第2話 ストレートチップは語る

 

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 五時過ぎ、新宿中央署からうつむいた真田が力ない足取りで出てきた。新宿中央署の出入り口は階段とスロープがあり、真田は階段の方を下りてきている。季節柄、まだ太陽は高くて夕暮れには早い時間帯で、真田の足元からは影が伸びていた。

「お疲れさま、体調はどうだい」と設楽が声をかけた。

「どうしてここに?」

「お迎えだよ。僕の前職は知っているでしょ。そのつてで君がここにいると聞いてね」

 常連客なら元刑事だと話したこともあるのだろう。

「ご迷惑をおかけしましたか」

「全然。ところで、この前買ったニュー&リングウッド、まだ下ろしてないの? 履いている靴、サントーニだよね。先日、店に履いてきた」

 気を紛らわさせるために真田の好きな話題を振ったのだろう。

 真田が足元に目をやり、上げた。

「ニュー&リングウッドはまだ革が硬いので、まずは休日の近所散歩用にして、徐々にならしていこうかと」

「履き慣れている靴は心地いいもんね。一日の大半を履いて過ごすんだから、快適な方を選ぶのは自然だよ。しかもサントーニの革は最初から柔らかい」

「ニュー&リングウッドも履きこめばそうなりますよ」

「だろうね。そのサントーニ、ちゃんと修理に出せた?」

 そういえば店に来た際、真田は修理に出したいと言っていた気がする。爪先が剥がれたとかなんとか。

「一週間くらい前に。次の日までに張り替えてくれる店が近所にあるんです」

「そいつは興味深い。どこのなんていう店?」

 設楽は馴染みの修理職人が引退してしまったと言っていた。店として付き合うかどうか考えたいのだろう。

 設楽と真田が肩を並べて歩き出したので、千可は黙って二人に続いた。店に来た時とは真田の足音が違う。無理もない。さっきまで警察で取り調べを受けていたのだ。

「暴力的、もしくはそれに準じるような苛烈な取り調べをされなかったかい?」

「警官が意外と紳士的で驚きました」

「一昔前とは違うからね。たまに時代遅れな奴がいるから厄介なんだけどさ。真田君がそんな連中にあたらなくて何よりだよ。しばらく行動は監視されるだろうけど」

「ですよね。いつでも連絡がとれるようにしてほしいと念を押されました」

「どうする? お酒でも飲む?」

「お心遣い、ありがとうございます。でも、疲れたので家に帰ります」

「うん、無理しない方がいい。ゆっくり考えな。僕は力になるよ」

 真田が立ち止まった。

「お願い事があれば、店に行きますね」

「いつでも待っているよ。真田君は太客だからさ」

 設楽が眉を上下させた。

 千可は真田を観察していた。この人が殺人犯だと疑われている? そんな風にはまったく見えないのに。

 

 真田を迎えにいった翌日、千可はいつも通り十一時に出勤した。正午のオープンまで床やショーケースの掃除をしないと。

 寝不足だった。真田が犯人かどうか、犯人が誰であっても凶器は何なのか、二つの疑問で一晩中頭がいっぱいで眠れなかったのだ。設楽とわたしはほぼ同じ条件で事件と向き合えている。刑事としての経験、真田の人柄などの知識は設楽の方が一枚どころか百枚くらい上だけれど、手がかりという面では同じものを見て、聞いている。それなのに設楽が行き当たった結果にまったく至れない。

