内戦の旅
まだパンクスあがりの青二才だった頃、スロベニアのライバッハというバンドのレコードを聴いてショックを受けた俺は、かつて「ユーゴスラビア」と呼ばれていた国を三回訪れたことがある。
内戦前と、戦中と、戦後だ(後で述べるように、そう簡単に区切れるようなものではなかったわけだが)。
バルカン半島は「世界の火薬庫」と呼ばれ続けてきた。少なくとも、歴史の教科書なんかでは。
でも、俺が記憶している限り、一九八〇年代末のクロアチア……中でも、アドリア海に面したスプリトやズブロニクのあたりは、パリの同じアパルトマンに住んでいたジミヘン好きの友達が、「ちょっと車でバカンスに行くけど、一緒に乗ってくか?」というノリで出かけていった観光地だったはずだ。チトー時代のユーゴスラビア………正確には「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」は、ハンガリーやチェコスロバキアと同じ東欧(だというぐらいの乏しい知識しか当時の俺にはなかったわけだ)の中では当時おそらく唯一、フランスに居住していた日本人の俺でも、ビザも要らずに自由に旅行ができる国で、プール付きのホテルで地元の若いお姉さんと会話を楽しむ、なんてことができた、かなりパラダイスな場所だったはずだ。
ところがだ。数年後には、バルカン半島はまた、世界の火薬庫に様変わりしていた。
「おれたちは、ただ、この町を、きれいに掃除しにやってきただけだ」
1994年11月、ヘラルド・トリビューン誌の記者に、「クロアチア国境付近の激戦地ビハチに進軍したセルビア人将校」が語った言葉だ。
パリのメトロでたまたま目にした写真つきのその記事は、激戦地の前線からの報道だったが、当時の俺にとっては、とんでもない事態に驚いたと同時に、今頃の偽ニュースやテロ組織のプロバガンダとまでは言わないが、どこか腑に落ちない悪い冗談のようにも思えた。それはそうだろう。数年前には車でちょっとバカンスなノリだったのだから。
もちろん、ユーゴスラビアで内戦が激化しているのを知らなかったわけではない。でも多くの人がそうだったように、毎日のように報道を目にしてはいたが、バルカン半島でいったい何が起きているのか、まったくわかっていなかった。
ベルリンの壁が崩れた八九年から……あの時も、俺はその前と直後のベルリンを訪ねている……ポーランドをはじめとした「東欧」の国々では、後に「民主革命」と総称された民主化運動が次々と起きていた。原稿を書きながら思い浮かぶのは、ベルリンのクロイツブルグや、瓦礫だらけだったミッテ、ポーランドのワレサが組織した連帯の「Solidarnosc」と書かれた旗。プラハのビロード革命と、その対局のような、世界じゅうに中継されたルーマニアのチャウセスク銃殺……
しかし、ユーゴスラビアでは、チトー政権の崩壊が複雑な内戦のはじまりでもあったといういきさつを、正直なところ、俺はまったく何もわかっていなかったのだ。
パリのメトロでヘラルド・トリビューンの記事を呼んだ俺は、フィーユ・ドゥ・カルベールの駅を出たところにあった売店で、新聞や雑誌をいくつも買ってホテルに戻った。それから、内戦について書かれた記事を切り抜いて、ベッドの上にずらっと並べてみた。
ある新聞の論説では「今後想定でき得る限りの最悪の事態」をいくつか並べたてた上で「何が起きるにしても、すべてがありそうなことだ」と投げやりとしか思えない言葉で結んでいた。
別の新聞記事は、国連平和維持軍(UN)将校の、「早く米軍が来てくれないと、俺たちはいい加減ここから引きあげるぞ」という、実際にはあり得ない、やけくそじみた談話を掲載していた(後にNATOの空爆という形でこれは現実となってしまうのだが)。
いちばん印象に残ったのは、よく読んでいた「ACTUEL」という雑誌の見開き写真だった。左側のページには「戦前のサラエボのホリデーインのプールサイド」のカラー写真を、右側のページにはまったく同じ画角で撮影された「ロビーのガラスが砲弾で砕けたホリデーインの水のないプール」のモノクロ写真をあしらったその見開きは、俺がメトロで感じた、驚きと腑に落ちない感じを、直感的に表していた。アドリア海からバルカン諸国に向けてラジオ放送を行っている船の写真を見たのも、同じ「ACTUEL」だったはずだ。「ACTUEL」はちょうどその年の末に廃刊記念の特集号を出している。手元に一冊だけ残っているその雑誌をめくってみたが、残念ながらあの見開き写真は載っていなかった。ネットでもさんざんさがしてみたが見つからなかった。
俺はあの写真を見て、ただザグレブへ行こうと思った。他にたいした理由があったわけではなかった。それほど印象深い写真だったのだ。
翌日、必要な荷物だけをバックパックに詰めて、いきつけのカフェの主人にトランクを預けた俺は、彼女の真子と二人でパリからミュンヘン行きの夜行列車に乗った。ミュンヘンで、真子が選んでくれた、えんじ色のセーターを買った。ミュンヘン駅で、ウィーンへ行く真子と、パリで落ち合う約束をして別れ、ザグレブへ向かう列車に乗り換えた。駅の時刻表によると、その列車はクロアチア・エクスプレスと名付けられていた。真子も俺も、ほんとうにパリで落ち合えるのかどうか、正直なところ半信半疑だった。列車が走りだすと、ホームで飛び上がりながら手を振っている真子の姿がみるみる遠ざかっていった。その姿が今でも目に焼きついている。
おれのノートによると、それは「1994年のクソ寒いクリスマスの前」のことだった。
クロアチア・エクスプレス
ガタン、と列車が止まった衝撃で目を覚ました。真夜中で、あたりは静まり返っている。コツコツという靴音が聞こえてきてコンパートメントのドアが開くと、突然灯ったあかりに目がくらんだ。
オーストリアとスロベニアの国境で停車した列車に乗り込んできたのは、しかめ面でいかめしい制服を着た、パスポートコントロールの男だった。寝袋にくるまって座席に寝転んでいた日本人の俺と、向かい側の座席で寝転がっているイギリスからきたスキンヘッズの男を、しばらく黙って交互に眺めていた。先に起きあがった俺の顔をまじまじと見ながら言った。
「君たち、いったい、どこまで行くつもりなのかね?」
俺は寝袋の中でもぞもぞと両手を動かしながら、首からぶらさげているケースにはいっているパスポートを指先で捜しながら答えた。
「えっと……ザグレブ?」
つくり笑いを浮かべてみたが、制服の男は顔色ひとつ変えなかった。間の悪いヤクの運び屋とか、不法入国者とか……何かそういう、不審な類の二人組にでも見えたのかもしれない。そりゃそうだろう。マッチョなスキンヘッズと、その仇敵のようなアジア系の二人組が、仲良く同じコンパートメントで寝ているなんて。長年方々旅をしている俺でも、見たことがない。
