砂漠の旅

 

 僕が砂漠や荒野に惹かれるのは、四方を山に囲まれ、川が流れる盆地で生まれ育ったからかもしれない。子供の頃、実家の2階のベランダから山の稜線を眺めながら、ずっとその向こうへ行ってみたいと思っていた。ふるさとに帰り、その山を眺める度にいつも思うことがある。僕はこの町を出た時から、ずっと旅をしている。東京に住んでいても、どこの国のどの町にいても、そこは自分の旅先である。ハイウェイを走っていると、砂漠の中に突然大都市が出現するアメリカは、生まれ育ったふるさとからいちばん遠い風景だった。
 2022年には、2年ぶりにバーニングマンが開催されるらしい。2007年に書いた原稿を久しぶりに読み返しながら、僕は時代の楽観さと同時に、ある本質的な事柄を感じている。バーニングマンがあろうがなかろうが、誰もいない砂漠にも、太陽が照りつけ、風は吹いているのだ。

 

Arrival

 

 日焼けした頬に風が吹いた。真っ平らに広がるプラヤを囲む数キロ先の山の稜線から、白い砂塵のカーテンが迫ってくる。
 きつい陽射しが隠れた。一瞬後には白い煙のような砂嵐に飲み込まれ、数メートル先すら見えなくなる。サングラスは役にたたない。マスクがないと息もできない。スキーのゴーグルは、砂漠ではなかなか便利なアイテムだ。
 山に囲まれた巨大な湖が干上がったような「プラヤ」と呼ばれる砂の大地は、かつて訪れたことのある北アフリカのサハラ砂漠とも、オーストラリアのアウトバックの赤い土の荒野とも違う。薄黄色の細かいパウダーのような土埃が、耳や鼻からポケットの中まで、穴という穴に、隙間という隙間に入り込んでくる。

 1日目はシャワーを浴びたくなった。
 2日目はガソリンで汚れた手を砂で洗うようになった。
 3日目にはすべての毛穴が砂になじんで気にならなくなっていた。

 L.A.からバーニングマンの会場にいちばん近い町リノまでは、650マイル。12時間のドライブだった。朝9時にリノのウォルマートで最後の買い物をして、キャンピングカーのガソリンを満タンにした僕と友人たちは、プラヤへ向かう長い車の列に合流した。
 4人で借りたキャンピングカーに積んであるのは、100ガロンの水、発電機、20ガロンのガソリン、10ダースの缶ビール、4台の自転車と色とりどりの光りモノのネオンサイン、カメラ、パソコン、CD、寝袋とダウンジャケット、L.Aで僕が造ったスピーカー、常備薬、7日分の食料、サングラス、帽子、日焼け止め、乾電池、大量の木材、電気ドリル、ノコギリ、サーチライト……つまり砂漠でのサバイバルに必要そうな、ありとあらゆるモノで車の中はいっぱいだった。
 リノからさらに4時間。2007年8月27日の真昼に、僕はバーニングマンのエントランスにたどり着いた。

 今まで何度も行きたいと思いながらここまで来られなかった理由はいくつかある。バーニングマンが行われるのは毎年8月の末で、日本からの飛行機代がいちばん高い時期だった。それに、どうせ行くなら、そこで何かをしたいと思っていた。タイミングとモチベーションの問題と言ってしまえばそれまでだが、とにかく毎年なんとなく機会を逃していたのだ。

 でも、今年はL.A.の友達が半年前にバーニングマンのチケットを買っておいてくれた。別な友達は、サウンドシステムを積んだアートカーと大きなキャンプを造る計画を進めていた。
 8月22日にL.Aに着いた僕は、半年ぶりに友達と再会し、彼の工房で30センチのウーハーが2発入ったスピーカーボックスを造ったのだった。

