「おはよー」
 八月四日水曜日。プレイルームの日めくりカレンダーをめくっていると、三園みそのさんが入って
きた。
 病院には保育士の三園さんがいて、朝の九時から五時まではプレイルームや保育室にいる。
三園さんは何かを教えるわけじゃなく、ただぼくたちを見ているだけだ。もう五十歳は過ぎているだろうか。三園さんはおっとりとしていて、「たぶん大丈夫」が口癖のおばちゃんだ。
 ぼくは週に二日、採血をするけれど、その時にも「あーすぐ終わるよ。たぶん大丈夫ー」と言うし、検査結果を聞きにいく前も「ま、たぶん大丈夫なんじゃないかなー」と言う。たぶんって、なんだ。結局、大丈夫かどうかわからないじゃないかと思うけど、ぽっちゃりした三園さんの丸い声で「大丈夫」と言われると、ほんの少し安心する。三園さんの大丈夫は「たぶん」付きでも、本物の気がするのだ。
 お母さんもよく「大丈夫」と言っていた。あざが次々できて消えなくなった時も、家の近所の小児科をいくつか回り、隣の市の小児科、大きな病院、そしてこの県立病院にたどり着くまでも、何度も何度も「大丈夫。大丈夫だよ」とぼくの耳元で言っていた。だけど、その言葉を聞くたび、次に待っているのはなんだろうとぼくは怖くなった。
 この病院に来た時は採血だけで泣き叫んで逃れようとしていた。でも、その上があるのだ。麻酔を打たれて機械に入ったり、骨髄検査を受けたりした。ぼくは麻酔や薬の副作用を受けやすい体質らしく、検査のたびに体が参った。半分起きているような、意識があるようなないような、それでいて体が動かない状態。痛みより、それが怖かった。ふわふわと熱があるようにうなされていて、自分がどうなっていくのかわからない感覚。「助けてー」と叫んでいるつもりなのに、体のどこにも力が入らず声にならない。眠りなのか、だるさや苦しみなのか、よくわからないものに呑み込まれるように意識が遠のいていく。ぼくはまたここに戻ってこられるのだろうか。その不安のまま意識が消えていく。それが何よりも怖かった。
 ああ、やだやだ。ぼくは検査漬けの日々を思い出して身震いした。ここは東棟だ。もう怖いことはない。ここで血小板の数が増えれば、退院できる。大丈夫だ。自分にそう言い聞かせていると、
「お母さんは?」
 と三園さんに聞かれた。
「今日は用事があるって、いつもより早く出て行った。昼過ぎに戻ってくるかな」
「そっか。そりゃ、忙しいよねー」
 三園さんはそう言って、エプロンをつけた。
 いつもお母さんは九時過ぎに三園さんに挨拶してから家に戻り、昼食の時に病院に来て、そのままぼくの病室に泊まる。前までは土日にお父さんと交代するまで、病院から一歩も外に出なかったけれど、今では午前中は家に帰るようになった。日中は三園さんもいるし、いざという時には看護師さんもいる。検査がある日以外は、お母さんがいる必要はない。
 最初はお母さんが帰ることをずるいと思った。ここでぼくが死ぬほどの退屈を味わっている時に、外に出られるなんて不公平だって。病気でしんどいのはぼくなのに、お母さんだけ自由だなんてありえないって。
 でも、三園さんは、
「じっとそばにいられるより、外に出てもらったほうが瑛介君も気楽じゃない? たぶん、大丈夫だよ、ね。うん、五時まで私がいるし、どうぞ行って行ってー」
 とお母さんに外出を勧めてしまった。
 これは大正解だった。
 ここに閉じ込められて同じ時間を共に送っているのだ。お母さんと話すことはもうほとんどなかった。みっちり一緒にいるのは相当の息苦しさだったと、離れてみてわかった。それに、お母さんが外に出れば、病院の売店では売っていないお菓子やおもちゃも買ってもらえる。未いまだにお母さんは申し訳なさそうに出て行くけど、ぼくはお母さんの外出には大賛成だった。
 病気もつらい。検査も治療もしんどい。でも、元気な体でここに閉じ込められる苦しさもある。適温できれいな病室。それなのに、ここには動かない空気しかない。外の空気に触れたい。歩ける足が、伸ばせる手があるのだから、今吹いている風に触れてみたい。そう思うのは当然だ。
「あ、れいかちゃんおはようー。今日で検査終わりだね」
 低身長検査の親子がプレイルームに入ってきて、三園さんが声をかけた。月曜に入院した低身長の子どもたちは、水曜日の今日が退院だ。
「ええ。もうあと三時間の辛抱です」
 母親はほっとした顔でそう言ってから、退院を喜ぶのはぼくに悪いと思ったのか、「あ、えっと、どうやら外はずいぶん暑いみたいですね」
 と慌てて話を変えた。
「そうそう。昨日は熱中症で運ばれた患者が過去最高だったって」
 三園さんはプレイルームのテレビをつけた。
 テレビから流れるニュースは、記録的な猛暑だ、命の危険がある暑さだから不要な外出を控えるように、などと緊迫感のある声で伝えている。
「異常気象ですよね。昨日は突然、大雨降ったし」
「ああ、すごい雨でしたね」
 プレイルームにやってきたもう一組の親子も、会話に加わった。
 検査入院も午前中で終わりとなる子どもたちは、採血用の管を左腕に刺したままでおもちゃを自由に取り出し遊んでいる。管を刺された直後は腕を動かしにくそうにしていたり、外したいと訴えていたりしたのに、二日目には違和感なく腕を使っている。子どもって本当にすぐに慣れるんだよな。ぼくも同じ、ここでの生活が日常となった。そして、慣れた分、退屈で先が見えなくて途方に暮れてしまっている。
