午前六時。
 休憩室は十人以上になっている。
「ツキってあるよな」
「あるよ」
「どうして俺の車ばっかり乗るんだっていうときあるよ。一服したいなと思って信号で止まってたらコンコンって」
「ツイてるときは休んじゃだめなんだよ」
「そうそう、飯食ったらツキがなくなっちゃう」
「パタッと乗らなくなっちゃうんだから、変なもんだよな」
 ベンチに膝を立てて、一番大きな声で話をしている人に声をかけた。六十七歳、ここに来て十年になる。前は解体業の社長をしていた。百人近い従業員をかかえ、解体業者の中では五本の指に入る会社だったという。
「つぶれる前はしんどかったね」元解体業社長が顔をゆがめる。「金の工面て、やっと今月終わったと思ったら、じき来月でしょ。もうアカンなと思ったときに離婚して女房と娘を実家に帰しました」
 実家は兵庫県の明石市だという。子どもは娘ばかり三人、いま彼はひとりで暮らしている。
「会社をつぶしたときに生まれた一番下の娘が十六歳です。それがスタイリストになりたいとかいうてるらしい。今度その学校を見に、お姉ちゃんと二人で来ると電話があったんです。私の所に泊まりたいって、困ったこっちゃ」
 元解体業社長は困るどころか、目尻にしわをよせてうれしそうに笑っている。

 午前七時。
 駐車場は、ほとんどの車が戻ってきていて、黄色で埋まっている。太陽が差し込み車の屋根が白く光っている。その間を人が右に左に動いている。
 私は事務室に入る。カウンターの中の常務が、昨日の売上げの最高は七万だったと教えてくれる。誰ですかときくと、彼だよと事務室から出ていこうとする男をあごで示す。
「真面目なんだ。真面目にやれば七万ぐらいいくんだよ。前はラーメン屋だったらしいよ」
 元ラーメン屋は髪を七・三に分け、金属縁の眼鏡をかけている。銀行員みたいだ。彼は事務室を出ると水道で顔を洗う。それから休憩室に入っていき、自動販売機でコーヒーを買い、隅の方に座って飲む。みんなの話をきいて笑っている。タバコは吸わないらしい。コーヒーを飲み終わると立ち上がり、「お先に」と小さな声でいって三階に上がる。
 降りてきた元ラーメン屋は黒のオーバーコートを着て、首にグレーのマフラーを巻いている。
「売上げトップでしたね」私は彼に話しかける。
「ええ、まあ」彼はうれしそうに笑う。
 彼が駅に向かって歩くので、並んで歩きながら話すことになる。
 元ラーメン屋は四十一歳、この会社に入って一年しか経っていない。
「どうして店をやめたんですか?」
「女房が体壊しちゃってね、人雇ってやるには割り合わないし、気を遣うし、じゃ、やめようかって」
「それでタクシーの運転手に?」
「ラーメン屋の前に十年近くタクシーの運転手やってたんですよ」彼は私の方を見る。
「タクシーの運転手って、お客さんがいないと焦ってくるし、運転してて不安がこみ上げてくるんです。それがイヤでラーメン屋を始めたのに、また元に戻っちゃって」
 彼がふふと自嘲的に笑う。店を出したときの借金があるし、小学校に通っている二人の子どもの将来も考えなければならないし、いまは一銭でも多く稼ぎたいのだという。
「午前中二万、午後二万、夜三万って目標決めてやってるんです」
「目標は達成できますか」
「達成できるまで飯食わないんです。タクシーの運転手がのんびりしてて、いいっていう人もいますが、その人の事情によるんじゃないですか。月十五万でいい人はそれなりにやればいいけど、俺は四十万なきゃだめなんで必死でやってます」
「あの……」私は彼と並んで歩きはじめたときからききたいと思っていたことがあった。きいた。「食事のときはラーメン屋に入るんですか?」
「いや」元ラーメン屋は声を出して笑った。「最近はドーナッツ買って車で食べることが多いね。ラーメンは食べません。ラーメン食べると悔しくなっちゃうんで」

 午前十時。
 休憩室に入る。もう誰もいない。ストーブが燃えさかり、テレビは無音でワイドショーを映し出し、換気扇がゴーッという音をたてて回っている。私はベンチに腰を下ろす。
 様々な前職の人がいた。倒産した銀行の行員、コンビニエンスストアーの経営者、自衛隊員、瓦屋、トラックの運転手……。
「一歩表に出れば、社長みたいなもんですから」「家族のために苦労するのは当たり前だから」「みんな、なんらかの失敗してここに来てる」「お客さんがいないと焦ってくし、不安がこみ上げてくる」「くよくよしてたら病気になっちゃう」……。
 目をつぶって思い出していたら、「孤独」という言葉が浮かんだ。タクシーの運転手は会社を出たらひとりぼっちだ。客を求めて、不安とたたかいながら都会をさまよっている。この休憩室に戻ってきて、誰もが多弁になるのは、孤独なのは自分だけじゃないとわかって、ほっとするからにちがいない。

 午前十一時。
 二十四日朝から一昼夜働いた人たちはすべて家に帰った。二十五日朝からの車もすべて出かけた。駐車場はがらんとしている。真っ青な冬空が広がっている。整備場からときどきカーン、カーンという音がする。