第1話 トリチウム夜光は語る
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ここだ――。
下浦千可はスマホの地図アプリを閉じた。JR西荻窪駅北口から徒歩五分ほどの商店街にある、年月を重ねた二階建ての一軒家の前に立っていた。店先に置かれた古そうな木製の三角看板には『アンティーク&ヴィンテージ 久楽商店』と記されている。一階はガラス張りだけれど、中はほとんど見えない。ガラスにおでこをぴったりくっつけて、目を凝らしたらようやく店内がうっすら見える感じだ。
つい数週間前まで高校生だった自分にはまるで縁がなく、入ったことのないタイプのお店だった。それを言うなら、西荻窪に来たのも初めてだっけ。商店街には老舗の焼肉店、手芸店、書店、古着店などが並んでいて車はほとんど通らず、歩いていて楽しい通りだった。久楽商店は商店街でもかなり存在感があり、入るのに気後れしそうになる。
「いざ、出陣」
千可は小学校の頃から緊張しそうになった時に唱えるリラックスの呪文を呟き、真鍮のドアノブを握り、ゆっくりと引き開けた。店内から甘いような、とろけるような不思議な空気が漂ってきた。
圧倒され、息を呑んだ。四月上旬のお昼前だというのに晩秋の夕暮れ時よりも店内は薄暗く、暖色の照明がいくつか灯り、飴色の木製キャビネットやガラス製のショーケースに加え、ウールのコートやジャケットなど古そうなものが所狭しと並んでいる。すべてがアンティークやヴィンテージの品なのかもしれない。
いつまでも立ち止まっていないで動かなきゃ。店に入り、後ろ手でドアを閉めて意識的に呼吸をひとつした。
「こんにちは、今日からお世話になる下浦千可です」
声をかけると、レジ裏に座っていた四十代後半くらいの男性がにっこりと笑った。
「いらっしゃい、これからよろしくね。店長の設楽信太郎です。店長といっても、働いているのは僕だけなんだけどさ。君がうちのアルバイトさん第一号です」
「わたしなんかが第一号ですみません。アンティークとかヴィンテージの知識なんてなにもないのに」
「なければこれから身につければいいだけだよ。他ならぬ下浦のおやっさんの紹介だもん。おやっさんは元気? いま鹿児島だよね」
「多分元気です。わたしは高校進学の時、鹿児島から埼玉に出てきたんです。しかも寮生活だったのであんまり会ってないので。この前の卒業式にも母だけが来ましたし」
「便りが無いのはいい報せとも言うからね」
父は十数年前に東京に出向した折、設楽と知り合ったという。その縁からこの店で働くよう勧めてきたのだ。週五日働く予定だ。
「わたしがアルバイト第一号というと、お店ができたのは最近なんですか」
建物の外観に比べると、壁や天井はきれいだ。リフォームしたのだろう。
「創業は江戸末期。質屋の流れを汲んでいるんだ。元々は日本橋にあって、関東大震災で西荻窪に移転したんだよ。店主は創業以来代々、久兵衛と名乗っていてね。僕が七代目になって、質屋からこういう店に変えてかれこれ十年くらい経ったのかな」
「十年間も一人で?」
「なんの問題もなかったよ。ご覧の通り、別に忙しいお店じゃないからね。昨日もお客さんは一人だったし」
それで経営はやっていけるのだろうか。アルバイト代はちゃんともらえる?
