第2話 ストレートチップは語る
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本物なの?
全身を強張らせつつも、下浦千可は目を凝らした。なんでお店の中に? 売り物の木製キャビネットの上に三毛猫がいて、忙しそうに毛繕いしている。開店準備ではたきでもかけようとしたところ、みゃあ、と可愛い声で鳴かれたのだ。
西荻窪にあるアンティークやヴィンテージの品物を扱うこの『久楽商店』には、一九〇〇年代初頭のガラス瓶などもある。猫が飛びかかって倒れ、割れてしまったらどうしよう。
猫を抱っこして店の外に出した方がいい? っていうか、抱っこさせてもらえる?
ガラス製の商品だけでなく、靴やバッグなどの革製品、腕時計、シルバーのブレスレットやゴールドのリングといったアクセサリー、コートやジャケット、デニム、ニットや薄い生地のシャツなども店内に所狭しとある。いずれも一点物で替えがきかないし、トップスなんて爪で引っかれてしまったら大変だ。
「あれ? ミャアちゃんと会うのは初めてだっけ?」
背後から素っ頓狂なほどの声がした。店主で、アルバイトの千可にとっては雇い主になる設楽信太郎だ。この店には他に店員はいないので二人職場になる。
「ミャアちゃんって、三毛猫のことですか」
「そ。朝、換気でドアを開けると、たまにとことこ入ってくるんだよね。毎日来る時もあれば、一ヵ月くらい来ない時もある。気まぐれだけど、それが猫のいいところだよ。みゃあみゃあ鳴くからミャアちゃん。猫は嫌い? 体が固まってたけど」
「むしろ大好きですよ。いきなりのご登場に驚いちゃって」
「ドアが開いた時、勝手に出ていくから放っておいていいよ。悪さしないから大丈夫。今まで何も壊れたことないし、いたずらされたことすらないんだ。千可ちゃんは引き続き開店準備をしててね」
設楽はそう言って、店のバックヤードに行ってしまった。ミャアちゃんは我関せず、片脚を上げて毛繕いを一心に続けている。初対面のわたしを警戒する素振りもない。邪魔するのも悪いので千可ははたきかけではなく、ミャアちゃんから遠い位置のガラスのショーケースを柔らかい布で拭くことにした。
埼玉の高校を卒業後、久楽商店でアルバイトを始めてから一ヶ月が過ぎていた。店の雰囲気にもだいぶ慣れた。年代ものの逸品ばかりの店内に最初は圧倒されたけれど、いまは温もりを感じる。値段はまったく優しくないけれど。
店のドアが開き、千可は手を止め、振り返った。まだ開店前なのだ。
「おう、嬢ちゃんしばらくだな。前は世話になった」
警視庁捜査一課の藤池だった。元警官の設楽と同期入庁だったらしく、その縁から彼の叔父が失踪した際、店に相談にきた。千可はなりゆきでその場に居合わせたのだ。
「わたしは何もしてませんよ」
「んなことねえよ。あいつは?」
「久兵衛さんはいま裏に」
この店は江戸時代創業の質屋の流れを汲み、当主は代々久兵衛と名乗っている。
ドアが完全に閉まる直前、三毛猫が藤池の足元を抜けて、颯爽と外に出ていった。藤池は反射的に片脚を上げている。
「猫?」
「ご常連らしいです。叔父さんはその後、戻って来られたんですか」
「設楽の推測通りだったよ。結婚式の一週間後にな」
藤池が左頬をかいた。薬指には以前はなかった指輪がしっかり嵌められている。指輪ひとつで強面がいくらかかわいく見えるから不思議だ。婚約指輪を買っていれば、前に会った時にしていただろうから、結婚指輪一本にしたのだろう。ん? 男の人って婚約指輪はあんまりしないんだっけ?
