第四話 ぼうきよう

 根津ねづごんげんしやからほど近いところにある、質舗しちほ岩木屋いわきや』の表は、静まり返っている。
 静まり返っていたのは表だけではなく、『岩木屋』の店の中には、緊迫した空気がピンと張り詰めていた。
 九つ(正午頃)のかねが鳴ってから、はんとき(約一時間)が過ぎた時分である。
 おかつをはじめ、あるじきちすけだいけいぞうが板張りにひざそろえている眼の前では、かまちに腰を掛けた浪人が、天井に向けた刀身をぎようしている。
 日に焼けた顔にはしわきざまれ、髪には油っ気もなくけて見えるが、四十半ばなのかもしれない。
「質屋のくせに、めいが読めぬとはなげかわしい。今一度、つかを外してなかごを見てみるか」
 血走った眼を向けた浪人が、お勝たちに怒声どせいを発した。
「いえ。わたしどもでは先ほどの銘は、なかなか読み取れませんので」
 お勝が手をついてそう言うと、
「情けない」
 浪人は吐き捨てて、ところどころしゆりのげた、古びたさやに刀身をおさめた。
 元の色がわからないくらい変色している浪人の着物もはかまも、相当情けない有り様である。
 持参していた刀袋に刀を入れてひもで結ぶと、
「明日の四つ(午前十時頃)、改めて参るゆえ、きの者をここに呼んでおくことだ」
 おどすような言葉を投げつけた浪人は、肩をそびやかして表へと出ていった。
 その途端、
「あぁあ」
 慶三が声をらした。
「慶三さん、おやめ」
 お勝がたしなめると、
「そうだよ。遠くへ去るまで気を抜いちゃいけないよ、慶三。向こうは、言いがかりをつけるたねを探すことにけてるからね」
 吉之助がそう言うと、慶三は急ぎ土間に下りて、細めに開けた障子戸から外をのぞく。
「近くに姿はありません」
 お勝と吉之助に顔を向けて、慶三はささやいた。
「あの浪人は、はなから言いがかりをつけようと、うちに来たんじゃありませんかね」
 お勝は、框の近くから帳場に戻りながらそう口にした。
「というと」
 吉之助が問いかけると、
「刻んだ銘も、はっきりと読めないように潰してあったようですし、こっちが困ってお引き取りをと、お金を出すまで毎日通って、あれこれと難題を突きつけようというやからですよ、あれは」
 お勝はそう断じた。
 浪人が去って、店の中にはやっと穏やかな空気が満ちた。
 二月も半ばを過ぎれば、ひなまつりのしろざけりが始まるのが例年のことだった。
 梅の終わり、これからは桜に移り変わろうという時節でもある。
「おいでなさいまし」
 戸の開く音を聞いたお勝が声を掛けると、
「これは珍しい」
 入ってきた二人連れの老婆を見て、顔をほころばせた。
『ごんげん長屋』の住人のおよしが、まげもののご隠居の女房であるおしげと現れたのだ。
「お勝さん、およしさんが疲れたって言うから、ほんの少し休ませてもらおうと思ってさ」
「どうぞどうぞ」
 お勝は、腰掛けるように手で框を指し示すと、二人の老婆の素性すじようを吉之助に告げた。
「それはそれは」
 吉之助は、火鉢ひばちを持ち上げると、框に腰掛けた老婆二人のそばに置いた。
「朝から谷中やなか感応寺かんのうじさんと延命院えんめいいんに行ってみたんですよ。桜を見つけに」
 およしがゆったりとした口調で声を発した。
「ほほう。それで、桜は見つかりましたか」
 吉之助が尋ねると、
「まだ早かったようで、つぼみしかありませんでしたよ」
 およしは、笑みを浮かべて返事をした。
「そりゃ残念でした。おなぐさみに、茶など差し上げましょうか」
「よく気がついたよ、慶三さん」
 お勝は、珍しく慶三をめた。
「いえいえ、もうお構いなく。こっちに来たついでに権現社にお参りしたら帰りますから」
 およしが、奥に行こうとした慶三に声を掛けて引き留めた。
「およしさんは前々からよく言ってるんだけど、根津権現社は、生まれた府中ふちゆう常陸ひたちのくにそうしやぐうたたずまいがよく似てるそうなんですよ」
 おしげがそう言うと、およしは笑顔でうなずいた。
「およしさん、生まれは常陸国でしたか」
「えぇ」
 およしは、小さな声でお勝に返事をした。
「府中だとすると、あそこには、山の斜面にかけづくりの本堂のあるお寺があると聞いたことがありますよ。京の清水寺きよみずでらのような舞台のあるお寺だとかなんとか」
 そこまで話をした吉之助が首をかしげると、
西さいこういんですね」
 およしが嬉しげに口を挟む。
「そうそう、それです。天気がよけりゃ、本堂の舞台からは、遠くかすみうら鹿島灘かしまなだまで見通せるんだそうで」
 吉之助のはずんだ声に、およしは笑顔で何度も頷いた。
「たまに、故郷に帰ることはあるんですか」
 慶三が何気なく口にすると、
「いいえ。それが、なかなか──」