まだ寝ぼけ眼のスキンヘッズがやっと体を起こしたのを見計らって、制服の男はさっきよりもきつい口調で切り出してきた。
「パスポート」
俺とスキンヘッズが差し出した、赤い表紙の日本のパスポートと、青い表紙のイギリスのパスポートを、男は珍しいものでも見くらべるようにめくりながら質問をはじめた。
「ザグレブまで、いったい、何しに行くんだ?」
「え~と」
と言いかけたスキンヘッドを制して、俺が先に答えた。
「ツーリスト」
制服の男にしかめ面を向けられたスキンヘッドズが黙って頷いた。
「仕事は?」
とっさに思いついて、口から出まかせで答えた。
「学生です」
スキンヘッズがまた黙って頷いた。
制服の男は、ポケットから携帯用の紫外線ライトを取り出すと、二つのパスポートを照らしながら、偽造ではないかどうか調べはじめた。1ページ目から最後まで、時間をかけて念入りに調べ終わると、やっと納得したように、小さなスタンプを押して、俺とスキンヘッズにパスポートを返してくれた。それから俺たちに忠告した。
「いいか? この先、何があるかまではわからないからな」
スキンヘッズと俺に念を押すように付け加えた。
「まあ、旅行をするには、申し分のないところだろうよ。きっと」
男がコンパートメントのドアを閉めて出ていくと、スキンヘッズが陽気な声で俺に話しかけてきた。
「ヘイヨー、メイト! 俺たちゃいったい、今どこにいんだ?」
イギリスからきたというこの「相棒」とは、数時間前に列車の中で知り合ったばかりだった。ミュンヘンで真子と別れた俺が、バックパックから取りだしたカメラをいじっていると、コンパートメントのドアを開けていきなりこいつが乗り込んできたのだ。
「ヤーマン!」
マッチョなスキンヘッズにいきなりヤーマンと声をかけられて、おれはとっさにバックパックの中にカメラを隠した。クソ寒いというのに、黒いスゥエットシャツに紺色のミリタリージャケットを一枚羽織っただけのスキンヘッズなんて、どこをどう見てもフーリガンにしか見えなかったからだ。右手の甲のよく目立つ場所にブルドッグの刺青をしている。あんな拳でぼこぼこにされるなんて、冗談じゃない。真向かいにの席にどかっと腰をおろしたフーリガンに身ぐるみ剥がされる前に別なコンパートメントへ移ろうとして立ちあがると、呼び止められて足がすくんだ。
「ヘイヨー、メイト! あんたもしかしてジャップのカメラマンか?」
カメラを持っているのはとっくにバレていた。俺は最悪の事態を覚悟した。でも頼むから、いきなり半殺しになるまでぶん殴ったりとかだけはしないでくれよ、と冷や汗をかいている俺に構わず、スキンヘッズが自分のバックパックを開けはじめた。
「こいつがおれのニコンなんだけどよ」
そう言って撮りだしたのはカメラだった。
「どうやったら写真が撮れんだ?」
俺は黙って元の座席に座り直した。スキンヘッズがブルドッグの刺青をした無骨な手でいじっているのは、確かにニコンのカメラだった。かなり古い、日本では安物の部類に入る一眼レフを、目の前に差し出された。
「ジャップのメイトならよく知ってんだろ?」
どうやらこいつは、俺のカメラを盗みたいわけではないようだ。でも、初対面のジャップのメイトに、写真の撮り方を教えてくれだと?
まったく要領を得ないので黙り込んでいると、スキンヘッズもさすがに察したようだった。
「メイト。いったいどこまで行くんだ?」
俺はやっと口を開いた。
「ユーゴスラビア」
スキンヘッズがブルドッグの刺青をした右手の拳を握りしめた。
「心配すんなよ。ウィーンから先は、クソやばいとこだけどよ。なんかあったら、俺がメイトの用心棒になってやっから。まかせとけって」
スキンのメイトが、俺の用心棒だと?
「ああ」
と頷いてみたもののますます訳がわからない。
「だからかわりに、俺にニコンの使い方、教えてくれねえか?」
渡されたカメラを受け取った。仕方なくピントやシャッターの切れ具合を確かめたりしている俺に、スキンヘッズが言った。
「こう見えても、俺はフーリガンあがりのジャーナリストだからよ」
俺は耳をうたがった。
フリーリガンはわかるが、ジャーナリストだと?
「メイトはジャップのカメラマンだろ? 俺たち、ナイスなコンビじゃねえか」
おれはスキンヘッズに尋ねてみた。
「あのさあ、どこか、取材とか、言ったことあるの?」
「あるわきゃねえだろ。パスポートも、俺のニコンも、先週ゲットしたばっかだよ」
俺はスキンヘッズにニコンを返した。
「カメラは問題ないと思うけど……いったい何しに行くわけ?」
スキンヘッズは自信たっぷりに応えた。
「新聞か雑誌の一面トップに決まってんだろ」
ようやく俺は納得した。自称ジャーナリストのスキンヘッズは、フーリガンあがりの一発屋だった。それまでも何度か似たような人に出くわしたことがあった。パレスチナや西サハラでも、シリアやベイルートやカンボジアでも……いや、俺自信、パリのシャンゼルマン・デ・プレで撮った、催涙弾が飛び交うデモの写真を、その場にいた新聞記者に「カネは今払うから」と頼まれて、現像もしていないフィルムのまま渡したことがあったのを、スキンヘッズの一発屋と話をしながら思い出していた。 あの頃の俺はまだ二十代で、写真家になりたいと思っていた。やがて文章を書くようになり、出版社で作ってもらったプレスカードしか持っていない俺も、ジャーナリストでもなければ報道カメラマンでもない、ただの旅行者に変わりはなかった。
オーストリアとスロベニアの国境で停車した列車のコンパートメントで、また横になろうとしているスキンヘッズの相棒を見ながら、俺はしかめ面でパスポートを念入りに調べていた男の言葉を頭の中でくり返していた。
「旅行するには申し分のないところ」か……。
スロベニアから先の列車の中は、大きな荷物を抱えた出稼ぎ帰りだというクロアチア人や、アーミーバッグを抱えたUNの若い兵士で込みあっていて、廊下にまで人があふれていた。
コンパートメントで同室になったスロベニアのジャーナリストの男は、他の二人連れに、延々と内戦の惨状を説明しているようだった。ようだったというのは、「コソボ」や「サラエボ」という地名以外に、言葉がまったくわからなかったからだ。会話をしながら、チラチラ俺とスキンヘッズの様子を横目でうかがっているその男に、俺は英語で話しかけてみた。
「ところで、最近サラエボには、いつ行ったの?」
男はいささか呆れたような顔で応えた。
「仕事柄いろいろ知ってるだけで、スロベニアのジャーナリストがあんなところへ行けるわけがないだろ」
スロベニアとクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアが「連邦」(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)から独立して国連に加盟したのは1991年から翌年にかけてのことだ。チトー政権下のユーゴスラビアは、社会主義でありながら、自治権を持つ共和国の連邦制、という、かなり特殊な政治形態をとっていた。
