*
夏休みというのは、どうしてこう、こんなにも儚く終わってしまうのだろう。授業中の残り五分の長さと言ったら一生続くのではないかと思うのに、夏休みははっと気がつくと八月三十一日になっていて、いつの間にか当たり前のように新学期が始まっている。小学校の頃はもう少し夏休みは長いイメージだったのに、わたしの高校一年の夏は、バイトと塾の夏期講習と夏休みの課題の消化であっけなく終わった。新しい生活が始まって、体育祭やってテスト受けてバイトに行って必死に環境の変化に食らいつき、ヘタヘタになったあげくにようやく訪れた安息の夏休みは、始まったと思ったらもう終わった。時間はずっと一定なはずなのに、どうしてこうも、楽なことと苦痛なこととで感じる時間の長さが変わるのだろう。理不尽だ。授業終わりの五分と夏休みの午前中にベッドの上でゴロゴロする時間が同じ長さなら、わたしはもっと思い切りダラダラできているはずなのに。
といった内容のことを、わたしは毎度おなじみの我孫子先生と栄さん、そして咲良さんと話していた。その会話の輪の中に、するりと入ってきたのは店長だ。
「いっちゃんよ、この宇宙には時間の流れなんてもんはないよ。縦横奥行きの三次元に、時間っていう方向がもう一個あるだけで」
「いやでも、時計もありますし、そもそもお店にも営業時間がありますし」
「時計の時間ってのは、地球がぐるっと一回転する動作を時間という概念に置き換えて分割したってだけのもんだからさ。年だの月だのってのも、地球が太陽の周りを一周する動作を分割して暦という単位にしただけ」
「それを時間って言うんじゃないんですかね?」
「時間という目に見えない流れみたいなもんが、過去から未来に向かって常に一方向に流れてるなんてことはないってこと。この世界は、宇宙の始まりから終わりまで、全部もうそこにあって、静止してる。それを時間が流れてるって思ってるのは人間の錯覚だね」
「ええ、そんなことあります?」
「川が流れてるのを見れば、流れてる方向はわかる。でも、それは高いところから低い方向にエネルギーが流れていくという不可逆なエントロピーの増大が起きてるからだよ。例えば、振り子が動いている動画を見せられて、それが通常再生なのか逆再生なのかわからないでしょ? 時間が一定方向に流れてるなら、川の流れみたいに一発でわからないとおかしい。つまり、いっちゃんも含め、人間は時間の流れなんてものは知覚できない。ただ、エントロピーが増大するということだけは不可逆で知覚できるから、それをもって時間経過っていう感覚を持ってるような気になってる、っていうね」
「いや、そのお、ええっと」
「いっちゃんは授業時間あと何分、ってなったら、何度も時計見て、なんなら秒針の動きをカウントしたりするだろ。その度に、いっちゃんの脳は、今の時計の表示が何時何分何秒か、っていう情報を何度も更新処理する。でも、夏休み、リビングでぼやっとしてたり、スマホのショート動画見てたりする間、脳はたいして情報の処理をしてないわけだ。流し込まれる情報を右から左に流しているか、何も処理せずに休んでるか。そうなると、時計の針が動くたびに現在時刻という視覚情報の更新作業をしてるステップ数のほうが多くなるんだから、いっちゃんが知覚する一分という時間に差が出るのは当たり前だろ?」
当たり前だろ? じゃない!
わたしの脳みそが大した仕事をしないままぽろっと吐いた言葉一つに、店長が怒涛の情報量で言葉を返してくる。もういい加減慣れてはきているものの、その度に動かさなくてもいい頭を動かさなければならないので、仕事が終わった後、労働したこと以上にどっと疲れを感じることがある。普段使っていない頭を使うことはいいことなのかもしれないけれど、とはいえ、みたいな疲労感だ。
「おい店長、あんまりいじめるんじゃないよ。困っとるだろうが」
すかさずわたしをフォローしてくれたのは、我孫子先生だった。コワモテで厳めしい感じの我孫子先生だが、わたしが先生のベストセラー小説を読んで感動した、ということを言った瞬間から、わたしに対してはやたらと優しくなった。店長に、あんまりこき使うなとか、いたわってやれ、などと頻繁に言うので、かえって気まずいこともある。
「あの、ちょっとお二人にお願いがありまして」
わたしと先生と店長の三角形の中に割って入ってくるように、咲良さんがお皿を二つ持ってやってきた。お皿の上に載っているのは、お店の秋の新作スイーツであるモンブランの試作品だ。咲良さんの手作りで、タルト生地の上には一筋一筋丁寧に秋っぽい茶褐色のマロンクリームが絞られていて、まるで毛糸の玉みたいなかわいらしい球体になっている。わたしも試食で一つ食べさせてもらったのだけれど、滑らかなマロンクリームの中にはたっぷりの生クリームが詰まっていて、甘さはやや控えめ。中心に宝物みたいなマロングラッセが隠されているのを見つけたときのテンションの高まりがすごい。くちどけ最高のクリームが舌の上でマロンの香りを残して、するりと解けて消えていくのが、待って、行かないで、って感じになって、また次の一口を求めてしまう。誰も見ていないところだったら、わたしは秒で食べきってしまう気がする。
