建築の旅
この旅行記は、2002年に出版された建築雑誌に書いた原稿が元だった。「オランダの建築とライフスタイル」と題された雑誌をめくると、冒頭にレム・コールハウスのインタビューが掲載されている。後に日本語訳が出版された都市空間をめぐるエッセイ『S,M,L,XL』からの抜粋を読み返しながら、取材当時の原稿をそのまま掲載することにした。理由は他でもない。コロナやテレワークで住環境や空間を常に意識せざるを得ない生活が続いている一方で、この日本でも、空き家バンクや子供食堂ができるほど、都市や町のあり方や、空間についての認識が大きく変わり続けている。そんなふうに思えるのは、今にはじまったことではないのだから。
『アムステルダム・ウェイステッド』
ダム広場からレッドライト地区の路地を東へ入る。ジョイントの煙がたちこめる狭い路地を、バックパックを背負った旅行者がホテルを探してよろけながら歩いている。どの柱も、壁も、斜めに歪んで崩れかかった十七世紀の建物と、運河に沿って曲がりくねった道の途中で、泥にはまった獣のように時間がだんだんとゆっくりになり、やがて静止する。次の曲がり角は近いはずだがなかなかそこへはたどりつけない。ピンク色の飾り窓の前を過ぎてコーヒーショップの椅子にへたり込む。交差点の先の広場で路面電車のパンタグラフが青白い火花を散らす。いつか見たような景色だな。カプチーノのカップの向こうを獣の群れが歩いている。私もまた、二十歳の頃からそのような旅行者のひとりだった。
アムステルダムに長居するのは五、六年ぶりだ。1996年に『アムステルダム・ウェスイテッド』を撮った映画監督のイアン・ケルコフは、大麻も売春も安楽死も合法のこの街について、「自由すぎてどうしたらいいかわからない」、と何かのインタビューで語っていた。今の私の中で、人口たった七十万人のこのちっぽけな街は、ここで暮らし、ここを通り過ぎていった何人かの友達や知人の、顔や声や音楽や生き方と、分かちがたく結びついている。この街は、彼らのものだ。スキポール空港のATMではじめて「ユーロ紙幣」を手にした私は、彼らの居場所を探しにでかけた。
『レイヴ・トラヴェラー』
「ダム広場から東に歩いて三つ目の運河沿いにあるカフェで待っててください」と上野俊哉さんは電話口で言った。運河沿いの中二階にあるカフェはすぐ見つかったが、古くて重そうな木のドアの前で立ち止まっていると、すぐ隣のアパートから「こっちこっち」と呼ぶ声がする。階段を登ってきた上野さんと一緒に半地下になった広いキッチンに入り、大きなソファーに腰を下ろした。「まだあとがきが終わってなくてさ」と忙しそうにノートブックに向かう彼の横で、テーブルに置いてあった紙の束を手にとった。『実践カルチュラル・スタディーズ』と題されたそれは、彼が次に出す新書のゲラだった。
毎年三、四回はアムステルダムに滞在するという上野さんは和光大学の助教授だが、彼と私は大学でも学会でもなく、レイヴ(野外で行われるダンス・ミュージックのパーティー)会場のスピーカーの前で何度も一緒に踊っていた。去年の十月にはクロアチアで落ち合い、サグレブのクラブで二人でDJをした。上野さんは学会でザグレブに来ていて、私は長旅の途中だった。新書のゲラには、レイヴやトランス(ダンス・ミュージックのひとつ)やトラヴェラーやスクウォットのことが、私の本とは違う用語や言い回しで書いてあった。
本の中でも会話でも、彼はよく「トライブ」という言葉を使う。スクウォッターやスケーターは、ある建物やスプレーで落書きされた街の一郭といった、それぞれの空間を共有しているトライブだ。レイヴァーやトラヴェラーやトランス・ピープルは、居場所や国が違っても、パーティーや旅や音楽などを共有しているトライブである。
