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 翌日もさぞかし浮かない顔をしていたのだろう。公民館で開かれているウクレレ教室が終わったあと、お手洗いに行った帰りに若い女性の先生、安東あんどう先生から声をかけられた。若いと言っても四十代半ばだ。
「副島さん、今日はなんだか元気がなかったですね」
 誰かに聞いてほしかったので、照子は電話の件を話した。
「それは大変でしたね。ご心痛、お察しします。このところ物騒な事件が続いているので、私もひとりで家にいると不安になります。お知り合いが恐い目に遭ったなら、いっそう身近に感じてしまいますね」
「そうなの。うちだって防犯対策はしてるのよ。戸締まりも気をつけている。でも、この頃の事件は窓ガラスを割ってでも侵入して、通報された人が駆けつける前に被害が出てるでしょ。防ぎようがないわ」
「空き巣ではなく、人がいてもおかまいなしですものね」
「友だちの話からすると昼間も油断できないらしい。窓を開けて空気の入れ換えをするのも危険なのかしら」
 まさに泣きたい思いだ。庭に面した窓を少し開け、カーテン越しの微風そよかぜや日差しを楽しみながら、音楽を聴いたり雑誌を読んだりするのが至福の時間なのに。
 安東先生はいたわるような眼差まなざしを向けつつ、「そういえば」とつぶやいた。
「この前、面白い話を聞きましたよ。ああ、面白いなんて言ったら不謹慎ですけれど」
「あら、どんな?」
「私が受け持っている別のウクレレ教室で、最近、番犬と暮らし始めた人がいるんです」
「番犬?」
「その方も八十歳を超えてらして、おひとり暮らしです。それで犬を飼うとなったら大ごとですが、あらかじめ訓練された優秀なわんちゃんが、番犬を望む家に貸し出されるんですって」
 意味がわからず眉をひそめた照子に、安東先生は話を続ける。
「そういうサービスを仕事にしている会社があって、いわば、レンタル番犬です。わんちゃんは貸し出された家に住みつつ、朝晩のお散歩などは会社がやってくれます。トリミングやら予防接種といったひととおりのお世話も。貸し出されている側はお出かけなども自由で、長期間なら会社が預かってくれますし、短い時間ならお留守番ができます」
「よくわからないけど、知らない犬を家の中に入れるの?」
 照子が怪訝けげんそうな声を出すと、安東先生はよけいなことを言ったと思ったのか、苦笑いを浮かべた。
「きっと特別な例ですね。犬に慣れてない方だといろいろ抵抗もあるでしょうし」
 安東先生は話を切り上げ、また来週、元気で来てくださいねと如才じよさいなく会釈えしやくした。
 
 公民館からの帰り道、照子の頭の中には走ったり寝転んだりわんわん吠えたりと、いつになく犬の姿が行ったり来たりしていた。
 子どもの頃、年の離れた兄が子犬を拾ってきて親にせがんで飼い始めたので、まったく縁がなかったわけではない。あの犬は白っぽかったのでゆきまると名付けられ、家族みんなに可愛がられていた。
 まだ小さかった照子はじゃれつかれるのが苦手で、散歩に付き合うのも渋々だったけれど、十年もすれば雪丸もおとなしくなり、陽だまりの庭先で頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細めていた。そのときの毛並みの感触や匂いは不思議とよく覚えている。
 結婚してからは三人の子育てに忙しく、副島家で飼ったのは迷いインコとハムスターくらい。どちらも一代限りだ。
「番犬ねえ」
 家に帰ってからも、居間のソファーに腰を下ろしたきり何もする気が起きない。窓が閉まっているので昼間の熱気がこもっている。気のせいか息苦しい。いつまでこんな不自由をいられるのだろう。小さな庭の手入れも楽しみのひとつだったが、窓を開けっぱなしにして家の内外を行き来するのは危険かもしれない。
 戸締まりだけではない。訪問者にも気をつけるよう言われている。もちろんインターフォンで確認しているけれど、お届け物ですと言われて玄関ドアを開けてみたら、本物の配達員ではなかったということもありえるではないか。前にも「高橋たかはし」と名乗られ、近所の人だとばかり思って玄関先で話をしていたら、布団の押し売りだったことがある。後日、子どもたちからずいぶん叱られた。
 押し売りならまだしも、世の中はさらに物騒になっている。だからと言って、朝から晩まで警戒し続けるなんてほんとうにできるのだろうか。
「うっかりなんて誰にでもあるわよ。そのたびに怒られたり、命の危機にさらされたりしたら身が持たないわ」
 口に出して言い、目をつぶる。次男・貴宏のところの上の子、孫の巧巳たくみの姿が脳裏をよぎる。長野の高校を出ると都内の大学に入ったので、空いている二階の部屋に下宿した。途中から大学近くのアパートに移ったが、月に何度かは照子の手料理を食べに来てくれた。気が優しくて力持ちの子で、今思うと番犬のように頼もしかった。そのまま都内で就職してくれればよかったのに、長野市の教職員試験に合格してUターンした。近々、高校時代の同級生と結婚するそうだ。
 貴宏にはもうひとり男の子がいる。入れ替わりにその子が来てくれたらと期待もしたが、北陸の大学に入学した。思い通りには行かないものだ。

 翌週の火曜日、照子は公民館に向かった。シニア向けウクレレ教室は隔週の木曜日だが、安東先生は子ども向けの教室も持っている。そちらは夕方の時間なので、三時過ぎに訪ねて少し待っていると駅の方角から元気に現れた。
 玄関先で待ち構えていた照子に驚いたものの、番犬について知りたいと言うと気さくに応じてくれる。
 その夜のうちに安東先生から電話があった。レンタル番犬を利用し始めた人に、具体的な話を聞いてくれたのだ。会社の名前は「スマイルペットサービス・マキタ」。関心があるのなら事務所に問い合わせ、訓練施設を訪ねてみればいいと言われたそうだ。
 しつこい勧誘はないとの言葉を信じ、照子は翌日、教えられた番号に電話をかけた。出てきたのは女性で、話を聞きたいような、やめた方がいいような、迷う照子に見学だけでもと勧めた。柔らかな物腰で「犬がお嫌いでなければ」と言われると、雪丸がちらついて心がほぐれる。訓練されていれば、あの犬よりしっかりしているにちがいない。

 

おひとりさま日和 「リクと暮らせば」大崎梢(3/4)は、11月12日に公開予定