第1話 トリチウム夜光は語る
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「座ろうか。千可ちゃんも。いいだろ、藤池」
「いいも悪いも、嬢ちゃんに首を突っ込ませたのはどこのどいつだよ」
千可はほっとした。正直ありがたい。同席を拒否されたら、もうアルバイトの時間は過ぎているので、設楽の答えを明日まで聞けないままだった。絶対に気になって眠れなかった。徹夜も二日目はきつい。
三人で売り物でもある艶のある木製テーブルを囲んだ。自然と千可は設楽の隣に腰掛け、正面で藤池と対面する恰好になった。
「二人とも座り心地はどうだい。クッション部分を修繕しているからいいだろ。椅子はアンティーク、すなわち百年以上前に使われていた逸品さ。テーブルは時代が少し下って、一九五〇年代のだね。どちらもイギリス製だよ」
「カイシャの椅子より上等なのは間違いないな」藤池はぶっきらぼうに言うと、テーブルに身を乗り出した。「早速、聞かせてもらおうか」
設楽がテーブルに肘をついて手を組んだ。
「結論から言おう。叔父さんは犯人じゃない」
は? 犯人? なんの? 千可は頭の中がクエスチョンマークで一杯になった。藤池も声を発する気配はない。わたしと一緒で、驚いているに違いない。
「あの」と千可は思わず割って入った。「なにを言っているんですか」
「なにって、結論だよ」
「前提が違います。藤池さんは叔父さんの行方を知りたがっていたんですよ」
「そうだね。あれは建前さ。本音は違う。だろ、藤池」
藤池が咳払いした。
「勝手に解釈してくれ」
「ほら。否定しないでしょ。いくら警察沙汰にしたくないとしても、叔父さんを本気で見つけたいんなら、警察の力を利用すればいいだけなんだ。適当な理由をでっちあげて、防犯カメラ映像とかカードの使用記録とかを追えばいい。しかも藤池は最初に依頼を持ちかけた時以外、叔父さんを捜してほしい、行方が知りたいとは一度も口に出していないんだよ」
そうだっけ? 録音か録画でもしておけばよかった。だからって、なんで本音の依頼を言わないの? そもそも犯人ってなに?
「疑問が頭の中で渦舞いているようだね。人生には疑問がつきものだよ。じゃあ、千可ちゃんの疑問にも答えられるように話していこうか」
設楽がテーブルに肘をつき、手を組んだまま前のめりになった。
「藤池が本音の依頼を言わなかったのは、彼が警官だからだよ。これには二つの意味がある。まず一つ目。藤池は叔父さんが大切な甥っ子の結婚直前に姿を消した背景に仮説を立てたんだ。二つ目。警官は一度結論が出た事件や時効になった事件を捜査しない、できないという不文律を抱えている。藤池の心にはその警官の本能が引っかかっていた」
意味がよく掴めなかったけれど、話の腰を折らないため、千可は半ば義務的に頷いた。ひとまず話を続けてほしい。
「俺の内心なんてどうでもいいよ」藤池が手の甲を見せて振った。「先に進め。依頼したのは俺なんだ」
「藤池の母君は滅多刺しにされて殺された。刃物の侵入角度は右から。最初の一撃以外、致命傷となる深さの傷はなかった。藤池はこの点から一つの推測を立てていたんだ。普通、刃物の侵入角度が右からなら右利きの犯行と睨める。藤池は叔父さんと一緒に暮らしていた際、普通に右手で家事や食事を行う姿を見ていた」
「ちょっと待ってください」千可は声を発していた。「それだけで叔父さんが犯人だと? 乱暴すぎません?」
「まあ、聞いてて」
やっぱり名探偵気取りでじれったい。