「部族」と日本語に訳すと、かつての「コミューン」的な共同体みたいでかなりニュアンスが違うが、都会や社会の中でこそトライブは大きな意味を持つ。巨大で種々雑多な都会の中で、トライブは会社や社会システムとは別の形での(アルタナティブな)コミュニケーションや人の集まりを生み出すからだ。上野さんは「アーバン・トライブ」という言葉でそれを表していた。
ゆるいブレイク・ビーツを聴きながらパソコンとにらめっこしている彼に私は訊いた。
「上野さんて、いつからアムスに来るようになったの?」
「十年ぐらい前に、スクウォットとか自由ラジオ(海賊ラジオ局)の調査をしにここを訪ねて来たの。その頃ここはまだほんとのスクウォット・ハウスで、このキッチンにヘアート・ロフィンクやハキム・ベイが座ってて、僕はまだネクタイ締めてる学者の卵って感じだったから、ここはいったい何なんだろう? って驚いたけど。今はここの鍵をもらってて、日本人の居候って言われてる」
メディア理論家、アクティビストとして知られるヘアート・ロフィンクは、70年代後半からアムステルダムを拠点にアトノマス(自律した)・ムーブメントの一端を担い、スクウォッティングの理論家、実践家として知られた人物だ。やがてインターネットを公共圏として発展させる活動を多数立ち上げ、東西ヨーロッパ各地で独立メディアやニューメディアカルチャーを支援してきた。今はオーストラリアのシドニーに拠点を移し、ニューエコノミーの研究に取り組んでいる。
ハキム・ベイは『T.A.Z.The Temporary Autonomous Zone, Ontological Anarchy, Poetic Terrorism(一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム)』(1985.1991) というすごい題名の本を書いた老アナーキストで、アンチ・コピーライトの実践家でもある。既存のシステムの中にアルタナティブで一時的な公共圏を創り出せ! という煽動的なテキストは、80年代のニュー・エイジ・トラヴェラーや90年代のレイヴァーやハッカーたちにも読まれるようになった。
私がスクウォットやニュー・エイジ・トラヴェラーのことを知った……というか彼らと出会ったのは、80年代の末にパリに住んでいた頃だった。パリの郊外や、ベルリンやアムステルダムやロンドンには、ギャラリーやバーやアパートに改造されたスクウォット・ハウスがたくさんあって、泊まることもできた。田舎のキャンプ場やロック・フェスティバルの会場には、バスやキャンピングカーで移動生活をしながら、フリー・パーティーをしているニュー・エイジ・トラヴェラーと呼ばれる人たちがいた。パリの街中のデモではサウンドシステムからダンス・ミュージックが流れていた。
やがてイギリスで沸き起こり、世界じゅうに飛び火していったレイヴ・パーティーの背景には、そうした80年代のいくつものムーブメントがあった。
日本でパーティーが盛んになった90年代の半ばに、私は自分がかつて旅したヨーロッパの街や、パーティー会場やロック・フェスティバルを、キャンプや野宿をしながら訪ね歩いた。その旅の話を『レイヴ・トラヴェラー』という本に書いた。
(脚注:60年代の「サマー・オブ・ラブ」と80年代の「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」については自著に記した)
ヨーロッパのどの街にも、近くにはキャンプ場がある。アムステルダムのいちばん近いキャンプ場は、中央駅から歩いてたった十五分か二十分ほどだ。オーストラリアのキャラバンパークのように住んでいる人こそ少ないが、バックパックを背負ったトラヴェラーからキャンピングカーに乗った老夫婦まで、長く滞在している人も少なくない。
