第1話 トリチウム夜光は語る

 

最初から読む

 

 

 JR阿佐ヶ谷駅近くのコインパークに車を止め、南口にある住宅地のマンションの一室に三人はいた。2LDKの部屋は広く、整理整頓され、床などの掃除も行き届いている。藤池の叔父さんはきっと丁寧な暮らしをしてきたに違いない。

 リビングの隅には仏壇が据えられ、中央にダイニングテーブルと椅子が五脚ある。窓を背にした椅子の前にはノートパソコンがすぐ使えるようセッティングされ、パソコンの左手前にはコードレスのマウスもある。テーブルの真ん中にはA4サイズの紙、その左側に万年筆、右側に革製のトレーが置いてあった。

 設楽は真っ直ぐテーブルに進み、紙とトレーを無遠慮に覗き込んだ。

「確かにシンプルな書き置きだな。ロレックスも大切に扱っていたんだろうね。状態がかなりいい。手に取ってもいいかな」

「好きにしてくれ」

「では遠慮なく」

 設楽がロレックスを手に取った。

「千可ちゃん、このモデル名を言えるかな」

 無理でしょ、教えてもらってないし。

「まったくわかりません。お店にあったのは憶えています。赤と青のベゼルが特徴的なので印象的でした」

「上出来さ。これはGMTマスターの通称ペプシというモデルだよ。ヴィンテージロレックスの中で、人気が急騰しているモデルの一つなんだ。かつては投げ売りされていたんだよ。信じがたいよね」

 設楽は時計本体が中心にくるようにブレスレットの上下を両手で持ち、GMTマスターを見つめた。

「藤池の叔父さんの時計の型番は1675。文字盤がマットなのとベゼルのフォントからして七〇年代のモデルだね。文字の形からしてロングEと呼ばれるタイプだ。トリチウムもいい焼け方だ。若干左側の方が焼け方は濃く、ベゼルの退色も若干左の方が進んでいる。これらは別にマイナスポイントにはならない。むしろヴィンテージらしい風合いだよ。ベゼルが交換されている個体も多いけど、これはオリジナルだ。文字盤にしろブレスレットにしろ、オリジナルというのは査定で大きな加点になる」

 設楽は饒舌だけれど、千可には何を言っているのかさっぱりだった。

「トリなんとかってのは?」と藤池が乱暴な口調で尋ねた。

「トリチウムは夜光塗料だよ。放射性物質でさ、年々劣化して光らなくなるし、今はもう使われていない。放射性物質といっても、人体には無害なレベルだよ。つまり叔父さんのペプシも夜光の機能は失われている。それでもロレックスのスポーツモデルに限らず、この得も言われぬ味を求め、トリチウム個体を探す人は多い。というか、元々トリチウム夜光の文字盤がルミノバ夜光に交換されていると価値は著しく落ちる」

「不思議な価値観だな。夜光として用を足してないのに」

「ないものねだりは世の常だろ。文字盤だってひび割れているのをスパイダー、茶に変色したのをブラウンチェンジ、細かな剥がれが点となっているのをスターダストなんて洒落た呼び方をするんだ。価値も高い。同じ個体がこの世に絶対にないからね」

 千可は設楽に一瞥された。教育の意味もあるのだろう。確かに一点物とか言われると、わたしも弱い。このケーキはラスト一個ですよ、もう作りませんよとか。

 設楽がGMTマスターを丁寧に左の手の平に置いた。

「トリチウム夜光は実に面白いんだよ。焼け方――変色の仕方が個体によって全然違う。クリーム色の個体もあれば、パティーナと呼ばれるこんがりとした濃い茶色に変わるケースもある。君の叔父さんの時計はベースがクリーム色で、一部茶色くなっている焼け方だね」

 藤池が腕を組んだ。

「扱い方で変色に差が出るのか?」

「定説では、陽射しを浴びた量とかが関係すると言われているんだ。ベゼルの退色具合もGMTはサブマリーナに比べて薄くなる傾向があると僕は個人的に思っている。塗料材の差なのか何なのかは不明さ。ロレックスは何も明かさないからね。だからこそ面白い世界なんだよ。ヴィンテージロレックスは現行品より明らかに機能が劣っているのに、それ以上の価値が出たものもある。日本人と相性が良く、わびさびの世界と通じるのかもね。楽しむためじゃなく、投機目的の購入が増えているのはいただけないけど」