 何列にも並んだ車があげる砂埃がもうもうと立ち込める会場のエントランスで車から降りた僕は、はじめて参加するファースト・カマーだけが鳴らすという小さな釣鐘を、ひん曲がった鉄の棒で思いっきりひっぱたいた。
 近くで歓声があがる。「ウェルカム・ホーム! ウェルカム・ブラックロック・シティー!」
 僕は炎天下で両手をあげて叫んでいた。「アー・ユー・レディ?」

 

History

 

 バーニングマンはネバダ州のブラックロック・デザートで、毎年8月の最終月曜日から翌週の月曜日にかけて、1週間にわたって開かれるフェスティバルだ。2007年は過去最多の4万5000人もの「バーマー」が世界じゅうから集まった。
 会場はプラヤと呼ばれる平坦な土地で、中央に高さ3~40メートルのバーニングマンが立っている。マンのまわりは許可を受けたアートカーと自転車と人だけが通行できる広大な広場で、それを囲むように、直径4キロ四方の円を描いてキャンプが設営されている。
 ブラックロック・シティーと呼ばれるこのキャンプスペースには、縦に時計の時刻と、円周状に通りの名前がついている。
 アークティック通りの9時。
 そこが今回友人が設営したキャンプの住所だった。

 バーニングマンのはじまりは、通説によると、1986年にサンフランシスコのベイカービーチで、ある男が恋人との諍いへの憂さ晴らしのために木製の人形を作って燃やしたのがきっかけだったとされている。木できた人形を燃やす。ただそれだけのことなのだが、それが西海岸のアーティスト達の興味を集め、次第に多くの人たちが毎年ベイカービーチに集まるようになった。規模が大きくなり、燃やす人形もどんどん巨大になったため、1990年からはネバダ州のブラックロック・デザート、東京23区よりも広いプラヤと呼ばれる砂漠に場所を移した。
 1986年から1990年といえば、ちょうどヨーロッパを中心にレイヴパーティーがはじまり、世界じゅうに広がっていた頃と同じ時期だ。
 1990年代はじめには、まだ知る人ぞ知るイベントだったが、90年代半ばからインターネットの普及などによって、年々参加者が増えていった。バーニングマンの期間中は会場に数万人が集まる「町」ができて、ブラックロック・シティーと呼ばれるようになった。

 

Playa

 

 アークティック通り9時のエリアにたどり着いた僕と友人は、とりあえずキャンプの設営を始めた。風は大抵センターキャンプ(5~6時の方向)がある会場の北側のほうから吹いてくる。そこで、2~30メートル四方の四角い土地の北側に、壁のように車を2台駐めて、2張りの車庫用のテントをたて、その間に屋根をかけることにした。
 車から荷物を運びだし、とりあえず自転車を組み立てはじめたが、真夏のプラヤの日差しは肌に刺さるほどきつい。いちばん必要なもの。それは日陰と水だった。常に水かビールを飲んでいないと、熱中症で倒れてしまいそうだ。
 午後になって何台か別の車が集まりはじめた。初めて会う友達の友達や、そのまた友人と握手を交わした。
 夕方になってやっと涼しくなったと思った頃には、あたりは薄暗くなりはじめていた。夜の8時に地平線に夕陽が落ちると、頭にヘッドライトをくくりつけて、自転車にネオンやルミカをくくりつけた。
 派手な自転車にまたがって仮設トイレまで行く間に、どうしてどの自転車もキャンプもイルミネーションだらけなのかよくわかった。光りモノを身につけていないと、他の車や自転車とぶつかってしまい危ないからだ。それに、キャンプのネオンサインやあかりがなければ、自分の行くべき場所がわからない。
 広場に出て見渡すと、中央に緑色のネオンで飾られたマンがそびえ立っていた。
 マンに向かって自転車をこぎながら、僕はオーストラリアのアウトバックを車で旅した時のことを思い出していた。砂漠では自分の位置がわからない。何も目印がないからだ。『地の果てのダンス』に書いたように、あの時僕は、オーストラリアの荒野をまっすぐ突っ切るスチュアート・ハイウェイを走りながら、歪んだ遠近法の景色の中に溶けていった。

