別人になる旅

 

 僕は……と書いたそばから一瞬考え込んでしまった。いつだったか、僕が書いた本にサインをしようとしたら、「免許証を見せてください」と言われたことがあったのだ。「おれはおれだ」と言ってみたところで仕方がないので、「顔写真」つきの免許証を見せたのを思い出し、財布から取り出して眺めてみた。「名前」や「住所」などの「個人情報」が記されている。海外ならばパスポートを見せるはずだと思い、久しぶりにパスポートをめくると、「名前」の他に「国籍」や「出生地」などが明記されているのに「住所」はどこにも書かれていなかった。マイナンバー制度がはじまってしばらくたった今でも、「本人確認」のためには、通常、三ヶ月以内の公共料金の領収書などの提出が必要だ。

 あたりまえの話ばかりだが、2021年6月の報道を見て驚いた。郵便法が改正されて「宛名」がなくても「住所」だけで郵便物を配達する「特別あて所配達郵便」が日本で試行されるらしいのだ。所得税法の分類では、僕は「非永住者以外の居住者」に該当する。ややこしい括り方だが、日本は「重国籍」を認めていないのだ。「重国籍」が認められている国で日本国籍を持っている方と会ったことがある。「日本に帰国してばれたりしなければ、日本国籍を捨てなくてもいい」と話していたのを思い出し、法務省のウェブサイトを確かめると、「日本の国籍と外国の国籍を有する人(重国籍者)は一定の期限までにいずれかの国籍を選択する必要があります(国籍法第14条第1項)」と書かれていた。

 僕は2013年に出版した長編小説『ブラック・ダラー』(双葉社刊)で、本人名義の「一般旅券」と、別人名義の「公用旅券」を手にいれた主人公が、西アフリカのガーナからアムステルダム経由で帰国を試みる場面を詳細に描いた。スマートフォンの番号や、生体認証や、ICタグといった「匿名加工情報」が紐付けされ、国境を越えて瞬時に照会が可能になった現代社会でも、パスポートが旅行者にとってもっとも大切な存在証明書であるのは間違いない。僕は、一度だけ、アムステルダムでパスポートを盗まれた経験がある。警察署や大使館での手続きを思い出すと、今でも気が滅入るほど複雑で面倒な事ばかりだった。ハーグの日本大使館に紛失届を出した三日後に、道端に捨てられていたパスポートが警察署に届いていたことが判明し、日本大使館で一回限りの「帰国用旅券」を発行してもらうことができたのだ。友人のアパートに居候していた間、街に遊びに出る時も、レストランで食事をする時も、いちいち不安で仕方がなかった。しかし、僕はあの時、アムステルダムで別人になり変わることができたのかもしれない。「彼」のように……。

 この文章は、数日後にはウェブサイトに掲載されて、日本とは法律が異なる国でも読むことができるはずだ。「彼」の承諾を得なければならないと思い、朝からインターネットで調べていたが、僕が知っている「彼」についての情報のほとんどはデータ化されていた。調べれば調べるほど「足跡」を残してしまうだけだと気がついて検索をやめた。付け加えることができるのは、彼が書いた本の題名の日本語訳ぐらいだが、僕はすでに書いてしまった。「彼」のように……。

 僕が、かつてエリー・Vだったダニエル・シモンとはじめて会ったのは、彼の本が出版された1993年のパリだった。
 

『欠席裁判―自由の代償』“Contumax, le prix de la liberte?”

 

 1972年10月31日の深夜、フランス北部の港町カレイで窃盗事件が起きた。港にあるお菓子工場の事務所から、1万フランの現金と小切手(20年後の価値に換算して約5万フラン)が入った金庫が盗まれたのだ。翌日の地方紙『ノール・マタン』は三面記事で事件を報じたが、それを読んだカレイ市民でさえすぐ忘れてしまうような、ありふれた事件だった。

 数日後、ある女性の密告によって犯人の名前が判明した。ダニエル・シモン(当時19歳)と相棒のパスカルだった。警察は2人をすぐに指名手配した。スペインに高飛びしていた共犯のパスカルは、フランスへの密入国を企ててあっさり逮捕されたが、主犯格のダニエル・シモンの足取りは、まったくつかめなかった。

 やがて裁判がはじまると、共犯のパスカルは懲役5年を言い渡されたが、行方知れずのシモンのほうは、欠席裁判のまま無期懲役になった。シモンはそれまでも自動車泥棒を繰り返していて、事件の直前まで、8ヵ月間も刑務所に入っていたからだった。

