第2話 ストレートチップは語る

 

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 やっぱり真相は見えてこない。千可は東中野の靴修理店から帰ってきた後、ミャアちゃんを時折撫でたり、ショーケースのガラスを下から覗いて肉球を観察したりしながら今回の事件についてあれこれ検討してみたけれど、真田が犯人なのかも、凶器がなんなのかも、設楽が至った結論も、何にも導き出すことができなかった。

 ああ、もうっ。千可は髪の毛をかきむしりたかった。人生経験も物への知識も圧倒的に不足しているけれど、悔しい限りだ。

 いつの間にか六時半を過ぎていた。ミャアちゃんも椅子に移動して、丸まって寝ている。そろそろ閉店の準備をしないといけない。といっても三角看板を入れるくらいだ。千可が動き出した時、ゆっくりとドアが開いた。

「どうも」

 入ってきたのは、神妙な面持ちの真田だった。真田は以前買い物に来た時とも、新宿中央署に迎えに行った時とも雰囲気が違い、体全体に重たさをまとっている。ミャアちゃんが大きな伸びをした。

 レジの奥にいた設楽が立ち上がった。

「覚悟は決まったのかな」

「はい」と真田は真剣な眼差しで応じた。

 覚悟? 何の?

「ひとまず座りなよ。ご存じの通り、うちにある椅子はどれもこれも古くて座り心地はいいからさ」

 設楽に促された真田がドアに手をかけたまま足を動かすと、ミャアちゃんが入れ違いに店から出ていった。

 真田はレジ近くにある木製チェアに腰掛けた。百年以上前のイギリス製だと前に設楽に教えてもらった商品だ。

「千可ちゃん、もう閉店しちゃおう。看板を閉まって、鍵をかけてもらえるかな」

 はい。千可は外に出している三角看板を店内に手早くしまい、ドアに鍵をかけた。

「千可ちゃんもこっちで好きな椅子に座りなよ」

 設楽と真田の顔が見える位置にあるドイツ製の木製チェアに腰を下ろした。ついさっきまでここにミャアちゃんが座っていたので温かい。

「言い分はちゃんと認められるさ」

 千可は瞬きを止めた。このままだとわたしだけが蚊帳の外に置かれ、当然のごとく話が進んでいってしまいそうだ。

「あの」と声を発した。「お二人は例の事件について話しているんですか」

「そうだよ」

 設楽は平然と言った。

「警察の見立て通り、真田さんが犯人だったんですか」

「正確に言うと、男が死んだのは真田君の行動の結果ってとこかな」

「それを犯人と言うんじゃ……」

 口に出してから千可は顔が赤くなった。当の真田が目の前にいるというのに。

「すみません。無神経な発言でした」

「お気になさらず」

 真田がフォローしてくれた。申し訳ない限りだ。

「つまりね」と設楽は気遣いなのか無視なのか、千可の内心には触れずに話を進めた。「真田君は逮捕されるかもしれない。でも、罪には問われないと僕は思っているんだよ」

「うまく呑み込めないんですが」

 千可が戸惑っていると、設楽は再び口を開いた。

「最初に藤池が来た時、事件現場付近にある防犯カメラ映像の様子を聞いたよね?」

「ええ。真田さんと被害者の男性が映っていたって」

「映っていた順番を憶えているかな」

 えっと。

「うろおぼえです」

「真田君、被害者の順。これっておかしくない?」

「おかしい? 何がですか。ほんとにさっぱりわかりません」

「普通なら、後ろにいた人が前にいる人を襲うんじゃない? そっちの方が簡単でしょ。こういう言い方もなんだけど、よっぽど大きな足音を立てるとか、叫ぶとかしない限り後ろからなら無抵抗に襲える」

 言われてみれば……。振り返って、後ろにいる人を襲うのはリスクが高い。いざ振り返って襲おうとしてみると、相手が巨漢のプロレスラーかもしれないのだから。

「しかも千可ちゃんの追加の質問で藤池が言うには、真田君の勤務先が入る高層ビルの辺りからずっと同じ順番で歩いていたんだよ」

 確かに藤池はそう答えてくれた。

「さらに毘沙門質店で確認したように西新宿にはお金を都合できる店も多い。しかもうちの店と違って繁盛している」

「店主は、一生懸命なところが多いとかなんとかっておっしゃってましたね」

「彼は入口にも出口にも過ぎるくらい一生懸命だと指摘していた。入口を借りる際、出口を返済という意味に置き換えるとどうなる?」

「過ぎるというくらいだから、借りる際は甘く言い寄って、激しく取り立てるとか?」

 設楽が指を鳴らした。

「そういうこと。真田君はいわゆるヤミ金で金を借りたんだ。靴を買いにこの店に来た際、なかなか自由に使えるお金が貯まらないって言っていたでしょ。給料の半分近くが税金や社会保険に持っていかれる時代だしね。だよね、真田君?」