パーティー会場にはスクウォッターやトラヴェラーも大勢集まっていた。スクウォット・ハウスは当然のようにウェアハウス・パーティーの会場にもなった。ずっと違う場所で違う言葉を書いてきた上野さんと私は、そうしたレイヴ会場で出会ったのだ。
仕事が一段落ついた彼とキッチンを出て上階へ行った。彼がアムステルダムに来るたびに使っている小さな部屋のほかに、このアパートには四人が住んでいる。スクウォットの最盛期は80年代で、今はアムステルダムにもスクウォット・ハウスはあまり残っていない。この建物も93年に元の建物を壊して95年にアムステルダム市によって建て直された。建て直しの間ヘアートたちは市からすぐ近くにアパートを提供してもらい、二年後にまたこのアパートに戻ってきた。
再建された建物には古びた煉瓦造りの外観が施されている。「日本で言ったら、美観地区みたいな場所だからでしょう」と上野さんは説明する。でも建て直し中の部屋まであてがってもらったというのは、ちょっと信じ難い話だった。
「ずっと住んでるベンって人がいるから、詳しいことは彼に聞いてみればいいよ」
上の部屋と隣のカフェをのぞいたが、あいにくベンは見あたらなかった。アパートに戻った私はまたさっきのゲラに目を走らせた。今まで読んだことがある彼の本とは違う、ある決意がそこには漂っていた。実践とはそれを生きることだからだ。アムステルダムは彼にとってその拠点となったふるさとだった。
「トシヤ!」と呼ぶ声がして窓の外の通りを見ると、もう一人のベンが立っていた。
『ディアスポラの思考』
アパートに入ってきたベンと私は四カ月ぶりに抱き合った。
二人とも、アムステルダムに来るまでお互いがこの街にいるのを知らなかったし、去年ザグレブで別れてから、こんなに早くまた会えるとは思っていなかったのだ。
クロアチア生まれのベンは、旧ユーゴスラビアの内戦の後ザグレブを出てアムステルダムに住んでいた。日本ではじめて会ったのはちょうどその頃だったが、去年ザグレブで会った時には故郷に戻り、サグレブ大学の社会学科で教鞭をとり始めていた。
そのベンがどうしてアムステルダムにいるのか、直接は訊かなかったが、ベンの話の端々から、去年ザグレブに戻る前にやり残した事務的な手続きの処理に忙しいのだと察しがついた。彼はアムステルダムとそこに住む人々に別れを告げるためにここに来ていた。
私たち三人は連れ立ってトラムに乗り、友達のDJ、ベティーのアパートへ向かった。十四番線のトラムは市街地を抜けるとアパートが建ち並ぶ郊外に入る。二~四階建ての低層住宅が続く様子は、煉瓦色の外観やドアやバルコニーのデザインを別にすれば日本の公団か団地のようで、一戸建ての家はどこにも見あたらない。十四番線の終点のひとつ手前の停留所で、髪をピンクに染めたベティーが待っていた。
ベティーはセルビア生まれのDJで、去年の大晦日に東京で彼女がDJをした時に私ははじめて彼女と会った。アパートへ向かう道を歩きながら彼女に言われてわかったが、このあたりの道にはどれも哲学者の名前がついていて、ソクラテス通りからデカルト通りに曲がったところが彼女の住む建物だった。
三つの部屋に玄関のホールと台所がついたアパートには、ベティーの姉と弟の他に、クレオールを母親に持つオランダ人男性が住んでいる。若者が何人かでアパートをシェアするのは、どこの国でもよくあることだ。私も経験があるが、特に外国人の場合は、金銭的な問題や手続き上の問題で、シェアや又貸しや月ぎめのホテル(ペンション)の他に部屋を借りる手段がないという場合も多い。日本の場合はガイジンハウスと呼ばれる敷金礼金なしのアパートがそれにあたるだろう。
ベティーの部屋のDJブースで、私たちは互いに持ち寄ったCDやレコードをかけはじめた。ベティーの姉は旧ユーゴ内戦の前にオランダに来てオランダのパスポートを持っているが、ベティーと弟は母国のパスポートのままだ。ベティーと妹は毎日保育園で子供の世話をしている。
