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 青い服を着たその女の顔には、たしかに見覚えがあった。
 相手の女の方も、歩きながら脳内にある顔の記憶を素早くサーチするような表情をしていた。
 向こうがこちらを思い出すのと、啓子が相手を思い出すのは、ほぼ同時だったようだ。
「羽角さん?」
青埜あおの先生?」
 二つの声は、ぴったりと重なる形で、互いの口から発せられた。
 黒い髪は加齢のせいか、やや白茶けて見えた。目尻の小皺も隠せていない。だが、高い鼻の美しさは健在だった。
 青埜静奈しずなはコンビニの袋を手にしていた。いかにもピアニストらしい細く長い指が持ったその袋には、何種類かの菓子が入っているようだ。
「ご無沙汰しております、先生。お元気そうでなによりです」
「こちらこそお久しぶりです。今日は授業参観でもあったんですか」
 そう言ったあと、青埜静奈の視線が斜め下に動いた。
「菜月ちゃん、だよね?」
「……そうですけど」
 菜月はまだきょとんとしている。
「ほら」啓子は脇から口を挟んだ。「青埜先生よ。小さいころのあんたにピアノを教えてくださった、あのシズ先生」
 菜月の口がようやく、ああ、という形になった。
「シズ先生っ、ごめんなさい。あんまり会ってなかったから、すっかり忘れちゃってて」
「こっちこそ、ずっと挨拶もしないで申し訳なかったね。――菜月ちゃんて、けやき中だっけ」
「そうです」
「じゃあ宍戸ししどさんと知り合いなんじゃない?」
「チューミちゃんですよね。もちろん知ってます。二年生では一番の有名人ですし」
 チューミ? 女の子だろうが、おかしな名前だ。顔がねずみに似ているからついた渾名だろうか。
「彼女はね、ここの生徒だよ。もう来ているはず。いま練習中だけど、もし時間があるなら会っていったらどうかな」
 静奈は「BMS」の看板を指さした。
「久しぶりに寄ってみたい」
 菜月は、幼児のようにこちらの袖を引っ張ってきた。
「でも、お邪魔じゃありませんか」
「とんでもないです。羽角さん、これからのご予定は?」
「この近くで、早めの夕食でもとってから帰ろうと思っていました」
「夕食ですか。だったら、そこのお店はどうかしら」
 静奈は隣のビルの一階を指さした。『トラットリア・ブラーヴォ』――イタリア料理店であることを示す看板がそこに出ている。
「でもその前に、うちの教室でちょっとお茶するぐらい、かまいませんよね」
 言うなり、静奈は菜月の肩を横から押すようにして、ビルの入口へと向かってずんずん歩き始めた。こうなっては黙ってあとをついていくしかない。
 ビルの階段を上りながら、啓子は背後から菜月に囁いた。「チューミって誰?」
「我が校の誇る天才少女」
 菜月は持っていたメモ帳に何か書き、そのページを破ってこちらに渡してよこした。「宙未」と書いてあった。読み方はおそらく「そらみ」なのだろうが、たしかにぱっと頭に浮かぶ呼称は「チューミ」だ。
 ビル二階の教室に入った。
 内装は記憶にあるものから、ちょっと変わっていた。
 教室のイメージカラーは、静奈の名字に由来する青だ。室内に置いてあるものの多くがその色で統一されている。夏はいいが、肌寒くなり始めたこの季節、もう少し暖色のインテリアを増やしてもいいような気がした。
 内部には狭い受付カウンターがあり、すぐ隣がレッスン室になっている。その作りは変わっていなかった。
 壁には防音対策が施されているに違いないが、それでも向こう側からピアノの調べが漏れ聞こえてくる。
 流れるような旋律だ。素人しろうとの耳にも、弾き手の才能が並々ならぬものだと分かった。
 静奈がレッスン室の重そうなドアを開けた。
 直後、圧倒的な音の洪水が耳に流れ込んできて、啓子は思わず立ちすくんだ。
 その音色は、力強さと軽妙さの対比が実に鮮やかだった。この世とは違う、どこか異境の世界で奏でられている音のようにも感じられた。情感がたっぷりと込められた調べに、知らず視界が涙で薄くにじんでいた。
「ショパンの幻想即興曲ね」
 曲名をそっと静奈が囁くと、旋律がぴたりと止まった。
 グランドピアノの前にいた小柄な女の子がこちらを見ている。光をよく反射する青いドレスを着ていた。チューミと渾名をつけられているらしいその子は、鼠というよりは栗鼠りすに似た、可愛らしい感じの小柄な少女だった。