「深い傷をつけられない非力な、小柄な老人や女性が犯人の線は客観的に見て限りなく薄い。百パーセント違うとは言い切れないけれど、除外していい。母君は誰からも恨みを買う人じゃなかったんだ。仮に犯人が小柄な老人や女性相手なら、深い傷になりうるのは刃物ごとの突進を食らった場合だと想定できる。でも小柄な老人や女性相手ならかわせただろうし、かわせなくても悲鳴をあげただろうし、体格のいい母君なら抵抗できたはずで、防御創すらないのはおかしい。それに家族間の殺人事件だと滅多刺しの例は珍しくないんだ。恨みや妬みが動機だからね。おまけにそもそも素人なんだから、相手が死んだかどうかもわからない。だから怖くなって何度も何度も刺す。こういうケースはかなり多い。これ、藤池が叔父さんを疑った要因二つ目ね」
藤池の母親の事件にあてはまるわけか。叔父さんは一般的な会社員だったのだ。プロの犯罪者ではないはず。
「警察も身内の犯行を強く疑っていたんだ。だからこそ時効成立後も、藤池が捜査資料を閲覧できたと見るべきなんだよ。事件の迷宮入りは警察にとって恥だ。痛恨の出来事だ。でも事件は日々発生するし、再捜査している時間も余裕もないし、そもそも許されない。閲覧を許可した当時の署長は母君の捜査を仕切った人だ。ずっと心に引っかかっていた。だからこそ藤池に見せ、藤池が身内にぶつける結果を望んだんだよ。身内からの問いかけなら良心の呵責に耐えられず、真相を明かすんじゃないのかって期待を込めてね」
千可は藤池を見た。藤池が肩をすくめた。
「ぶつけるも何も決定打がないのに、ぶつけられんわな。身内なら余計に」
「千可ちゃんは藤池に指摘したよね。犯人に遭遇したら藤池も襲われた可能性があるって。あの時、藤池は言葉が出なかったでしょ。あれは身内を犯人だと想定していたからなんだよ。自分は襲われたはずがないと言い切れたんだ」
「設楽の指摘通りだ。俺は成長するにつれて親父も疑ったし、叔父さんも疑った。いつしか叔父さんの方の確率が高いと考えていた。贖罪で俺を育ててくれたんだと思ってさ」
わたしが藤池なら、そんな気持ちを抱えきれず爆発したに違いない。
「だいたい、藤池は仏壇から写真がなくなったのも気づいていたんだよ。気づかないわけないでしょ、現役の刑事なんだもん。なくなった写真に言及したタイミング、あまりにも不自然だったじゃん。藤池ははなから三角関係が動機ではないのかと疑っていたんだ」
「ちょっと待って下さい。三角関係ならお兄さん夫婦と自分の写真を飾りますかね。お兄さんは恋敵なんですよ」
「他に自分が一緒に写る一枚がないなら、仕方ない。藤池の目もあるわけだし、仲が良かった三人とアピールするにはちょうどいい。この仲が良かった点も藤池が叔父さんを疑う要因三つ目になる。仲のいい叔父さんなら、すんなり部屋に入れるでしょ。鍵を開けておく習慣を知っていたかもしれないし、知らなくてもチャイムを鳴らし、名乗ればそれで済む」
藤池が椅子の背もたれに寄りかかった。
「んで? なんでお前は叔父さんが犯人じゃないと断言できる?」
「叔父さんのGMTマスターが無実の手がかりだよ」
「どういうことだ?」
「叔父さんは左利きだ」
「おまえがさっき指摘したように、俺は叔父さんが箸もペンも右だったのを見ているぞ」
設楽はまず左手を胸の前まで上げ、次に右手を同じように動かした。
「君の周りにもいなかったかな。左利きを矯正されて、箸やペンを持つのは右手だった同級生が。殊に僕らの親世代、叔父さん世代は右利きに矯正されたケースが大半だろ」
千可は話についていけなかった。GMTマスター? 左利き?
