「火曜日なんて最初のお客乗せるまでに一時間だよ、やんなっちゃった」
「そんなの最近じゃ普通だよ」
「この分じゃ給料日、がっくりきそうだな」
「くよくよしてたら病気になっちゃうぞ」
「なるようにしかならないんだからさ」
「母ちゃんに、あんた何してんのよっていわれて自殺したヤツいたからな」
「ローンかかえてたんだろう?」
「酒の勢いでマンションから飛び降りたってきいた」
「奥さんもな、しっかりしろったって、この商売はしょうがねえんだよ」
「お客さんが金額のはるとこに行ってくれないとさ」
「そんな客いまどきいないだろ」
ここはタクシー会社の休憩室。ストーブがガンガンと焚たかれ、スタンド式の大きな灰皿があり、音を消したテレビが天気予報を映し、換気扇が音をたてて回っている。十人前後の男たちがコーヒーカップを手にタバコを吸いながらおしゃべりをしている。
十二月二十四日の朝から二十五日の朝まで、私は都心にあるタクシー会社を取材した。
二十四日午前六時。
空はまだ暗い。黄色の車が次々に駐車場に入ってくる。駐車場は小学校のグラウンドぐらいの広さで、半分くらいが車で埋まっている。
駐車場を囲むように三階建ての建物がLの字に建っている。Lの字の横の線のところに事務室があり、縦の線が整備場になっていて、直角のところに休憩室がある。
管理事務の人たちが出勤してきて、事務室の中が活気づく。運転手たちもひとり、ふたりとやってきては事務室を覗いて、休憩室の横の階段を登っていく。
「うっす!」真っ赤なニット帽にミッキーマウスの模様のセーターを着た男が挨拶をする。
「おはよう」事務室のカウンター内の人たちが答える。
階段を上がるミッキーについていく。歳をきくと、六十六歳、この会社に四十六年勤めているという。三階に上がり、ドアを開ける。更衣室だ。
「うっす!」ミッキーはブーツを脱いでカーペットの床に上がる。自分のロッカーから制服を持ってきて、広いところにドサッと置く。近くのロッカーで一昼夜働いて戻ってきた若い男が着替えている。
「昨日はどうだった?」ミッキーがきく。
「ダメですね。今日はイブだからいいんじゃないですか」若い男が靴下をはきながらいう。
「どうかな、不景気でクリスマスはみんな家でやるらしいよ。昔はさ、パー券買って、三角帽子かぶってやってたんだよな」ミッキーが持ってきた荷物を置く。
「それ弁当ですか?」私がきく。
「そうだよ。全部自分で作ってんだ。女房に先立たれるとたいへんなんだよ」
「亡くなられて何年ですか?」
「一年半だよ」
「じゃ、お先に」キャップをかぶった若い男が更衣室を出ていく。
ミッキーはワイシャツを着て紺とグレーのレジメンタルタイを結び、紺のズボンをはいてグリーンのブレザーをはおる。これが制服。ミッキーがロッカーにセーターをしまっている。
「そのセーターと帽子、クリスマスイブだからですか」私がきく。
ミッキーがうなずいてニコッと笑う。
着替えた運転手は事務室に行き、タイムカードを押す。カウンター内の人に運転免許証を見せ、ストローを口にくわえてアルコールチェッカーに息を吹き込む。問題ないと「乗務記録書」を渡される。両替機で五千円分を百円玉に替える。それらを透明のビニール袋に入れ、事務室を出て、休憩室の横のボードの名札をひっくり返す。その上に「本日の売上げ目標¥五三〇〇〇」と書かれた黒板がある。
リン! リーン! ベルが鳴る。
「点呼!」と管理事務の若い男が叫ぶ。制服を着た運転手たちがぞろぞろと事務室前に集まってくる。
点呼の後、体操を行い、全員で唱和する。
「どうぞ、どちらまでまいりますか」「お忘れ物はございませんか」「ありがとうございます」
常務がみんなの前に立つ。オートバイとの接触事故の注意やスピード違反の取締をしている道路情報などを伝えてから、こういう。