「あれっ、菜月ちゃん?」
「チューミちゃん、やっぱり凄いね。こんなに近くで聴いたから、よけいに感動しちゃったよ」
 菜月は拍手をしながらピアノの方へ駆け寄っていった。
 宙未は椅子から立ち上がり、いったんこちらに会釈したあと、改めて菜月に向き直った。「今日はどうしたの?」
「実はね、わたしも昔、シズ先生に教わったことがあるんだ。四つか五つのとき」
「へえ。わたしは小二のときからここ」
 静奈が紅茶を持ってきた。レッスン室の隅に置かれたテーブルを挟んで、啓子は彼女と一緒に座った。
「もし寒いようでしたら、膝掛けにお使いください」
 静奈が青いブランケットを手に掲げてみせる。
「そらみさん、っていうんですよね、あの子」
 ブランケットを受け取りながら小声でたずねると、「ええ」と静奈は頷いた。
「素晴らしい才能ですね」
「でしょう。この教室のホープです」
 宙未の方へ細めた目を向けたまま、静奈はコンビニの袋を引き寄せた。中から菓子の包みをいくつか取り出す。
「あ、これですか?」こちらの視線に気づき、静奈は顔の向きを戻した。「練習の合間にまむおやつですよ」
 そう言いながら、彼女は袋の裏に書かれた成分表示に厳しい視線をやった。一つ一つじっくりと印刷されている文字を確認している。
「もしかして、食物アレルギーをお持ちなんですか」
「ええ。わたしじゃなくて、宙未ちゃんの方ですけどね。ピーナッツが駄目なんです。買うときにも確かめてきたんですが、念のためもう一度」
 どうやら問題はないようだった。「よし」と呟き、静奈は袋をレッスン室のキャビネットの中にしまった。
 宙未は宙未で、菜月と談笑しながら、ピアノの椅子に座ったまま休憩を取っている。
「コンクールが近いんですね」
 練習だというのに、あのようにわざわざ立派なドレスを着ているのは、できるだけ本番に近い格好で、ということだろう。
「おっしゃるとおりです。やっぱり刑事さんの推理力は違いますね」
 このとき、静奈の目に欲のようなものが走った。宙未ならコンクールで優勝を狙える。結果、教室の名前が知れ渡ることになる。そういう計算でもしているようだ。
 もう一つ、憎しみのようなものも、彼女の眼光には混じっているような気がした。嫉妬。そんな言葉が脳裏をかすめる。
 何はともあれ、私利私欲の算盤そろばんをはじいたからといって非難する気にはなれない。彼女は芸術家である一方で、経営者でもあるのだから、それは当然だろう。
 聞けば、今日はほかの生徒は全員休ませ、宙未一人に集中的にレッスンを施す予定になっているとのことだった。
「菜月も、もうちょっと根気があればよかったんですけど」
 ピアノのレッスンを辞めたのは、菜月がもう嫌だとぐずったからだった。
 だが、内心ではほっとしたものだ。静奈の指導は熱が入り過ぎて、ときどき見ていて怖くなることがあったからだ。当時から静奈は、自分のレッスン法に絶対の自信を持っていたらしい。それゆえ、妙にプライドが高いところがあった。
「菜月ちゃんには才能がありましたよ。お世辞ではなく」
「おかげさまで、絶対音感っていうんですか、ああいう能力はついたみたいです」
「よかった」
 小さな笑みを漏らし、静奈はスプーンでティーカップの縁を軽く叩いた。
 キン、と鳴ったその音に耳を澄ませたあと、彼女はすぐに「シー」と言ってみせた。いま鳴った音はドレミの音階でいうと「シ」に当たるということだろう。
「絶対音感というのは、こうやって簡単に話のタネになりますから、幼少時に音楽をやっておくのは決して損ではありません」
「本当にそう思います。警察といえば夜も仕事をしているイメージがあるかもしれませんが、実は飲み会もけっこう多いので、芸は一つでも多く身に着けておいた方がいいんですよ。ああ、わたしもピアノを習っておけばよかったな」
 二人で笑い合った。話が思いのほか弾み、帰り際に、今度、菜月と一緒に三人で食事でも、という話をどちらからともなく切り出した。
「じゃあ、十月一日の夕方あたりは、どうでしょう?」
 携帯電話の番号を交換しながら、静奈の方からそう提案してくる。
 二週間後か。啓子は手帳を見た。もし大きな事件が起きなければ、その日は非番だから大丈夫だった。