「昨日説明したように、君が託されたGMTマスターには特徴があった。文字盤のトリチウムとベゼルの焼け方、傷のつき方。いずれも右手に装着した場合の変化の仕方だ。右半分が袖などに隠れ、太陽にあたる時間に差が生まれ、トリチウムやベゼルの左側により大きな変化が出たんだ。ケースの傷も左半分の方が多かった。デパートで購入した、つまり新品で買ったのだから、傷も夜光の焼けも叔父さんが使う過程でついたものとみるべきなんだ」
設楽が間を取るように息継ぎした。
「叔父さんの寝室の机の上も見たよね。筆記具は向かって左側に、万年筆、ボールペン、シャープペンシルの順で丁寧に置かれていた。部屋の様子を見る限り、叔父さんは几帳面だ。わざわざ利き手の逆側に筆記具を置くとは思えない。リビングにも似た光景があった。書き置きの右に時計、左に筆記具が置かれていた。パソコンのマウスも左側にあった」
千可はそんな細かな点までは憶えていなかった。さすが元刑事だ。
設楽が指を鳴らした。
「さらに君は叔父さんが箸を動かす時、袖口から見える時計がさまになっていたと言ったよね。君の前では右利きを演じ、それ以外では左利きのまま通したと想定できる。だから時計も右にしていた。腕時計は基本、利き手の逆につける。利き手を動かす回数の方が多く、時計をぶつけやすくなるからだ。よって几帳面で物を大事に扱う叔父さんが、なにかにぶつけるリスクが高まる左手に時計をつけるはずない」
「食事の時は箸を持つ手の方が多く動かすだろ」
「君は食事の時、利き手の手首を何かにぶつけた経験があるかい? ぶつけるなら指先とか手の甲じゃないかな」
確かに不思議と手首はぶつけないなあ、と千可は思った。
設楽が左手をひらひらと振った。
「君の前で左利きを演じ続けたのは、我々の親世代は左利きより右利きに価値を見出す世代だからだね。世代的に説明のできない恥ずかしさもあったんじゃないかな。矯正されるということは『左利きは間違っている、恥だ』という概念が社会全体にあった証左だ。子どもの君に悪影響を与えかねないと考えたんだよ。矯正は武士の時代から続く軍隊教育の副産物でさ。全員が同じスペックを目指すというね。冗談じゃない、まったく」
「だったら余計に叔父さんが――」
設楽が今度は右手をかざした。
「君はいまこう考えたんだろ? 左利きならなおさら犯人じゃないのか、納得がいくじゃないのかと。右手の方が力は弱いだろうが、矯正されているから自在に使えるし、致命傷を与える深い傷も浅い傷もどちらもつけられる。刃物で刺す際、強弱の調整をできると。むしろ利き手じゃないから浅い傷が多くついた可能性だって高くなると」
「まさにな。最初は単純に右利きだと思っていたし、だからこそ強弱の調整もできると考えていたけどよ。そもそも調整をせず、結果的に傷の深さに差が出た可能性だってある」
設楽がまた肘をテーブルについて、手を組んだ。
「後半の考察には僕も賛成だよ。傷の深さはたまたまさ。いくら利き手の矯正をされたとしても、人を殺す際に刃物の勢いを調整するかな? そんなに冷静だったら傷口だって一つか二つだよ。叔父さんのように几帳面な人なら死んだかどうかだって確認するだろ。母君に十五ヵ所も傷があるのはおかしいじゃないか。体型に恵まれているから、一撃で仕留めることが容易な点は認めるけどさ。言い換えれば、しいて叔父さんを怪しむなら体格の点だけだ」
藤池が言葉に詰まり、設楽が続ける。
「そもそも叔父さんは几帳面、つまり繊細で、真っ直ぐな性格なんだろ。殺した相手の息子を近くに置いておけるほど神経は図太くない。君が七歳の頃から親代わりになったんだろ」
「俺の人生にとって大事な時に姿を消したのは?」
「どうにもならない感情があったからだろうね」
「というと?」
藤池の眼光が鋭くなった。
「千可ちゃん、これこそ藤池が僕に本音の依頼を言わなかった一点目の意味だよ。利害関係がなく、かつ、ちゃんと真相を導き出せる人間――つまり僕が先入観なしに自分と同じ結論を出すのかを藤池は見極めたかったのさ。警官はどんなに確度の高い見立てをしても、決定的なことを相手に喋らせないといけない職業なんだ。取調べではもちろん、聞き込みでも。その癖が出たんだよ。加えて、叔父さんを疑った要因の四つ目にもなる。藤池にとっては疑う決定打だった」設楽は軽く首を振り、藤池を見据えた。「でもね、叔父さんのどうにもならない感情の正体は、君が思っているような母君を殺したことへの気持ちではないよ。だって」
設楽は区切り、顎を引いた。
「母君を殺したのは父君なんだから」
設楽の声は今までとは別人みたいに低くて、重たかった。
「父君は華奢なタイプだ。華奢でも力強いタイプもいるけど、写真ではそんな感じではなかったし、右利きだ。利き手は形見のキングセイコーでわかる。あれは右利きが使う時計の傷の付き方なんだよ。父君は新品で買っているから、傷はすべて父君がつけたものだ。母君に十五ヵ所も傷があったのにも説明がつく、最初の一撃は不意を突いて体ごとぶつかり、刺した。あとの傷は馬乗りになり、その場で刺した。だから華奢な父君では力が足りず、浅い傷になった。愛する妻を刺す躊躇いもあったはずだ。何より、キングセイコーのバックルの傷が父君犯人説を何より物語っている」
あの斜めに走った傷が?