というのはこの原稿を書くために調べたことで、1995年の俺にとっては、スロベニアといえば頭に浮かぶのはライバッハぐらいだった。サラエボで1984年に開かれた冬期オリンピックのことすら、あまり覚えてはいなかったのだ。
迷彩服姿のUNの若者が廊下にたむろしている列車のコンパートメントで、スキンヘッズが持っていた「NEWSWEEK」誌を読んでみた。
PKO(平和維持活動)のために展開しているUN(国際連合軍)は、混沌とした状況に手も足もだせない駐留にうんざりしていて、はやく米軍が介入して負担を肩代わりしてくれることを――わかりやすく言えば、戦闘機が飛んできて爆撃でもしてくれるのを――望んでいるようにしか俺には思えなかった。「クリスマス停戦の時期を狙って、アメリカのカーター元大統領が『仲裁人』としてボスニア入りするかもしれない」という記事を読んで、カレンダーを確かめてみた。
クリスマスはもう一週間後に迫っていた。
翌朝、俺はスキンヘッズの声でたたき起こされた。
「ヘイヨー、メイト、そろぞろザグレブに着く時間だぜ!」
そう言ってブルドッグの刺青をした拳とともに腕時計を突き出された。
「もうすぐ七時だから、とっとと荷物まとめろよ」
えらくはりきった様子で、いかつい体のお腹の上のあたりに、首からニコンのカメラをぶらさげている。急かされるように起きあがり、寝袋を丸めてバックパックに詰め込んだりしているうちに、列車はザグレブ駅のホームに着いていた。
列車から降りて駅の出入口のほうへ向かうと、天井が高くて殺風景なひとけのないロビーの隅に、埃をかぶって少しくたびれたような感じの、ユースホステルやホテルの案内所の看板がいくつか並んでいた。
「あそこじゃねえのか?」
とスキンの相棒に言われて玄関のほうに目をやると、ツーリストインフォメーションに明かりがついている。しかも若い女性がひとりぽつんと、暇を持てあました様子でカウンターに座っているではないか。
先にすたすた歩いていったスキンヘッズがガラス越しに声をかけた。
「ヤーマン!」
まだ二十代とおぼしき彼女はどう見ても動揺していた。そりゃそうだろう。こんな朝っぱらからスキンヘッズにいきなりヤーマンだなんて……俺はとっさに、取り繕うように尋ねてみた。
「え~と……地図もらえますか?」
怪訝な顔でスキンヘッズと俺を見ている彼女に、丁重な英語で繰り返した。
「ザグレブの地図があったら、いただきたいのですが?」
黙っていた彼女が、ぷっ、と吹き出して言った。
「あなたたち、もしかして、観光客?」
俺とスキンヘッズは顔を見合わせた。バックパックを背負った俺たちは、確かに間違ってここに来てしまった、場違いな観光客といったところだった。ガラスの向こうの彼女はくすくす笑いながらも、小部屋の隅にある戸棚を開けて奥のほうをごそごそ捜した挙げ句、ノートの見開きぐらいの大きさの地図を一枚引っ張り出してくれた。
「ここが駅よ」
とボールペンで丸く記までつけてくれた地図を受け取って、「ありがとう」と英語で例を言うと、彼女が教えてくれた。
「クロアチア語では、ドブロ」
それが、俺がいちばん最初に覚えたクロアチアの言葉だった。
スキンヘッズが「メイト」と俺を呼んだ。
「ありゃいったいなんだ?」
せっかくもらった地図などそっちのけで、相棒は駅前の広場のほうへすたすた歩いていく。慌てて後を追いかけて外に出ると、駅前の道路を、制服を着た鼓笛隊のような一団が、ラッパや太鼓を鳴らしながら通り過ぎていくところだった。カメラを覗いてピントを合わせているスキンヘッズにつられるように、俺も並んでシャッターを押した。鼓笛隊が行ってしまうと、閑散とした駅前の広場には誰の姿も見えなかった。
それから、きつねにでも抓まれたような気分で、しばらくぼけっと広場を眺めていると、スキンヘッズが言った。
「なんか、映画みたいな感じだな」
言われてみれば確かに、アンゲロプロスの映画でも観ているような気がして、『霧の中の風景』の時間が止まったようなワンシーンを思い返していると、スキンヘッズが困ったような顔で話しかけてきた。
「メイト、おまえジャップのカメラマンだよな」
「だから何だよ」
「こういうところに慣れてんだろ? 今から俺たちどうすんだ?」
思いついたままスキンヘッズに答えた。
「とりあえず……ホテルだろ。ホテル探さないと」
さも知ったかぶってスキンヘッズに説明した。
「どこかのホテルに行けば、報道関係の記者とかがいると思うんだけど」
「イエス!」
と気合いたっぷりにバックパックを背負ったスキンヘッズと二人で駅前の広場のほうへ道を渡ると、何やら地下へ続く階段があったので、そのまま下へおりてみた。何もなくて閑散としているどころか、広場の下はかなり広いショッピングモールになっていて、朝から買い物をしている人の姿が目についた。ますます呆気にとられている様子のスキンヘッズに言ってみた。
「あのさあ、ロンドンと違って、ここにはホテルとか、ないと思うけど」
スキンヘッズが「あたりまえだろ」と言った。
「ビクトリア・ステーションの地下にもホテルなんかねえよ」
それからまた階段をのぼって地上に出て、ツーリストインフォメーーションでもらった地図を頼りに公園沿いの道をしばらく歩いていくと、町の中心とおぼしき広場にたどり着いた。広場の近くにある市場へ行ってみると、迷彩服を着たUNの若者と地元のおばさんたちが、野菜や果物を見くらべている。さすがにバックパックを背負った旅行者の姿は見あたらなくて、かなり目立つような気がしたが、とりたててこちらに注意を払う人もいなかった。
「メイト、ぜんぜんデンジャラズな雰囲気じゃねえな」
いたって平和な感じだ。思い直してスキンヘッズに説明した。
「あのさあ、ここって、サラエボじゃなくて、ザグレブだぜ」
言ったそばから何の説明にもなってないなと思った。あたりまえのことだが、どこの紛争地帯でも、被災地でも、普通の市民が、日々の生活を営んでいる。そうした場所へ行く度に、俺は居心地の悪さを感じてしまうのだった。いちじくの入った袋を手にしているスキンベッズに繰り返した。
「買い物じゃなくて、ホテルが先だろ」
それからまたしばらく街中をうろついた挙げ句、一泊四十ドルのホテルを見つけてチェックインした。中華料理店が併設されたロビーを見渡しながらスキンヘッズが言った。
「メイト、テレビのクルーは、ここじゃなくてリッツかヒルトンだろ」
相棒の意見も、あながち間違ってはいなかった。中東やカンボジアへ行った時も、日本大使館などへ出向いても何の情報もなくて、とりあえずヒルトンあたりのホテルに行って、どこかの報道関係者や商社マンを捉まえて、最新の情報を得たことが何度かあった。