「時計に罪はないだろ」

 藤池がぶっきらぼうに指摘した。

「君の割にいいこと言うじゃないか。叔父さんは君に一財産を託したわけだ」

「高いのか」

「君の給料で言うなら、額面ベースで数ヵ月分に相当する」

「まじかよ。そんな高い時計をもらえねえよ。形見でもあるまいし」

 藤池は口にしてから、しまったという顔になった。

「言霊を気にしたんだね」

「悪いか」

「警官らしくていい」

 なるほど、全国共通で警官は意外と信心深いんだ。刑事課には神棚があり、毎朝拝むという。子どもの頃に父親が教えてくれた。人の死と近い職場なので自然な心の動きなのかもしれない。

「この時計、新品で買ったのか、中古で買ったのかは知っているかい」

「新品だろ。若い頃、銀座のデパートで買ったって言ってたから。お前のところみたいな質屋じゃなくて」

「うちはもう質屋じゃないよ。ヴィンテージとアンティークの専門店さ」

「ヴィンテージとアンティーク、何が違うんだ? どっちも古いもんだろ」

 いい質問だね、と設楽が指を鳴らした。

「ざっくり言うと、百年以上前のものがアンティークで、それ以前のものがヴィンテージ。今だと、時計だけでなく古着も含めて九〇年代以前のものをヴィンテージと紹介する例が多いかな。ただロレックスは境界が曖昧でね。四〇年代や五〇年代の時計をアンティークとして売る店もある」

 へえ、そうなんだ。

「案外、いい加減だな」

「無粋な奴め、柔軟性があると言いたまえ。ちなみに九〇年代以降は中古として扱われているが、あと十年もすれば立派なヴィンテージになる。だからどんなものであれ、大事に使っておくのが肝心なのさ。あらゆるものは、時間とともに叔父さんのGMTのようないい顔に変化していくんだよ」

 やっぱり饒舌だ。本当に古いものが好きなのだろう。ここまで好きになれる対象があって、正直羨ましい。わたしは――。千可は胸の内でかぶりを振った。もう諦めたのだ。諦めざるをえなかったのだ。

「叔父さんはここで書き物を?」

「寝室にも机と椅子がある。見てみるか」

「そうしよう」

 設楽はロレックスのGMTマスターを革のトレーにゆっくりと戻した。

 リビングの隣が寝室になっていた。ベッドもちゃんと整えられていて、窓際の机の上もきちんと整理されている。右隅にデスクライトが設置され、左手側に万年筆、ボールペン、シャープペンシルの順で筆記用具が揃えて置かれていた。設楽はさっと寝室を見回した。

「なるほどね」

 それだけ言い、さっさと寝室を出ていこうとした。

「もういいのかよ」

 ああ、と設楽は背中で短い返事をし、リビングに戻っていった。千可と藤池は目を見合わせた。

「昔からああなんだよ。あいつのうんちく語りは最初鼻につくのに、いつのまにか聞き入っちまう」

「事件現場でも古いものに目を奪われていたんですか?」

「鑑識作業が終わった後、しげしげと眺めていることはよくあったな」

 でしょうね、と千可は心の中で相槌を打った。

「あいつはさ、部屋にあった古いもので何度も事件を解決に導いたんだ。ものは語るとかなんとか嘯いてさ」

「超能力者みたいですね」

「まじでな。もしあいつがお袋のヤマの時に帳場にいたら――」

 藤池は言いかけ、口を閉じ、肩をすくめてリビングに戻っていった。何か事情があるのだろう。千可も藤池の後に続いた。

 リビングでは設楽がGMTマスターに顔を近づけ、再び凝視していた。

「叔父さんは石原裕次郎が好きだったのかな」

「なんでわかるんだよ」

「石原裕次郎がGMTのペプシをしていたから。きっちりした生活を送る印象の叔父さんにしては派手めの時計だろ。だったら憧れの人がつけていたとか理由があると思ってね。やはり古いものは興味深いねえ」

「そりゃよかった。他にも何か語ってきてんのか?」

「もちろんさ。大いに語ってくる。君には聞こえないのかな、この豊かな声が」

「いんちき霊媒師も真っ青だな」

「これ以上いんちき呼ばわりされないためにも、仏壇で線香を上げさせてもらおう。君のご両親にもしっかり挨拶しないと。元刑事としてもね」

 先ほど藤池は母親の帳場がうんぬんと言いかけていた。帳場――捜査本部のことだ。幼い頃から父親が使っていた言葉なので千可も知っている。藤池家は何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。