「傷は右下が一番深く、左上にかけて薄くなっていた。つまり、右下に一番強くあたった何かが左上にかけてつけた傷だよ。君は言ったよね。帰宅した時、父君の手は震えていたと。体ごとぶつかろうと両手で刃物を握ろうとした際も手が震えていたはずだ。左手を右手に添えようとしたものの震えでうまくいかず、刃元がバックルに強くぶつかり、傷がついたと推測できる」
千可は藤池を見た。驚くわけでも嘆くわけでもなく、設楽を見つめている。どんな感情が渦巻いているのだろう。
「母君が叫び声を上げられなかったのも、父君が帰宅するのは自然だからだ。不意を突かれたんだよ。父君は藤池が習い事で外出し、鍵が開いているのも知っていた。刃物を用意して、いきなり突進できる。返り血だって問題ない。発見した時、我を忘れて抱きついたと警察に話したんだから」
「動機は?」
「そこまではわからないよ。本人にももう聞けないし。でも、大きな意味で三角関係が引き金になった可能性はある。父君はずっと弟に嫉妬というか劣等感を持っていたんじゃないかな。体格のことで。時代的にも兄弟で比較されるのが当たり前だっただろうから。利き手を矯正するような時代なんだ、個性なんてくそ食らえって感じの」
令和になっても色々な問題が起きているし、物価はとても高くなっているけれど、意識という面では昔よりいい時代になってきているのかもしれない。いまのわたしみたいに将来になんの展望がなくても、白い目で見られずに存在できるのだから。
「あとは藤池の体型だね。君自身が自覚している通り、父君似ではなく叔父さんと同じくがっしり型だ、母君の家系だけの影響とは思えなかったんじゃないかな。次第に父君は、弟と仲良くする母君を信じられなくなっただろう。さっき僕が言及したように、叔父さんなら自由に君の家に出入りできる。君には酷な話だね」
「別に。もう昔の話だよ」
二人の言葉を引くと、店内はしんとした。年代物のランプシェードから漏れる暖色の光が急に存在感を増したようだった。
「あの」千可は声を発した。「警察は身内を疑っていたんですよね。藤池さんのお父さんも当然容疑者の一人だったんじゃ?」
「書類にはそう書いてあったよ」藤池が応じた。「決定打がなかったんだ」
叔父さんの行方を知りたいという依頼の建前上、そこまで言及しなかったのか。でも、藤池がしてくれた説明と、昨日のわたしの質問で身内の犯行を疑えた。それなのにわたしの頭には一切浮かばなかった。正確に言うなら、そっちの方向に頭を使っていなかった。
千可は歯噛みした。悔しいの? 自分の感情にびっくりだ。刑事の血を受け継いでいるのかもしれない。
「昨日藤池が話したように、現場は捜査員に踏み荒されているし、指紋もべたべた残されるし、今みたいに防犯カメラはないし、目撃者もいないしね。苛烈な取調べはあったのは想像に難くないが、父君は頑として認めなかったんだろう。藤池を育てるためにもさ。それなのに子供がいるのにほとんど帰宅もせず、過労死するほど仕事に時間を費やしたのは、息子に会わす顔がなかったためじゃないのかな」
息子から母親を奪ったという罪の意識か。それが自分自身の命をも奪った……。
「三角関係なら、どうして弟を狙わずに妻の方だったんでしょう」
「返り討ちに遭うリスクがある。隙を突いたって、がたいの差は大きい」
弱い方を狙う計算はしていたのか。
「だからって――」
「うん、いま千可ちゃんが思った通りだ。殺す必要はない。父君は妻を追及するのが怖くて、そうするのを放棄して、凶行に及んだんだろう。はっきりって馬鹿だ。ちなみにね、犯罪というのは馬鹿がするものなんだよ。馬鹿だから想像力がなく、目先の利益を求めたり、欲求を満たそうとしたりして、犯行に及ぶんだ。知能犯と呼ばれる詐欺師だってご多分にもれないよ」
藤池が天井をあおぎ、顔の位置を戻した。
「叔父さんは、うちの親父が犯人だと察していたと思うか」