 どこの国にでもあるような、ありふれた事件のありふれた決着。それですべてが終わったはずだった。

 ところがである。事件から20年後、フランスのあるテレビ番組に出演した1人の男……つい最近まで大学で政治学を教えていた「エリー・V」と名乗る当時40歳の男が、爆弾発言をした。

「私は20年前にカレイで金庫を盗み、欠席裁判で終身刑になったダニエル・シモンだ。今まで別人になりすまして、パリで生きてきたんだ」

 無期懲役の犯人が、他人になりすまし、大学で教鞭をとり、こともあろうか、コンサルティング会社で法務省のコンサルタントまでしていたというのだ。

 この日から、エリー・Vの知人はもちろんのこと、裁判所からマスコミ、カフェの井戸端会議にいたるまで、彼の話でもちきりになった。新聞や雑誌はこぞって事件を書きたてた。



「裁判逃亡者の二重の人生」(ル・モンド紙)

「賢い泥棒の隠された人生」(ヨーロピアン紙)

「闇から出てきた裁判逃亡者」(ボワスィ誌)

「押し込み強盗が法律の先生になっていた――20年の逃亡、もう十分だ」(ル・ヌーベル・オプセルヴァトゥール誌)



 どの記事も、彼の信じがたい人生を何とか解釈しようと試み、その詳しい理由やいきさつを知りたがっていた。

 どうやって別人になりすましたのか?

 なぜフランスで法律を学びはじめたのか?

 自己弁護のためか?

 そもそも、どうして時効をわずか3年後にひかえた今頃になって、あえて仮面を脱いだのか?

 人づてに話を聞いた僕の頭もまた、彼についての興味と疑問でいっぱいになった。しかも、6月はじめには、過去を洗いざらい暴露した『欠席裁判-自由の代償』という本を出版するという。ということは、テレビに出演した後も、彼はまだ捕まっていないのか? ならば、なんとか会うことはできないものか? と思いたった僕は、昔一年間住んでいたパリを久しぶりに訪ねたのだった。



 裁判所が翌週にも、エリー・V、いや、ダニエル・シモンから事情聴取をする予定だという1993年の6月10日、僕はダニエル・シモン本人と会う約束を取りつけた。彼が待ち合わせ場所に指定してきたのは、リヨン駅の2階にあるレストラン。映画『ニキータ』で秘密警察に「なりすました」不良少女役のアンヌ・パリローが44マグナムをぶっ放した「ル・トラン・ブリュ」というカフェだった。



「いいかい? 無期懲役のこの私が、大学で学生を前に、法の正義について講義していたんだよ。誰も私を疑う者はいなかった。しかも5年もの間! 講義で教壇に立つたびに、ぞくぞくせずにはいられなかったよ」

 それまでゆっくりとパイプをふかしていたダニエル・シモンは、ニヤッと笑いながらテーブルに身を乗り出してきた。短く刈りそろえた自髪まじりの髪型、カジュアルな縁色のシャツと白いスラックス、ギャルソンに声をかける時の紳士的でもの静かな仕草。彼はスクーターに乗ってリヨン駅に現れた。時々さびしさを漂わせるように遠くを眺めたり、パイプから立ちのぼる煙の奥からチラッとあたりを見渡す鋭い視線のほかには、「20年間別人になりすましてきた男」を感じさせるものはどこにもなかった。

 そもそも、彼はどうやって別人になりすましたというのだろうか? 

 パイプをふかしながら、ダニエル・シモンは「それ自体は、そう難しいことじゃない」とあっさり言った。

「まず、普通の観光客として、当時フランスからの移民が多かったカナダに入国した。そこでパスポートを失くしたことにして、フランス大使館に行き、偽の名前エリー・Vで盗難届を出したのさ。その証明書を持って、ケベックの移民局へ行き、移民届を申請した。それが受理された後で、カナダのバスポートを申請した。それで終わりさ」

「ほんとにそれだけ?」と驚いた僕にシモンは続けた。

「システムを悪用しただけさ。フランス系住民の多かったケベックは、当時カナダからの独立運動が盛んで、不安定な状態だった。私はそこをうまく狙ったのさ。それに、法務省のコンサルタントとして言わせてもらえば、官僚制度というのはコンピュータと似ていて、ノーマルな状態しか想定していないんだ。最終的にパスポートをもらうまでは、バレやしないかと緊張したけど、終わってみれば安全で簡単なことだったよ」

