オートバイの旅

 

 僕は何台かのオートバイを乗り継いできた。オートバイの歴史は自動車とほぼ同じ、内燃機関が発明された19世紀末までさかのぼる。オートバイが「鉄の馬」と呼ばれるように、かつての馬にかわる乗り物として、戦場で、あるいは道なき道を走るために、世界じゅうに広まっていった。車も通れないような悪路を走るには、馬、牛、それにオートバイなのだ。僕がそれを実感したのはヴェトナムの山岳地帯を旅した時だった。

 そこはかつてフランス領インドシナと呼ばれていた「戦場」でもあった。マレー半島は何度も旅していたが 仏印進駐について調べはじめたのは、このオートバイの旅がきっかけだった。郷里の福島大学で教鞭をとっていた経済学者の小林昇が、戦時中にほとんど同じ山岳地帯を歩いていたことも知らなかった。
 

ミンスク・クラブ

 

 岩にはまったタイヤが滑り、エンジンが空回りする。マフラーが発煙筒のような煙を吐き出す。125ccのベラルーシ製エンジンのトルクは日本の原チャリ並みだったが、2ストロークの吹け上がりはかなりの手応えだった。クラッチを滑らせたまま、岩の上で暴れる車体を押し上げるようにして坂を登る。

 一日5ドルで借りたミンスクのギアは4速だったが、すべてのギアの間に空回りするポイントがあった。アクセルとクラッチの加減でギアが入らないのか、ガタがきているだけなのかはわからない。ブーツを履いたつま先でチェンジレバーを思いっきり引っ張り、また蹴りつける。空回りするギアを2回に分けて操れるようになった頃には、ベラルーシ製の赤いタンクのミンスクを僕は、自分のバイクのように愛していた。

 岩だらけの山道を飛び跳ねながら下りてくる僕を、峠の下からオーストラリア人のディグビーが眺めている。僕がはじめてベトナムを訪れたのは、1994年頃だった。はじめて訪れたベトナムの様子を、「ハノイはサイゴンにくらべれば落ち着いた街だった」と、僕は『地の果てのダンス』という本に書いていている。

 それから6年後に訪れたハノイでは、米兵の名前が刻まれた「ジッポの偽物」はメジャーなお土産ではなくなっていた。かつて「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれたホアロー収容所の跡地には、真新しい高層ビルとショッピングモールが建っている。シートの上で抱き合うカップルや、豹柄のボディコンを着た女の子が、荷物を山と積んだバイクの間をすり抜けていく。法律の規制があるため、ほとんどは125cc以下の小型車で、カブとスクーターの中間のようなホンダのドリームがいちばん多く走っているが、韓国や東欧のバイクはもちろん、ホンダの偽物の「HONGDA」や、日本の電話番号を書いた本物のスーパーカブまでもが走っている。ほとんどの人がノーヘルにサンダル履きで、摂氏35度を超えるハノイの道を埋めつくしていた。

 ベトナムで単車に乗るのは、趣味でもファッションでもスピードのためでもない。必要だからだ。歩道のあちこちに置いてあるペットボトルは「ガソリン屋」で、空気ポンプは「パンク修理屋」だった。店を構えたバイク屋が並ぶ通りはいくつかあるが、泥棒市場と呼ばれる一画には、道の両側を埋めつくした屋台に、エンジンやクラッチや、ありとあらゆる単車の部品が山積みになっている。ホンダやベスパの新車には2000ドル以上の値段がついていた。旧市街にはバックパッカー向けの貸しバイク屋が何軒かあったが、どの店にも僕が欲しいバイクはなかった。

 僕とカメラマンのジェフは、ベラルーシ製のミンスクというバイクを探していたのだ。

 雑誌の取材で「ベトナムにツーリングに行ってみない?」と言われてやって来たのはいいものの、ベトナムでどうやって単車を手に入れて、どのルートを走ればいいのかもわからずハノイに着いた。僕のただひとつの手がかりは、旅行ガイドブックの『ロンリー・プラネット』に書かれていた、たった30文字の文章だった。