夜行列車で疲れていた俺は、ロビーの外へ出て行こうとするスキンヘッズに、「先に休んでるわ」と告げて、部屋へ続く階段をのぼった。ドアを開けると、こぢんまりとしてはいるが、綺麗に掃除が行き届いた部屋だった。ベッドに横になり、パリで買った雑誌に載っていた、サラエボのホリデーインの見開き写真を思い出していた。
そのまま眠ってしまっていた俺は、スキンヘッズに呼ばれて目を覚ました。
「ヨー、メイト、そろそろディナータイムだろ」
窓の外はすっかり暗くなっている。
一階のロビーにおりて、中華料理店を覗いてみると、観光客でもジャーナリストでもない、地元のカップルとおぼしき若者たちの姿が目についた。
席に座り、メニューを開いた俺に、スキンの相棒が声を落として言った。
「メイト、俺が知る限り、この町にはリッツはねえけど、UNのボスはジャップで、サッカーとビールはUK並みだ」
寝起きの頭でよく事情がわからないまま、「へえ」と相槌をうつと、相棒がウェイトレスにビールを注文した。
「ピーボ!」
それが、俺が二番目に覚えたクロアチアの言葉だった。
楽しげに会話をしている若者たちの姿を眺めながら、インティファーダの渦中とは知らずに訪れたガザや、西サハラの彼方へ飛んでいったミサイルのことを、ぼんやり思い出していた。
翌日、たっぷり眠って元気を取り戻した俺と、相変わらず疲れ知らずのマッチョな相棒は、とりえず空港へいってみることにした。路面電車に乗ってバスステーションに着くと、こんな所にピープショーの看板が出ている。看板を眺めていた俺に、近くにいたおじさんが、はじまるのは昼過ぎからだと教えてくれた。バスステーションの案内所で確かめると、サラエボ行きのバスは毎日走っているようだった。
そこからエアポート行きのバスに乗り換えて空港に着いた。ロビーにいるのは迷彩服姿のUNの兵士ばかりだった。時刻表を確かめると、サラエボ行きのフライトは、一日二便飛んでいるようだ。俺は航空会社のカウンターにいる女性に尋ねてみた。
「サラエボ行きのチケットを買いたいんですが?」
「……」
完全にシカトだ。
「時刻表に出てるんだけど」
まったく相手にしてもらえなかった。相棒が俺を呼んだ。
「ヨー、メイト、ありゃテレビのクルーじゃねえのか?」
ひと目でそれとわかるCNNの機材を抱えたグループが、UNの兵士と一緒に搭乗口のほうへ歩いていった。ロビーに取り残された俺とスキンヘッズを見かねたのだろう。カウンターの奥にいた別の職員が、UNの交換局に電話をつないでくれた。受話器を受け取ったはいいものの、UNの同行取材やフライトについて、いくつもの部署をたらいまわしにされた挙げ句に、交換局の職員に「国籍は?」と尋ねられたので「ジャパニーズ」と応えた。
「だったら、明日の朝、ミスター・アカシの秘書にでも電話してみたら」
そう言って電話をがちゃ切りされてしまった。気落ちしている俺の横で、電話のやりとりを聞いていたスキンの相棒が満足げに頷いた。
「俺が言った通りじゃねえか。ジャップのボスになしつけりゃオッケーってことだろ」
「みたいだな」
「俺たち、うまくやれそうじゃねえか?」
何をどうすればうまくやれるのか知らないが、とりあえず次の予定が立ったのは確かだった。カメラをぶらさげた相棒は、ロビーのカフェにたむろしているUNの若者たちに声をかけて、話し込んでいた。
「ヤーマン! いったいここで何やってんだ?」
「見りゃわかんだろ。ちょっと休憩」
「UNのソルジャーって、そんなに暇なわけ?」
「あのなあ、おれたちソルジャーじゃなくて、ここの警備だぜ?」
ライフルを抱えた若者の一人がスキンヘッズに説明した。
「そりゃ、前線にいるやつらは一発ぶっ放したいと思ってるかもしれねえけどよ。ピースキーピングってのは、見てるだけの任務のことを言うんだよ。スプリトにいた時なんざ、なんもすることなくて、毎日プールで泳いでたっけ」
ザグレブに着いて三日目の朝、俺と相棒はザグレブ市内にあるUNの事務所に向かった。入口の警備員に用件を告げると、プレスセンターに案内された。泊まっていたホテルの部屋よりもこぢんまりとした部屋で俺たちを出迎えてくれたのは、真っ赤なワンピースを着て派手なメイクをばっちり決めた、スキンヘッズに言わせれば「シティーのやり手崩れ」みたいな女性だった。
俺が彼女に、さも慣れているかのような感じで手短に伝えた。
「ミスター・アカシの秘書と連絡をとりたいんだが」
「いきなりどういう用件かしら」
凄むような目つきで聞き返されて、俺はとたんに説明口調になった。
「ええと、UNに電話したところ、交換局の方から、ミスター・アカシの秘書に連絡してくれと言われて……」
彼女に聞き返された。
「彼は多忙ですが、個人的なお知り合い?」
スキンヘッズがここで「イエス」と即答しやがった。
「彼は日本の有名な写真家で、俺はUKから来たアシスタントだ」
はったりどころか、でたらめもいいところだった。
「お名前は? パスポートでいいわ」
言われるままに手渡すと、彼女はパスポートをめくりながらどこかに電話をかけた。やがてガチャンと電話を切ると、単語をひとつひとつ区切りながら、俺とスキンヘッズに言った。
「アカシも、秘書も、まったく、知らないそうだけど」
彼女はしかるべきところに連絡をして確かめてくれたのだ。俺はスキンの相棒に、黙ってろよ、と目配せをして、彼女に礼を言った。
「わざわざありがとう」
それから、日本の出版社のプレスカードを彼女に見せて説明した。
「UNのプレスカードを発行してもらいたいのですが。パリの事務局には事前に電話で確認済みです」
電話の件は嘘ではなかったが、正確には「ザグレブのプレスセンターで発行しているが、詳細は現地で確かめてくれ」と言われていた。
「書類が揃っていないと、出せないのよ。いちばん重要なのは、これ」
そう言って赤線を引いて差し出された用紙にざっと目を通した。
「派遣元の同意書――サラエボで当ジャーナリストに何か問題が起きた場合、派遣元の会社が責任を持ってすべて対処する」云々。
「ここにファックスしてもらうだけでいいわ」
親身に対応してくれたのに、俺にはすぐに手配してくれそうなあてがなかった。
「ちょっと前から、こういうことになってるのよ」
そう言いながら、彼女は壁に貼ってある写真のほうに目をやった。プレスルームの壁に、ボスニアで命を落としたジャーナリストやカメラマンたちの写真が貼りつけてあった。彼女がぽつりと言った。
「命を落とすのは勝手だけど、その後がたいへんなのよ」
俺たちがいる間に、他にもフリーのカメラマンがふたりプレスルームへやってきたが、ボスニア行きのフライトはすべて彼女に断わられていた。あるカメラマンが俺に、「カーターの報道あがってから、フリーランスのサラエボ入りは、日増しに制限が厳しくなっている」と説明するのを、彼女は黙ってただ眺めていた。