「安心して。ちゃんとバイト代は払えるから」
「え、う、どうも」
千可は心の中を読まれたようでしどろもどろな返事になっていた。
「呼び方は千可ちゃんでいい?」
「あ、はい」
「現状知識はないってことだけど、千可ちゃんはそもそもアンティークやヴィンテージに興味はあるの?」
「実はあんまり。縁がなかった世界なので」
これだけの商品についての知識を頭に入れられるだろうか。少し……というか、かなり不安だ。
「大いに結構。伸びしろたっぷりだね。とりあえず商品を眺めてて。僕はちょっとバックヤードに行って電話をしてこないといけないんだ」
「お客さんが来ても何も説明できませんよ」
「平気だよ。平日の日中は誰も来ないさ。言ったでしょ、昨日もお客さん一人だったって。薄暗いだろうけど、目はすぐに慣れるよ。商品の質を保つため、窓には遮光フィルムが貼ってあって、昼間でも外の光が入ってこないんだよね。じゃあ、戻ってくるまで大いに目を楽しませておいて」
設楽は軽く手を振り、レジ裏の木製ドアを開け、向こうに消えていった。ドアが閉められると店内はしんとした。BGMも流していないんだ。
手持ち無沙汰なので言われた通り、レジ近くにある古いガラス製のショーケースに歩み寄り、中を覗き込んでみた。気泡の混ざった歪んだガラスの向こうに腕時計が等間隔に陳列されている。
ロレックス、オメガ、カルティエくらいなら聞いたことがある。パテックなんとか、ヴァシュなんとかなんて憶えられない。サイズを問わず、文字盤の表面はどんな色であれ内側から鈍い光を放っているような気品や色気、趣があり、誰かに手に取られるのをじっと待っているように見えるのは不思議だ。
全部サイズ的にはわたしの手首にも巻けそうだけど、十八歳の自分には似合いそうもない。それ以前にアルバイトの身には到底手が出せない値段だ。どれもこれも、古いのにどうしてこんなにも高価なの? 最低でも五十万円はする。ヴィンテージと呼び方を変えても、突き詰めれば誰かが使っていた中古品、しかもかなり古く、現行の腕時計の方が性能もいいはずなのに。
ものの価値とは一体、なんなのだろう。
高校では机やら下駄箱やらに何度も腕時計を派手にぶつけた。時計の右上に深い傷が入ってしまい、お気に入りだったのでがっかりしたのもつい昨日の出来事に思える。まだ数千円だったから諦めがついたけど、あれが数十万、数百万円の時計だとしたら……。想像するのも恐ろしい。
店の入口ドアが開き、千可は振り返った。大柄で、強面の四十代半ばくらいの男性が大股で入ってきた。うそでしょ。どうしよう。
「嬢ちゃん、店主は?」
男性の口調は荒っぽくて、目つきもかなり鋭い。買い物をしにきたようには見えない。千可は胸裏で首を傾げた。男性の身なりもわたし同様、あまりお金がかかっていない。ジャケットもシャツもズボンも明らかに生地が安物で、腕時計も国産の高校生でも買える値段の代物だ。クラスメートの男子が同じ腕時計を使っていた。
「久兵衛さんはちょっと席を外しています」
「久兵衛だ?」
「店主はすぐに戻ると思います」
設楽を呼びに行った方がいい? でもこの場を離れられない。もし目の前の男性に商品を盗まれたら、アルバイト代ではとてもじゃないけど弁償できない。いきなり借金生活になってしまう。
「そうかい」
男性は投げ捨てるように言い、顎をさすると店内を見やった。物色中? 千可は全身が強張りそうになった。手近に武器になりそうなものは……。
店内を見回した。腕時計やコート類のほかにもシルバーのブレスレットやゴールドのリングといったアクセサリーがあり、革靴、デニム、レザージャケット、ニットやシャツなどのトップス、それらを展示するキャビネット、どれもこれも年代ものに違いない。レジですら相当古い。店内の空気まで古くなっている気がする。
千可は男性に気づかれないよう紳士用革靴にそっと右手を伸ばした。力任せに踵を頭に叩きつければ、かなり痛いはずだ。男性はなおも店内をじろじろ眺めている。
「お客さんかな?」
背中側から設楽の声がして、千可はほっとした。男性も設楽の方に視線をやり、急かすように口を開いた。
「久しぶりだな」
「なんだ、藤池か。千可ちゃん、大丈夫、革靴を下ろしていいよ」
「革靴だと?」と藤池が訝った。「別に買う気はねえぞ」
「万が一の時、君の頭を靴でぶん殴ってやろうと思ったんだろうよ」