 藤池と設楽が並んで仏壇の前に行き、千可もそちらに足を向けた。信心深い方ではないけれど、ここで自分だけ線香を上げないのもどうかと思う。

「わたしもいいですか」

「もちろん」藤池が振り返ってきた。「しかしなんだ、全然おやっさんと似てねえな」

「千可ちゃんのためには大変結構な遺伝じゃないか」

 設楽が言ってしきりに頷く中、藤池は眉を上下させた。

「いまの発言、ルッキズムに引っかかるぞ」

「千可ちゃんはどう思う?」

「父には申し訳ないですけど、母に似てよかったと心底思ってます」

「だってさ」

「てめえ、あらかじめその情報が頭にあるから言えたってわけか。さてはおやっさんに聞いてたな」

 だね、と設楽が微笑んだ。

「ったく。あれ?」藤池が急に素っ頓狂な声を発した。「仏壇にあった写真がなくなっているな。両親と叔父さんが一緒に写った若い頃の一枚」

「仲のいいご兄弟だったのか」

「そうだと聞いている。そりゃ細かい喧嘩はしただろうよ。兄弟なんだから」

「母君を含め、いい親戚づきあいだったのかな」

「俺の目にはそう見えていたよ。だからこそ俺を引き取ってくれたんだろう」

「まずはご挨拶しよう。千可ちゃんも隣にどうぞ」

 仏壇の前に正座をした。背の高い仏壇にはお菓子などを置く台の部分に、三つの写真立てが飾られていた。白黒写真、古いカラー写真、やや古いカラー写真。あきらかに一つ分のスペースが空いている。警官なのにこの違和感に気づかなかったのか。日常的に事件を捜査していても、いざ身の回りで起きると案外動転して色々見落としてしまうのかもしれない。

 設楽が線香を立て、二人並んで仏壇を拝んだ。千可が手をとくと、設楽が仏壇を眺めたまま口を開いた。

「父君は過労死だったよね」

「当時はそんな言葉はなかったが、紛れもなくな。お袋が死んだ直後から、親父は馬鹿みたいに仕事の虫になっていたんだ。俺はまだ小さかったってのに、ほとんど家に帰ってこなかった。事情を知った叔父さんに、晩飯をよくごちそうになったもんさ。お袋が死んでから、俺は叔父さんに育てられたようなもんだ」

 息子を放っておくくらい、藤池の父親は大きなショックを受け、仕事に心と体を使うことで少しでも事件と、奥さんの死そのものを忘れられる時間を延ばしたかったのだろう。

「叔父さんの最近の写真はあるのかい」

 藤池がスマホの画面を設楽に見せ、千可も覗き込んだ。顔も体も四角い印象で、太っているわけじゃなく、筋骨がたくましいと言った方が良さそうだ。

「ありがとう。最近の写真から判断するのに、仏壇にある三枚の写真のうち、古いカラー写真の左側が叔父さんだね。で、顔立ちからして似ている右側の方が君の父君」

「その通りだよ」

「叔父さんに比べ、父君は割と華奢だね」

「父方の家系には華奢と固太りが半々くらいでいるよ。じいさんは固太り、ばあさんは華奢だった。母親の家系は割と固太りだから、父方のじいさんと母方の遺伝子を俺は濃厚に継いだんだろうよ。小さい頃からこんな体型だったから」

「母君もがっしり体型ってわけか。少し古いカラー写真の女性かな。目元が君にそっくりだ」

 設楽が仏壇の写真に目をやっていた。藤池も懐かしそうに目を細めた。

「小さな頃、周りにも似ているってよく言われたよ。十二歳の時に親父が死んで、引き取ってくれた叔父さんにも『年々似てきたな』って言われたもんさ」

「他に君のご両親と叔父さんが一緒に写っている一枚はないのかい」

「俺の知る限りはない。ネガを持っていて焼き増ししている可能性はあるけどさ」

「そこまで厳密に知りたいわけじゃないよ」

 設楽が立ち上がり、千可も続き、三人でリビングのテーブルを囲むように椅子に座った。千可は設楽と並び、正面に藤池がいる。三人の中央にはGMTマスターが革のトレーに置かれていた。