 初日の夜、緑色に光るマンの下にたどり着いた僕と友達は、とんでもない事件に遭遇した。
 その日はなんと、ちょうど皆既月食だった。マンのまわりにたくさんの人が集まっていた。
 みんなが見上げていた月がほとんど隠れた頃だった。僕のすぐ横に立っていた、見知らぬ男から声をかけられた。
「ラガーをくれ」
 水しか持っていなかった僕はペットボトルを手渡した。
「これしかないけど」
 男は水を一気に飲み干すと、そのままふらふらとマンのほうへ歩いていった。すると、マンのふもとに張られたテントを猿みたいによじ登っていった。やがて、まさかとは思ったが、高さ20メートルはあるマンの足元までたどり着いた男は、何かをチカチカ光らせていた。最初は写真でも撮っているのかと思った。やがて爆竹のような音とともに、マンの足元に火がついてしまった。

 まわりにいた人だかりは騒然となった。最終日に燃えるはずのマンが初日に燃えはじめたのだ。後で知ったが、バーニングマンがはじまって以来の一大事だった。
 放水車がやってきて、頭まで火がついてしまったマンに向けて水を噴射しはじめた。最初は怒声を浴びせて驚愕して叫んでいた人たちも、やがて口笛を吹いたり写真を撮ったりの大騒ぎになっていた。

 翌朝広場に出てみると、マンは地面に横倒しにされていた。砂漠でいちばん大事な目印になる中心がなくなってしまったのだ。
 会場で配られていた新聞によると、男は放火と公務執行妨害の罪で逮捕されて、留置場にぶち持ち込まれたらしかった。

 

Art Car

 

 バーニングマンに集まる人には、大雑把に分ければ2種類の人間がいる。広大な敷地を自転車でまわって様々なイベントやインスタレーションに参加して楽しむか、それとも自分たちで何かを作りあげるかだ。
 会場を自転車で一周しようと思えば、それだけでたっぷり半日はかかる。途中でどこかのバーに立ち寄ってはビールやカクテルを飲んで、知らないアートカーに乗せてもらい、たまたま立ち寄ったキャンプでピザやバーベキューを頬張って、また自転車にまたがる。
 バーニングマンで売っているのは、何カ所かで販売されている氷だけだ。そのほかにお金のやりとりはいっさいない。ギブ・アンド・テイクというのでもない。ギブだけがそこらじゅうにある感じだ。話には聞いていたけれど、ここまで徹底しているとは思わなかった。
 僕は財布とパスポートをトランクに放り込んだまま、結局一度も取り出さなかった。

 それはある意味、アメリカ的な市場主義経済の対極であるのかもしれないが、巨大なオブジェやアートカーやキャンプには、かなりの資金が注ぎ込まれているのも確かだ。そういう意味では、バーニングマンは金持ちの大人の遊びだ。しごくアメリカ的な。

 昔はトイレもなかったらしいが、一応必要最低限の決まりはある。持ってきたものは全て持ち帰るとか、水はプラヤに直接流さず一度蒸発させるとか……。実際これだけの人がいるというのに、プラヤにはタバコの吸い殻ひとつ落ちていない。そして4万5000人もの人たち全員が、何かを探して広大なプラヤをうろついていた。素っ裸で歩きまわっている人も結構いる。何も持っていなくても、たいていのことは何とかなるのだ。

 2日目から僕は、友人のアートカー造りに取りかかった。Omusubi Engineと名付けられたそのプロジェクトは、1年がかりで進められてきた。彼らは東京とL.Aで資金を集め、巨大な櫓のような移動式のDJブースを造る計画を立てていた。僕は現場でそれを組み立てる作業を手伝った。
 トレーラーの上に円形の床を造り、4本の柱を立てて2階建てにし、2階にあるDJブースの機材は砂埃対策のためにすべて木とアクリルの箱に入れられていた。5キロワットのジェネレーター、4発のパワードスピーカーに、4発のパワードウーハー。そのトレーラーを、ピックアップトラックで引っ張る計画だった。
 2日がかりで何とか完成した頃には、Omusubi Engineのキャンプには、4~50人の人が寝泊まりしていた。