設楽に行動の意図を見抜かれ、千可は何も返答できずに愛想笑いしつつ、革靴を元の場所にそっと戻した。
「おいおい、物騒だな」と藤池が眉をひそめた。
「君のせいだよ。どうせ店内を睨むように眺めていたんだろ。犯行に時間をかける間抜けな強盗にでも見えたんだよ。何年も刑事を務めて人相が悪くなっているのを自覚してんのかい? こんな物騒なご時世じゃ、むしろ賞賛されるべき振る舞いだよ。店員として百点満点の対応さ」
刑事? 千可は胸をなで下ろした。よかった。慌てて殴りかからなくて。
「お前さんの見た目も相変わらずだな。そんな上等なナリはカイシャじゃ浮いていたけど、ここには合っている」
「そりゃどうも。退化していなくてなによりだよ」
千可は雇い主を見た。設楽は上質そうな厚いグレーの生地で仕立てたスーツに、ふっくらとした生地感のネイビーのネクタイを結んでいる。どちらがいい悪いではなく、確かに藤池とは身につけるものへの気の遣い方が違う。
「依頼がある。人を捜してほしい」
「待て待て。僕はアンティークショップのしがない店長だよ」
「元警視庁捜査一課で、おまけにとんでもなく優秀だった――な」
千可は声には出さず、わおと口だけを動かした。父親から聞いてはいたけれど、本当に設楽は元々刑事だったんだ。そんな雰囲気はまるでない。父も鹿児島県警の刑事なので、同僚の人とも会ったことがある。みんな藤池のように強面だった。刑事は仕事柄、次第に怖い顔つきになっていくのかもしれない。かたや設楽は柔和な顔立ちだ。現役刑事の頃は厳しい顔つきだったのだろうか。とても想像できない。
藤池がこれみよがしに肩をすくめた。
「それが古物商とはな。才能の無駄使いだ。使うと言えば、ここにあるのは全部使えるのかよ」
「当たり前だろ」
「嬢ちゃんはどう思う? 古いものに興味あんのかい」
「いまは何とも。今日からアルバイトに入ったばかりなので」
千可は素直に応じた。正直、好きでも嫌いでもない。
「センスは充分さ」設楽がしたり顔で頷いた。「左手人差し指のシルバーとゴールドのコンビリングは趣味がいい。エルメスのヴィンテージモデルだ。普通の十八歳ならしない」
「高校卒業の記念に母からのお下がりです。昔、父がプレゼントしたそうで」
「あの鬼瓦……失敬、おしゃれに無頓着な下浦のおやっさんが?」
「お店の人が選んでくれたとか」
「それなら納得だね」
「ちょい待ち」藤池が会話に割って入ってきた。「下浦のおやっさんの娘さんなのかよ」
そうだ。藤池も父を知っていても不思議じゃない。父は警視庁に出向した折、設楽と知り合ったのだから。きっと藤池とも同じ時に知り合ったのだろう。
「いつも父がお世話になっています」と千可は藤池に頭を下げた。
「お世話されたのはこっちだよ。元気なのか?」
「多分。わたしは高校から実家を離れて、埼玉にいたので」
ふうん、と藤池は千可を見た。
「バイト先ならもっといいとこがあるだろ。物好きだな」
「はあ。父の紹介ですし」
「なんでおやっさんは大事な娘さんをこんな奴のとこに?」
「決まってるだろ」設楽が心持ち胸を張った。「大事な娘さんだからこそ、僕を東京の親代わりに選んだんだよ。直々にアルバイトさせてくれって頼まれてね。知り合いの中で一番頼りがいがあったのが僕なんだよ」
「知り合いの中で『一番暇そう』の間違いだろ。嬢ちゃんは東京でやりたいことでもあるのかい?」
「まったく、何にも。父が『せっかく埼玉の高校に行ったんだから、そのまま東京に住んでみろ、都会で多くの人に揉まれてみろ』って」
進路が決まっていなかった娘を見かね、鹿児島に戻すのではなく、東京に放り込めば刺激があると考えたのだろう。でも、東京には怖い面もあり、父は設楽を頼ったに違いない。兄は関西で就職し、姉も福岡の大学に通っていて、東京には親類もいない。
特にやりたいこともなかったので言われるがまま、今日ここに至っている。やりたい仕事や学びたい分野があれば、そっちの道を選んだだろう。何もないのだ。探す気も起きなかった。埼玉から中野に引っ越してからは、ただ寝て、起きて、また寝て――を繰り返す毎日だった。スマホを触る気すら湧いてこなかった。引っ越しの手伝いをしてくれた後、そのまま東京に残った母が何も言わないのをいいことにずっと眠った。昨日、母は祖父母の通院の関係で鹿児島に帰った。ちゃんとアルバイトに行けるの? そうすごく心配していた。朝、しっかり起きたよとLINEで送ると、笑顔のスタンプが返ってきた。