バックヤードに続く扉が開き、設楽が顔を見せた。
「藤池じゃないか、新婚旅行の土産でも持ってきたのか」
「行けるわけねえだろ、うちのカイシャだぞ。典型的なブラックだろうが」藤池が真顔になった。「ちょっとした聞き込みだよ。待ってろ」
藤池はいったん店を出て、三十代前半の男性を連れてきた。見るからに警官だ。耳が潰れているし、オシャレにもまったく興味がなさそうだ。千可の父親がまさにこういう典型的な刑事タイプなのだ。いまも鹿児島県警で現役刑事として勤務している。十数年前、警視庁に出向していた際に設楽と知り合いになったらしく、久楽商店をアルバイト先として紹介された。千可は埼玉の高校を卒業しており、父親としては親元を離れた娘が心配だったのだろう。千可としても卒業後の進路が決まっていなかったので、言われるがまま埼玉から都内に転居し、働くことにした。
「君の相勤かな」と設楽が藤池に尋ねた。
「そういうこった」
父の仕事柄、刑事が大抵二人一組で行動すると千可は知っていた。まず一人で入ってきたのは、叔父さんの一件を聞かれたくなかったからに違いない。藤池と一緒の男性は設楽を知らないみたいだ。設楽は現役を退いてしばらく経っているので無理もない。
藤池たちはどんな事件の捜査で店にやってきたのだろう。千可は背筋が伸びた。父親が刑事でも、さすがに事件の聞き込みをされた経験はない。
「二週間前、店にこの男が来たよな」
藤池が懐から一枚の写真を取り出し、設楽と千可はそれを覗き込んだ。
「真田君だ」設楽が即答して顔を上げた。「確かに来た。二週間前っていうと、朝、大雨が上がった日だね」
「何しに来た?」
「そりゃ、買い物だよ。革靴とデッドストックのセーターを買ってくれた」
「どんな様子だった?」
藤池が質問役らしい。隣の男性は黙って設楽を見ている。
「楽しそうだったよ」
「嬢ちゃんにはどう見えた?」
藤池に振られ、千可は小首を傾げた。
「楽しそうにヴィンテージについて喋ってましたよ。靴のこととか。正直、わたしにはさっぱりでしたけど。何があったんですか」
藤池が相勤の男性と目を合わせ、こちらに向き直った。
「十日前に新宿で起きた殺しの重参でな」
重参――重要参考人。父親の関係で、簡単な警察用語は勝手に頭に入っている。警察が重参と呼ぶ相手は限りなく犯人に近いはずだ。千可は自然と十日前の、この店でのやりとりを反芻していた。
あれはわたしが設楽と革靴についてやりとしている時だった。
*
朝方に上がった大雨が空気中の埃や花粉を洗い流してくれたのか、どこかの工事音やエンジン音など街のざわめきがいつもよりはっきりと窓の向こうから聞こえていた。
「革製品って、手入れが大変なんじゃないんですか」
千可が尋ねると、設楽は手を止めた。膝の上に茶色の革靴を載せ、かれこれ一時間くらい柔らかい布で手入れを続けている。
「手がかかるから楽しいんだよ。靴を磨くと心も磨いている気になれるしね。ぴかぴかになると、革の艶に惚れ惚れするんだ」
千可は安物の革製品しか買ったことがないし、普段使いの靴なんて一万円未満のものしか履いたことがない。練習終わりのスパイク磨きなら経験あるけれど、終わった後に惚れ惚れした覚えもない。
「靴って消耗品ですよね」
「あちゃあ」設楽は指先が黒くなった手で顔を押さえた。「大いなる勘違いだよ。革靴は文字通りの一生物なんだ。手入れをし、修理をすればいい。初期投資額は重たいけど、ちゃんと見合ったリターンはあるのさ。靴底の張り替えだって、費用はそんなにかからない。新しい靴を何度も買う方がよっぽど高くつく。しかも履き込んだ靴は靴底を何度替えても、履き心地が変わらない」
「レディースでも?」
