今日だけで三人目。夏休みになると、ライトなユーザーがどっと増える。
プレイルームに入ってきたのは、不安そうな母親と、見た目は二歳くらいの女の子。ということは、実年齢はそれに二年プラスして四、五歳というところかな。母親の手をぎゅっと握ったまま女の子は涙ぐんでいる。母親のほうも、「大丈夫、大丈夫」と声をかけながらも、表情は硬い。
まったくおおげさなやつらだ。お前らがここで過ごす日々なんて、たかが知れてるじゃん。午前中だけ薬飲んで点滴して、何度か採血。午後は遊んで過ごせるし、何より三日で帰れる。それに、結果がどう出たって、手術や長期入院なんていう深刻な事態にはならないんだから。
そうだけど、初めての入院は緊張するよな。幼稚園児だもん。しかたないか。
ぼくは乱雑におもちゃが突っ込まれた大きな箱から、レジスターのおもちゃを引っ張りだしてきた。幅広い年齢の子どもが喜び、男女問わず食いつくおもちゃ。そして、電池が入っていてまともに動く、このプレイルームでは数少ないおもちゃでもある。レジスターを女の子の前に置いて、ままごとのリンゴやら魚やらをスキャンしてみせる。ピッという電子音に女の子は目をみはる。病院に来た不安と魅力的なおもちゃの間で女の子は揺れている。よし、もう一押しだな。合計ボタンを押す。チャラララーンという陽気な音楽が鳴り、女の子はママの顔をじっと見つめた。遊びたいという合図だ。
「どうぞ」
ぼくはままごとのリンゴを手渡し、レジスターを女の子の正面に向けてやった。女の子はさっそくあれこれレジスターでスキャンし始めた。
「お兄ちゃんありがとう」
母親はぼくに深々と頭を下げた。
「いいえ」
ぼくはにこっと笑ってみせるとプレイルームの窓側に設置された椅子に座った。
時間はまだ九時過ぎ。また、長い長い終わりの見えない一日が始まる。
五年前に改築された県立病院は、設備も新しく、廊下は絨毯敷きで窓も大きくホテルみたいにきれいな病院だ。小児科の入院病棟は東棟と西棟に分けられていて、重病患者は西棟に、ここ東棟にはぼくのような経過観察をしている患者や、検査入院の子どもたちが滞在している。
東棟には、入院中の子どもが遊べるよう大きなプレイルームがある。学校の教室くらい広くてきれいな部屋で、窓がたくさんあって明るく、机と椅子が置いてあり、奥のスペースにはマットが敷かれていて小さい子どもたちはそこで遊んでいる。病室は狭いから、食事や治療の時間以外はだいたいみんなこのプレイルームで過ごす。この病院の中では、一番外に近い場所に思えて、ぼくもほぼ一日中ここにいる。
ぼくが入院して一ヶ月と七日が経った。小学三年生になったゴールデンウィーク明けくらいから、なぜか足にあざができるようになったからだ。それも一つや二つじゃない。最初は気のせいかと思っていたけど、あざが消えないし、ぶつけてもいないのにおかしいと、お母さんに近くの病院に連れていかれた。小さな病院では原因がわからず、いくつか小児科をめぐって、最終的にこの病院にたどり着いた。入院して二週間ほどは、骨髄検査や血液検査があり西棟で過ごした。検査で血小板が少ないことがわかり、七月の初めから薬で様子を見る段階となって東棟に移動した。
西棟とは違い、東棟には重い空気はない。体に機械を付けたまま動かない子ども、慌てて運ばれてくる新生児。小学三年生のぼくでも目を閉じて、「どうか助けてあげてください」と反射的に祈る場面が、西棟には日常的にあった。だけど、ここ東棟では死の怖さは隣にはない。この病院は県内唯一の内分泌系の小児科専門医がいて、病気の子どもより低身長の検査入院で来る患者が多いからだ。特に夏休みに入ってからは、検査入院の子どもばかりになった。
ぼくが東棟に来て、三週間以上。低身長検査の子どもを二十人以上は見ているから、検査についても詳しくなった。
低身長の検査は、二泊三日入院し、MRIをとり、薬を飲んで数十分おきに採血をする。それで分泌されている成長ホルモンの量を見て、治療できるかどうか決まるというものらしい。身長が低くても、治療可能の値が出る確率は低いようで、何度も検査をし直しに来る子どももいるそうだ。
検査と言っても、治療できるかどうかを調べるだけで、病気の有無を調べるわけではないから、気楽なものだ。そのうえ検査は午前中だけで、午後はフリーだ。空いている時間はだいたいみんなプレイルームで遊んでいる。そして、三日目の昼過ぎには退院。かなりライトな入院なのだけど、病院に泊まるということ自体が、子どもにとっても親にとってもハードルが高いようで、みんなたいそうな顔つきでやってくる。
最初はそれが心底うっとうしかった。たかが検査で重々しい空気出すなよ。こっちは何倍も入院してるんだ。採血で泣くなって。骨髄検査してみろ。正真正銘の病気を味わってみればいいんだと、やつらを見下していた。だから、プレイルームのおもちゃを独占したり、「うわ、小せえ」と驚いたふりしてつぶやいたりした。
でも、十日も経たないうちに、それに飽き飽きした。意地悪はつまらないものなのだ。どれだけ攻撃したところで、相手はけろりと二泊三日で帰っていく。ダメージを与えたところで、ぼくの惨敗だ。