「ベトナムをツーリングするならロシア製のミンスクがいい」

『ロンリー・プラネット』に載っていた携帯の番号に電話をかけると、電話に出た男がディグビーという名の男の番号を教えてくれた。話を聞くと、ハノイではなんと、ミンスク・クラブなるものまであるらしい。ディグビーはそのクラブのボスだった。

 翌日、僕とジェフとディグビーは昼間から通り沿いのレストランの椅子でビア・ホイをあおり、リャオカイの真っ白い煙を吐き出していた。ビア・ホイというのは、使い古しのペットボトルに詰めた安い地ビールで、リャオカイは刻み煙草を吸う竹製の水パイプのことだ。やがて夜になると、どこからともなくディグビーの友達が何人もレストランに集まってきた。ミンスク・クラブは思っていたよりずっと大きな集団で、なんと30ヵ国近くからハノイに集まった250人以上もの会員がいるらしい。旧市街地にはベトナム人が経営するミンスク専門のバイクショップと、クラブの連絡先を兼ねたマーキーという名のバーがあった。クラブのメンバーは、ミンスクの社長がハノイに来た時に、旗まで作って空港で出迎えたという。

 ディグビーに「ツーリングへ行きたいんだけど」と持ちかけると、いくつかの大使館や病院や救急ヘリの電話番号と、英語とベトナム語で「EVACUATION(脱出)」と書かれた名刺サイズのカードを作ってくれた。それが「ミンスク・クラブ」の会員証だった。

 レストランを出て、ディグビーのミンスクの後ろに乗って次の店に移動した。入り口に「仙酒館」と看板を出した怪しげなバーのドアを開けると、ヘビやネズミを漬けたベトナムではよく見る酒瓶が並ぶ店の一角に、巨大な月の輪熊をまるごと酒に浸けた大きな水槽が置いてあった。

 きつい地酒を飲み干す僕たちの横で、店主の男がひっきりなしにかかってくるサッカー賭博の電話を受けていた。突然バリバリッという音がした。振り向くと、熊の水槽のガラスが壊れて強烈な悪臭を放つ熊酒が流れ、店の外まであふれだした。大騒ぎの店から逃げ出し、鼻に残る熊の臭いに苦笑しながら、僕らは巨大なスクリーンが設置された郊外のスタジアムまでミンスクを飛ばした。その日はユーロカップのイタリア対オランダ戦の日だったからだ。キックオフの午前2時に会場に着くと、100人以上のミンスク・クラブのメンバーが集まっていた。
 

トライバル・ギャザリング

 

 数日後、中国との国境近くにあるラオ・カイで列車を降りると、早朝の駅前を何台ものミンスクが走っていた。夜行列車の3段ゴザ敷きベッドの一番上で、ろくに眠れもしなかった僕は、あくびをしながら自分のミンスクを押してディグビーの後をついていった。タンクのガソリンは、安全のため夜行列車にバイクを積む時にすべて抜いてあったからだ。

 ミンスクはオフロードとオンロードの中間のようなバイクだが、かなりシンプルな造りのシロモノで、鉄のフレームにエンジンとタイヤとヘッドライトと工具箱とガソリンタンクがくっついている。ウインカーはあってもどうせ誰も使わないし、ブレーキはかろうじて止まれるぐらいの利き具合だったが、ベトナムでいちばん重要な装備は、ばかでかい音のクラクションだった。この国では、とにかく大きな音を鳴らしてあたりのバイクや通行人に自分の存在を知らせるのが「いちばん安全な走り方」だからだ。