やりたいことがなくても、やらなきゃいけないことがあれば、今日のようにそれなりの行動はできる。人生を懸けようと思っていたサッカーを大怪我で断念して、高三の一学期はほとんど入院生活で休むはめになったけど、二学期は高校に通った。単位を取れ、ちゃんと卒業もできた。卒業式にだって出られた。
藤池が太い腕を組んだ。
「高校から親元を離れたかわいい娘なら、鹿児島に戻ってきてほしいだろうになあ」
「君もまだまだ甘いな。かわいい娘さんだから東京に住ませる選択をしたに決まっているだろ。SNSやらなんやらで、どこにいても情報に接せられる時代だけど、体験したり、様々な人やものを目の当たりしたり、実体験できる機会が多く、将来の選択肢も幅広いのは断然東京だ。将来の展望が見えていない時期こそ、日本一雑多な街――東京に身を置く意味があるじゃないか。これぞ真の親心だよ」
「社会に揉まれるもなにも、こんな小さな店じゃ無理だろ」
「失敬な。お客さんは来るし、君みたいな人間も来る。店は小さくたって、心持ち次第で色々な人生模様が見られる場所だよ。おまけにアンティークやヴィンテージも豊富なんだぞ」
設楽が軽く手を叩いた。
「千可ちゃん、気になったら商品はあった? 遠慮なく手に取ってみな。うちはレディースもたくさんあるから」
「怖くて無理ですよ。このファストファッションで身を固めた姿を見てください」
「ものは手に取って使わないと。後生大事にしまっておくだけのコレクターなんてクソ食らえだね」設楽が頬を緩めた。「今のは、僕が学生時代に通った古着屋のおじさんからの受け売り。当時でも高価だったけど、今じゃとんでもない値段になったジーンズとかジャケットとか、色々試着させてもらったもんだよ」
「怖くなかったんですか? 絶対に買えませんよね」
「向こうも買えないのは承知の上だったし、こっちもそう言ったよ。でもね、『文化の継承のためだからね』って笑っていた。僕もその心意気くらいは受け継ぎたくてね」
「試着してそのまま逃げられる怖さはないんですか」
設楽は人差し指を立てて頭の横で二度回し、ぱっと手の平を広げた。
「もしそんな人がいるなら、いい度胸だね。じっくり商品を眺めてみな。千可ちゃんに語りかけてくる品物もあるはずさ」
「あっても買えませんよ」
「下浦のおやっさんに買ってもらうさ。奥さんにリングをプレゼントした時を思い出してもらって」
「ときに、依頼の件だけどよ」藤池が強引に話を引き戻した。「俺の育ての親、叔父さんが突然姿を消してな」
「日本には優秀な警察組織がある。君もその一員だろ」
「警察沙汰にしたくないんだよ。ただでさえ、うちはさ。知っているだろ?」
藤池の表情が曇り、歯切れが悪くなった。
「なんで今回に限ってそんな気にするんだい」
「四十五歳にして結婚することになってな。相手さんの家族への手前がある」
「ほほう。君が結婚とは。僕と一緒に独身三羽鴉とよく先輩たちに揶揄われたのも懐かしい。さすがにああいう文化も廃れただろうけど」
「まだ隠然と残っているよ」
「まったくもう」設楽がゆるゆると首を振り、千可に視線を向けた。「警察組織はね、早く結婚しろと陰に陽に迫ってくるんだ。家庭を持てば、下手な真似はしないといういささか古風な考え方でね。僕は独身を貫いたけれど、ああいうのは大嫌いだった」
「わたしも嫌ですね、そういうの」
職場とプライベートは別のはずだ。私生活まで踏み込んでこないでほしい。もっとも、父親には私生活なんてほとんどなかった。ずっと仕事で、一緒に遊んだり、出かけたりした記憶は皆無だ。
「バイト初日にしては嬢ちゃんが気兼ねなく喋ってるな。最近の若者はこんな感じなのか? それとも嬢ちゃんとは元々知り合いだったのか?」
「今日が初対面だよ。最近の若い人がどうこうって言うより、千可ちゃんの性格がいいから僕らみたいな胡散臭い連中とも気さくに喋ってくれているだけさ」
いや、そうじゃなくて自然と――。設楽はすごく話しやすい。雰囲気や人柄もあるだろうし、きっとわたしが気を遣わないように仕向けてくれているのだろう。