 そう言うと、およしは小さな苦笑いを浮かべて膝に置いた手に眼を落とした。
「そうだ。旦那さん、さっきの浪人が口にしていた刀の目利きですが、この、およしさんのご亭主に来てもらっちゃどうでしょうね」
 お勝は、およしの亭主の彦次郎ひこじろうについて話を続けた。
 今はのみかんな、小刀などのぎを生業なりわいにしているが、以前はかたな鍛冶かじだったのだと述べた。
「明日来る浪人が、目利きがいないとなるとどんな言いがかりをつけてくるか知れませんから、彦次郎さんにその役を引き受けてもらえないかと思うんですが」
 お勝の提案に頷いた吉之助は、
「ご亭主はなんとおつしやいますかねぇ」
 身を乗り出して、およしの顔色をうかがう。
「戻ったら、うちの人に聞いておきますよ」
「ひとつ、よろしく」
 お勝が頭を下げると、吉之助と慶三もそれにならった。

 日暮れまでまだ間があるのだが、根津ねづ権現ごんげん門前町もんぜんちようかげっている。
 台地の谷間にある根津一帯は、本郷ほんごうの台地によって、西日は早々とさえぎられるが、東方の谷中の台地はまだ夕日を浴びていた。
 きや、かまどの煙の匂いが漂う『ごんげん長屋』の路地を通ったお勝が、
「ただいま」
 戸を開けて土間に足を踏み入れると、
「お帰り」
 流しの傍にじんったおこととおたえから声が掛かった。
 お勝は履物を脱ぐと、四つのはこぜんが並んだ板張りに上がる。
「おっ母さん、茶碗とはしを並べておくれ」
「はいはい」
 お琴の指示を素直に聞いて、お勝は箱の中にしまわれていた茶碗や箸、おわんをそれぞれの箱膳に並べ始める。
『岩木屋』の仕事が終わるのはいつも七つ半(午後五時頃)だから、お勝が夕餉ゆうげの支度をするには遅すぎる。その代わり、朝餉はお勝が作るというのが、この一年ばかりの習わしになっていた。
 以前は、朝餉を作るときに夕餉の分まで用意していたのだが、
「夕餉は、わたしが、ときどきお妙の手も借りて、なんとか作るよ」
 一年前の正月、十二になったお琴が突然言い出して以来、夕餉作りをまかせていた。
 お勝が茶碗などを並べ終えると、お琴とお妙が、小鉢こばちや皿に取り分けた料理を手際よく箱膳に並べる。
幸助こうすけがいないね」
 お勝が口にすると、
「幸助っ」
 なべから汁物を椀によそっていたお琴が、家の壁に向かって大声を上げた。
「なんだい」
 研ぎ屋の彦次郎とおよしの住む隣家から、幸助の声が返ってきた。
「ご飯だよ」
 壁に向かって返事をしたのは、朝の残りの飯をよそっていたお妙だ。
 彦次郎夫婦の家の戸が開け閉めされる音がしてすぐ、路地から幸助が飛び込んできた。
「座って」
 お琴から号令が掛かるやいなや、家族四人は箱膳を前に並んで座る。
「それじゃ、いただきます」
 お勝が手を合わせると、
「いただきます」
 三人の子供たちからも声が上がり、一同が箸を取った。
「幸助はお隣に何しに行ってるんだい」
 夕餉をり始めて少しった頃、お勝は何気なく口を開いた。
「何ってことはないよ」
 幸助は箸を止めずに返事をする。すると、
「このところ、幸ちゃんはお隣にびたってるのよ」
 食べ物を飲み込んだお琴が、屈託くつたくなく教えてくれた。
「へぇ」
 初耳のお勝は、単純に驚きの声を発した。
「彦次郎のおじさんが、刃物を研ぐのを見るのが面白いんだよ。切れ味の悪かった切り出しが、おじさんに研がれた途端、紙をすっと切るんだ。うん」
 感心したようにうなった幸助は、
「毎日通って、研ぎの技を身につけるつもりだよ」
 そう口にして、軽く胸をそびやかした。
うそばっかり」
 箸を持ったまま、お妙がさらりと口にした。
「何がだよ」
 むすっとした幸助が、口をとがらせる。
「お隣に行くと、およしさんからお菓子をもらえるもんだからね」
「お妙お前」
 幸助が、向かい側に座っているお妙をにらみつけたとき、
「お勝さん、いいかい」
 戸口から、聞き覚えのある声がした。
「彦次郎さん、どうぞ」
 お勝が返事をすると、戸を開けた彦次郎が土間に入ってきた。
「今聞いたら、幸助がいつもお邪魔してるそうで」
 箸を置いたお勝は、軽く頭を下げた。
「なんの。邪魔をされた覚えはありませんよ」
 彦次郎がお勝に返事をするとすぐ、
「ほら。邪魔なんかしてないんだ」
 幸助は、どうだと言わんばかりにお琴とお妙を睨みつけた。
「飯の最中にすまなかったが、およしから、『岩木屋』さんの刀の目利きのことを聞いたもんだからね」
「後でお願いに上がろうかと思ってたとこなんですよ」
 お勝は少し改まった。
「それは引き受けるが、『岩木屋』さんには、何刻なんどきに行けばいいのかね」
「昼前の四つ(午前十時頃)なんですが」
「承知しましたよ」
 笑みを浮かべた彦次郎は、軽く会釈えしやくをして路地へと出ていった。