「多分ね。ひょっとすると最初から悟っていたのかもしれない。でも誰にも言えなかった。ましてや警察には。君に殺人犯の息子というレッテルが一生つきまとってしまう。天秤にかけ、君の将来を選んだんだろう」
「時効になってからも言わなかったのは?」
「叔父さんのGMTマスターのように、古いものには長い時間が生み出した特別な美が宿るんだよ。それは時間でしか作れないんだ。今回の場合は作るというより、消すと言うべきかな。いずれにしても時間だけがなせる御業さ。叔父さんは君が真相に気づいたとしても、父君への憎しみや恨みを消せる時間を作るために黙っていたんじゃないかな」
藤池が目を閉じた。設楽の推測を噛み締めているようだった。設楽はそんな藤池に向かい、話を続けた。
「それに真相を告げれば君の将来の目標を奪う結果にもなる。君はずっと刑事になりたかったんだろ? 発端が母君の事件だとしてもさ。真相を知れば、君は警官にはなれない。なれるほど厚顔無恥じゃない。受験しても面接で告白するだろう。告白せずとも警察は身上を調べるし、近い身内に殺人犯がいたらまず落ちる。警察組織はそんなにオープンじゃない」
「いま叔父が姿を消した理由は?」
藤池が目を開けて静かに問いかけ、設楽は組んだ手に顎を乗せた。
「君はさっきまで叔父さんが犯人だと睨んでいた。つまり、犯人だから贖罪の気持ちで君を育て、こんないい歳になった後でも独り身を心配し、伴侶を得たことで安心して姿を消した――と思っていたんだよね」
「そうだよ。で?」
「君の独り身を心配し、伴侶を得てほっとしたという面はその通りなんだろう。真相を黙っていた後ろめたさで式に出席できない、と姿を消したんじゃないかな。君の母君を殺した疚しさで姿を消すのなら、とっくにしているよ。君が警視庁に入った時にでもね」
甥っ子を思うがゆえの失踪――。疚しさの種類が藤池の考えていた方向と違っていたわけか。千可は胸の奥が痛んだ。
「以上が君の本音が知りたがっていた問いに関する、僕の考察だ。もちろん合っているとは限らない」
藤池は椅子の背もたれに寄りかかり、大きく息を吐いた。
「ありがとよ。建前の依頼の方の回答は?」
「心配ご無用、式が終われば戻ってくるさ。黙っていた後ろめたさから、式に出られない状況を作っているに過ぎない。君が不安がっているような真似はしないよ。する意味もないし、発想もしていないさ。犯人じゃないんだから」
不安がる……。自殺。設楽は前も言霊うんぬんと指摘した。ここまで見越しているから、建前の依頼をさほど重視しなかった面もあるに違いない。
「ならいいんだ。この時計、長い時間を過ごす間、何を見てきたんだろうな。叔父はどんな思いで俺に残していったんだろう」
「君も少しはわかってきたね。来歴や歴代所有者の思いを想像するのが、ヴィンテージやアンティークを前にした時の醍醐味なんだよ。君もじっくり考えてみなよ」
「そうするよ」藤池が膝に手を置いて立ち上がった。「帰る前に最後の質問。おまえの頭には今の考察が昨日の段階であったんだろ。どうして一晩置いた?」
「藤池の人生に大きな影響を与えることだ。慎重に何度も何度も吟味しただけさ
「吟味した結果、ソフトな伝え方をしないで、あえて率直に語る方を選んだんだな」
「ご想像にお任せするよ」
「相変わらず優しい奴だ。警官を辞めたのが返す返す残念だよ。おまえみたいな奴こそ必要な組織なのに」
設楽は人によっては無神経にも思える態度と言葉で藤池と対している。けれど、藤池はそこに優しさを感じていたのか。確かに、本当に心がきつい時は気休めの言葉なんて聞きたくないし、親しい人に気を遣われると哀しくなり、寂しくもなる。設楽の振る舞いは真の優しさから出ているのかもしれない。
「君が僕の分も頑張ってくれ。実は昨日言わなかったのにはもう一個理由がある」
「聞かせてもらおう」
「年代物のGMTとキングセイコーをじっくり見たかったんだ。やっぱりヴィンテージの世界は奥深いねえ」
設楽は微笑み、冗談めかした。千可には照れ隠しにも本音にも聞こえた。
(第1話・了)