「話を続けよう。いまの時代、足取りを追えない人なんてほぼいないよ」設楽はきっぱりと言い切った。「スマホと防犯カメラがこれだけ発展していればね。交通系ICカード、銀行のカード、クレジットカードなどあらゆる取引記録も追えるしさ。それなのに君はあくまでも警察の力を使いたくないんだね」
藤池が手を合わせ、設楽を拝んだ。
「ご祝儀だと思って、頼む、この通りだ。お前にお誂え向きの失踪でもあるんだよ」
「お誂え向きというのは?」
「全然連絡がつかないから、合鍵で開けると、『おめでとう。これを引き継ぐ。捜さないでくれ』っていう簡単なメモと、腕時計が置いてあったんだ。ロレックスの古いやつだよ。俺が小さい頃から、叔父さんはそいつを腕に着けていた。ずっと大事にしていた時計さ」
ずっと大事に、か。大きなのっぽの古時計みたいだな、と千可は思った。
「叔父さんの年齢は?」
「俺より三十上だから七十五歳」
「いいね。腕時計は相当古そうだ」
設楽が前のめりになった。この人は本当に古いものが好きらしい。
「ブツはどこに?」
「叔父さんの部屋だよ。物証は動かさないのが鉄則だろ」
千可は首を捻った。二人は納得顔で話を進めているけれど、腕時計と叔父さんの行方になんの関係があるのだろう。行き先を彫っているわけでもないだろうに。
「ところで君、今日仕事は?」
「非番だ」
「叔父さんの家はどこなんだい」
「阿佐ヶ谷」
「近いじゃないか。善は急げ。早速いこう」
言うなり、設楽は出入り口に行ってシャッターを下ろしてしまった。ドアの鍵を閉め、レジも締めた。いそいとした動きを見せつつも、背中が笑っている。古い時計に出会えるのが楽しみで仕方ないのだろう。
「千可ちゃんも一緒においで。何事も実地が大事だからね。いいだろ、藤池」
「構わんよ」
「でも」と千可は訝った。「あちこち触るなとか、踏むなとか色々うるさいんじゃないんですか」
鑑識活動を考えると、余計な邪魔者は出しゃばらない方がいいはずだ。昔、父親にあれこれ無駄に触るな、と注意された。いざその場が事件現場になった時、色々な指紋や足跡があると、それらを排除する捜査が必要で面倒らしいのだ。たまに家にいたかと思うと、兄や姉と一緒になっていつもそう怒られた。家が鑑識の世話になる恐れがあったとは思えないので、子どもを静かにさせる方便でもあったのだろう。
「藤池は警察沙汰にしたくないんだから、指紋だのなんだのは気にしなくていいよ。これもアルバイトの一環だと思えばいい。なにより今日はまだ始まったばかりだしね、初日からバイトがなくなったら暇でしょ?」
ごもっともです。部屋に帰ってもどうせ寝るだけなので。
設楽が店の照明を消し、三人で裏口から出た。改めて建物を見ると、二階の白壁には蔦が絡まり、相当な古さを千可は感じた。
これまた古いボルボのステーションワゴンを設楽が運転し、阿佐ヶ谷に向かった。千可は後部座席に座り、運転席と助手席の二人の会話を聞くともなしに聞いていた。
「叔父さんは当然独り暮らしなんでしょ」と設楽が助手席の藤池に確認した。
当然? そうか。家族がいるのならその人と一緒に来店しただろうし、高価な腕時計も子どもや妻に引き継ぐはずだ。
「ああ。引き取られた俺が家を出てからはな」
以前は叔父さんと一緒に住んでいたのか。そういえば、親代わりだと言っていた。
「書き置きの内容からして、叔父さんは君が結婚するのを知っていたんだよね」
「ちゃんと相手を紹介しているよ。両家顔合わせにも来てもらった」
「生まれも育ちも阿佐ヶ谷なのかい」
「出身は新潟。叔父さんにとっての両親、つまり俺にとっての祖父母もとっくに亡くなっていてな。家は潰して土地を売って、親父と叔父さんで分与して、墓仕舞いもとっくに終わってる」
「家や土地を売ったのは、君の父君がご存命の頃なんだね」
「そういうこった。ついでに言うなら、お袋もな」
「悪いね」
「何も悪かねえよ」
多分、藤池の両親は早くに亡くなり、叔父さんが面倒を見てくれたのだろう。繊細な過去に触れてしまい、設楽は謝ったに違いない。
「叔父さんに旅行の趣味は?」
「昭和生まれらしく仕事一筋だった。新橋にある中小企業に勤めていてさ。もう定年退職してるよ。趣味なんてなかったはずだ。少なくとも俺は知らない」
「それで行き先の見当もつけられないってわけか」
「ご明察だ。情けない話だろ」
藤池の声は沈んでいて、ルームミラー越しでも表情が暗いのが見て取れた。
(つづく)