第1話 トリチウム夜光は語る

 

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 西荻窪の店に戻るなり、設楽は時計用ルーペを右目に嵌めて、GMTマスターとキングセイコーをじっくりと眺めはじめた。やっぱりね、なるほど、ほほう。ぶつぶつと呟いている。

「お店を開けなくていいんですか」

「いいよ。どうせ平日の西荻のこんな店になんて誰も来ないんだから」

 設楽は時計から目を上げないまま答えた。アルバイト初日でも、この人があまり商売熱心ではないとわかる。店を開けないのなら、店員としてアルバイトのしようがない。掃除でもしようか。はたきとかはどこにあるのだろう。

「千可ちゃん、藤池の父君のキングセイコーと店にあるキングセイコーを見比べてみるといい。興味深い違いがあるよ。ショーケースから取ってきてくれるかな。下の段の右から三番目の。鍵はこれ」

 千可は鍵を受け取り、腕時計のショーケースの鍵を開け、言われた通り、下の段の右から三番目の時計を取り出した。正直、お店にあるセイコーの腕時計は全部一緒に見える。おじさんとかおじいちゃんが着けている時計という印象だ。

 設楽に時計を渡すと、これまた年代物の机に設楽はキングセイコー二本を並べた。藤池から借りた一本はブレスレットタイプで、売り物の一本は革ベルトなので取り違える心配もない。

「ありがとう。時計用ルーペの使い方はわかる? 眼下の窪みに挟むんだけど、難しいなら虫眼鏡を使えばいい」

 窪みに挟む? できっこない。千可は机上の虫眼鏡を選び、二本を見てみた。

「どうだい?」

「文字盤はきれいですけど、どっちもケースに傷が多いですね」

「小傷はつくのは仕方ないさ。違いはある?」

「率直に言うと、よくわかりません」

「傷に注目してごらん」

 虫眼鏡をさらに近づけ、千可はまじまじと二本を見比べた。

「どちらかというと、藤池さんに借りた時計の方が傷は多いですね」

「いいね。それで?」

「それで、と言われても……」

 鑑識の人じゃないんだから。

「小傷は上下左右、まんべんなくついている?」

 千可は腰を曲げて時計に顔を近づけ、目を凝らした。

「藤池さんの方は右側、店の方は左側が多い気がします」

「だよね、僕にもそう見えている。ブレスレットはどう?」

 千可は時計をひっくり返して、ブレスレットを見てみた。小傷がかなりあり、バックルには右下から左上にかけて長い裂傷がある。傷の深さは右下が一番深く、左上にかけて薄くなっていた。

「結構、深い傷ですね。価値に差が出てくるんですか」

「この二本の価値に差はないね。バックルに目立つ傷があるけれど、そもそもオリジナルブレスレットが貴重だからさ。しいて言うなら、オーバーホール歴がはっきりしない藤池の方が数万円低くなる可能性が高いという程度かな」

 千可は虫眼鏡を下ろした。

「大丈夫なんですか。依頼の件」

「藤池の家でも言ったように、彼が期待する程度の答えならもう頭の中にあるよ」

 設楽はこめかみを指さした。

 シャーロック・ホームズやポワロにでもなった気でいるのだろうか。藤池と叔父さんの部屋に行き、嬉しそうに腕時計を眺めただけなのだ。明日は適当に言い抜けるつもり? 藤池は藁にもすがる気持ちでやってきたに違いないのに。

 設楽が藤池家のキングセイコーの代わりに、叔父のGMTマスターを並べた。腕を組み、吟味するように見つめている。

「頭の中の答えを前もって教えてくれませんか」

「それじゃ味気ないでしょ。千可ちゃんも一晩考えてみるといい。手元にある情報量は僕と同じなんだから、同じ結論に至れるはずだよ」

 なんだか癪に障る。もったいぶった言い回しも、どこかの名探偵気取りみたいだ。千可は昨春以来、現実から逃げるように本を読みはじめたけれど、ミステリーは大の苦手だ。特に名探偵が出てくるタイプの本格ミステリーは敬遠している。連中の曖昧な態度に腹が立ってしまうのだ。わかっているなら、さっさとはっきり言え、はっきりと。