次にぼくは同情を集める作戦に出た。咳をしたりしんどそうにふるまったりして、「早く退院したいな」などとささやいた。すると、やつらは親子そろって申し訳なさそうにする。どんな攻撃より効果的ではあったけど、それは三日も経たないうちにやめにした。「大丈夫?」と聞かれているうちに、本当にしんどくなりそうになってきたからだ。また骨髄検査を受けるのだけは勘弁だ。
さっさと退院していくやつらに苛立ちを持っているだけで、そもそもぼくはそこまで悪い人間ではない。どうせならいいやつでいるほうがいいのかもしれない。たいした力を持ってないだろう神様も、いいことしているほうが退院を早めてくれるだろう。だから、ここ最近、ぼくは小児科東棟のスーパーバイザーとして動くことにしている。
低身長の検査入院は二泊三日で終わるせいなのか、みんな完全に受け身で、病院をよりよく滞在できる場所にしようとしない。患者ではあるけど客でもあるという気構えで病院は利用すべきだ。それなのに、三日間肩身の狭いまま、緊張したまま、不安なまま、過ごす。医者や看護師が患者に与えるプレッシャーってすごいんだよなあ。金払ってるんだから、堂々としてればいいのにとは思うけど、そうはいかないのが病院なのだ。ぼくだって、機嫌損ねて採血失敗されて何度も針刺されるのはいやだから、看護師さんにはにこやかに接しているけれど。
「もうすぐMRIですよね? さっき、二人目の男の子が検査室に行ったみたいだから、もう少ししたら看護師さんが呼びに来ると思います」
レジスターで夢中で遊ぶ女の子を眺めながらも、落ち着きなく座ったり立ったりを繰り返す母親にぼくはそう言った。
「そうなんだ。ありがとう。よく知ってるね」
「はい。入院長いから」
ぼくの答えに母親は「あ、そうなんだ……」と困ったように微笑んだ。
この病院は月曜日と水曜日が低身長検査の入院初日となっていて、初日の午前中にMRIの検査を受ける。検査を受けるのはだいたい三歳から小学校一年生くらいの子どもだから、眠たくなる薬を飲んで熟睡してから機械に入る。そして、その日の夕方に腕の血管に採血用の管を刺す。検査で採血を何度もするから管を入れておいて、そこから血を抜くのだ。そして、二日目と三日目の午前中、薬を服用して朝から二十分おきに血を抜く。管から採血するだけだから特に痛みはないようだけど、午前中は絶飲絶食なのがつらそうだ。三日目の午前中で検査は終了で、そのまま退院。これがだいたいのスケジュールだ。
入院中、看護師が付きっきりなんてことはなく、患者は意外と放っておかれる。ぼくはその状況に慣れているけど、入院したての人はどうすればいいのかわからなくて不安なようだ。次に何があるのか。今、何をしていればいいのか。それを告げるだけで、相手がものすごく安心するというのをこのプレイルームで知った。
「たぶん、十時過ぎくらいになったら部屋に戻って薬飲むように言われるんじゃないかな。それまで遊んでて大丈夫だと思います」
ぼくが言うと、母親はふっと小さく息を吐いてから笑った。
「ごめんね。ドキドキしちゃって……」
「いえ。大丈夫です」
「えっと、お兄ちゃんは……」
母親が小さく首をかしげるので、ぼくは「高倉瑛介です」と答えた。
「しっかりしてるんだね。いくつ?」
「八歳です。小学三年生です」
ぼくは年齢を学年付きでしっかりと答えた。この情報はちゃんと伝えなくてはいけない。
「そっか。そうなんだね」
「はい」
そううなずくと、ぼくはさりげなく双眼鏡のおもちゃを手に取り、窓の外に向けた。
「何か見える?」
母親が聞いてくる。
「いえ。おもちゃなんで何も見えないんだけど」
「ああ、そうか」
「でも、外、遠くまで見れたらなって」
「そうだね」
母親はしんみりとうなずいて、子どものほうに顔を向けた。
「本物の双眼鏡、欲しいな」とつぶやこうかと思ったけど、それはやめにした。あんまり言いすぎるとがめつい感じがする。大人は察して贈るのが好きなのだ。
ごくたまに、検査入院をしていた親子から、退院後にぼくに贈り物が届くことがある。ただ、レゴやプラレールなど、ぼくより小さな子どもに向けたおもちゃが多い。自分の子どもの年齢につい合わせてしまうのだろう。どうせなら欲しいものをもらわなくてはお互いよくない。
だから、今では年齢を確実に告げ、欲しいものをそれとなくアピールするようになった。
双眼鏡で、開かない窓の外に目をやる。おもちゃの双眼鏡越しに見えるのは、何も変わらない景色。大きな総合病院は、街から離れた場所にあって、窓の外はだだっ広い駐車場と小高い丘だけ。今年は記録的な猛暑だと言われているが、空調が完備された病棟からはそれすらもわからなかった。
小説
夏の体温
瀬尾まいこさんの最新作『夏の体温』は、「出会い」がもたらす「奇跡」を描いた3編を収録。いずれもある出会いがきっかけで、主人公が抱くちょっとビターな想いがあたたかく解きほぐされる物語だ。
表題作「夏の体温」の主人公・瑛介は、検査入院で1ヶ月以上も病院に閉じ込められていた。遊び盛りの小学生にとって、退屈な毎日はいらいらも募る。そんな瑛介の生活に大きな変化が訪れようとしていた──。瑛介が味わうかけがえのないひと夏の経験。その始まりを予感させる冒頭を公開!
夏の体温(1/2)
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