第2話 ストレートチップは語る
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「重参というと、証拠や目撃者がない段階なんだね」
設楽が確認すると、藤池は大きく頷いた。
「まさに。今日の朝一に任意同行した」
「彼は暴力的な人間じゃないよ」
「一皮ひん剥けば、人間は誰だってケダモノだよ。お前さんも刑事時代、『まさかあの人が』って言葉に何度もぶつかった口だろ」
「被害者と真田君に面識はあったのかな」
「まずいですよ、捜査情報は――」
若い刑事が慌てて遮ろうとすると、藤池の荒っぽい声がそこに覆い被さった。
「こいつはいいんだよ。SNSで情報を拡散するような奴でも、知り合いに話しまくる奴でもない。俺が保証する」
「しかし」
「うるせえな。いいって言ってんだろ」
藤池が凄んだ。迫力満点で、若い刑事は渋々といった感じで口を閉じた。藤池が咳払いして、設楽を見た。
「関係は浮かんでない。本人が黙秘でな。やったとも、やってないとも言わない」
「やっていないにしても、社会的には抹殺されたも同然さ。彼は勤め人だ。君たち以外の警官が勤務先に事情を聞きにいったんだろ。逮捕の有無にかかわらず、世間的にはその時点で犯人扱いなんだ。下手すれば解雇されるんだよ。かわいそうに」
「やってなかったら、かわいそうなのは認めるよ。うちのカイシャは謝罪なんてしねえし」
言われてみれば、警察に逮捕された段階で千可もその人が犯人だと思ってしまう。一般市民は普通、任意であっても警察が身柄を確保したら、その人を犯人だと思うだろう。それがかなり乱暴な思考回路だったのだと気づかされる。善し悪しはともかく治安と引き換えに、誰もが冤罪で社会的に抹殺されるリスクを背負っている世の中なんだ。
「どんな事件だったんだい」
「繁華街での殺しだ。現場は防犯カメラの死角でな。ガイシャは頭を強く打った挙げ句、こめかみを鋭利な何かで刺されて死亡」
「こめかみ? 珍しいね」
確かに。体の方が刺しやすいだろうに。
「凶器は不明だし、見つかってない。現場まで至る防犯カメラに真田と被害者の姿が映っていたんだ」
「二人仲良く並んで? そんなわけないよね、関係が浮かんでないんなら」
「真田が先、ガイシャが後」
「へえ」と設楽が顎を撫でた。
「藤池さん、それ以上は」と相勤が止めに入った。
「何度もうるせえな、別にいいんだよ。一課長も意見を聞いてこいって言ってたんだ」
「え?」
相勤の男性は驚きの混じった声で呟いた。聞いていなかったのだろう。藤池も人が悪い。最初に上司の意向を伝えていれば、この人も止めに入らなかったはずだ。
「天下の警視庁捜査一課が僕に? 現役を退いて十年以上経っているんだよ」と設楽は両腕を広げた。「嘆かわしい限りだ。世も末だね」
「丸さんがそれだけお前を買っていたってこった」
「丸さんには世話になったもんなあ。一課長か。出世されたんだね。あの人は人格者だし。僕の意見を聞けってことは、物にまつわるのかい?」
「率直に言えば、藁にもすがるってところだろうな。凶器のあてがないんだ。物に詳しいお前なら何か閃くかもって期待したんじゃねえのか。どうだ、何か思いつくか」
「無茶を言うなよ。僕はホームズでもポワロでも金田一耕助でもないんだぞ。まったく」
いくら物に詳しくても肝心の現物がないと、意見の述べようもないだろうに。同情を込めて千可は設楽を一瞥した。意外だった。どこか楽しそうな表情を浮かべている。
「被害者はどんな人?」
「長いこと無職の男。目白在住で四十五歳」
