第一話 復讐代行相談所



 黄昏の街を男が一人、歩いていた。
 風采の上がらぬ初老の男である。
 薄汚れたスウェットの上下に、足下は毛玉の付いた靴下を穿き、安物のサンダルを突っ掛けていた。丸めた背には、桜の散りはじめたこの季節に相応しくないキルティングの上着を羽織っていた。
 男は歩道でふと足を止め、マスクの下で何かを呟いた。
 人生なんて、そんなものだ……。
 街を行く買い物途中の主婦や学校帰りの女子高生が、訝しげに男に視線を向ける。だが、次の瞬間には男のことを忘れ、通り過ぎて行く。
 男はまた、歩き出した。丸めた背に、桜の花びらが落ちた。

 駅前の路地を抜けて、男はいつもの居酒屋の暖簾を潜った。
 早い時間なので、店に客はほとんどいなかった。いつものカウンターの隅の席に座り、いつもの酎ハイセットを店員に注文した。
 男はマスクを外して突き出しの煮物をつまみ、それを酎ハイで飲み下した。 
 別に、この店が美味いわけじゃない。手っ取り早く酔える。それだけだ。
 半分ほどに減った酎ハイのグラスを見つめながら、考える。
 どうせ人生なんて、そんなものだ……。
 桜も、この酎ハイも同じだ。花は散ればゼロになるし、酒も飲んじまえばゼロになる。
 人生だってそうだ。この世に生まれていくら真面目に頑張ったって、死ぬ時には皆、ゼロになる……。
 田中信浩たなかのぶひろの人生は、その平凡な名前に相応しく平穏で、差し障りのないものだった。
 私立だが一応は大学を卒業し、そこそこの企業に就職もした。さほど美人とはいえないまでも、優しい妻にも巡り合えた。結婚は少し遅かったが、可愛い一人娘にも恵まれた。
 自慢できるほどのものではないが、建売りの一軒家も買った。やがて娘も育ち、結婚して、初孫の顔を見ることもできた。
 あとは会社を定年で退職し、少しばかりの蓄えと年金を頼りに、つつがなく老後を送るつもりだったのだが……。
 それなのに、なぜこんなことになってしまったのか。考えるまでもない。すべてはあの“事故”が発端だった。
 田中は自分よりも二〇歳以上も歳上のたった一人の老人が起こした交通事故で、愛する一人娘の結衣ゆいと四歳になったばかりの孫を同時に失った。その一年後に、心労のあまり妻の真知子まちこも自殺した。たった一人この世に取り残された田中は、これからの人生のすべてを失った。
 それなのに“あの男”は自分の非を認めずに、裁判で無実を主張している。元官僚のエリートだか何だか知らないが、人を二人も轢き殺しておきながら逮捕さえされなかった。そして遺族である田中に対し、まともに謝罪すらしていない。
 いや、二年前のあの事故の正式な遺族は、若い妻と幼な子を殺された娘婿の高岡健太郎たかおかけんたろう君だ。マスコミや裁判、そして司法の行方を見守る社会全体が、暗黙の内にそう認めている。
 すでに娘を嫁にやった田中には、さらに妻まで失っても、遺族として悲しむ権利さえ残されていないのだ。
 自分の人生は、死ぬ前にすでにゼロになった。あとはこうして酒を飲みながら、体が腐って死ぬのを待つだけだ。
 どうせゼロなら、死ぬ前にあの男を殺してやりたい。自分の手で……。
 最近は本気で、そう思うことがある。
「すみません、田中信浩さんではありませんか」
 名前を呼ばれて、我に返った。
 視線を上げると、カウンターの隣の席に若い女が座っていた。隣とはいってもこのコロナ禍なので、椅子をひとつ空けた二つ目の席だが。
「なぜ、私の名前を……」
 田中が訊いた。グレーのスーツを着た髪の長い女だが、顔に見覚えはない。
「ちょっと、田中さんのことを調べさせていただいた者です。隣の席に移ってもかまいません?」
 女が、そういって微笑んだ。派手さはないが、かなりの美人だった。
「ええ、別にかまいません。どうぞ……」
 田中も、男だ。どんな境遇に置かれても、若い女性と話すことは嫌いではない。それに妻を亡くしてからは一人暮らしなので、人との会話にも飢えていた。
「失礼します……」
 女が店員に断わって、隣の席に移ってきた。
「もしかして、マスコミの人かな?」
 あの事故が起きてからしばらくは、新聞社や雑誌社の記者に何度か取材を申し込まれたこともある。警察からは、取材は極力受けるなといわれていたが。
「いえ、違います。改めまして、私こういう者でございます……」
 女がそういって、田中に名刺を差し出した。老眼鏡を掛けていないのでよくわからなかったが、名刺を手にした瞬間に“相談所”という文字が目に飛び込んできた。
「ああ、結婚相談所の方ですか。私が独り者であることをよく調べましたね。しかし、妻が亡くなってまだ一年しか経っていませんので、再婚なんていまはとても……」
 田中はそういって、名刺を返そうとした。
「いえ、違うんです。私は、結婚相談所の者ではありません。もう一度、名刺をよく見ていただけませんでしょうか……」
 女が、周囲をはばかるように、声を潜めた。田中は仕方なく、名刺を目から少し離して文字を読んだ。
 名刺には、こう書かれていた。

〈――殺し屋商会
     復讐代行相談所
          水鳥川亜沙美みとりがわあさみ――〉

「いったい、これは……」
 田中が、顔を上げた。
「はい。田中さんが、ある人物に復讐を望んでいるというお話を伺いまして……」
 女がそういって、おっとりと笑みを浮かべた。