「もちろん。一生物になる革靴はレディースでも結構あるよ」
高価に決まっている。一介のアルバイト店員では手が出ないだろう。
「ちなみにこの革靴も」と設楽が磨いていた靴を掲げた。「一九七〇年代のデッドストック。元々いい革を使っているから、ひび割れもないし、痛んでもいない。とはいえ、クリームを入れておかないとさ」
「スニーカーの方が機能的じゃないですか? 革靴って雨の日に弱いですし。昨日だってかなりの大雨でしたよ」
「確かにその点は認めよう。特にコードバンには水が大敵だ。でも、靴底をゴムにすれば牛革の靴なら大抵平気だし、長く大切に履いている靴は染みこんだクリームの油分が雨を弾くんだよ」
「コードバンってなんですか」
「馬の革だよ」
革靴って材料は牛革だけじゃないんだ。なかなか奥深い世界らしい。
ドアが開いた。三時前にして今日初めてのお客さんだ。
「いらっしゃいま――」
千可が勢いよく振り返って、声をかけようとすると、眩しいほどの強烈な白い光が目に飛び込んできた。
三十歳前後の男性が足を滑らせて後ろ向きに倒れそうになるものの、なんとか体勢を整えて堪えているところだった。千可も届くわけがないのに思わず手を伸ばしていた。
男性は両腕をぐるぐる回してバランスをとってなんとか転倒を免れると、太くて長い息を吐いた。
「危ない、危ない」
「大丈夫? 真田君、久しぶりだね」
設楽が気さくに声をかけると、真田は軽く一礼して店に入ってきた。設楽も革靴を履いているけれど、真田の足音はもっと甲高い。
「どうもご無沙汰しています。お元気そうで」
「真田君もね。仕事は順調かな」
「なんとか」真田が愛想笑いを浮かべた。「長い間店に来られず、すみません。なかなか自由に使えるお金が貯まらなくて」
「別に君が謝ることじゃないよ。うちはいつでもウエルカムだよ」
常連のお客さんっぽいな、と千可は思った。さっきまで革靴の話をしていたからなのか、自然と真田の靴に目がいった。
黒い革靴のやや長細い爪先がぴかぴかに磨かれ、暖色の照明を反射している。
「雨の後は滑りますね」
「そうだね。マンホールとか金属製の階段とか、横断歩道とかの白線の上は特に注意しないと。うちの前、滑りやすかった? ただのアスファルトだけど」
「爪先のあたりで金属製の何かを踏みつけた気がします」
「千可ちゃん、見てきてくれるかな」
言われ、千可は真田に会釈してその脇を抜け、ドアを開けた。
うわっ。出勤してきた時よりかなり眩しい。店の窓は北西向きなので古い物の劣化を防ぐために遮光シートを貼っており、こんなに強い陽射しは入ってこない。真田のぴかぴかの靴なら、この強い陽射しを鮮やかに反射させそうだ。
額に手をあてて影を作って足元に目を落とすと、百円玉が一枚転がっていた。千可はしゃがみ、つまみあげて店内に戻った。
「百円玉が落ちていました」
「今度お巡りさんに届けよう。誰も引き取りに来ないだろうけどさ。いっそ使っちゃう? でも、いまどき百円じゃ、自動販売機の缶ジュースも買えないもんなあ。やられたねえ、真田君」
「見事にやられました」
「とはいえ、さすが空手の遣い手だ、体幹がしっかりしている」
「命拾いしましたよ、みっちり鍛えてくれた師範たちに感謝です」
真田が店内を見回した。
「相変わらず、すごい品揃えですね」
「おおいに散財してくれたまえ」
設楽が冗談めかして、真田と二人で大笑いしている。千可は拾った百円玉を木製デスクのレジ脇に置いた。この深い茶色のデスクも一九二〇年代のイギリス製のアンティークだ。そこに置くだけで、ありふれた百円玉ですら趣深くなり、高級感すら出て見えてくるから不思議になる。