「身なりは?」
「高級ブランドの時計やら靴やら服やらを身につけていたな。財布もな」
「推定犯行時刻は?」
「午前零時前」
設楽が腕を組んだ。
「真田君の身柄はいつ解放されるんだい」
「決定打がなけりゃ、今夜だな。尾行、張り込みはつくけど」
「僕が迎えにいこう。身柄はどこに? 所轄? 本庁?」
「新宿中央署」
「すると現場は西新宿の辺りなんだね」
「ああ。あの辺の飲み屋街だよ」
「具体的にはどの辺りなんだい?」
設楽が前のめりになった。
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「いいんですか、店を閉めて出てきちゃって」
「いいんだよ」設楽は気楽な口調で、顔の前で手を振った。「お客さんなんて、どうせ来ないんだから」
「それこそ真田さんみたいな例がありますよ。あれ、平日でしたよね」
「滅多にないよ」
千可は設楽と西新宿に来ていた。藤池たちが帰った後、十分も経たないうちに店を出てきたのだ。久楽商店のある西荻窪からJR中央線で新宿までは十五分もかからなかった。設楽は普段古いボルボのステーションワゴンを運転しているけれど、西新宿にはコインパーキングがなさそうなので電車を使うことになった。
街は再開発中であちこちに遮音ボードが設置されていて、迷路さながらだ。
「こっちだよ」と設楽が右に曲がった。「駅中も駅前も本当にわかりにくくなったけど、この辺はまだ再開発を免れているんだ。馴染み深い道でね。所轄自体、よく歩いたもんさ。新宿は事件が多いから」
ヨドバシカメラの脇を抜け、飲み屋街に出た。小さな店が軒を連ねて雑多な空気を醸し出している。西新宿といえば無機質な高層ビルしかないと思っていた。
「この角をこっちだね」
設楽は勝手知ったる面持ちで進んでいき、千可は背中を追った。魚介系の居酒屋脇の小路を通ると、少し広めのスペースに出た。正面にはさらに小路が続き、四方を雑居ビルに囲まれているので昼間でも薄暗いものの、野良らしき猫が三匹、小さな陽だまりに身を寄せ合って気持ちよさそうに眠っている。猫の邪魔をしないようにしないと。そういえば、ミャアちゃんはどこで何をしているのだろう。
千可から見て右手と正面の雑居ビルはいわゆるスナックビルだった。まだ光が灯っていないネオン看板によると、一階から最上階までスナックがびっしり入居している。左手と背後の雑居ビルの壁にはエアコンのダクトや非常階段が設置されていて、背中を向けられている感じだった。
「ここは駅までの抜け道。最近の若い人はもう利用しないのかな、僕ら世代から上はこの辺で飲んだ後、よく通ったもんだよ」
「どうして利用されていないと?」
「だって目撃者がいないんだ。僕らより上の世代は引退しているし、僕ら世代もあんまり遅くまでもう飲まないでしょ、コロナ禍以降は特に。新型コロナは街の様相もライフスタイルも一変させたよね。夜遅く、へべれけのオヤジ連中がこの道を聖者の行進よろしく歩いていたもんさ」
左手にある雑居ビル前の古びたアスファルトにチョークで人型が記されていた。あそこが事件現場らしい。
「スナックがこれだけあれば、叫び声とか揉み合う声とか誰かかが聞いていそうなもんですけどね」
「うーん、どうだろ。たまたまドアが開いていたら別だけど、この辺りのスナックって防音対策はしっかりしてるから。カラオケの声が外に漏れないようにさ。ちなみに僕らに背を向けている雑居ビルのテナントはカラオケボックス。こっちもまた防音がしっかりしているから死角といえば死角だね。ここには防犯カメラもないし」