 対向車がいなければ、街中でも道の真ん中や反対車線を走るのは普通のことだ。対向車が来ればどちらかが避ければいいが、問題は道の横断と、交差点だった。ディグビーの話では、「先頭の人が進路を決めれば後ろの人はそれに従うし、譲り合いになるのは危険だから横からバイクが走ってきても止まらないでまっすぐ突っ切ったほうがいい」らしい。そう言われても、四方からどっと流れ込んでくる単車をかいくぐって交差点を曲がるのは、日本の自動車教習所でバイクの免許を取った僕には、かなり難易度の高い技だった。

 国境に近い町であるラオ・カイは、僕が尋ねた数年前に、雲南省の昆明まで国際列車が開通したばかりだった。レッド・リバーと呼ばれる赤茶色の泥水のような川にかかった橋の向こうに、中国側の町が見えた。

 ミンスクのタンクにガソリンを入れた僕たちは、50kmほど舗装された道路を走り、昼過ぎにはバック・パッカーが集まる山村でビア・ホイを飲んでいた。リャオカイを吹かす僕らの様子を、隣の店の男たちがぼけっとした顔で眺めている。このへんの村には、必ずビア・ホイ屋の他に、阿片屋があるのだった。

 夕方までだいぶ間があったので、近くの山道をはじめて走ってみることにした。ディグビーが「先に行っていいぜ」といたずらっぽく笑う。ゲストハウスの前の道をしばらく走ると、すぐに道幅が狭くなり、泥の急な坂道になって、水がたまった泥沼にはまって動けなくなった。僕が選んだ道は、車でも単車でもなく、牛と馬が通る道だった。そんな道幅にも民家が建っている。庭先に単車を引っ張り上げて向きをかえ、エンジンをふかしながら泥の坂道で車体を押しあげる。125ccの軽い車体は、ミンスクの大きな利点だ。これ以上重ければ、夜行列車に積んだり、泥から引きずりだしたりするのは無理だろう。

 泥道に懲りた僕は、中国国境に向かうもう少し普通の道を走ってみることにした。普通と言っても、大型トラックのタイヤがつくったわだちの泥の深さは同じぐらいで、コース取りを誤るとタイヤが半分近くまで泥に沈んでしまう。

 道端には大きな岩がいくつも転がっていた。これをハンマーで砕き、ローラーでならしすのがベトナムの道路の造り方で、工事中の道は、拳の2倍はある刺々しい石で埋まっていた。その上を、半クラッチで飛び跳ねながら突き進むミンスクは、見た目よりもよくできた、バランスのいいバイクだった。中国の国境にある山が遠くに見えてきたあたりでジェフが転倒すると、ヘッドライトがひしゃげ、右足のステップが根元から折れてしまった。

 修理のために立ち寄ったバイク屋には、ミンスク・クラブのステッカーが貼ってあった。「クラブ公認のリペアショップ」らしい。ステップの溶接代はヘッドライトの修理も入れて2ドル。ミンスクのサイドカバーやピストンなどの部品が並んだバイク屋でお茶を飲みながら、ディグビーからミンスクにまつわる嘘のような話をいくつも聞いた。すり減ったクラッチ板の間に空き缶を挟んだら動いたとか、オイルが凍るロシアではクランクケースを開けてオイルを直に燃やして温めるとか、どうしようもなくなったら石でぶったたけばエンジンがかかるとか……ホンダでは無理だが、ミンスクならばあり得る話なのだろう。ディグビーのミンスクはステップどころか、一度折れたタンクの下のメインフレームを溶接し直してあった。

 その日の夜、とうもろこしから造った地酒のどぶろくを飲み過ぎて意識を失った僕は、翌朝馬のいななく声で目を覚ました。ゲストハウスの前の道を、馬の背に山のような荷物を積み、民族衣装を着たモン族の人たちが歩いていく。ちょうど日曜日で、村の広場では大きなマーケットが開かれていた。刺繍をほどこした民族衣装に、黒い長靴下をはいたモン族は、インドシナ半島北部でもっとも知られている少数民族だろう。その市場でポリタンクに入った地酒を飲みながら、僕は酒に浸かったハノイの熊を思い出していた。