設楽と真田が革靴談義に花を咲かせはじめ、千可は聞き耳を立てた。コバが……マッケイ製法が……トゥスチールだと……トリッカーズは……。馴染みのない言葉ばかりだけれど、二人は嬉々として会話を続けている。
羨ましい限りだ。わたしには二人のように夢中で喋れるほどの好きな何かがない。あったけど、失ってしまった。
右膝の裏が急に痛んだ。忘れていた痛みだった。とっくに治っているはずなのに。千可は唇を噛み締めた。この怪我さえなければ今もサッカーを続けて――。
「え? トゥスチールもヴィンテージなの?」
「もちろんです、八〇年代初期のやつですよ。こういうのは気分の問題なので」
「じゃあ、その爪先に合う形があったんだ」
「奇跡的に」
「そいつは良縁だったね」
「まさに」真田はにんまりと笑った。「久楽商店では靴の修理はやらないんですか。ヴィンテージのトゥスチールも仕入れられそうですけど」
設楽が右手を左右に振った。
「手が回らないよ。紹介なら……あ、もうだめだった。最近、信頼のおける修理職人さんが引退しちゃったんだよね」
「残念。この靴、爪先のスチールが剥がれてきたんですよ」
「そいつはまずいな。ご存じの通り、靴の修理は先手必勝が基本だから。時間をおけば悪くなっていくだけだよ」
結局二人は二時間近く喋り続け、真田は八〇年代の革靴とセーターを合計十六万円で買い、甲高い靴音を残して店を出ていった。
「靴に詳しい方でしたね」
「彼は生粋の革靴好きでさ。今までも何足かここでデッドストックの革靴を買ってもらっているんだ。今日履いていた一足はうちの商品じゃなかったけど」
「ちなみに今日の靴は、なんていうブランドですか」
「あれはサントーニ。イタリアのブランドさ。十代の頃、バックパック旅行先のイタリアで購入したんだって。デッドストックだったそうだ。一度サイズ表記の印字を見せてもらったんだけど、あれは彼が買った時点ですでに十年物くらいの靴だから、いまや製造から四半世紀は過ぎた一足だね。立派な自分ヴィンテージだよ」
自分ヴィンテージ? 聞き慣れない言葉だけれど、なんとなく意味はわかる。
「それって造語ですか? 買った物を長年使い、いつしか手元でヴィンテージになったって意味ですよね」
「そうそう」と設楽は指を鳴らした。「勘がいいね」
胸の奥がずきずきと疼いた。高校時代には練習中はもちろん試合でも、ゴール前でボールがこぼれてくる位置がなんとなくわかった。チームメートからも「千可は勘がいいね」と笑顔でよく言われた。もう二度とあんな風にグラウンドで言われる機会はないのだ。過去から伸びてくる触手を振り切るように、千可は目の前の会話に頭の中を戻した。
「見ただけで、よくどこのブランドかわかりますね。わたしにはみんな一緒にしか見えませんよ」
「無理もないさ。興味がない人からすれば、爪先に横一文字の縫い目が入ったストレートチップなんて、ただの黒い革靴と一括りにされて終わりだからね。靴の先が楕円、もっと丸みを帯びたもの、面長もの、三角形に近いものと実は種類は豊富なんだよ。よく思い出してみて。真田君が今日店で買ったデッドストックのニュー&リングウッドのストレートチップの爪先は楕円で、サントーニは三角形と尾長の中間くらいの形だったでしょ」
「言われてみれば……」
そんな気がする。よく磨かれている印象が強すぎて、形の記憶はおぼろげだった。
「足音の質感は久兵衛さんの革靴と違ったような気がします。革といい、爪先といい、色々あるんですね」
「耳がいいねえ」
この日は真田の購入が呼び水になったのか、ロレックスの百万円以上の腕時計も売れた。購入者は「安い」と即決していた。なんだかすごい世界だ。高校時代、夢中でサッカーボールを追っていた世界とは違いすぎる。
戻りたくても、あの頃にはもう戻れない。
(つづく)