いつの間にチェックを? 千可は周囲を見回した。残念ながら、防犯カメラの有無は素人目にはよくわからなかった。
「このスペースに至るまでの道にある防犯カメラに、真田君と被害者が映っていたんだろうね。いまや防犯カメラなんて山ほどある」
「犯行時刻に近い時間帯で映っていたのが真田さんと被害者だけだったんでしょうか」
「他に何人も映っていたと思うよ。聞き込みで真田君だけ黙秘し、他の人がその後の捜査で白と判明したから、彼だけ重参になったんじゃないかな」
そこだけを切り取ると、真田しか犯人になりえない気がする。でも――。
「誰が犯人にしたって、凶器を持ち歩きますかね、このスペースは死角だとしても、新宿ですよ。職務質問だって受けるかもしれませんし」
「通り魔でもない限りは持ち歩かないよね。絶対とは言い切れないけれど、高い確率で真田君は通り魔じゃない。通り魔はほぼ百パーセント、絶望した人間が起こす犯罪なんだ。絶望した人間が犯行十日前に嬉々としてデッドストックの革靴を買わないでしょ」
確かにそうだ。
「おまけに真田君は革靴大好き人間なんだよ? つまり革を育てるのが好きなんだ。真新しいままの革靴を残して犯罪に走るはずがない。しかも通り魔なら犯行は一人じゃ終わらないのが相場だ。連中は逮捕されると大概、『たくさん人を殺して死刑になりたかった』って、意味不明な動機を言いだす。死にたきゃ、勝手に一人で死ねばいいのにさ」
人権至上主義者からすればかなり乱暴な意見かもしれないけれど、千可も同感だった。通り魔なんて身勝手で迷惑すぎる犯罪だ。って、犯罪なんて全部身勝手か。
設楽がぐるりと見回した。
「もうだいたいいいかな」
「ちなみにこれって現場百遍ってやつですか。現場を何回も訪れると、見落としていた何かが見える時があるっていう」
「僕らは初見で、しかもこれで終わりだけどね。現場百遍、下浦のおやっさんが言っていたのかい」
「どうなんでしょう。なんとなく耳と頭に残ってました」
「さすが敏腕刑事の娘だね」
「たまに小説にも出てくる単語ですし」
「僕も本は好きだよ。特に古いミステリー全般」
やっぱりそれも古い物が好きなんですね。千可は心の中で茶々を入れた。
行こうか、と設楽が歩き出し、千可は続いた。正面の小路を抜けると、別の飲食店街に出た。ラーメン、牛丼、寿司など色々な店が並んでいる。どれも十八歳の女子が一人で入るには勇気のいる店構えだ。西新宿に勤める男性会社員向けの店だろう。
「ランチにしよう」
「もう三時前ですよ、ランチ営業なんてやってます?」
お腹はかなり減っているけれど。
「平気だよ。いい店があるんだ」
そこはなんと十七時までランチメニューがある、個人経営の定食屋だった。家庭的な雰囲気の店で、ここなら今度何かの機会で西新宿に来た時に一人でも入れそうだ。設楽は焼き魚定食、千可はハンバーグとカニクリームコロッケ定食を頼んだ。少しわんぱくすぎるメニューだけれど、若さを免罪符にしておこうっと。
「久兵衛さんは真田さんへの疑いを晴らそうと?」
「常連さんだしねえ。ただまあ、僕なら真相にいち早く近づけると思っただけだよ。藤池たち日本の警察は極めて優秀だ。でも、知識が圧倒的に足りない。特にものに対する知識がね。だから凶器の影も形も見えてこないんだよ」
「久兵衛さんには真相が見えているんですか。藤池さんの叔父さんの時みたいに」
「おぼろげにはね」
以前は腕時計という現物が目の前にあった。今回は何もない。それなのにどうして?