 ああ、もう。

「千可ちゃん、おはよう。あまり眠れなかったようだね。目の下の隈がすごいよ」

「おかげさまで」

 誰のせいだ、誰の。

「なにかわかった?」

「家族間の犯行じゃなさそうなのははっきりと。身内の犯行だと、何度も刺した後があるはずです――よね?」

「そう。前の経験を活かして導き出した推測だね」

「プロの犯行なんでしょうか。傷跡はこめかみだけです。一撃必殺みたいな。だとすると、真田さんは犯人じゃないはずです」

 家族間の殺人など、素人が犯人の時に傷が複数あるのは恨みだけでなく、相手が死んだかどうかわからないから、と設楽が前に教えてくれた。

「真田君は間違いなくプロじゃない。日本に存在するプロの殺し屋は、ほんの数人だよ」

 え? ほんとにいるんだ、プロの殺し屋なんて。こわっ。

 開店前だというのにドアが開いた。

「おう、邪魔するよ」

 藤池と相勤の若い男性だった。

「ほんとうに邪魔だよ、まだ開店前なんだ。準備がある」と設楽が眉を寄せた。

「客がいないうちに来たのは配慮だよ。警官が来る店なんて、誰も来たくねえだろ」

 一理ある。父親が刑事のわたしだけは言っちゃいけないのかもしれないけれど。

「して、邪魔者は何の用なんだい」

「昨日真田を迎えに行ったんだろ。どんな様子だった?」

「恐縮されたよ」

「何を話した?」

「世間話さ。困ったら力になるとは言っておいた」

「どう思った? 真田は犯人だと思ったか?」

「僕は民間人だよ。犯罪者と向き合うのは君らの仕事だろ」

 設楽はさらりといなした。

「元刑事、しかも敏腕なら何も感じないわけないだろ」

「人間だからね、生きていれば色々感じるさ」

 のらりくらりと設楽はかわしている。頭の中にある結論を言う気はないらしい。千可は会話に加わる気はなかった。ここでわたしが『設楽は何かに気づいている』と割り込むのはお門違いだ。あいにくわたしは正義漢溢れる、お節介な市民じゃない。

 設楽がレジ脇の百円玉に手を伸ばした。

「そうそう。真田君が来た時、店の前にこの百円玉が落ちていたんだ。持っていってくれ。落とし物だよ」

「交番に行けよ」

「面倒だろ。僕にも仕事があるんだ。それともなにかい? 刑事さんは交番のおまわりさんと違って、善良な市民の善意を無駄にするってのかい」

「ったく、嫌な善良な市民だな」

 設楽は百円玉を藤池に向かって親指で弾き飛ばした。百円玉はきれいな弧を描き、藤池が胸の辺りでキャッチした。

「落とし主なんてわかるわけねえだろ」藤池が呟いた。「百円玉ねえ」

「調べてみれば?」

「そんなに暇じゃねえよ」

 藤池は一笑に付した。

「怠惰だなあ。捜査に協力できるタイミングがきたらそうするよ」

「大いに市民の義務を果たしてくれ」

「もう充分に果たしているだろ。千可ちゃん、せっかくだ。藤池に何か質問ある?」

 え?

「わたしが?」と千可は自分を指さした。

「そ。寝不足解消のヒントを得られるかもよ。いいだろ、藤池」

「答えられる範囲ならな」と藤池がぶっきらぼうに言った。

 では、遠慮なく。設楽は教えてくれなくても、警察からなら何かヒントを得られるかもしれない。

「真田さんのほかに容疑者の候補はいるんですか」

「いまのところいない」

「それなのに釈放したんですか」

「犯人っていう証拠はまだないからな」

「じゃあ、凶器の目星はついていないんですね」

「そういうこった」

「警察はどうして真田さんが犯人だと?」

「昨日言った通りだ。防犯カメラの映像、本人の態度。逆に言えば、捜査はほとんど進んでねえんだよ」

 藤池が肩を大きく上下させた。

 質問をしても実のある返答がない。それもそうか。設楽のところに来るくらいだから、警察も困っているのだ。あとは……なんだろう。質問が出てこない。ええいっ。

「被害者が亡くなる前に、どこにいたのかっていう目撃情報はあったんですか。西新宿の居酒屋で飲んでいたとか」

 なんとまあ、我ながら勢い任せの質問だこと。

「居酒屋での目撃談は皆無だ。防犯カメラをリレー方式で辿っていくと、真田が勤める会社の入る高層ビルの辺りから、前にも話した順番で二人が前後して歩いていたとわかった」

「喋っている姿は?」

「ない」と藤池が首を振った。

「事件現場までのどこかでトラブルがあったと?」

「さて。何とも」藤池が首を振った。「真田も何も言わねえし」

 質問はこれくらいにしておこう。勢い任せを繰り返すだけだ。

「ありがとうございました」と一礼した。

「嬢ちゃんならいいさ。そろそろ行くぜ」

「しゃかりきに働きたまえ」と設楽が茶化すように言った。

「うるせえ、邪魔したな」

 藤池が相勤を連れて店を出ていった。

「わたしの質問にも答えてくれましたし、意外とあっさり引き上げましたね。殺人事件の捜査なのに」

「彼らも暇じゃないからね、事件捜査ってやらなきゃいけないことが分単位で増えていくんだよ。くわばらくわばら」

 そういうものなのか。刑事の娘といっても実務は知らない。藤池は、話す気がないととことん話さない設楽の性格を知っていたのかもしれない。

「藤池への質問を促しておいてなんだけど、彼の前で僕が何かに勘づいていると触れないでくれてありがとう。実はひやひやしていたんだ」

「藤池さんにそんな義理はないですし、そもそもわたしには見当もつかないことなので触れようがないですよ。また寝不足が続きそうです。久兵衛さんはあと一つ要素が嵌まれば、結論を見出せるとおっしゃってましたよね? あれっていつ頃わかるんですか」