私は戦争をはさんで三度バルカン半島に行ったが、彼らの国で何が起きていたのか、今でも理解は曖昧なままだ。ベティーの姉に「日本人はユーゴの内戦のことをどれぐらい知ってるの?」と訊かれて、「うちの両親は何も知らないだろうね」と答えるしかなかった。クロアチアで育ったベンの母親はボスニアの生まれで、ベンとベティーの弟は別な国で兵役についていた。戦争の後ベンはボスニアを旅行し、ベティーは何度かクロアチアでDJをしている。ニュースが伝える政府のプロパガンダは知り得ても、三つの国の戦争がほんとうはどういうものだったのか私には今もわからない。はっきりしているのは、母国を離散(ディアスポラ)した彼らが、アムステルダムで出会い、今ここで私の目の前にいて、一緒に同じ音楽を聴いているということだ。
ゴリシア語の語源を持つディアスポラは、本来はパレスティナを去って世界各地に居住する離散ユダヤ人とそのコミュニティーを指す言葉だが、今ではもっと広範囲に、ヨーロッパに住むカリブ系移民や、台湾や香港の中国系移民、そしてベティーたちのような旧ユーゴからの避難民などまでを含んだ概念として使われている。『ディアスポラの思考』(上野俊哉)によれば、それはただの「移動や亡命状態」とは区別され、〈生まれた場所、あるいは「ルーツ」としての起源の場所から切り離され、にもかかわらずその場所との距離、隔たりのなかにあってなお、その起源との文化的、倫理的、宗教的……結びつきを強くもった連帯のあり方、「ルート」(経路)を通した共同体のネットワークをつくりだしていること〉だ。
他の街にはない自由さはあっても、アムステルダムがとりわけ外国人の住みやすい街だというわけでもないだろう。でも母国から離散したベティー姉妹とベンを、アムステルダムという街が結びつた。そして今はレイヴと音楽が彼らと私や上野さんを結びつけている。
レフレッシヴ・トレランス
二日後にまた運河沿いにあるカフェに行ったが、スクウォッターのベンは忙しそうで相変わらずつかまらなかった。カフェにいた女性が上野さんに「いつアムステルダムに来たの?」と話しかける。彼女は同じアパートの住人だが、上野さんが三日も前からいるのをカフェで会うまで知らなかった。
カフェにはそのほかにもたくさん近所の住人や飼い犬なんかが集まってくる。私もパリでカフェの上にあるペンションに住んでいたが、自分が住む通りのカフェに顔を出すのは欠かせない日課だった。日に一、二度は必ず顔を出していたカフェで、私は昭和が終わったニュースを知り、銀行に口座を作るための保証人を見つけたのだった。カフェはただの喫茶店じゃない。人が集まり情報がやりとりされる公共圏だ。
夜になって隣のアパートに戻ると、長身に編み上げのブーツをはいたスクウォッターのベンが私を待っていた。彼は1981年に再建前のこの建物をスクウォットした。アパートの裏にあたる地下鉄のニューマークト駅からワーテルロー広場にかけての一帯が、アムステルダムのスクウォット運動のそもそものはじまりの場所だった。
「75年に地下鉄の建設がはじまって、旧市街を再開発して新しいビルや市庁舎を造るために市が住人をニュータウンに追い出しはじめたんだ」
ワーテルロー広場一帯は、数世紀にわたってユダヤ系住民が多かった場所で、ナチス支配下の時代にはゲットーが造られていた。
「でもほとんどの人は移りたくなかった。再開発計画を潰そうというのがスクウォット運動のはじまりだったんだ。もうひとつの要因は住宅問題だね。両親と同居せざるをえなかったり、狭いアパートにしか住めない若者や学生がたくさんいたから」
