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 菜月が注文したアマトリチャーナが運ばれてくるまで、少々時間がかかった。
 静奈に紹介されたこの『ブラーヴォ』は人気店らしく、広めの店内は九割超えといった混雑具合だ。
 コンクール前にこれ以上邪魔しては悪いからと早めに退散してきたつもりだが、結局、静奈の教室には三十分ほどいたことになる。
 厨房近くの席で、啓子は携帯を取り出した。
 静奈と話をしている途中で、バッグの中で何度かバイブレーターが作動したのは分かっていたが、いちいち取り出すのは静奈に失礼だから、確認は後回しにしていた。
 電話とメールの着信をチェックしてみたところ、急を要する用件はなく、啓子はそっと安堵の息を吐き出した。
「ド、ソ……」
 突然、菜月がぼそりと口にした。
 何事かと、啓子は携帯の画面から顔を上げ、娘の方を見やった。
 菜月は客席と厨房を仕切るドアの方へ目を向けている。
「ラ……」
 菜月の様子を見ているうちに見当がついた。
 ドアに小さなカウベルが取り付けられていて、サーブに走る店員たちがそれを開けるたびに軽い音を鳴らしている。また、ドアのきしむ音と店員が床を踏む音も、ここまで届いてくる。
「ミ、シ……」
 この席付近で発せられるそれらの物音が、絶対音感を持った耳には、そういう音階で聞こえるらしい。
 音楽教室で同級生の才能を目の当たりにし、張り合う気持ちが頭をもたげたのかもしれない。そう考えると何だかおかしくなった。
「シ、ド……」
「ほら、冷める前に早く食べなさい。あんたの〝聴〟能力はもう分かったから」
 いまの駄洒落だじゃれに気づかなかったのか、あるいは面白くなかったのか。にこりともしない娘の方へ、アマトリチャーナの皿を押してやる。同時に再びウエイトレスがやって来て、自分がオーダーしたリガトーニがテーブルに載せられた。
「で、チューミちゃんとはどんな付き合いなの」
「一年生のとき同じ組だった。いまはクラスが別だけど。席が隣になったこともあるから、わりと仲がよかったよ」
 菜月はフォークにパスタを巻きつけた。だが、それをすぐには口に運ぼうとしなかった。
「チューミちゃんね、母さんとシズ先生がわいわいお喋りしているあいだに、こっそりわたしに話してくれたんだけど……」
 啓子は言葉を待った。
「辞めたいんだって」
「辞めたい? それは、静奈さんの教室を、ってこと?」
 ようやくパスタを口に入れ、そのついでに、といった様子で菜月は頷いた。
「チューミちゃんほどの実力だと、不満みたい。シズ先生の指導がね。いままで言い出せないでいたけど、今日、思い切って打ち明ける、って言ってた」
「そうなの……」
 だとしたら、いまごろ静奈の気持ちは千々ちぢに乱れているかもしれない。宙未という子は、すんなりと辞められるだろうか。いや、おそらく一悶着あるだろう。そんな予感がする。指導が不満――その言葉は、プライドの高い静奈には許せないのではないか。誰がここまで育てたのか、という怒りも、彼女なら感じるに違いない……。
「菜月。十月一日の夜にね、シズ先生と一緒に食事をしない?」
「いいよ」
「場所はあんたが決めて。どこかいいお店を知ってるでしょ。知らなかったら友達から聞いて探してよ。値段はちょっと高くても目をつぶってあげるから。予約もお願いね」
 そのとき、バッグの中でまた携帯が震える音がした。
 画面に表示されているのは、先ほど交換したばかりの――静奈の番号だった。
《あの子が……》
 震える声でそれだけを言ったきり、静奈は絶句した。「あの子」が宙未であることは間違いないだろう。彼女の身に何かが起きたということだ。
「すぐ行きます」
 啓子は携帯をバッグにしまい、そこから財布を取り出しながら立ち上がった。
「どうしたの」
 訊いてくる菜月の瞳孔は開いていた。いわゆる記者の目になっている。
「静奈さんの教室に戻る。あんたは来なくてもいいから。――会計をお願いね」
 菜月の手に千円札を数枚押し込んでから、足早に店を出た。
 隣のビルへ戻り、階段を駆け上がる。
 レッスン室の中央。グランドピアノのそばに、静奈と宙未はいた。
 宙未が床に倒れている。体には緋色ひいろの布が被せられていた。毛布代わりということか。普段はグランドピアノのカバーとして使っている布のようだ。
 静奈は、その布に包まれた宙未を、泣きながら抱きかかえていた。
 舞台の上で、何か物語のラストシーンが演じられているかのような光景だった。天井からのスポットライトが、二人を照らし出している。そんな錯覚をしてしまいそうな場面でもあった。
 ただ、床にはビスケットの破片が散らばっていて、その乱雑さが芝居じみた感じを払拭していた。
 よく見ると、注射器のようなものも、ピアノの脚元に転がっている。
 レッスン室に足を踏み入れたとき、背後の教室入口で足音がした。こちらの言いつけを破り、菜月がついてきたのだと分かった。
 振り向くことなく、啓子は二人の方へ駆け寄った。
「どうしたんですか」
「分からないのよっ」静奈は小刻みに首を振った。「宙未ちゃんがビスケットを食べていたら、急に苦しみ出して――」
「救急車は、もう呼びましたか?」
 この問いには頷きが返ってきた。
「一人でいたら怖くなって、電話しちゃって、まだ隣の店にいると思ったから、巻き込んじゃって、ごめんなさい」
 静奈の言葉は支離滅裂だったが、言いたいことは分かった。
「いいんです。気にしないでください」
 見たところ、宙未はもう息をしていなかった。

 

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