「凶器は消えちゃったわけじゃないですよね」
「確かに昔の推理小説には、刺殺に使われた氷が溶けちゃったとか、撲殺に使った凍った肉を食べたとか、消えちゃった系の凶器があるよね。今回はしかるべき場所を捜せば出てくるはずだよ。廃棄された可能性もゼロではないけど」
「真田さんが犯人なんですか」
「さてね」
はじまった。また名探偵気取りの秘密主義だ。となると何かしら手がかりがあったのだ。設楽には見えて、わたしには見えない何かが。
「自分の頭を使って、色々と考えてみなよ。千可ちゃんは僕と同じ条件に立っているんだから、導き出せるはずさ。あと一つ、要素が嵌まればはっきりするんだけどねえ」
うそでしょ。
設楽は余裕綽々で微笑んでいる。唸らせてやりたい。千可は思案を巡らせた。まったく想像できない。真田が犯人なのか、そうでないのか。警察すら見当がつけられない凶器とは何なのか。真田の性格、防犯カメラ映像に真田の後に被害者が続いて映っていたこと、真田が黙秘していること。事件現場での光景。どこにヒントがあるのだろうか。
うう。
悔しいけど、すぐには思い至らない。だからこそ頭の使い甲斐もある。今回は絶対に答えを導き出してやるんだ。
あれこれ考えているうちに定食がやってきた。とてもいい匂いだ。二人とも会話もそこそこに十五分もかからずにぺろりと食べ終えて、店を出た。
「ちょっと顔見知りに挨拶したいからついてきて」
設楽がずんずん進んでいき、大通りから一本奥まった路地に入り、毘沙門質店という同業他社の暖簾をくぐり、カウンターの女性に声をかけた。
「ごめんください、設楽と申します。菊名さん、いらっしゃるかな」
女性が手元のボタンを押すと、奥から薄手の紺色ジャケットを羽織り、長い髪を後ろで縛った五十代くらいの男性が出てきた。
「これはこれは、設楽の旦那、ご無沙汰しています」
「旦那はやめてくださいよ、もう同業なんですから」
「いえいえ、随分お世話になっていますからね。私にとって、旦那はいつまでも旦那のままですよ。今日は何用で?」
「挨拶がてら世間話をしに。どうです? 繁盛してます?」
「おかげさまで。西新宿は勤め人が多いですから。もっとも、うち以上に繁盛しているところなんてやまほどあるでしょう」
「あっちは人件費がかかるんじゃないですか」
「でしょうね。あとは交通費だのなんだの諸経費も。なにせ一生懸命ですからトラブルも絶えない。入口にも出口にも過ぎる面があるんですよ」
菊名が揉み手で微笑んだ。
「うちは閑古鳥なんだけどなあ」と設楽が首を捻った。
「でも、商売替えはお考えじゃないんでしょ?」
「もちろん。僕にはヴィンテージやアンティークの世界が合ってますので」
「人生、やりたいことをやった方がいいですからねえ。そちらのお嬢さんは?」
「僕のアシスタントで前途有望な若者です」
「どうかお見知りおきを」
「どうもよろしくお願いします」
千可は曖昧に会釈をした。その後も三分ほど他愛ない会話をした後、設楽と千可は質屋を出た。
「さっきの彼、昔は僕の情報屋だったんだ。質屋ってアンダーグランドな情報も集まるからね。しかも新宿という土地柄、雑多な話が飛び交っている」
「情報屋って本当に存在するんですね。ドラマや映画の中だけの話かと思ってました」
「世の中、様々な人がいるんだ。一つの世界を突き詰めるのも素晴らしいけれど、色々な世界を見て、多くの経験をしてみるのも素敵な人生なんじゃないのかな。誰がなんと言おうと、楽しむことが人生の本質なんだからさ。人生、一つの道だけじゃないんだよね」
設楽の生き方そのものと言っていいのかもしれない。なにしろ刑事からアンティークとヴィンテージを扱う店の経営者に転進したのだ。大いに人生を楽しんでいる。いくら江戸末期から続く質店が家業だったとはいえ、他にこんな人はいないだろう。刑事としても絶対に優秀だったはずだ。続けていれば名刑事として名を馳せたのかもしれないのに。
千可は目を見開いた。
ひょっとして今のはわたしの将来を案じてのアドバイス? 父からわたしの境遇の説明をされていないわけがない。気を遣い、触れてこないだけ? わたしもまだ話したくない。傷は全然ふさがっていない。卒業後に入ってほしいとプロのチームからいくつも誘いがあり、その中でも強豪の内定を得ていた。憧れのなでしこジャパンも手に届くところにいた。ゆくゆくは海外リーグのチームに移籍して、世界の強者たちと日々競い合えたかもしれない。
それが全部目の前から消えてしまったのだ。
今でも毎日、あったかもしれない未来にいる自分を想像するし、その未来を手に入れたいと神様につい願ってしまう時もある。どうか目の前の現実が悪い夢で、早く目覚めさせてくださいと。勝手に涙が溢れてしまう夜だってある。
設楽の電話が鳴った。もしもし。そうなんだ、オーケー、いくよ。設楽は通話を切った。
「藤池からだった。真田君の釈放が少し早まって、五時には解放されるって。あと一時間と少しあるから、どこかでコーヒーでも飲んで時間を潰そうか」
設楽が歩き出した。この人は今日、もう働く気がないらしい。
(つづく)