「確認なんだけどさ」と設楽が切り出した。「母君の事件、とっくに時効を迎えているよね。以降、何か進展は?」

「何もねえよ。やるせねえよな。滅多刺しにされて殺された挙げ句、犯人が逮捕されていないなんてさ」

 千可は目を見開いた。滅多刺し……。殺人事件の被害者だったのか。未解決だから、元刑事の一人として設楽は仏壇に謝罪したのだろう。

「君が捜査をやり直せるわけでもないもんね。警察はとかく体面にこだわる。終わった捜査は触れないのが暗黙のルールなんだから」

「そもそも一人じゃなんもできねえよ」

「母君の事件の真相を知るべく、君は警察、殊に刑事になりたかったんだよね。警察学校で聞いた時、驚いたんだ。確かその時にはもう時効が成立していた。君が七歳の時に起きたんだったよね。殺人事件ですら、かつては十五年間で時効だったから」

「喋った本人が言うのもなんだが、聞かされた方もこんなエピソードは忘れられんわな」

 語弊を恐れず本音を明かすなら、千可は藤池が少し羨ましかった。母親が殺害されたことがではなく、目的を持って将来を決められたことがだ。今のわたしにはやるべきことも、やりたいことも何もない。設楽といい、藤池といい、眩しく見える。でも心は痛くなかった。高校ではグラウンドを走る同級生たちが視界に入るだけであんなに胸が詰まり、息苦しくなったというのに。つい数ヵ月前までの日常が遠くなったわけではなく、二人がいるのが別世界すぎるからだろう。

 それだけ自分が思い描いていた将来とは違う場所にいるということだ。こんな風に冷静な分析ができる自分を、斜め上から見ている自分もいて少しむなしい。

「結局、捜査資料を閲覧できたのかい」

「ぎりぎりな。廃棄処分される寸前だったんだ。当時の署長が当該捜査の仕切り役だった縁でな」

 捜査をやり直せなくても、その程度はさせてもらえるらしい。藤池が被害者の息子という面も大きいに違いない。

「滅多刺しというと何回くらい?」

 二人の付き合いは長そうだけど、聞いていなかったのか。確かに興味本位でできる質問ではないし、今の話の流れだと聞いても不自然じゃない。

「刺し傷は十五ヵ所、防御創はなかった。いきなり刺されたんだろうな。刃物はおそらく出刃包丁で、進入角度は右斜めから。致命傷は腹部の傷。十五ヵ所のうち十ヵ所は浅い傷だった。全部死んでからの傷だ。親父は血まみれのお袋を発見した時、我を忘れて抱きついたそうだよ」

 死んでからの傷と生きている時の傷は違うのか。刑事の娘だからか、子どもの頃からこういう血腥い話を耳にしても怖いとかやめてほしいとかまったく思わない。

「俺が帰宅した時、警官に事情を聞かれていた親父の手は震えていたんだ」

 怒りと恐怖が綯い混ぜになった感情が手を震わせていたのだろう。

「仲睦まじいご夫婦だったのかな」

「喧嘩どころか、言い争う姿も見たことない。母親は穏やかな人でな。その後の聞き込みでも誰一人、悪く言う人はいなかったそうだ。悲鳴を聞いた者もいなかったから、最初の一撃で亡くなったのか、気を失ったんだろう。せめて意識があれば助けを呼べただろうに。意識がないうちに亡くなったのは幸運と言えるのかもしれないけどさ。通報者は帰宅した父親。推定犯行時刻は午後六時過ぎ。父親が帰宅する一時間前だ」藤池が顎をさすった。「初動の失敗は大きかったはずだ。初動捜査も今と違って荒っぽかったからな。捜査員が土足でずかずか入ったり、現場でタバコの吸い殻を投げ捨てたり、素手で色々触ったり」

「さもありなんだねえ」と設楽が後頭部を掻いた。「母君の事件が起きた数年後でも、都内でほぼ同じような荒っぽい初動捜査がやっぱり行われてしまい、それが大きく響いて未解決になった有名な事件もある。捜査線上に容疑者候補は浮かんでいたのかい」

「十人くらい挙がっていたよ。決定打もないし、次々にアリバイも成立していた。指紋も捜査員がべたべた触っていたから、ほぼ採取できなかったそうだ。採れても『捜査員のだった』『家族のだった』ってオチばかりさ」

「指紋採取技術も今と比べると格段に低い頃だしね。僕らが入った頃だって指紋が重なっていれば、特定はかなり難しかった、よほどの幸運がない限りはね」

 藤池がテーブルに身を乗り出した。

「何か導き出せたか」

「僕は小説やアニメの名探偵じゃないんだぞ」

「そうかよ」

 藤池が椅子の背もたれに力なく体を預けた。

「千可ちゃん、藤池の母君の事件について何か質問はあるかな」

 はい? 千可は自分を指さした。

「なんでわたしが?」

 しかもいまさら? 何十年も前の事件なのに?