「『運転手がガムをくちゃくちゃ噛んでて態度悪い』って脅しに近い電話がかかってきました。眠気を覚ますためにガムを噛むのはいいのですが、こわもてのお客様が乗ってきたらすぐに飲み込んで下さい。以上」
運転手たちは自分の車に向かって歩いていく。
空は白くなり、駐車場は戻ってきた車でいっぱいだ。
整備の人が前に立って一台一台門まで誘導していく。常務が黄色の旗を持って門の前の道路に立ち、交通整理をしている。門を出た黄色の車は、一般車の列に加わり、すーっと遠ざかっていく。こうして、第一陣二十三台が出発した。
この後、同じように八時に第二陣、九時に第三陣と出ていった。
出ていった車が戻ってくるのは二十五日の午前四時頃だ。タクシー運転手は一昼夜働くと、翌日の一昼夜を休む。休んでいる間、同じ車は別の運転手が乗っている。この会社の車は九十五台、事務職員も含めて従業員は二百六十名、タクシー業界の中では中堅だ。
私は街に出て時間をつぶし、夕食後に戻ってきて、仮眠室で寝た。
二十五日午前四時。
携帯電話の目覚ましで起き、顔を洗って外に出た。空は真っ暗。星が見える。空気は耳が痛くなるほど冷たい。事務室の蛍光灯の明かりが駐車場にこぼれている。黄色の車が一台、二台とゆっくりと戻ってくる。夜の光の中で車体がキラキラと輝いている。
長靴を履いて、ホースを手に車を洗っている男がいる。話をきくと、運転手だが、早く帰ってきて他人の車も洗っていて、一台につき千円で請け負っているのだという。そう話す男の息が白い。
私は事務室に入っていき、カウンターの中にいる宿直の事務職員に挨拶をする。戻ってきた運転手はタイムカードを押し、運行記録を書き、売上げの精算をする。三人の運転手が黙々と作業をしている。
事務室を出て、休憩室に入る。ムッとする温かさだ。三人の運転手がタバコを吸っている。
「どうでしたか」私がきく。
「いやー、ひどかったね」
「いないもんね」
「お客がいるときは疲れないけど、いないと疲れるな」
「途中で何回も寝たよ。やだなー、もう帰りたいなと思って」
「最近、ぶっそうだから、この時間帯であがることにしてるんだ」
「危険なのは三時から四時ね、マスクをかけて帽子かぶってたら止めないよ」
ドーナッツ型の座ぶとんをかかえている男がいる。話しかけた。
座ぶとんは六十一歳、ここにきてまだ半年だ。前はオフィス機器のリース会社の営業だった。去年突然、自分より若い上司に、嘱託で残るか退職するか決めてほしいといわれた。リストラだと思った。長年勤めてきたのに、会社の冷たい仕打ちに腹が立った。妻と相談して退職した。
「毎週毎週の営業ノルマがつらかったですね」座ぶとんが眉根にしわをよせる。
「タクシー運転手になってどうですか」私がきく。
「楽です」彼が笑う。「一歩表に出れば、自分が社長みたいなもんですからね。ただ、お客さんともめようと何しようと、自分ひとりの力でさばいて、帰って来なきゃいけないってことはありますけど」
「それは?」私が座ぶとんを指差す。
「痔なんです」彼が座ぶとんの上に座って見せる。「手放せないんですよ。長時間座ってる仕事だから」
エッセイ・コラム
晴れた日にかなしみの一つ
新婚の息子をひき逃げ事故で亡くした父親、希望退職を迫られた会社員が胸にしのばせるお守り、アルコール依存症の母親を許せなかった息子の後悔、夭折した部下に元上司が送り続けるファクス……あなたの隣にいるかもしれない、“普通の人々”が心の中に持つ特別なドラマ。人は苦難に陥ったとき、何を心の杖として立ち上がるのか。暗闇に希望の灯りがともる瞬間を切り取った珠玉のノンフィクション・コラム。(『こんな日もあるさ』を改題して文庫化)
第1回 タクシー会社25時(1/3)
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