 アートカーの規定のひとつは、普通の自動車の原形をとどめていないこと。そして、事前に申請した通りに造られていること。会場内を走るには専用のナンバープレートも必要だ。

 3日目の夕方、やっと完成したアートカーから音が鳴り響いた。二階のDJブースからの眺めは絶景だった。
 夜になり、僕らはそのままセンターキャンプまでトレーラーを引っ張っていった。ナンバープレートに昼用と夜用の2種類があって、昼用の許可を先に取る必要があるらしい。

「明るいときにもう一度こい」

 とあっさり追い返されてしまった。

 キャンプに戻ろうとしたとき、アートカーに重大な欠陥が見つかった。8つある車輪のうち、2つがパンクしてしまっていたのだ。
 砂漠の砂に足を取られたことと、全体の重心のバランスの問題だった。キャンプからスペアのタイヤを運んできて、トレーラーをジャッキアップし、その場でタイヤを取り替えた。しかし、走ればまたタイヤがいかれてしまいそうだった。
 あれこれ相談した結果、自分たちのキャンプがある9時方向の近くまで中央の広場をまっすぐ横切った後で、4つのジャッキで固定したまま音を鳴らすことにした。

 翌日、我らがアートカーは無事に2枚のナンバープレートをゲットすることができた。
 夜明けに、広場にとめた二階のDJブースにのぼってあたりを見まわすと、2日がかりで修理されて復活したマンが再び中央にそびえ立っていた。
 僕はDJをしながら音が響いていく地平線に向かって叫んでいた。「アー・ユー・レディ?」

 

Burning

 

 土曜日の夜、マンの周りにはアートカーが集結していた。そしてその内側に、4万5000人の人だかりが、マンが燃えるのを今か今かと待ち構えていた。花火があがり、爆発する炎とともにマンに火がついた。
 マンを燃やす。ただそれだけのことをひと目見ようと、すべての人がマンのまわりに集まっていた。
 翌日の最終日、僕と友達はジャッキで固定していた二階建てのDJブースを走らせることに決めた。ここまできたら、何が何でも会場を一周するのだ。
 途中でタイヤが4つパンクした。ぐらぐら揺れる櫓の上で、僕と友達のトシはCDJで何とか曲をつないでいた。
 パンクした4本の「足」を引きずりながら、広場を一周してアークティック通り9時のキャンプエリアに戻ってきてまた驚いた。
 雨の降らないはずのプラヤに、見事な虹がかかっていたのだ。僕は両手をあげて叫んでいた。
「ウィー・アー・アライブ!」

 
 やるだけやった。なんともいえない達成感があった。
 でも、ここまでやることに、別にたいした意味があったわけではない。それは、マンを燃やすことが、意味や理屈でないことと同じだ。だからこそ、祝祭の熱気は最高潮に達するのだろう。
 会場ではそこらじゅうで音楽が鳴っていて、ポール・オークンフォールドのような大物DJもプレイしていたらしいが、いつどこでプレイしているのか、結局わからずじまいだった。

 バーニングマンは、パーティーともロックフェスティバルとも違う。アートやインスタレーションの会場でもない。しいて言えば、巨大な実験場のような場所だ。何の制約もない砂漠に放り込まれた、まったく無防備な人間が、みな勝手に何かをしはじめるのだ。

 バーニングマンが商業主義的なイベントになったとか、決まり事や制約が増えたと言う人たちもいる。きっとそうなんだろう。自律的なコミュニティーの実践だと言えば確かにそうだが、プラヤに集まっている4万5000人にとっては、そんなことはどうでもいい話だった。

 食べること。水を飲むこと。排泄すること。移動すること。砂にまみれること。眠ること。音を出すこと。あげること。もらうこと。何かをすること。何もしないこと…………それはつまり、人が生きているということを実感する行為そのものなのだ。

(第9回・了)