 そう言ってシモンは満足そうな笑みを浮かべた。



 カナダへたどり着くまでの経緯はこうだった。20年前に金庫を盗んだすぐ後に、マルセイユからチュニジアに高飛びした彼は、その後2年間もヨーロッパを放浪しながら、毎日、合法的に身分証明書を手に入れる方法ばかり考えていた。

「なぜそんなことをしようと思ったの?」

「それは、自分の罪を消すためさ。それに、別れた息子にどうしても会いたかったしね」 シモンは18歳で結婚していた。彼を密告したのは、当時の妻だったのだ。

 僕はカナダで取得したエリー・Vのパスポートを見せてくれと頼んでみた。

「もう捨てたよ」とシモンは答えたが、そんな大事なものを捨てるはずはないだろうと思って聞き返した。

「実は、弁護士と相談して、誰にも見つからないところに隠してあるんだ」

「どこに?」

「それだけは言えないな」

「じゃあ、あなたの話が作り話じゃないという証拠は?」

 もう何度も訊かれたであろう質問に、彼は嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。

「原稿を持ち込んだ時、20年前の新聞記事を調べただけで編集者は出版をOKした。そしてこう言ったんだ。『物的証拠はない。でもあなたはシモンだ。もし嘘なら、他人の罪で刑務所に入るリスクを犯していることになる』ってね。原稿料は、私が法務省に書く20ページの報告書よりも安かったけど」

 編集者は本の冒頭に「この本の内容が真実であることを証明する」とわざわざ注釈を添え、本の裏表紙にはシモンの指紋まで掲載していた。

 すでに司法官の秘書から裁判所への呼び出しを受けているエリー・V、いやダニエル・シモンは、まさに編集者が言った「リスク」の崖っぷちに立たされていた。というよりも、3月のテレビ番組で「私はすぐにでも裁判所へ行く用意がある」と言ってのけた彼は、法律家として、あえてそのリスクの中に身を置くことを望んでいるようだった。



 カナダからフランスに戻ってパリ大学に人学したエリー・Vが、ボビニー(パリ郊外の町)の法律事務所で働きはじめたのは、無期懲役判決が出た1976年のことだった。自分の判決を、彼はカナダではなく、パリで知ったのだ。

「判決を知ったとたん、不条理が私をノックアウトしたんだ。欠席裁判で終身刑になるなんて、どう考えてもおかしいだろう? 今じゃ絶対にありえないことだ(彼と会った当時のフランスの法律では、欠席裁判の場合、自動的に控訴となり、刑が確定することはなかった)。私が法律を勉強したのは、体制側の手の内を知るためだったのさ」

 一部のマスコミと、そしてシモン自身もそう考えていたが、彼が欠席裁判で終身刑になった背景には、5月革命の反動や、ジョルジュ・ポンピドゥー政権が国を治めていたという社会情勢があった。



 判決から2ヵ月後、彼は自ら裁判所に出かけていった。自分の目で自分の判決を確かめるためだ。廊下で判決文を読んでいる彼のそばを、何人もの警察官や裁判官が通り過ぎていったという。

「ひっぱたいてやりたくなったけど、怒りと同時にだんだん誇らしさを感じてきた。だって、誰も私に気がつなかったんだから」

 その後20年間も世間をあざむき続けてきた男が、なぜ時効直前になって、真実を暴露したというのだろうか? すぐにでも勾留される可能性があるというのにだ。

「それは、哲学的な問題だ」とシモンは言った。

「普通の犯罪者なら、時効まで待っているだろうね。でも、それは何を意味すると思う? システムの論理に従うことだ。私はそれに逆らう自由な役者のように、自分の論理に従うことに決めたのさ。時効になってから本を書いたら、私のこれまでの人生の意味がなくなってしまう。それに、3年前に心臓発作で倒れてから、自分の死を意識するようになった。嘘をつき通すのにも疲れたし、仮面の下のダニエル・シモンが永久に無になってしまうのが、怖かったんだ」

「あなたにとって、人生の意味とは?」と尋ねると、ダニエル・シモンはしばらく黙り込んでしまった。



 7つの手紙の形式をとる彼の本は、冒頭から痛烈な裁判官批判ではじまっている。

「重罪院裁判長殿。あなたは欠席裁判によって私を終身刑にした。もう20年も前のことだ。でも終身刑だって?」

「ぞくぞくしながら」大学の教壇に立ち、20年間も社会を騙し通してきた男が、その過去を暴露し、もう一度社会のシステムに挑戦しようとしている。

 そもそもダニエル・シモンは、どうして軽はずみな窃盗事件を起こして逃亡を企てたりしたのだろうか?

