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 あれから、もう三日になる。
 田中信浩は、今夜も眠れない夜を過ごしていた。
 早い時間に酒を飲んで酔い、夜中に目が覚めて、それからはまったく眠れなくなった。
 いまも田中は、ベッドの上で一枚の名刺を眺めていた。
 いったいこの名刺は、何なのだろう。
 何かの悪い冗談なのか。それとも、本気なのか……。
 名刺はおそらく、パソコンか何かで自分で印刷したものだろう。書いてあるのは“殺し屋商会 復讐代行相談所”という奇妙な社名のようなものと、“水鳥川亜沙美”という女の名前。あとは見たこともないプロバイダーのメールアドレスと、ケイマン諸島の銀行の口座番号だけだ。他には電話番号も、住所も書いてない。
 おそらくこの女の名前も、偽名だろう。メールアドレスは海外のプロバイダーを何重にも経由するもので、おそらく日本から追跡できない仕組みになっているに違いない。そのくらいのことは、一応は大手企業の事務職にいた田中でも想像はつく。
 ケイマン諸島の銀行名をネットで調べてみると、これは実在した。女がいっていたように、クレジットカードから送金することも可能だった。カードならば、銀行の送金履歴も残らない。
 女が二万ドルを三回に分けて送金するようにいったのも、一度に一〇〇万円以下ならば日銀や財務省に届けられないからだとわかった。つまり、送金に足がつかないということだ……。
 ずさんなようであって、意外と周到だ。
 それにしても水鳥川亜沙美という女は、何者なのだろう……。
 あの女は田中の身元と、例の事故の遺族であること、そして妻の真知子が自殺したことまですべて調べ上げていた。自分が、復讐したいと願っていることも。その上で、三万ドルの報酬で“徳田敬正を殺しませんか”と持ち掛けてきた。
 馬鹿ばかしい。まるで推理小説かテレビドラマのような話だ。そんな話を、本気にする奴などいるわけがない……。
 田中が相手にせずにいると、女は料金を二万五〇〇〇ドル――さらに二万ドル――に下げると交渉してきた。もし田中が指定のケイマン諸島の口座に二万ドルを送金し、それが確認できれば、すみやかに“復讐”は実行される。一カ月以内に、あの徳田敬正はこの世から消える……。
 だが、何の保証もない。契約書があるわけでもない。
 もし自分が二万ドルを送金し、復讐が履行されなくても、それまでだ。まさか警察に騙されたと届け出るわけにもいかないし、金を取り戻すこともできない。新手の詐欺に決まっているじゃないか。
 本当に、馬鹿ばかしい。なぜこんなことで、三日も眠れない夜を過ごさなくてはならないのか……。
 田中は名刺を両手で持ち、四つに破り、ゴミ箱の中に投げ捨てた。これで、寝られる。
 だが……。
 本当は自分は、何を望んでいるのか。本気で復讐を願っているのではないのか。あの徳田敬正を、心の底から憎んでいるのではないのか。あの男を、殺してやりたいと思っているのではないのか――。
 自分の心に、正直になってみればいい。
 これからの人生、何を楽しみに生きていくのか。楽しみなんて、何もない。もしあるとすれば、あの男の死――それも処刑としての死――くらいのものだ。
 もしその望みがかなうならば、二万ドル、日本円でおよそ二〇〇万円というのは、けっして高い金額ではない。むしろ、安いのかもしれない。
 二〇〇万円くらいなら、退職金の蓄えの残りで何とかなる。誰に残すわけでもないし、これからのそう長くない人生、食うに困るわけじゃない。
 別に、金が惜しいとは思わない。ただ、騙されるのが嫌なだけだ。
 だが、あの女が嘘をいっているとも思えなかった。どことなく、直感的に、人間として信じられるような気がしたことを覚えている。それに、もし人を騙す気ならば、もっとまともな作り話を考えてくるだろう……。
 田中は、ベッドから起き上がった。
 この歳で一人になってたったひとつ良かったことは、部屋の中を片付けなくても誰にも文句をいわれなくなったことだ。普段使うようなものは、寝ながら手に届くところに何でも揃っている。
 ゴミ箱の中から、四枚の名刺の切れ端を拾って皺だらけのシーツの上に並べた。枕元の引出しからセロテープを取り出し、それを貼り付けた。老眼鏡を掛けなおし、もう一度、名刺をまじまじと眺めた。
 ひとつ、騙されてやるか……。
 たとえ騙されたとしても、これからの一カ月間、徳田の死に様を想像してわくわくしていられるのだ。ただ漫然と失意と悲しみに耐えて過ごすよりも、それだけで二〇〇万円の価値があるような気がした。
 翌日、田中信浩は、水鳥川亜沙美という女にいわれたとおりに三回に分けて、クレジットカードで指定されたケイマン諸島の口座に二万ドルを送金した。そしてその結果を、名刺に書かれたメールアドレスにメールで報告した。

〈――本日、送金が完了しました。ご確認下さい。できればその瞬間を自分の目で見てみたいのですが。よろしくお願いします。
田中信浩――〉

 翌日、返信があった。

〈――田中様。
 ありがとうございます。入金、確認いたしました。お約束の件、早々に実行に移らせていただきます。
水鳥川亜沙美――〉

 すでに何かをやり遂げたような、壮快な気分だった。これからの一カ月が、本当に楽しみになった。
 その日、田中は、久し振りにゆっくりと眠った。