「第三者の目や意見は大切なんだ。警察は――元職の僕も含め、固定観念で事件を見てしまいがちだからね」

「いきなり質問と言われても……」千可は頭をフル回転させた。「侵入者はどこから家に? 窓からですか」

「その調子だよ」設楽が手を一つ叩いた。「どうなんだい」

「季節は冬で、窓の鍵はすべて閉まっていた。玄関のドアから入ってきたんだろう」

「鍵をこじ開けて?」

「最初から鍵は開いていたんだ」

「その時、藤池さんはどこにいたんですか」

「習い事に行っていた。書道をしていてね。先生の合格が出るまでは残らなきゃいけないスタイルで、帰宅時間はまちまちだった。あの日は父親のすぐ後に帰宅したんだよ」

 だから鍵は開いていたんだ。一昔前なら現代ほど防犯意識が高くなかったのだろう。

「犯人と出くわしたら、藤池さんも襲われたのかもしれないんですね」

 藤池が目を見開いた。

「そうだな」

「ほら」と設楽はしたり顔だった。

「なにがほらなんです?」

「僕らの頭にはなかった観点ってこと。藤池が襲われる可能性について」

「当然のことなんじゃ」

「そうだね。言われてみれば当然だよね」

 はあ、と千可はなんとも気の抜けた返事をするほかなかった。

「千可ちゃん、他に質問はある?」

「何か盗まれたんですか」

「何も」と藤池が小さく首を振った。「強盗の線は早々に消えた。財布も残されていた。そもそも家はおんぼろで、見るからに貧乏丸出しだったよ。押し込み強盗するにしても、別の大きな家を狙うさ」

「通り魔的な犯行だと? 家に入り込んでくるのを通り魔と呼ぶかどうか知りませんけど」

「完全には消せないが、そいつも薄いと判断された。通り魔的な無差別犯なら大抵、犯行は一件じゃ終わらない。刃物を振り回す姿を誰かが目撃しているはずだ」

「質問のセンスがあるねえ」設楽は嬉しそうだった。「さすがおやっさんの血筋だ」

 千可は内心首を捻った。そういえば設楽は強盗かどうか聞かなかった。長い付き合いなら何度か事件について話しただろう。もう知っていたのかもしれない。

「千可ちゃん、続けて」

「犯人は一人なんですか、複数なんですか」

「そりゃわからない。迷宮入りしているからな」

 そっか。他に質問は……って、まだわたしが? 千可は設楽を見た。

「以上です」

「ありがとね」設楽が藤池に目を移した。「叔父さんは君が警官になった時、喜んでくれたのかな? なんせきっかけは哀しい出来事なんだ。他の道に進んでほしいと望んでいたのかもしれない」

「喜んでくれたよ」

「ほう。父君の形見の時計もある? あるのなら見てみたい」

「ここにはない。うちにある」

「君の家は今どこだっけ」

「新宿だよ。落合。手狭なんで、結婚したら引っ越す予定なんだ」

「転戦しよう」

「ここはもういいのかよ」

「君は現役の刑事だ。とっくにガサをして、手がかりは他になかったんだろ。むしろそっちに力を入れたからこそ、仏壇の写真を見落としたんだと、ひとまず解釈しておくよ。君の名誉のためにもさ。GMTを借りていってもいいよね?」

 

 

 設楽の運転で落合に向かった。藤池は部屋に着くなり棚の引き出しを開けて、これまた古い腕時計を取り出した。本体にステンレスのブレスレットが付いていて、時計全体に使い込まれた風合いがある。

「父君もいい趣味だったんだね。キングセイコーの初期モデルだ。しかもオリジナルブレスレット付きだね」

 設楽はキングセイコーを受け取ると、窓際に進み、光をあて、しげしげと眺めた。

「しまってあったということは、君は使ってないのかい」

「こんな仕事だからな。タフな時計の方が好みなんだ。G-SHOCK一択さ」

 藤池が左手首を見せてきた。

「日本が生んだ傑作だよね。頑丈でいい時計だ、少し大きいけど。ってことは、父君の時計は一度も使ってないのかい?」

「一度もない。文字通り、タンスの肥やしだ。時計なんていつの間にか傷つくもんだろ。高い時計をつける奴の気がしれないな」

 千可は大きく頷けた。

「やれやれ。傷ついたっていいんだよ。使わない方がもったいない。時計は金の延べ棒じゃないんだぞ。道具は使うために生まれたんだ。キングセイコーもいまだに実用できる一本なんだから。GMTマスターほど高額じゃないし、ヴィンテージ入門者にはお薦めだよ」