地下鉄の路線に沿った一帯には、再開発運動のせめぎあいの一端を今も見ることができる。ふたつの駅の間にある運河を境にして、十六世紀から十七世紀に立てられた古い建物が残る旧市街の狭い道が、四車線幅の広い遊歩道に変わり、運河の先のワーテルロー広場の周りには新しいビルと市庁舎が建っている。80年と81年にはここで警官隊との大規模な衝突が起きた。その様子を収めた大きな写真が何枚か地下鉄のホームに飾られている。一緒にそれを見に行ったベンは、「市から僕らへのプレゼントだよ」と冗談まじりに言った。
「スクウォットのもうひとつの重要な側面は、自分たちの文化的、政治的な活動をするための、自由な空間や雰囲気を創り出す運動だったってことだ。新聞の印刷や集会をしたり、バーやレストランを開いたり、アーティストがアトリエにしたり。最盛期にはアムステルダムだけで千近くのスクウォット・ハウスがあったんじゃないかな」
ベルリンにもかなりの数のスクウォット・ハウスがあったが、千というのはものすごい数だ。どうしてそんなに空き家が多かったのかと訊くと、「建物のオーナーの多くは、再開発と値上がりを待つために、建物に何も手を加えずに放っておいたんだ」とベンは言う。
「何百年も前の建物を修理するのはものすごくお金がかかる。それをできるのは行政だけだった。だから行政が再開発をして不動産価格を上げようとしたんだ」
ベンがスクウォットしたここも、十七年間も空き屋の状態だった。
「70年代後半に友達がスクウォットしようとしたけど、ここはメトロのラインじゃなかったから他のスクウォッターたちが賛成しなかったんだ。スクウォットはそういう政治的な運動だったんだよ。80年代になるといろんなグループがスクウォットしはじめて、一週間か一カ月だけ住んでパーティーをやって建物を捨てるようなトラヴェラーもいたけど」
スクウォットの手順は、まず前の晩に誰かが下見をして、部屋数を埋めるのに必要な人数を集め、次の日素早く一度に荷物を運び込む。それで終わりだ。
「椅子とテーブルとベッドがあって部屋が埋まってれば、それはスクウォットだから警察やオーナーはもう何もしたがらない。もちろん暴力を使って追い出しにかかるオーナーもいたけどね」
80年代にベルリンやロンドンといったヨーロッパの他の大都市でも同じようにスクウォットが成り立っていた背景には、建物に対する日本とは違ったとらえ方がある。築百年以上も珍しくない建物には、街のシンボルや共有財産のような性格があって、空き家になって朽ちていればそれを有効に使いたい人が修繕して維持する、という考え方が時と場合によっては成り立つのだ。
所有権や居住権という法律から見ればスクウォットは確かに不法占拠だが、住民が嫌がる都市の再開発や地上げのような、地域社会にとって公正とは言えない物事が絡んでいるとなれば、法律を超えたところにより現実的なルールができあがる。80年代の失業やホームレスの蔓延と、それを扶助しようという社会の空気もスクウォットが広まった要因のひとつだった。
スクウォットされた建物は、政府の持ち物でも企業のものでもない。誰の利害にも結びつかない公共圏だ。そういう場所でこそできることをしようという人たちがそこには集まってくる。スクウォット・ハウスが地域のコミュニティーセンターやアートギャラリー、自然保護のような公共の活動に利用されていたり、世論がホームレス側についていたりすれば、それを無理やり追い出すのは警察や企業にとってかなり不利なことになる。
現実の問題や状況があるならば、それをより具体的な方法で解決していこう、という考え方がそこにはある。ベンはトレランス(寛容)という言葉でそれを説明した。
「ヨーロッパの中でも特にアムステルダムにはトレランスの歴史があった。何百年も前からたくさんの外国人や旅行者がいたから、異文化に対しても寛容だったし。造船業が栄えて国際貿易の中心地になり、芸術家や科学者も各地から集まって、アムステルダムがいろんなものを結びつける役割をしていた。それに、オランダはある程度の富裕層がいる国でもあったから」