UNの建物の外に出ると、建物を囲むようにして、紛争でなくなった人々の名前を記したレンガが、塀のように積みあがっていた。レンガに囲まれた建物の壁に、スプレーで落書きがしてあった。
AKASHI IS EXECUTIBLER WITHOUT LOW COURT
GHALLI and SCUN are PAIR KILLER
俺はその落書きを、手前に積み上げられたレンガとともに写真におさめた。でも直感的に写真におさめただけで、どうしてUNと国連のボスが、紛争の張本人どころか、殺人者呼ばわりまでされているのか、そんな複雑な事情など何もらなかった。
それからスキンの相棒とザグレブの街をしばらくぶらついて、たまたま見つけたバーに入った。二人でビールを飲んでいると、かなり酔っ払った中年の親父が、下手な英語で話しかけてきた。
「おれも戦争に行っててよ」
中年男に、「元軍人なの?」と何のきなしに口にすると、「なこた知るか」と怒鳴られた。
「あのなあ、俺のおじさんが殺されたから、それで仕返しに行ったに決まってんだろ」
俺は事情も知らずに軽々しいことを訊いてしまったと居心地の思い気分になって、話題を変えてみた。
「そういえば、カーターが来るらしいけど」
「みたいだな」
「調停とか、まとまると思う?」
「調停がどうなるかは知らんが、カーターはウェルカムだろ。いいか? カーターが来りゃ、米軍も来んだろ」
「……そうですかね」
「そらくるだろう。そんで、派手に爆撃してくれるに決まってんだろうが」
スキンヘッズに向かって親父が言った。
「セルビアは去年も強かったからなあ」
「イエス」
即答したスキンの相棒に俺は尋ねた。
「何の話だ?」
「メイト。サッカーとビールはUK並みだって昨日言ったじゃねえか」
元フーリガンの相棒に親父が繰り返した。
「そう。サッカーだよ。サッカー……とにかくやつらは強かったんだ」
今になって思い返せば、「UK並みだせ」と言っていた元フーリガンの相棒は、それが意味する事柄を、肌身でわかっていたはずだ。八〇年代半ばから九〇年代にかけてのヨーロッパは、フーリガンが国境を越えて暴れまわっていた最盛期だった。俺が住んでいたパリでも、国際試合の後には暴動が起きて死傷者が出るぐらいは日常茶飯事だった。後に『RAVE TRAVELLER』という本を書くために読んだ『フーリガン戦記』(1994年 白水社)は、俺が知る限り、当時の状況を克明に記した、日本語で読める唯一の本だった。
でも、ザグレブのバーで親父の話を聞いた俺は、セルビアとクロアチアの衝突の発端のひとつとされているのが、1990年にザグレブで行われたサッカーの試合だったという逸話など、何ひとつ知らなかったのだ。
四日目、俺と相棒は、サラエボ行きのバスをあたってみることにした。前日訪れたバスステーションへ行き、地図を見ながらルートを確かめてみると、セルビア軍の占領地帯を通過して、二十時間もかかるらしい。
俺はそれまで、ヨルダンからイスラエルへ入る国境の橋や、政情不安が続いていたベトナムとカンボジアの国境を、陸路で越えたことはあった。けれど、今回ばかりはさすがに気が進まなかった。相棒のスキンヘッズが言った。
「メイト、何かあったら俺がついてっから心配すんなって」
そういう問題じゃないだろうと思いつつ、とりあえずチケットを買って、待合室で時間を潰していると、制服を着たクロアチアの軍人だという中年の男が話しかけてきた。
「このあたりは観光地にしては退屈すぎる場所だろう」
俺は軍人らしき男に、何をどう応えていいのかわからなかった。
「もっとも、最近はそうでもなくなっているがな」
午後七時、俺たちはようやくサラエボ行きのバスに乗り込んだ。ほぼ満席のバスの後ろのほうの座席にスキンヘッズと並んで座り、バスが出るのを待っていると、待合室で話した制服姿の男が同じバスに乗り合わせていた。俺たちの席は少し離れた後ろのほうだったから、わざわざ挨拶もしなかったし、向こうも気づいていないのだろうとばかり思っていた。
バスのエンジンがかかり、暗い夜道をしばらく走ってザグレブ郊外の幹線道路まで出た頃だった。制服姿の男が席をたって、俺たちのほうへつかつかと歩いてくると、はっきりした声で言った。
「今すぐこのバスから降りたまえ。これは民間人への忠告だが」
忠告というよりも、命令に近い口調だった。
「クロアチアの軍人として言っておくが、日本とイギリスのパスポートを持った君たち二人が、セルビア軍の検問所を通過しようとした場合、現状では、二つのケースしか考えられん。その場で真冬の路頭に追い出されるか、凍死する前に背中から撃たれるかだ」
つまり、行くなということだ。
バスの乗客は、みな黙って俺たちのやりとりを聞いているだけだった。おれはバーで男と会った時と同じ居心地の悪さを感じていた。黙って俺が頷くと、男は運転席のほうへ歩いていって、バスを止めようとしていた。荷物を抱えて席を立とうとした俺に、スキンの相棒が言った。
「ヨー、メイト、達者でな」
カメラを首からぶらさげたままの相棒に確かめた。
「おまえ、まさかこのまま行くつもりなのか?」
「あたりまえだろ、俺が何しにここまで来たと思ってんだ?」
二人のやり取りを、制服の男は黙って見ていた。スキンヘッズが俺に続けた。
「メイトはパリで彼女が待ってんだろ?」
「……かもな」
「俺には帰りの切符がまだねえんだよ」
俺はここで初めて知った。ニコンをぶら下げた相棒が片道切符しか持たずにここまで来たことを。
俺はその場でバックパックを開けて、まだ撮影していないフィルムの入った袋を取りだして相棒にそのまま手渡した。
「モノクロの1600が何本か入ってる」
「最悪でも絞り開けてシャッター切りゃいけるな」
「イエス。ポジは400。ストロボは……」
「俺のニコンじゃあっても意味ねえだろ」
俺は自分のばかでかいストロボを相棒に渡した。
「グリップの代わりにつけときゃいい」
「そうか。カメラの左側か?」
「イエス。縦位置で構えたら」
「左手でグリップ握って支えてれば右手はフリーか」
そうこうしているうちにバスが停車した。
スキンヘッズの相棒が言った。
「いろいろ教えてくれてありがとよ」
俺はもう一度確かめた。
「マジで行く気か?」
「メイト、俺たちゃ最高のコンビじゃねえか。次はパリかロンドンで落ち合おうぜ」
バックパックを背負って立ちあがった俺に、相棒がブルドッグの刺青をした拳を突き出してきた。
「ヤーマン!」
互いの拳をぶつけて挨拶をした。
ドアが開く音がして、出口に向かった。
制服の男と運転手に頭をさげて、バスからおりた。
窓越しにスキンヘッズの相棒の姿を探したが、ガラスが曇っていてよくわからなかった。
走り去るバスの赤いテールランプがどんどん小さくなって、見えなくなると、身を切るような寒さが襲ってきた。
氷点下の凍てつく寒さの中を歩きはじめた。道沿いの草原にうっすら雪が積もっている。車は一台も走っていなかった。誰もいない道を一人きりで一時間以上は歩いただろう。ようやくザグレブの市街地とおぼしき街の明かりが見えてきた。