「それもトリなんとかが使われてるのか」

「大抵のキングセイコーには夜光は使われてない。これもそうだね。バーインデックスと針という昔ながらの意匠さ。叔父さんも使っていないのかな」

「俺が知る限りない。家でもずっとロレックスを着けていたから。飯を食う際、箸を動かす時に袖口からちらちら見えてね。さすがに風呂に入る時は外してたけど。俺が叔父さんの家を出て行く時、親父の時計は持っていったんだ」

「ふうん。袖口から見える赤青のベゼルはかっこいいよねえ」設楽がキングセイコーを顔に近づけ、数秒後に離した。「この個体を実際使うとなるとオーバーホールが必要だね。ずっと怠っている不届き者がいるから」

 オーバーホールって? 会話に加われる流れでもないので、千可には聞けなかった。

 設楽が千可を一瞥した。

「オーバーホールっていうのは定期メンテナンスのことだよ。機械式時計には数年に一回必要なんだ。車でいう車検みたいなものだね」

 この人は読心術の遣い手なのだろうか。お店で革靴を手に取った時も意図を見抜いていたし、アルバイト代をもらえるか不安になった時も、すかさず欲しい答えをくれた。

「そうは言うけどよ」と藤池が頭の裏を掻いた。「形見ってのはそのままにしておきたいもんだろ。オーバーホールに出して傷を取られるのも嫌でさ」

「一応、言い訳の筋は通っているね。ちなみにオーバーホールの時、傷を残したいからケースやブレスレットは洗浄だけにしてほしいとリクエストすればいいんだよ。傷も歴史だから、消したくない人も多い。父君はこのキングセイコーを新品で買ったのかな?」

「多分な。保証書に親父の名前が書いてあるし」

「となると、間違いなく新品で購入したものだね。このキングセイコーも借りていくよ」

「好きにしろ。お前が誰かに売ったとしても、嬢ちゃんっていう証人がいるから平気だ」

「売却を検討しているなら相談に乗ろう。その前に一晩、二本の時計とじっくり向き合わせてもらうよ。もう一度、それぞれの物語に耳を澄ませないと」

「結論はいつ聞かせてもらえるんだ?」

 藤池が急かすように尋ねた。

 いやいやいや――。千可は割って入りたくなった。古い腕時計を二本見ただけだ。後は雑談の延長と、何十年も前の藤池のお母さんの事件についてわたしが拙い質問をしただけで、叔父さんの行き先を推測できるはずがない。

 手がかりらしい手がかりは本当になさそうだ。藤池は本職の刑事なのだから、失踪をこれまでも扱ってきただろうし、さっき設楽が指摘したように叔父さんの部屋をしっかり調べているに決まっている。

 そうだなあ、と設楽は右斜め上を見た。

「明日には」

「うそでしょっ」

 千可は思わず声を漏らしてしまい、設楽と藤池の視線が一斉に向けられた。慌てて口を押えても、漏れた声は戻ってこない。

「千可ちゃんに嘘つき呼ばわりされないよう、せいぜい脳みそを使ってみるよ」設楽が頬を緩めた。「藤池は明日仕事だろ。報告はどうする?」

「夕方から結婚式の打ち合わせと称して、カイシャを出るよ。大きな事件が発生しないことを祈っていてくれ」

 カイシャ――警察のことだ。父もカイシャと言っていた。街中などでどこに犯人がいるかわからないからだろう。

「祈るだけで何も起きないなら、とっくの昔に世界には平和が訪れているよ」

「うるせえな。とにかく店に行く。七時前には着くと思う」

「オーケー。閉店しているけれど、鍵は開けておくから入ってきてくれ。君の期待には応えられるはずさ。ときに君の伴侶をいつ紹介してくれるのかな」

「式に来る気はないんだろ」

「色々面倒だからね。顔を合わせたくない知り合いもいるし」

 少し気持ちがわかる。千可も高校時代の友だちと会いたくない。合わす顔がない。

「なら、諸々落ち着いてからだな」

「奇特なご婦人に会えるのを楽しみにしているよ」

 設楽が眉毛を上下させた。

 

(つづく)