「本当に情けない話なのですが、つい借りてしまいました。消費者金融で借りたお金を返すために……」

「つまり死んだ男は取立屋ってことだね」

「久兵衛さんはどうして亡くなった男が取立屋だと?」と千可は訊いた。

「藤池の説明にちょっと引っかかったんだ。長い間無職で、目白在住。安い物件もあるにせよ、目白って長い間無職の人が住める街? しかも身につけていたのは高級ブランド品ばかりなんだよ」

 総じて目白の家賃相場は高いはず。だけど。

「実家住まいって可能性もありますよ」

「いい視点だね。実家住まいなら、ブランド品を身にまとった無職の人が、新宿に飲みに行く夜だってあるだろう。遺産が転がってきた人とか、もしくは投資で成功して働く必要がないほどの財産を築いた人とか。でもさ、そんな人がどれくらいいるだろうか。確率論で考えてみて。かなり少ないよ。無職と言っても、表に出せない職業に就いているケースも多い。現場の場所柄もあるし、僕は今回そっちだと睨んだ。というか、まずそう想定すべきじゃない?」

 ぐうの音も出なかった。警察の捜査は甘くない。投資家なら投資家と割り出せるだろうし、資産家なら資産家と突き止めるはずだ。藤池がこの店で男の職業を言及しなかったのは、裏稼業を割り出せていないからとみるべきだったのだ。設楽に推理させる以上、男の細かな情報を持っていれば最初から伝えたはずなのだから。

「じゃあ」と千可は切り出した。「毘沙門さんではっきり聞かなかったのはどうしてなんですか。はっきり聞けば、今回の件でも具体的な情報を得られたかもしれませんよ」

「具体的な質問をすると料金が発生するからさ。あそこは高いんだ。『菊名に皆まで聞くな』って僕はいつも思っていたくらいにね。そこまで深いレベルの情報も必要じゃなかったし」

 そうか、プロに頼めばお金が発生するのは当たり前か。

「それにしても」と設楽が真田に話を振った。「お金がないのに、よくうちの店に靴を買いに来られたね。ニュー&リングウッドに加えて季節外れのセーターまで」

「会社の業績が良くて先月臨時ボーナスが出たんです。それでヤミ金の返済もしたんですが、利子の分が足りないって。話と違ったので突っぱねたんです。そんな利子は契約書に書いてないって」

 真田はぼそぼそと語った。

「実際、契約書に記してあったのかな?」

「あの男が会社に押しかけてきて、わかりにくい記述の小さな文字を見せられました。契約書の裏面に印刷してあったんです。白紙だった面に印刷したんですよ、絶対」

 真田は歯痒そうだった。

「よくある手口だよ。連中はなんでもする。あの男っていうのは、死んだ男だよね」

「おっしゃるとおりです」

「なおも突っぱねたのかな?」

「もちろんです。契約する時点で言及がなかったですし、手元にあるあの時の契約書の裏面は白紙でした。向こうはこっちの不手際か故意で文字を消したって、いちゃもんをつけてきましたけどね。消えるわけないでしょ? 無視したら後日、退社後の私をあの男がつけてきて、例の場所で突然後ろから腕を引っ張られたんです。だから振り払いました」

「男はどうなった?」

「倒れました。あの場から去ろうとすると、右足にしがみつかれたんです」

 千可の脳内にも見ていたかのように映像が浮かんだ。

「その時なんだね」

 設楽が問うと、真田はいったん口を閉じ、意を決したように開けた。

「はい」

「やっぱりか」

 なにが? 千可は疑問を声にしたかったけれど、自重した。いまは二人の会話に割り込むべきじゃない。とても繊細な話題なのだから。

「相手のヤミ金は今までもえげつない真似や無理矢理の取立を他にもしてきたんだろう。連中はトラブルが絶えない。でもね、真田君の唯一の失敗は靴を修理に出したことだ。これはいただけないよ」