制服の男に言われたように、検問所で追い返されていたら、たとえ背中から撃たれなくても、路頭で凍え死んでいたいかもしれない。フーリガンの相棒のことを考えてみようとしたが、ただ歩き続けるのが精一杯だった。やっとタクシーを拾って市街地へたどり着いたのは、もう夜の十時過ぎだった。
繁華街の広場に面したショップには、クリスマスのイルミネーションがほどこされていた。広場の中央にクリスマス宝くじの商品が飾ってあった。一等賞はイタリアのスポーツカーだった。本屋のショーウインドウに、パウロ二世の本が並んでいた。
まだ開いているカフェを見つけて、吸い込まれるように中に入り、近くのソファに倒れるようにへたり込んだ。よほど疲れて見えたのだろう。ジーンズ姿の女の子が心配顔でかけよってきた。
「ちょっと、だいじょうぶ? なんかあったの?」
「いや……」
「救急車、呼ぶ?」
彼女が持っていたグラスを見て訊いてみた。
「それって、お酒かなんか?」
「ジントニック」
「同じやつ、頼めるかな」
「ちょっと待っててね。持ってきてあげるわ」
店の中は地元の若者で賑わっていた。さっきの女の子はグラスを持って戻ってくると、二人がけの同じソファに腰をおろした。
「はい、ジントニック」
「どうもありがとう」
差し出されたお酒をひと口飲むと、やっと正気に戻ったような気がした。
「ねえねえ」
と言われて横に座っている彼女を振り向いた。
「こんな時間に、そんな格好で、いったいどこから何しに来たわけ?」
サラエボ、いや、パリ、でもないな……。
「東京」
「ああ、日本でしょ」
彼女はまだ二十歳そこそこに見えた。
「そうそう」
「もしかして、観光?」
と訊かれて「まあ」と曖昧に頷くと、女の子が言った。
「あたしも、どこか別の国へ行きたいわ。ここで暮らすのも、わけのわからない戦争にも、ほんとにもううんざりなの」
それからいろいろと話をしたが、この内戦がどういうふうに終わって欲しいのか、という点では、前日にバーで会った酔っ払いの親父とほとんど同じ意見だった。
「UNでもアメリカでも日本でも、誰でもいいから、一発ドカンとやってくれて、それですべて終わっちゃえばいいのに」
投げやりな感じで話し続ける彼女に、俺はろくな応えなど持ち合わせていなかった。彼女はその当事者だけれど、俺は何の関係もない日本人の旅行者なのだ。俺は彼女に、自分が会ったUNの若者の話をした。
「それはちょっと無理だと思うけど。スプリトにいるUNは、毎日ホテルのプールで泳いでるらしいよ」
「いいんじゃないの。これって、よくわからない喧嘩の殺し合いなんだから。笑っちゃうしかやりようがないもの。あなた、そう思わなかったの?」
そう言いながら、彼女の顔は笑ってなどいなかった。その顔を見ながら、拳を突き合わせた相棒のフーリガンのことを思い出していた。ザグレブについてから、ずっと居心地の悪い思いを感じていたが、これだけはっきりしている。一発屋かどうか知らないが、元フーリガンの相棒は、それでも戦場へ向かったジャーナリストで、ジャップのカメラマンの俺は、何の事情もわからずにうろついているツーリストだった。あいつには、カネでも何でもいいけれど、ともかく俺にはない、確固たる信念というものがあった。
「おれは、ほんとに、何もよくわからないんだ」
黙り込んでしまった俺に、彼女は煙草を差し出してきた。
「もうすぐクリスマスだっていうのに、おかしな人たちばっかりなんだから」
二日後はもう、クリスマスイブだった。
煙草をもらって火をつけた。
クロアチアという銘柄のパッケージを見ながら、俺は明日の列車でザグレブを出ようと思った。
当時のパスポートによると、俺は1994年の12月25日に成田に帰国している。パリへ戻った俺は、日本へ帰ろうとしていた真子と、いきつけのカフェで運良く落ち合うことができて、そのまま日本へ帰ったのだ。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『アンダーグラウンド』(1995年)を観たのはその翌年だから、ちょうど自分がザグレブを訪れた頃にベオグラードで撮影されていたことになる。
1941年のナチス襲撃や、トリエステ紛争、チトー大統領の国葬などの実写が織り交ぜられたこの映画を観るまで、俺には「ユーゴスラビア」という概念そものもがよくわかっていなかった。いや、正確には、わからなかったということがよくわかった、と言ったほうが正しいだろう。
この映画で描かれている「祖国」とは、俺が八〇年代に訪ねた、いわば紛争によって引き裂かれる以前の「ユーゴスラビア」のことだ。
サラエボ生まれでセルビア国籍を持つ監督のエミール・クストリッツァは、自らを「ユーゴスラビア人」だと自称していたが、ユーゴスラビア=大セルビア主義を助長しているという批判を浴びて、引退宣言にまで発展したのは、映画ファンの間ではよく知られた話だろう。
この騒動そのものが、当時のヨーロッパにおいて、ユーゴスラビア紛争がどう受け止めれていたのかをよく物語っている。セルビア共和国の大統領だったスロボダン・ミロシェヴィッチにすべての責任がある、という、いわばステレオタイプなものだ。でも、内戦の発端とされるコソボ併合と独立(1990年)からして、アルバニアはもちろん、スロベニアやマケドニア抜きに語れるほど単純な話ではない。まして、それは冷戦終結という地政学的・軍事的な大変革の渦中に起きた出来事だった。
映画の最後で、陸の一部が島のように分かれて水上を漂ってゆくラストシーンが、強く印象に残っている。そのイメージはそのまま、テオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』(1996年)へと重なっている。幻のフィルムを捜してアメリカからギリシャへ帰国し、戦時下のバルカン半島を彷徨う主人公は、どこか、アメリカから祖国に帰り『アンダーグラウンド』を撮影したクストリッツァを彷彿とさせる。
この映画がカンヌで賞を受けたのは、同じ1995年のことだ。「国境」を扱った映画を撮り続けてきたアンゲロプロスは、旅する異邦人の物語として、一面的にはとらえきれない混沌と悲劇を淡々と描いている。
同じ頃、冒頭に書いたライバッハは、1994年に『NATO』を、1995年に『WAR』をリリースした。
ジャン・ルック・ゴダールの『たたえられよ、サラエヴォ』(1993年)を観たのも、日本へ帰ってからだ。
これらの作品はみな、自分がザグレブを訪れた頃に撮影され、レコーティングされている。