山越え

 

 その日の午後に走ったバック・ハーから東の山岳地帯の村シ・マンへ抜ける峠道は、「ベトナムで2番目に険しい」とディグビーが認めるほどの悪路だった。先頭を走っていた僕は峠の入口で停車した。目の前に続く岩と泥の坂道は、どう見ても昨日と同じ「馬用の道」にしか見えなかったからだ。ディグビーは、「雨の日は無理だけど、今日は天気がいいからだいじょうぶだろ」と言って、気つけに朝鮮人参味のどぶろくをひと口飲むと、マフラーから真っ白い煙をあげて最初の岩場を登っていった。登りきった先で泥の窪みにはまったディグビーのミンスクを、3人がかりで押し上げて平らな場所まで運ぶ。汗だくで息を切らす僕たちの横を、馬を引いた老人がのんびり歩いていく。

 ミンスクの最大の特徴は、頑丈なクラッチだろう。クランクケースの右横の大きなゴムのキャップを外すと太いボルトが突き出ていた。クラッチの切れ具合を簡単に調整できる仕組みだが、ワイヤーが切れた時には、「ここにスパナをかませて右手で引っ張りギアチェンジしながら走る」らしい。まさかと思ったが、『リペア・マニュアル』にも、「スパナ走行」についてしっかり記してあった。

 次の難所は、僕が最初にトライしたが、すぐにエンジンとマフラーが岩に引っかかって進めなくなった。バイクを横へどかし、ベトナム式の道路工事と同じように道端の石を窪みに敷き、突き出た岩をスパナで砕いて道を造る。

 怖かったのは上り坂よりも、それから続いた長い下りの道だった。2ストロークのミンスクは、エンジンブレーキも両輪のブレーキもあまりきかないからだ。切り立った崖の道を、急斜面でスキーをするのと同じ要領でジグザグに下りながら、僕はディグビーが作ってくれた救急ヘリの電話番号が書かれた会員証の意味をやっと理解した。こんな場所で事故れば、通りがかりの馬か、ヘリコプターに救助を頼むしかないからだ。

 峠を越えると、中国国境の山並みが見えてきた。山の手前にある谷に川が流れ、きれいな棚田が魚の鱗のように山肌にはりついている。どんな山奥でも、こうしてそこかしこに棚田があり、人々の営みがあるのだ。

 下り坂の途中でジェフのミンスクの調子がおかしくなった。クラッチは切れるがギアがどこにも入らないのだ。ディグビーが、エンジンを切ったジェフのミンスクにまたがり、坂道を先に村まで下ることになった。後を追っていた僕とジェフは、山を下りきる手前でコース取りを誤り、泥にはまって動けなくなった。

 僕とジェフのまわりに、作業服姿の男や民族衣装の女たちの人だかりができてきた。ジェフと2人で単車を泥から引っ張りあげようとしたが、両足がくるぶしまでめりこんで身動きがとれない。泥の中に突っ立ったまま途方に暮れていた僕のほうへ、人だかりの中からいちばん年寄りの老人が近づいてきた。老人が僕と一緒に単車を持ちあげようとすると、すぐに何人かの若い男たちが助けに集まってきた。老人がひときわ大きなかけ声をあげる。皺が刻まれた老人の顔は、幾度もの戦乱を生き抜いてきただろう世代の証だった。2台の単車をやっと泥から救い出すと、僕と村人たちはやっと笑顔になって握手を交わした。ベトナム語で「ありがとう」も言えないまま、彼らに見送られて僕はミンスクのエンジンをかけた。

 次の集落でディグビーと合流した僕たちは、ビア・ホイを飲みながら単車の修理が終わるのを待った。たった25kmの山越えに、かれこれ4時間もかかっていた。ジェフのミンスクはチェーンがスプロケットにからまっているという重傷だったが、修理代はたったの4ドルだった。