「はい?」

 千可は慌てて口を手で押さえた。靴の修理うんぬんが意味不明だったので、つい声を発してしまったのだ。

 設楽が千可に視線を向けた。

「一緒に東中野の修理店に行ったでしょ。あれで一応、真田君のミスをフォローできたから良かったものの」

 こうなったらとことん割り込んでしまえ。

「何を言いたいんですか」

「大事な証拠だからね。証拠隠滅と解釈されかねない行為だったんだ」

「靴が証拠だと?」

「正確には靴の一部がね。ヤミ金の取立屋にしがみつかれ、真田君は振り払おうと右足を振った。その時、真田君は取立屋の頭をはからずも蹴る恰好になったんだ」

 ありえるとは思う。けれどそれが証拠に? 千可は自然と真田の足元に目をやっていた。この店で買った靴を履いている。紳士用の黒い革靴は全部一緒に見えるけれど、あれはわかる。アルバイト中に毎日見ていた靴なのだ。以前真田が履いていたサントーニは爪先がやや細長かったけれど、今日の靴の爪先は楕円で――。

「あっ」

 千可はまた声を発していた。でも。

「刺さりますか?」

 設楽は東中野の靴修理店で見本としてもらった使用後のトゥスチールをカウンターに置いた。

「いくら爪先が長細いサントーニに合う代物とはいえ、先端は尖っていないし、しっかり靴底にくっついていれば刺さらなかっただろう。でも、真田君のトゥスチールは剥がれかかっていた。おまけに真田君なら蹴る力がすごいはずだ。店に入ろうとして転びそうになった時、強靱な体幹を見せてくれたでしょ。彼がみっちり空手で鍛えたと言ったはずだよ」

 確かに言っていた。

「そうか。あの時、白い光が目に飛び込んできました。トゥスチールが外の光を反射したからなんですね」

「十中八九ね。釈放された時、僕は真田君の足元に注目していた。トゥスチールは外されていた。ほとんど劣化しない素材のはずなのに」

 確かに靴音が違った。あれは気分の違いによる足取りの問題じゃなかったんだ。

「剥がれかけたのなら、もう一度張ればいいだけなんだ。こだわってつけたヴィンテージのトゥスチールなんだから。でも真田君はそうしなかった。僕はそこに違和感を持った」

 だから東中野の修理店で使用前と使用後の見本一式を受け取った後、ひとつひとつ注意深く確認していたのか。収穫があったとか、色々役立ちそうなものが手に入ったとか言っていたし。設楽なら八〇年代のトゥスチール、真田がつけていたものを見極められる。受け取ったうちになかったのなら、適当な言葉を付け加えて出させるつもりだったのだろう。

「藤池さんに店の前に落ちていた百円玉を調べろって言ったのも、ひょっとして」

「ご明察。百円玉にはトゥスチールがつけた痕があったはずだから。鑑識なら原因を突き止められるかもしれない。藤池は取り合わなかったけどさ」

 あなたが何も説明しなかったからでしょ、と千可は言いたかった。確かに真田は証拠隠滅を謀ったと捉えられてもおかしくない。藤池に百円玉を渡したのが、わたしへの大ヒントだったのだ。

 ん?

「真田さんは最初からありのままを警察に話せば良かったんじゃ? ちゃんと事情があるわけですし」

「第三者からすれば、そう言いたくなるよね。でもさ、自分の身に置き換えてみて。千可ちゃんは店でミャアちゃんを最初に見た時、思考が停止して体も動かなくなるほど驚いていたよね。いわゆるショック状態に陥っていた」

「真田さんはもっと強いショック状態で、黙秘するのが精一杯だったと?」

「いくら乱暴な取り立てをされたとはいえ、相手は死んでしまっているし、警察に連れていかれれば平常心を保つのは難しいよ。しかも警察が来て初めて相手が死んだと知ったはずだ。そうだろ、真田君」

「ご推察の通りです」

 わたしなら頭が真っ白になるはずだ。店にいきなり三毛猫がいただけでプチパニックになったくらいなのだ。

 設楽は腕を組んだ。

「まったくもう、藤池たちは感情の機微をまったくわかっていない。物の知識がないばかりじゃなくてね」

 この人は人間の心理にも想いを巡らせることができるのか。

「僕から知り合いの刑事に連絡しよう。署には僕も一緒に行く。ありのままを話せばいい。大丈夫だから」

「すみません。お手数をおかけします」と真田は深々と頭を下げた。

「厳しいご時世だけど、二度とヤミ金には手を出さないことだね。どうしてもお金が必要になったら、売ってもいいヴィンテージ品を持っておいで。うちは買い叩くような真似はしないからさ」

 設楽は穏やかでも諭すような口調だった。借金で身を持ち崩した人を何度も見てきたに違いない。

 

(第2話・了)