 20年前の事件の発端に、「人生の意味」が隠されているのではないかと思った。



「あの盗みの目的は、カネじゃなかった。私にとっては、当時の社会と法律に対する反逆だったんだ。警備が厳重な場所に、武器も暴力もなしで盗みに入り、しかも絶対に捕まらないで世の中をあざむき通すことが目的だったのさ」

 僕の眼をじっと見つめながら、ダニエル・シモンは自分の犯罪について意味づけた。

 彼はどうしてそこまで社会に対して敵意を持つようになったのか?



「18歳の時、車泥棒で8ヵ月間刑務所にぶち込まれた。その間に、20歳の姉が交通事故で死んだ。法律上、私は身内の葬式に出席できるはずだったのに、子供の頃から私につきまとっていたある判事のせいで、刑務所から出してもらえなかったんだ。ショックだったよ。怒りを感じた。刑務所のシステムは、個人の意思によってではなくて、法律にのみ則って動くべきもののはずだろう? 私はその時から、法律と、都合よく法律をふりかざす社会そのものに対して、決定的な憎悪を抱いたんだ」



 ル・アーブルの貧しいユダヤ人家庭に生まれ、14歳で非行少年施設に放り込まれた彼の少年時代は、家出と自動車泥棒の毎日だった。そのただの非行少年が、車やカネを得るためではなく、「社会への反逆」の手段として犯罪を起こすに至ったのは、ユダヤ人である父との葛藤に悩んで読みはじめた、サルトルやカミュの小説の影響だった。

「本を読めば自由を感じることができたし、そこには、社会への反抗のケースが山ほど書いてあった。私はすっかりアナキストになって、いつも革命が起こるのを期待するようになっていたんだ」

 彼の犯罪は、社会に対する「反逆」であると同時に、カミュやサルトルが説こうとした「自由」を手に入れる行為だったのかもしれない。「犯罪者」というレッテルと引き換えにして、彼にとっては、自分の存在を自ら選びとる行為こそが、「自由」の獲得にほかならなかったからだ。



 そして、その20年後、今度は平穏な生活と社会的地位を失うかもしれないリスクと引き換えに、ダニエル・シモンは新たな自由を得ようとしている。そんな生き方そのものに、「人生の意味があるんだ」とシモンは言う。自分の本に「自由の代償」という副題をつけたのも、こうした理由からだった。



「他人になりすますのは並大抵のことじゃない。哲学的信念があったから、絶対に捕まるわけにはいかなかったし、精神的に持ちこたえられたんだと思う。若い頃はアイデンティティーが揺らぐこともあった。精神科医に相談にも行った。不自然が自然になるまでに、結局20年もかかったんだ」

 最初は街を歩くたびにびくびくしたし、パスカルの弁護士と自分の父親に電話をかけたほかは、家族や友人にも決して連絡はとらなかった。それでもパリは狭い街だ。カフェにいると、昔の友達から声をかけられることもあった。

「シモンなんて人は知りませんよ。他人の空似じゃないですか? と言って、ずっとごまかしてきたけどね」

 自分の過去が暴かれるのを恐れ、他人と深く付き会うことはほとんどなかったが、いちばんの問題は女性だった。

「恋に落ちた相手に、嘘を重ねていくことに耐えられなかった。やがて沈黙が多くなり、必ず別れるはめになった」

 エリー・Vは3人の女性と付き合い、子供をつくっては別れた。ダニエル・シモンの時のを合わせると、4人の子供がいるという。

「でも、その子供たちが、私に生きる希望を与えてくれた。別れた息子にどうしてもまた会いたかったし、今年15歳になる娘(エリー・Vになってからのはじめての子供)のおかげで、ノイローゼにならずに済んだのさ。彼女のおかげで、エリー・Vとして真っ当な社会人になろうと努力したし、彼女への愛のためにも、私は自分の真実を明かすことに決めたんだ」