後に世界から非難を浴びることになる、NATOのコソボ爆撃を新聞記事で読んだのは、1999年のことだった。でもそれ以降、ユーゴスラビア紛争についてのニュースを知る機会はめっきり少なくなった。ユーゴスラビア紛争は1999年のNATOとUNの介入で終結した、というのが一般的な定説なのかもしれないが、コソボとマケドニアをめぐる紛争は2001年になっても続いていた。2001年といえば、他でもない。アメリカで同時多発テロが起きた年だ。
崩れ落ちるワールドトレードセンタービルの映像をテレビで観ながら、俺はまだ、自分が旅する異邦人として、もう一度バルカン半島を訪ねることになるとは思ってもいなかった。
2001年の11月、真子と二人でパリに滞在していた俺がザグレブを訪れたのは、言ってみればたまたまだった。ちょうど同じ時期に、アムステルダムで会った日本人の友達がザグレブのとある学会に出席するのを知って、パリで飛行機の切符を探していたら、運良く安いチケットが見つかったのだ。もちろん、六年前にミュンヘンの駅で別れた真子と一緒にザグレブへ行ってみたいという思いもあった。じゃなかったらクレジットカードで二人分のチケットを買ったりしなかったはずだ。
チケットを買った数日後、俺と真子はパリのシャルルドゴール空港からミュンヘンへ飛んだ。ミュンヘンで乗り換えたザグレブ行きの飛行機は、チロリアンエアーという航空会社の小さなプロペラ機だった。
ザグレブの空港に着くと、日本人の友達のTと、ザグレブ大学で教鞭をとっているBが迎えにきてくれていた。Bと会ったのは、あの時が最初だったはずだが、なぜか確信がない。というのも、アムステルダムでも日本でも何度か会っているせいもあって、記憶がいささか前後しているからだ。
ともかく、俺と彼女は、かつてフーリガンの相棒とうろついたザグレブの街を、Bの車で案内してもらい、俺よりも若いBのザグレブの友人たちが共同生活をしているアパートの一室に居候しながら、友人が講演する学会を聴講し、週末のパーティーでDJをして、真子の誕生日を祝ってもらい、ザグレブ大学から放送しているラジオに招かれてインタビューを受けたりしているうちに、数日があっという間に過ぎた。日本から来ていた友人が先に帰国した後、パリへ戻るフライトの予定の日まで、まだ数日残っていた俺と彼女は、列車でサラエボまで行くことにした。
Bの車で送ってもらい、俺は六年ぶりにザグレブの駅に着いた。かつて自分がはじめてたどり着いた時には、右も左も分からずで、ツーリストインフォメーションを見つけるのがやっとだった駅から、列車に乗ってサラエボへ向かうのだと思うと、時間をさかのぼっているような、奇妙な感覚に襲われた。
サラエボ行きの列車のコンパートメントの座席に真子と向き合って座り、走り出した列車の窓の外を遠ざかってゆくザグレブ郊外の景色を眺めているうちに、俺の記憶は、元フーリガンの相棒と、バスの中で拳を突き合わせて別れた、六年前のあの日へと、引き戻されていった。
同じような凍てつくような寒い冬の日だった。あの時の俺は、スキンヘッズの相棒から、ジャップのカメラマン呼ばわりされていたが、六年後の自分は、最初の小説を出版したばかりの、駆けだしの作家だった。パリかロンドンで落ち合おうぜ、と言っていた相棒の写真を、どこかの雑誌で見かけたことはなく、その後の消息も、まったくわからないままだった。フィルムとストロボを手渡すのが精一杯で、連絡先も聞かずに、拳を付き合わせてバスの中で別れたままだったのだ。
そんな話を、目の前でガイドブックを開きながら日記をつけている真子に、どう説明すればいいのかわからなかった。けれど、彼女は雑誌に書いた俺の原稿を読んでいたから、察しがついていたのだろう。感傷的な気分でもの思いにふけっていると、真子が思いついたようにポケットからザグレブで買った使い捨てカメラを取り出した。
「ねえねえ。こんなおもちゃみたいなカメラで、ちゃんと写真が撮れるのかしら?」
俺の手元には、そのカメラで写した何枚かの写真が残っている。
帰国後に書いたエッセイで、ザグレブとボスニアの国境で、三回のパスポートチェックを受けた時のことを、俺はこう記している。
「彼女に膝を叩かれて目を覚ました。紺色の制服を来た国境係員の男が、コンパートメントの向かい側に座った彼女の切符とパスポートを調べている。
十時間前にザグレブを出た列車は、ひと晩かかって国境の駅に着いていた。俺はレコードが詰まった鞄のポケットから切符を出して男に渡した。丸い判子が押された切符を受け取りながら「ドブロ」と言うと、彼女が吹き出しそうになり、制服の男が出て行くときこらえきれずに声をあげて笑いだした。
俺が知っているクロアチア語は、ドブロ、ジート、ピーボの三つしかない。サンキューと、ガンジャと、ビールだ。
昨日久しぶりに歩いたザグレブの町は、六年前とそう変わりはなかった。DJをしたアタックは、町外れのサワ川沿いにある古い体育館を改造したスクウォットハウスのようなクラブで、ザグレブに住んでいる友達のレイヴァーや、トサカを立てたパンクスが集まっていた。
列車が動きはじめるとすぐに、灰色の制服を来た係員がコンパートメントに入ってきて、彼女と俺をにやついた顔で眺めながら、またパスポートと切符を調べはじめた。五分後に列車が止まると、今度は紺色の制服を来た女性がやってきた。前の二人とは違って、彼女とよく似た黒い瞳と黒い髪の毛をしていた。国境をひとつ越えるのに三種類の制服を着た係員がいるわけが俺にはよくわからなかった。彼女にそれを尋ねる前に、列車はボスニアに入っていた。
彼女がじっと見つめている窓の外を、機関銃で蜂の巣にされたままの家がいくつも過ぎていった。焼けただれたレンガ造りの廃屋ばかりが並ぶ、サワ川沿いの村は、ブティックや土産物屋に人が溢れていたザグレブの街と同じように、六年前と何も変わっていないように思えた。彼女と俺は、はじめて目にするその風景を、食い入るように見つめていた」
やがて列車がサラエボの駅に着いたのは真夜中だった。内戦の後に再建されたとおぼしき真新しい駅のロビーはがらんとしていて、同じ列車からおりてきた数人の旅行者の他に人の姿は見あたらなかった。駅の外に出ると。白タクの運転手が、バックパックを背負った二人を見つけて声をかけてきた。俺はとっさに頭に浮かんだ行き先を告げた。
「ホリディ・インまで、いくらかな?」
ザグレブを出てから十八時間も列車に揺られ続けた後のぼやけた頭で、すぐに思い浮かんだ行き先は、そこしかなかったからだ。
ホリディ・インに着いてタクシーをおりると、大通りをはんで向かい側にそびえ立つ高層ビルのど真ん中に、砲弾で爆破された大きな穴がまだそのまま残っていた。それまで、いろいろ旅をしてきたが、砲弾の痕跡がこれほど生々しく残っている街を訪れたことはなかった。俺はしばらく、闇の中にそびえ立つビルを見あげていた。あたりまえすぎることだが、それは間違いなく、人間が行った砲撃の痕跡だった。