「もう嵌まったよ」

「うそっ」

 千可は思わず大声をあげた。

「嘘じゃないよ。千可ちゃんも見ているよ」

「うそっ」

 またしても同じ台詞が口から出ていた。

「しかも僕は千可ちゃんのために大ヒントも付け加えたよ」

「うそっ」

 どこに? いつ? どんな? まるで心当たりがない。警察すら手を焼く事件なのに、どうして?

 設楽が微笑んだ。

「前にも言った通り、物は語るんだ。耳を澄ませ、頭を捻ってみて。脳みそは使うためにあるんだからね。そうだ、今日はせっかくだから挨拶がてら靴修理の店に行ってみよう。いい付き合いになるかもしれない」

「真田さん御用達の修理店に?」

「よくわかったね」

「昨日の今日ですから。お店はいいんですか」

「大丈夫でしょ。今月は百万の腕時計も売れたし、あくせく働く必要はないもん。千可ちゃんも開店準備をしなくて済むでしょ」

 設楽は大きく伸びをした後、ドアの鍵をかけにいった。

 

 設楽の古いボルボで移動する道中、千可は事件について思案を巡らせたものの、やっぱりどこにも行き着かなかった。設楽は涼しい顔でハンドルを握っている。何を聞こうとはぐらかされるだけなのは明白なので、自分で考えるしかない。どこに手がかりがあったのだろう。大ヒントって?

 東中野の靴修理店の男性店主は気さくで、同世代の設楽とすぐに意気投合した。

「物は長く使ってなんぼなんですよ」

 と設楽が言えば、

「おっしゃる通り。革靴は履いてこそなんです。修理しながら履けば、スニーカーより歩きやすくなるのにわかってない人が多すぎますよ」

 と店主は鼻息荒く応じていた。

 五分ほど理解できない用語でのやりとりがあった後、設楽が千可にも聞き覚えのある単語を発した。

「靴底の張り替え用の革やラバー、トゥスチールの見本ってあります? できれば使用前と使用後も見てみたいんですけど。お客さんに紹介する時、見本があった方がわかりやすいので」

「すぐご用意しましょう。使用後の革とラバーは削れてボロボロですよ。それでもいいんですか」

「もちろんです。履きこまれた後のものを見た方がイメージも湧きますよ。新品からこんなにすり減るんだって。スチールは減らないんでしょうけど」

「細かな傷は結構つきますよ。アスファルトを踏むだけでなく、路上には色々落ちていますからね」

 確かに色々落ちているよな、と千可は思った。高校時代、昨日まで何もなかった土のグラウンドに五寸釘が何本も落ちていたり、高そうな万年筆があったりした。道にだって犬猫の落とし物だけじゃなく、リバースされたあれこれ、ペットボトル、店の前にもあった小銭とか。千可は急に自分の靴底が気になった。一体、どんなものを踏んできたのだろう。靴底なんて滅多に見る機会がないからちょっと怖い。

 店主から一式を受け取り、設楽はそれらをひとつひとつ手にとって検品するように眺め、すべてを見終えると微笑んだ。

「助かりました」

 ボルボに乗り込むと設楽は満足そうだった。

「収穫があったね。色々役立ちそうなものが手に入ったし」

「お客さんに紹介するんですか」

「それもあるけど、仕入れた靴で修理が必要なケースがあればお願いできるでしょ。今まで付き合いのあった修理店が先月閉店しちゃって、困ってたんだ」

「よかったですね」

「ほんとにね。これで何とかなる」

 西荻窪に戻り、店の裏口から入った。設楽は早速修理店の店主にもらった一式をデスクに並べ、腕を組み、じっと見ている。

 みゃあ。店の外から猫の声がした。

「入れてあげて」

 設楽に言われて店のドアを開けると、ミャアちゃんが我が物顔で入ってきて、高さ一メール二十センチはある腕時計のガラス製ショーケースに軽々と飛び乗った。気泡の混ざったガラスに触れた爪がかちかちと鳴り、ミャアちゃんはそこで香箱座りして目を瞑った。冷たくて気持ちがいいのかもしれない。

 今日お客さんは来るだろうか。途切れ途切れになるだろうけど、真田の事件について考えてみよう。

 

(つづく)