 そう語るダニエル・シモンは、出版後もまだ勾留されておらず、警察の監視もうけていなかった。

「裁判官や司法官と知り合いだった法律家の私を、簡単には逮捕できないだろう。警察は裁判の結果を待っているんだ。私はエリーの人生を自分で壊してしまったが、エリーの作った社会的関係は今の自分を助けてくれている。それに、4月に政権が交代してくれたおかげで、国じゅうが重要問題の整理に追われている時だしね」

「あなたの、つまり、エリー・Vの知人たちの反応はどうだった?」

「みんな、私のテクニックに驚き、驚嘆すると同時に、どこか居心地の悪さを感じているようだった。おそらく、友情関係に嘘の要素が入り込んでいたことを知らされたからだろうね。私自身、いまだに『ムッシュー・シモン』と呼ばれても、一瞬考えてしまうことがある。でも、精神的には以前より落ちついているよ」



 知り合いの中には「気が狂いそうだ」という人もいたが、本を読んで最終的には納得してくれたという。コンサルティング会社のボスには、「仕事をするな」と言われたが、面倒を見てきたある会社からは、「あなたが必要です。早く判決がおりるといいのですが」と電話があったという。映画化の話も進んでいて、プロデューサーとよく会っているが、20年間もかかった内的な心理変化を、外面的な描写で描くのは難しいとダニエル・シモンは考えていた。6月22日には、『仮面を剥がせ』というテレビ番組で、20年ぶりに自分の息子とも再会した。息子は、「僕は父親の過ちを恥ずかしがってはいない。これからどうなるか見当もつかないけど、どっちにしても、父親がいるのは嬉しいよ」と言って、固い握手を交わしてくれた。



 20年間かかった「変身」をチャラにして、無期懲役の身に戻ったシモンの将来は、これからどうなっていくのだろう?

 大学で法律を教えていた者として、近く請求する予定の再審について、彼は冷静に分析している。1993年には20年前と違い、良識ある裁判が行われるだろうし、20歳で捕まるはずだった40歳の男、しかも法務省のために働いてきた男を当時と同じように裁くはずはない。裁判がはじまれば、20年前、欠席を理由に終身刑にした当時の裁判官たちの権威主義を問題にするつもりであるという。

「非常にシンボリックな裁判だが、そういう事柄で反証していけば、最低でも執行猶予になるはずだ。自分の今の状態は、結果であると同時に、一つの過程に過ぎないんだ。人生はいつも弁証法的だし、法律も、何もかも、この世はすべて弁証法的なのさ」

 彼のその言葉に、大学の教壇で彼が感じていた、ぞくぞくするような快感の本質があるのだろう。すでに古典となりつつある「弁証法の快楽」とでもいうべきものが。



 犯罪者の自分、法律家の自分、そしてそれを暴露した自分。執念深く、人生の半分をかけて法律と社会を出しぬき、自分の哲学を体現してきた男は、その法律のシステムを利用して執行猶予になることで、自分の身を救おうとしているだけなのか? 

 いや、まだ物語は終わっていないようだ。レストランから出て、リヨン駅の雑踏で「また会いましょう」と手を差し出すと、シモンは僕に言った。

「ああ、私がまだシモンのままでいたらね」



 それから数年後、久しぶりにパリを訪ねた僕は、「彼」に連絡をとった。電話に出た男性に、「ムッシュー・シモンと連絡を取りたいのですが?」と尋ねると、すぐに返事があった。

「私がシモンだが……」



 パリのとある通りのとあるカフェで待ち合わせた彼は、はじめて会った時と同じようにスクーターに乗って僕の前に現れた。

 彼が自由の身になったことは知っていたが、一緒に昼食をとりながら、自分自身が弁護人を務めた裁判の進展や、今は大学の仕事をやめて作家をしていることや、刑務所の受刑者の権利擁護の活動をしていることなどについて、淡々と話してくれた。彼の口調は、はじめて会った時と同じように落ち着いていた。

僕はどうしても訊いておきたいことがあった。

「ところで、エリー・Vのパスポートはもう捨ててしまったの?」

 エリーの名前を聞いたとたん、彼は食事の手を休め、僕を見ながら声を潜めて呟いた。

「ひとつ面白い話を教えてやろうか。君がもし別人になりたければ、イタリアに専門の旅行会社がある。カネを払ってツアーに参加するだけでいい。たったそれだけで、どこかの国の正式なパスポートがもらえる。もちろん偽名の」



 十数年後、僕は『ブラック・ダラー』という小説を書いた。エリー・Vことダニエル・シモンとのパリでの会話を思い出しながら。
 

(第2回・了)