 これからアルバイトをちゃんとやっていけるのだろうか。違う、やっていけるのかじゃない。本格的に社会に出たら、もっと色々な人と出会うのだから練習と捉えよう。なにより他にやりたいことがないのだ。

 十八歳でやりたいことないなんて、この先の長い人生は真っ暗なのかもしれない。千可は頬を軽く叩いた。いまはアルバイトの仕事をきっちりしよう。

 腕時計を見比べ続ける設楽を横目に、はたきや布巾、モップを借り、商品に気をつけながら棚や机を空拭きしたり床を掃除したりしていると午後七時前になった。

「もうこんな時間か」設楽が時計用ルーペを着けたまま顔を上げた。「千可ちゃんの勤務時間は終わりだね。アルバイト初日はどうだった? ご感想は?」

 どうもこうも……。

「あんまり働いた感覚がありません」

「そっか。これからだからね。お疲れさま。帰っていいよ」

 設楽は腕時計に視線を落とした。頭の中は二本の時計のことで忙しいらしい。

「お疲れさまでした」

 モップなどを片づけ、また明日ね、という設楽の声を背中に受けて店を出た。

 千可は駅に行く途中も、電車に乗ってからも、中野駅に着いてからも、コンビニでサラダとクリームパスタを買った時も、まだ段ボール箱だらけの部屋に着いてからも、設楽が導き出した結論が気になった。

 もどかしい。じれったい。名探偵が出てくる小説を読んでいる時と同じ気分だ。小説なら読み進めれば結論が出てくるし、先に最後だけ読んでしまう裏技もあるけれど、現実はそうじゃない。

 あれこれ思考を巡らせてみるものの、設楽が見出した結論の尻尾すら見えてこない。わたし以外、みんな見えるの?

 やだなあ、もう。千可はため息をついた。とりあえず、お母さんにLINEしよう。ちゃんとアルバイト初日を終えたよって。

 グッジョブ!

 親指を立てたスタンプが即座に返ってきた。

 

 翌朝、十時に千可が出勤すると設楽は昨日と同じ位置、同じ姿勢でいた。あのままずっとこの場にいたかのようだ。

「おはよう。今日もいい天気だね」

「店、開けますよね」

「もちろんさ。準備をお願い。準備といっても三角看板を外に出すだけ。いまは入口ドアの脇にあるから、外に立ててもらえるかな。軽いから女性でも扱える。それでいて風に強い優れものなんだ。僕はいましばし時計との対話を楽しむよ」

 千可は言われた通り、三角看板を昨日あった位置に置き、店内に戻った。昨晩色々と考えを巡らせた。無気力だった日々の分も合わせて頭を働かせた気分で、ほとんど眠れなかった。高校で授業を受けていた時よりも脳を使った気がする。でもどう考えてみても、藤池の叔父の行き先に繋がるヒントは見つけられなかったし、どうして設楽はあんなに堂々と期待に応えられると言ったのか意味不明だ。

「眠そうだね」

「誰かのせいで、ほぼ徹夜です」

「言うねえ。徹夜の甲斐あって、答えは導き出せたかい」

「全然」

「残念だね」設楽は指を立てて唇に当てた。「藤池が来るまでは、いくら聞かれても教えないよ。あと少し、千可ちゃんなりに考えてみなよ。感覚的にはパズルを解くようなものさ。パズルは好き?」

「好きでも嫌いでもないです。子どもの頃にしたっきりで」

「実は僕も本物のパズルは三十年以上していないかな。眠くなったら、奥で仮眠していいからね。睡眠不足は諸悪の根源だ」

 開店後も昼過ぎに一組の冷やかしのカップルが来店しただけで、閉店時間になった。暇なのと眠気を追い払うために、あくびをかみ殺して千可なりに推理を進めたけれど、やっぱり深まらなかった。設楽はカウンターの奥で藤池から借りたGMTマスターとキングセイコーを並べ、最後の仕上げとばかりに眺めているばかりだ。

 七時前、ドアが開いた。

「邪魔するよ」

 藤池がやってきた。

 

(つづく)