80年代半ばに最盛期を迎えたアムステルダムのスクウォッティング・ムーブメントは80年代後半になると下火になってゆく。
「経済が良くなるとともに建物の再建築がはじまって、家主の権利を守る法律ができた。もうひとつの理由は、スクウォッターのセクト同士で大きな揉め事があって、政治的な力と結びついたりしながら変容していったんだ」
90年代にはいるとオランダ人にかわって外国人やマイノリティーのスクウォッターが目立つようになった。
「たくさんの人が不法滞在しているからね。彼らは短い期間だけ住めればいいけど、オランダ人の若者はそうもいかないだろう?」
ベンがスクウォットした建物には複数のオーナーがいた。それを市と不動産会社が共同出資して建て直すことになった。
「僕らは六人のグループだったから、市がこの近くに六人分のアパートを借りて建て直しの間の家賃を払ってくれた。そして建て直しの後も優先的に安い家賃で入居することができたんだ」
今の家賃は四人ぶんの部屋と共同の広いキッチンで約800ユーロ。アムステルダムでもかなり安いが、ずっと失業保険をもらっているベンはその半額しか払っていない。
「建て直した人たちはお金持ちに売りたかったんだろうけど。僕らはこういう家に住んでるはじめての貧乏人だね」
市内に今も残っているスクウォット・ハウスは、おそらく十数軒だけだと彼は言う。
「おおきなのはひとつかふたつじゃないかな」
ダム広場の西側のスパウ通りには、建物全体を派手にペイントした、いかにもスクウォット・ハウスのような大きな建物があった。
「あそこは、今はそうじゃない。スクウォッターが買ったんだ」
えっ? と驚いた私にベンが続ける。
「80年代後半から90年代にかけて、そういうことが起きた」
莫大なお金じゃないの?
「いや。スクウォッターが中にいる建物なんて、誰も欲しがらないから売るのも難しいし、直すにもお金がかかるから、そのままそう高くないお金で買う機会をスクウォッターに与えた時期があったんだ。それで、買う買わないでスクウォッターの間でまた揉め事があったりもした」
これも信じがたい話だった。
「あそこは今はスクォッターのセンターみたいになっていて、中にはバーやクラブもあって夜はやってるから、ベルを押せば入れると思うよ」
90年代の半ば、イギリスにはスクウォットや無許可の集会、パーティーなどを取り締まるクリミナル・ジャスティス・アクトという法律ができたが、オランダでは別な形でスクウォットが収束していったのだ。
「オランダやドイツはまだ少しはフリーなんだろうけど、同じような法律を作りたがっている。今はスクウォットは小さなムーブメントだから、追い出すのなんか簡単だしね。アムステルダムは観光客とお金儲けの街になって、政治も保守派とリベラルの区別が曖昧で、いろんなことが静かに保たれてるって感じだね。〈寛容的抑圧(レフレッシヴ・トレランス)〉っていう言い方もあるけど、ゆっくりとイントレランス(不寛容)に向かっている。ただ、イントレランスが勝つとは思わないな。オランダ人はそういう国民じゃないから」
次の日ベンは私を、彼らがアナーキスト・ブックショップと呼ぶ本屋につれていってくれた。本屋のオーナーはスクウォット黎明期の活動家で、英語やオランダ語のアクティビズムの本やパンフレットがインディーズレーベルのレコードと一緒に並んでいた。ベンは本屋の地下のパソコン教室に通いはじめたばかりだった。
Junkie XL
翌日私は知人のミュージシャンのスタジオをたずねた。フジロック・フェスティバルにも来日しているJunkie XL ことトムは、オランダ人で世界的に有名なミュージシャンのひとりだ。去年東京で友達がオーガナイズしたパーティーの楽屋で私は彼と長々と話し込んだ。
