわからなくて。家族にも相談してないのよ」
「犬にとって一番大事なのは信頼関係です。副島さんがわたくしどもを信頼し、会っていただく犬にも愛着が持てそうなら、前向きに検討してみてください。難しいとお思いでしたら遠慮なくそうおっしゃってください」
施設を見学し、じっさいのレンタル犬を間近で見た後、次はどうなるのだろう。
そんなこともわからないまま照子はビルから出て、会社のロゴマークの付いた乗用車に乗り込んだ。案内をしてくれた女性、名刺からすると戸田怜香がハンドルを握り、説明をしてくれた男性、武内雅文が助手席に座る。照子は後部座席。このふたりが悪い人なら誘拐されるわね、と思いながら窓からの風景を眺めた。
車は町中を出ると軽快に北上し、二十分ほどで「マキタ・トレーニングセンター」の看板を見つけた。道沿いに掲げられた案内板だ。そこからほんの五分足らずで駐車場に入る。
照子にしてみれば施設の何もかもが初めてで、好奇心がくすぐられるというより圧倒された。トレーニングウエアに身を包んだスタッフたちにも、リードにつながれた多種多様な犬たちにも、場慣れした雰囲気の飼い主たちにも、気後れするばかりだ。グラウンドからはひっきりなしにホイッスルの音がして、大型犬が疾走している。歓声や拍手に混じって、わんわんキャンキャン鳴き声が聞こえてくる。馴染めなくて、居心地が悪い。
さぞかし不安げな顔をしていたにちがいない。説明もそこそこに屋外が見渡せるテラス席へと案内された。
出された温かいお茶をありがたくいただいて照子は息をついた。
「この年で一から始めるなんんて、やっぱり無理だわ」
「副島さんをお連れしたのは、犬の飼い方を学んでもらうためではありません。ここで鍛練を積んだ犬を見てほしいからです」
ふつうは犬を飼うとしたら世話から始まる。トイレをしつけて散歩に出かけ、他の犬とのトラブルを避け、クリニックでの定期健康診断や予防接種は欠かさない。シャンプーや毛並みの手入れなどのトリミングも必要かもしれない。朝から晩まで健康に気をつけ、細々とした世話を焼くのが飼い主だ、ということくらいは門外漢でもわかる。
けれど自分はちがうのか。照子が言うと武内はうなずいた。
「副島さんにお願いする部分はそう多くありません。できうる限りわれわれが行います。犬は副島さんのお宅で暮らしますが、主が危険な目に遭わないよう、日夜、目を光らせています。今のは喩えの表現で、じっさいは鼻と耳で危険を察知します」
「ほとんどお世話をしなくても、主は私なの?」
「はい。ご紹介する犬にとって、何が何でも守るべき大事なご主人です。そこはちゃんと理解しています」
まるで白馬に跨がった騎士が、護衛役を務めてくれるような言い方だ。夢のような話だが、夢ではない証拠に利用料金が発生する。ひとり暮らしの高齢女性のもとに善意で現れるボランティアではないのだ。
その額、月に十万円。
払えば騎士は忠誠を誓ってくれるらしい。
「よろしければ候補の犬が今ちょうどおりまして、ご挨拶できればと思います。どうでしょうか」
「今ですか」
「ここに連れてくることもできますが……」
会って大丈夫だろうか。優しい物言いにくすぐられて、ついつい甘い言葉に乗ってしまいそうだ。でも逆に失望するかもしれない。熱が冷めることもありえる。会わずに帰れば都合のいい妄想に振り回されかねない。
「会ってみます」
失望なら失望でいい。おかしな夢を見るのはやめよう。
待たされること十分弱、スタッフに連れられて現れたのは、恐い顔をしたシェパード犬だった。背中から胴体にかけて黒くて、顔も墨をかぶったように黒い。お世辞にも可愛いらしいとは思えない。けれどその分、強くて賢そうだ。