ホリディ・インの正面玄関のガラスはまだ砕けたままで、真冬のプールには水がなかった。カウンターにいた係員に一泊分の値段を尋ねると、現金かクレジットカードで250ドルを前払いしてくれと言われた。俺と真子はその場で諦めて、ロビーのソファに腰を下ろした。かつて、ジャーナリストや国連の職員がうろうろしていたであろうロビーは、人影もなくひっそりとしていて、大きなガラスに天井の灯だけが映っていた。
ひと休みした俺と真子は、ホリディ・インのカウンターに荷物を預けて、まだ夜が明ける前のサラエボを、市街地のほうへ歩いていていった。壊れたままのビルや、窓が割れたままのアパートの前をいくつも通り過ぎた。旧市街に続く繁華街の通りまで行くと、新しいショーウインドウやレストランが目立つようになった。「ジャパン・フェスティバル」と書かれた大きな旗が、通りをまたいで掲げてあった。道の突きあたりに、夜中でも炎が灯る慰霊碑があった。
ひどく疲れていた俺と真子は、ミリッカ川にかかる、あの有名なラテン橋の近くに、なんとか手頃な宿を見つけて予約をすると、また川沿いを歩いてホリディ・インまで戻った。
道すがら、たまたま通りかかった美術大学は、若い学生たちで賑わっていた。何人かの学生と話をして、もうじき開かれる展覧会のチラシをもらい、すぐ近くに現代美術館があるのを教えてもらったが、内戦の話などする学生はいなかったし、こちらから尋ねもしなかった。考えてみれば、彼らが内戦を経験したのは、日本で言えば小学校に入ったばかりの頃のはずだった。
教えてもらった現代美術館へ行くと、モザイク状の玄関のガラスは壊れたままだったが、学生が教えてくれた通り開館していて、受付に学芸員の女性が二人座っていた。
入場料を払って中へ入り、誰もいない美術館を見てまわった。いちばん印象に残っているのは、ヨーゼフ・ボイスのインスタレーションだ。作品そのものというよりも、ヨーゼフボイスの作品の上に、壊れた屋根から雨水が滴っていた。近くにいた職員の女性にそれを告げると、別に驚いた様子も見せずに、雨漏れ用に常備してあるバケツを持ってきたのはいいものの、作品に水がかからないように設置するのに苦労していた。一緒になってそれを手伝っていると、彼女のほうから話しかけてきた。
「どこからいらしたの?」
「日本です」
「最近は来館者も増えてきたから、なんとかしてあげたいわね。毎日バケツ取り替えてたんじゃきりがないもの」
旧市街にあるツーリストインフォメーションを訪ねたのは、翌日のことだった。トルコ系の調度品を並べた土産物屋がいくつも軒を連ねる狭い道の傍らに、たまたま看板を見つけたのだ。ボランティアだという女性が教えてくれた話によると、内戦の頃に、世界各国から報道関係者や国際機関の職員が大勢やってきたために、ホテルの宿泊料はどこも数倍にはね上がってしまったままらしかった。
「でも心配いらないわ。すぐ近くにいいホステルがあるから。このすぐ近くの通りの、11番地よ」
紹介されたのは、今でいう「民泊」のような普通の家庭だった。十一番地にあった漆喰の塀とトタン板の小さなドアは、ボニー&クライドのラストシーンで出てくる車みたいに、一面が機関銃の弾痕だらけだった。半信半疑でドアを開けると、中庭に積みあげられた砂袋が破れて、砂利がこぼれ落ちていた。
砂袋に囲まれた塹壕のような建物で、年老いた女性が俺と彼女を出迎えてくれた。英語があまり喋れない、寡黙で控えめな女性だった。主人は政府関係の警備員の仕事をしているらしく、リビングに緑色の制服がかけてあった。立派なベッドが設えられた寝室は快適だったが、漆喰の壁には生々しい銃弾の痕が残っていた。
俺と真子は二晩その家に滞在した。主人らしき人物と顔を合わせることはなかったが、毎日サラエボ市内を歩きまわり、疲れ果てて十一番地に戻ってくると、決まって甘いお菓子と紅茶を用意してくれているのだった。俺と彼女は、何かお礼を言いたかった。でも三日も滞在していながら、一緒にお茶を飲んだりすることがなかったどころか、ほとんど顔を合わることもなかった。
家人や夫人が、わざとそうしていてくれたのか、顔を合わせたくなかったのかはわからない。旧市街にほど近い場所柄と、あの甘いお菓子の味は、トルコ系の家庭だったのだろうと思うが、確信はない。俺の手元には、十一番地の弾痕だらけの壁の前を歩いている真子の写真が一枚残っているだけだ。
これが、俺と彼女が歩きまわった、内戦から六年後のサラエボだった。
この頃まだコソボやマケドニアでは内戦の余波が続いていたわけだが、その詳細をほとんど知らなかったのは、報道が同時多発テロ関係のニュース一色になってしまった、というだけではないだろう。
現在のサラエボをGoogleマップで見ても、俺が訪れた頃のような、大砲でぶち抜かれたビルや弾痕だらけの民家の壁は見あたらないが、あまりにも複雑で長い内戦の間に、時計の針が止まってしまったような時期があったのは、別にサラエボに限った話ではない。セルビア・モンテネグロが今の連合国家になったのは2006年。内戦の発端になったコソボが独立を宣言したのは2008年のことだが、未だに国連加盟国の半数近くはコソボを国家として承認していないのだ。
サラエボから帰った俺と真子はBの自宅を訪ねた。それまで若者たちが暮らすアパートに居候をしていたせいもあったのだろう。Bの部屋には、どこか、時間が止まっていたようなたたずまいがあった。彼は俺たちが居候していたアパートに住んでいる若者たちよりも年上の、前線で戦った世代に属していた。三度目に俺がザグレブを訪れるまでの数年間を、たぶんアムステルダムで過ごし、帰国後に内戦後のサラエボを訪ねてもいたが、それはみな、会話の端々から俺と真子が察したことで、Bの口から詳しく聞いたわけでも、尋ねたわけでもない。
古風なステレオが置いてある部屋で、Bは一枚の写真を見せてくれた。モノクロームの写真におさめられたデモの隊列の中に、まだ若かった頃の彼の姿があった。それから、一枚のレコードを取りだして俺に手渡した。受け取った真っ赤なレコードジャケットには、ポーランドの民主化の母体となった「Solidarnosc」(連帯)という文字が書いてあった。
あの写真とレコードが何を意味していたのか、尋ねはしなかったが、あの時の俺が、それを言葉にできたとも思えない。
この原稿を書く前に数年ぶりにB氏にメールを出した。ザグレブを訪ねたいという俺に、快い返信がきたが、今こうして書いている原稿について確かめたいことがあって出した何通かのメールには返信がなかった。あたりまえだ。これは、俺という異邦人の旅の物語であって、他の誰のものでもないのだから。でも、そんなあたりまえすぎることを、原稿を書きながらこれほど強く思い知ったことはあまりない。
俺はもう一度、ザグレブを訪ねようと思っている。パリに住んでいた22歳の時から数えて、四度目のザグレブを。Bはきっと、気難しそうな笑顔で出迎えてくれるはずだから。