「去年涼しかった分、こたえますよね」
「本当に」
「エアコン代もばかにならないなあ」
「外では遊べないし、休み中は子どもとショッピングモールをうろうろすることになりそうですよね」
 二人の母親はずっと天気について話している。ぼくたち子どもは、天気の話なんてしないけれど、これほど便利な話題はないと、ここで知った。
 病院で出会ったとなると、どこまで相手のことに踏み込んでいいかわからない。暗くなる会話もタブーだし、ぼくがここにいる手前か、外の話は避けたほうがいいと思うようだ。誰も傷つけずに誰でもわかる天気は、ちょうどいいテーマみたいだ。今年のこの暑さは、みんなに話題をせっせと提供してくれている。
「こっちに、太鼓もあるよ」
 女の子たちがピアノのおもちゃを取り合っていたから、ぼくは棚の奥から太鼓のおもちゃを出してきた。
「わたしたたく!」
「わたし先だよー」
 さっきまでピアノを弾きたがっていたくせに、今度は二人とも太鼓のおもちゃを奪い合っている。
「じゃあ、こっちは?」
 ドレッサーのおもちゃを出してくると、二人とも「わたしが先に使う」と主張する。女の子っていうのは、どうしようもない。
「ごめんねー。わがままで」
「自己主張が強くって、うちの子」
 母親たちはそう言いながら、子どもたちに「ほら順番しないと」と注意をし、
「お兄ちゃんは優しいね」
 とついでにぼくを褒めてくれた。
 ぼくは優しくはないし、それこそわがままだ。ベイブレード、ゲーム、アニメのカード。欲しいと言えば、その週のうちに手に入った。
 帰りたい、しんどい、もう嫌だ。そう言えば、「そうだね、しんどいよね」「もう少しがんばろう」とお母さんが穏やかな声でなぐさめ、願いを聞いてくれる。
 入院前は欲しいものなんてクリスマスか誕生日にしかもらえなかったし、しんどいと言ったって「ぐずぐず言わないの」と怒られていた。
 なんでもOKになると、わがままは成り立たない。それに、どれだけ買ってもらっても、欲しいものを手に入れた気分にはなれなかった。許されることが増えることは、本当は悲しいことなのかもしれない。
「そうそう、大ニュースがあるよ」
 女の子たちが採血の時間になり、三園さんはぼくに近づいてそう言った。
「何?」
「今日の夕方から小学三年生の男の子が検査入院するんだって。瑛介君と同じ学年だよね」
 小学三年生。しかも男子。三園さんの報告に、ぼくは体全部を使って「やったー」と叫びそうになった。これはビッグプレゼントだ。
 低身長は三歳半検診で指摘されることが多いらしく、検査入院してくるのは幼稚園児がほとんどだ。残念ながら、幼稚園の子どもとは、まるで話が合わない。お店屋さんごっこも「おかあさんといっしょ」もアンパンマンも、ぼくには何の興味もないものだ。
 看護師さんも三園さんもいい人だし、検査を受けにくる子どもの親たちも、ぼくに気を遣ってくれている。でも、それは合わせてくれているだけで、一緒にいることが楽しいわけではない。
 そのままの思いを口にして通じる心地よさ。底抜けに楽しい笑える時間。もしかしたら、それが味わえるかもしれない。小学校の休み時間や放課後がよみがえってくる。あの最高の時間をここでも過ごせたらどんなにいいだろう。
「それは大ニュースだね。でも、夕方?」
 だいたい検査入院の子たちは午前中にやってくる。早く会いたいのに、夕方まで待たないといけないなんて。
「そう。何回目かの検査で、MRIは終わってるとかで、今日の夜からで間に合うらしいよ」
「そうなんだ。ま、来てくれるだけいいかな」
 病院で過ごす時間は一時間でも短いほうがいい。男の子が来るのを待ち遠しく思うのは、よくないことかもな。
「瑛介君、仲良くなれるといいねー」
「たぶんなれる。じゃあ、今日は夕方からずっとプレイルームで過ごそうっと」
「あはは。いいね。あ、背は小学一年生くらいだろうけど……」
 興奮したぼくが失礼なことを言わないようにか、三園さんが付け加えた。
「うんうん、だろうね。見た目が赤ちゃんだろうと、じいさんだろうと、中身が小学三年生なら、大歓迎」
 ぼくはそう言いながら、自分の病室に戻るため、プレイルームを片付けた。部屋に戻って、その子と遊ぶためのおもちゃを用意しなくては。
 テレビでは、さっきまで「命に危険のある暑さだ」「対処するように」と深刻な顔で告げていたくせに、今は最高気温を達成したのはどこの地点だろうかと盛り上がっている。映し出された中継では、もぐらのような着ぐるみのゆるキャラが、大きな温度計の前で踊っている。危険な暑さなのに、着ぐるみの中に入るのは大丈夫なのだろうか。「今日は四〇・六度を達成です!」と女の人が声を上げると、もぐらゆるキャラは万歳をし始めた。四〇・六度。ここにいると、それがどれくらいのものかわからない。倒れそうな暑さだけど、着ぐるみではしゃげる暑さ。この部屋の設定温度は入院した六月末と同じ二十六度。プレイルームの窓は大きいけど、外の温度を少しも伝えない。命に危険を及ぼすほどの暑さを、ぼくも感じてみたい。入院してくる男の子は、この夏を知っているだろうか。ああ、その子と何を話そう。何をして遊ぼう。
 少ししか一緒にいられないんだ。相手に緊張されている暇はない。早いところ、打ち解けてしまわないと。二泊三日。あまりにも短い、ぼくの夏休みがようやく始まる。