 シ・マンから東へ50km先のサ・フィまでは、素晴らしい夕焼けの舗装道路が続いた。日が暮れてからサ・フィのゲストハウスに着くと、冷蔵庫にまたミンスク・クラブのシールが貼ってあるのを見つけた。隣のカラオケ屋のテレビには、ハリウッド映画とMTVが映っている。ベトナムは戦争でアメリカに勝ったのに、ドル紙幣とアメリカ文化が流通している国だった。田舎の村にもフランスパンや阿片があるが、英語やフランス語を話す人はほとんどいない。ホンダやヤマハの現地工場がある「ホー・チ・ミンの国」で、僕はビア・ホイを飲みながらロシア製のミンスクを乗りまわしている。そう思いながら、ユーロカップのゴールに沸く村のゴザ敷きのベッドに僕は倒れ込んだ。
 

ロングラン

 

 翌日、サ・フィからシ・マンに戻り、南の村バオ・イェンまでは、一日で150km近くを走破するロングランになった。シ・マンから峠を越えて南に下る山道は、シダやツルが繁る亜熱帯のジャングルで、雨量も多く、道はところどころ10m近い幅の川でさえぎられていた。「アクセルを緩めないで一気に渡れ」とディグビーが言った。緩めればマフラーやエンジンに水が入ってしまうからだ。

 山道の途中で、何度か湖のような滝壺を見つけては、バイクを止めて飛び込んだ。下り坂に差しかかると、エンジンを切ってニュートラルのまま道を下る。雲母のかけらが光る土や、芝生のような緑の上を、ミンスクが静かに滑るように走っていく。

 バオ・イェンに続く三差路に出た頃にはもう夕暮れがせまっていた。三差路の屋台でビア・ホイを飲んでいると、すぐに20~30人の村人が集まってきた。屋台のおばさんによると、バオ・イェンまでは、あと50kmの道のりだった。外国人がこの道を通ることがあるのかとディグビーに訊いてみると、「俺が一度だけ通ったことがあるよ」と言った。

 走りだして1時間もたつと、暗くて道がほとんど見えなくなった。いちばん明るいヘッドライトの僕が先頭を走り、ライトがいかれたジェフの単車をディグビーが後ろから照らしてサポートする。その状態のまま、石が転がり、泥が乾いた悪路をひたすら走り続けた。暗闇の中で板張りの長い吊り橋を渡った。橋の先で、道に渡した棒に行く手をふさがれた僕は、やっと何時間かぶりにエンジンを切った。

 橋のたもとの家に住む家族が、通行料を集めていた。僕は一分でもいいから休みたいほど疲れていた。家族が食事をしている土間にリャオカイが立てかけてある。ディグビーが火をつけて慣れた手つきで一服吸うと、家族は笑いながらお茶を出してくれた。

 バイ・イェンの宿で早朝の5時に目を覚ました僕たちは、そのまま一気にラオ・カイまで北上し、近くの町サパまで160kmの舗装道路を走った。ラオ・カイの手前ではじめて雨に遭遇したが、サパに続く道を登るにつれ、眼下に雲が漂いはじめた。何日も陽に焼かれた肌に、霧の冷たさが心地良かった。サパはかつてフランス人が開拓した避暑地で、バックパッカーも多い観光地だった。久しぶりに白いシーツのベッドでひと眠りした後で、まだ明るいうちに近くの山の向こう側まで単車を走らせた。途中の売店でビールを買って、ついでにリャオカイを1本借りた。峠のてっぺんで最後のカーブを曲がると、目の前にどこまでも続く山並みが広がっていた。

 暗くなる前に僕らはミンスクにまたがってサパに戻った。バイクがいちばんバイクらしい国で、ミンスクのエンジンの鼓動を感じながら、はじめて単車に乗った時の、どこへでも走っていける自由と、風の壁を突き抜ける感触を思い出していた。オートバイはただの乗り物じゃない。ミンスクは道なき道を走る「鉄の馬」そのものだった。
 

(第3回・了)