休憩室を出る。駐車場の端にあるプレハブに灯りが点っている。労働組合の部屋だ。私はノックをして入る。日に焼けた顔に白い縁の眼鏡をかけた男がいる。組合の委員長だ。
五十二歳、この会社にきて十五年になる。
タクシー業界は失業対策的な面があって、昔も今も会社をクビになった人を受け入れている。二十年前、組合員の平均年収は七百万円くらいだったのが、現在では三百万円程度に下がっているという。
「ところで」と委員長は、ボーッと話をきいていた私の顔を見ていう。「どんな取材できてるんですか?」
「ああ、あの……」私は答える。「タクシー運転手の喜びや悲しみについて知りたいっていうか……」
「私の個人的な感じなんですけど」委員長が駐車場の方を見る。「みんな、なんらかの失敗をしてここに来てます。そんなこと誰も話しませんし、組合としてもきいたりはしませんけど」
委員長は立ち上がると、インスタントコーヒーを淹れ、私と自分の前に置く。
「いただきます」私は一口飲む。「委員長の失敗は何ですか?」
「昔のことです」
「ええ」
「ギャンブルです」
委員長は麻雀に狂い、借金をつくり、家庭を壊したのだという。
「ごめんねといいながら、金をかき集めて、夜中タクシーに乗って雀荘に行った。ひどいですよ」委員長がいう。
「なんでそれほどのめり込んだんですか」私がきく。
「地獄を見たかった」彼が真剣な目つきで私を見る。「行くとこまで行ってみたい、破滅したいという気持ちがあった」
「……」私は無頼派という言葉を思い浮かべている。「地獄を見ましたか」
委員長がにやっと笑う。「上原さんはギャンブルやりますか?」
「いえ」
「やったことのない人にはわからないと思います」
私が家庭を壊したいきさつを詳しくきこうとすると、
「これ以上は勘弁して下さい」といい、少しこわい顔になった。「思い出すと自分が許せなくなるんです」
午前五時。
休憩室のメンバーは入れ替わっていて、八人になっている。
「あーあ、今年も終わりかよ」
「大井は二十九日か」
「二十八日かなんかナイターやるんですよね」
「三十一日じゃなかった?」
「今年の有馬記念はわかんないよね」
「むずかしい。ブエナがどうかってことだな」
競馬の話題で盛り上がっている。
二十四日の朝、出かけるときに、アルコールチェックに引っかかって、歯を磨いて、もう一度検査をした男が戻ってきた。私は話しかけた。
「ああ、あれ」男が頭をかく。「夜飲んだ酒がちょこっと残ってたんだね」
男は五十五歳、青森県の警察官だったという。
妻がカードで膨大な借金を作ったために協議離婚した。二人いた娘は妻がひきとった警察にいられなくなり辞めて、青森でタクシーの運転手をした。その後、友だちの紹介で再婚した。相手も再婚で二人の子どもがいた。
前の娘たちの養育費を払わなければならないし、今の子どもたちの教育費も必要で、青森での稼ぎでは足りなくなり、関東地方に出稼ぎに来た。日産自動車の栃木工場で一年働き、東京の警備会社に二年いて、それからこのタクシー会社に入った。いま一年目だ。会社の寮に住んでいる。家賃は一カ月一万三千円。同じ部屋に三人で暮らしている。勤務時間がずれているので、あまりいっしょにはならない。
青森には二、三年に一回しか帰らない。妻から電話があるのはお金が足りなくなったときだけだ。彼の楽しみは、部屋でテレビを観ながら酒を飲むことで、給料のほとんどを妻に送っているという。
「むなしくないですか」私がきく。
「家族のために苦労するのは当たり前だから」青森は目をへの字にして笑う。「それがなかったら、酒飲みすぎたりして、もっと早く死んじゃってるんじゃないですか」
「親孝行したかった」青森がぼそっという。彼の両親は亡くなってもういない。
「親父は」青森がいう。「出稼ぎでトンネル工事に行ってた。特急日本海で親父を見送るとき、さびしかったな。結局、自分も親父と同じようなことしてる。なんかなあ……」
エッセイ・コラム
晴れた日にかなしみの一つ
新婚の息子をひき逃げ事故で亡くした父親、希望退職を迫られた会社員が胸にしのばせるお守り、アルコール依存症の母親を許せなかった息子の後悔、夭折した部下に元上司が送り続けるファクス……あなたの隣にいるかもしれない、“普通の人々”が心の中に持つ特別なドラマ。人は苦難に陥ったとき、何を心の杖として立ち上がるのか。暗闇に希望の灯りがともる瞬間を切り取った珠玉のノンフィクション・コラム。(『こんな日もあるさ』を改題して文庫化)
第2回 タクシー会社25時(2/3)
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