電話で言われたとおり、中央駅から運河沿いの道を西へ歩いた。玄関のドアを開けると長い廊下の入り口の壁に、白地に赤いペンキで書かれた看板が貼ってあった。SQUAT のA の文字が、丸で囲んだアナキストマークになっている。どうやらここもスクォット・ハウスか、元スクウォット・ハウスだった建物らしい。
どこの部屋かわからずに廊下をうろうろしていると、突き当たりに地下へ下りる階段があって、天井の低い地下のスタジオでトムが掃除機をかけていた。「ちょうどサーシャ(DJ)の曲のリミックスが終わったところでね」と言う彼の足元に、絡まったコードの束が山盛りになっている。
三つ部屋続きになった細長い地下室は、三十畳ぐらいの広さはあるだろう。壁の所々から空調用の太いダクトが突き出ている。入り口から順に、パソコンとミキサー卓などがあるミキシングルーム、真ん中に二十台ぐらいのシンセサイザーがずらっと並んだスペース、奥にはテレビとソファーが置かれた休憩用の部屋があった。入り口近くには、ガラス張りのギターやボーカル用のブースもしつらえてある。
「三年前にここに移ったんだけど、家賃は月400ドルぐらいかな」
「平均よりもすごく安いよ」とトムは付け加えた。
「ここは元スクウォット・ハウスだから。今は不動産会社に家賃を払ってるけど」
廊下の壁にあった看板はやはりそういう意味だった。私は写真を撮りながら、楽器やアムステルダムの音楽シーンの話を聞いた。私と同年代の彼はオランダの田舎町の生まれだ。ジャンキーと名乗ってはいるが、それは友達から音楽中毒と言われていたからで、真面目な職人っぽいところがある。
「階段の向こう側にも友達のスタジオがあって、ドラムもそこで録音できるから、ここですべての作業が済んじゃうんだ。二、三日閉じこもってることもたまにある。家はこの近くで、彼女から夕食に呼ばれて外に出たら真っ暗、なんてことはいつもだから」
ほんとうの意味でのスクウォット・ハウスは数少なくなったとはいえ、元スクウォットハウスだった建物は、今でもこうしてアーティストやアルタナティブな活動を支える場となっている。
彼のようなテクノのアーティストやDJは、夏のシーズンには毎週末のように飛行機であちこちの国のパーティーやフェスティバルを飛びまわっている。ある国のアーティストの曲が別な国のスタジオにデータで送られてリミックスされ、また別な国でレコードにプレスされて世界中のフロアでヒットする。それが時にはわずかしかプレスされていないレコードだったりする。そうしたネットワークや流通のあり方は、インターネットの世界と良く似ている。トムは去年、インターネットに自分の曲の素材を公表してリミックスを募るコンテストを行っていた。
書き替えられた世界地図
トムのスタジオを出て、暗くなったアムステルダムの街を歩いて帰った。数日の滞在で友達や知人と会ううちに、最初はよそよそしかったこの街が身近になったような気がする。アムステルダムの中心は東京の新宿か渋谷の広さぐらいしかない。その小ささが、この街の公共性や寛容を成り立たせてるのは確かだろう。でもいったい東京に住む何人の人が、自分がこの街、この街角、この通りの一員で、それを一緒に造り続けているという実感を持っているだろう。十八年間も東京に住んでいる自分は、ほとんど感じたことがない。
翌朝早く、駅前の船着場で二人のベンや上野さんと落ち合った。よく晴れた運河のほとりでカプチーノを飲みながら、「ヘアートはどうしてオーストラリアに行ったの?」と上野さんに訊くと、「ヨーロッパに幻滅したんだよ」と彼は言った。
アムステルダムのスクウォットの季節は終わった。ザグレブのベンはアムステルダムに別れを告げて、上野さんと連れ立って母国へ帰ろうとしていた。
でも私たちはまたどこかでばったり顔を合わせるだろう。それはいつものレイヴ会場やインターネットの中かもしれないし、まだ知らないまったく別の、書き替えられた世界地図の上かもしれない。