栄さんが、わあ、と声を上げて、常連の特権ね、などと言いつつ、小さく手を叩いて無邪気に喜んでいる。大きめのホットケーキ二枚をあっという間にぺろりと平らげた我孫子先生は、少し面倒くさそうにお皿を受け取ると、片眉を上げて首を傾げた。
「あら、やだ、とってもおいしい。え、上品なお味。いくつでも食べられそう」
うきうき、という音が聞こえてきそうな栄さんの小躍りとは裏腹に、先生は渋い表情で一口だけ口に入れると、苦笑いをして、いくつでも食えるんだろ、と、お皿を栄さんの前にスライドさせた。
「あ、先生のお口には合いませんでしたか?」
「口に合うとか合わねえとかじゃないんだよ。これは、モンブランではない」
「えっ?」
咲良さんが先生の言うことがよくわからずに困惑の表情を浮かべると、栄さんが、また始まった、と呆れた様子で先生のモンブランのお皿を受け取りながら笑う。咲良さんと同じく、わたしも先生の言っている意味がよくわからない。これがモンブランじゃないなら、何がモンブランなの? と思ってしまう。
「一宮ちゃんは、モンブランにはこだわりがあるのよね」
「なになに、先生、こだわりって何かあるんですか?」
栄さんが話を振り、そこに咲良さんが乗っかると、先生はやや芝居がかった様子で咳払いを一つして、あれは忘れもしない、と、しゃべり出した。
「あれは忘れもしない、五十年前の春、その日は冷たい雨のそぼ降る日であった。東京の大学に進学するべく故郷を離れる日、場所は駅前にポツンとあった小さな喫茶店だ」
まるで小説の書き出しのように始まった先生の話は、意外なことに、若かりし日の先生の恋のお話だった。高校生のとき、先生はもうすでに作家を目指して小説を書いていたけれど、その小説を読んでくれる同級生の女子がいた。その女子は、学校の中で誰もが憧れるような美人だったけれど、本が好きで先生の書いた小説を読んでくれて、先生の才能にほれ込んでいたそうだ。きっと売れっ子作家になれるよ、と何度も先生に言い、先生はその言葉に後押しされて小説家を目指すことになった。先生はその人のことが大好きだったけれど、高校を卒業してから地元を離れて大学に進学することになり、その人は地元に残ることになって離れ離れになるしかなかった。地元を離れる日、先生はその人と駅前の喫茶店に行って最後のお別れをすることになったのだけれど、そのときに、自分は大作家になって帰ってくるから、もしそうなったら自分と結婚してほしい、と告白をするつもりだった。けれど、どうしてもそれが言い出せずに、思いを伝えられないまま離れ離れになったそうだ。
いったいどこにモンブランが出てくるんだ、と思いつつも、わたしは先生の話に引き込まれていった。シチュエーションが、香取先輩に告白できなかった中学一年生の自分と似通っていて、シンパシーをばしばし感じたせいだ。また、先生が無駄にしゃべるのがうまくて、頭の中に、昭和っぽい喫茶店の風景や、女性の前で何か言い出そうとしても勇気が出ない青年の様子がリアルに再生されて、何してんの、待っててくれって言いなよ、と、自分のことは棚に置いて、もどかしい気持ちになってしまった。
先生はやっぱり小説の才能があったのか、大学生の間に作家としてデビューすることになったけれど、そこから十年、なかなかヒット作に恵まれずに苦しんだ。なかなか故郷に帰れないまま小説を書き続けていたけれど、あるとき地元の友人から、先生が好きだったあの女性が結婚した、という話を聞くことになった。先生にとってその女性は心のよりどころで、先生は受け入れがたい失恋に苦しんで苦しんで苦しみ抜いたあげく、本当はミステリ作家なのに純愛物語を書き、それが大反響を呼んで大きな賞を受賞。先生の最大のベストセラーになった。
先生の話はやたらストーリーがしっかりできすぎていて、どこまで本当の話かな、とは思うのだけれど、わたしが読んだ先生の小説は確かに胸がきりきりするような失恋の痛みを感じる純愛小説で、あれが先生の実体験だと聞くと、なんだかそれも納得できる気がした。お世辞抜きで感動したし、まるで自分のことみたいに苦しかったし。
「授賞式の日もまた、忘れもしない、あのときと同じ、涙雨の日で――」
「先生、あの、モンブランの話どこ行きました?」
我孫子先生の話がどこまでも遠くに行きそうなタイミングで、咲良さんがするりとモンブランのことを差し込んだ。先生は一瞬、むっ、としたような表情を浮かべたものの、またわかりやすく咳払いをして、遠い目をした。
「あの別れの日、駅前の喫茶店で最後に彼女と食べたのが、コーヒーとモンブランのセットだった。そのモンブランが美しくてね。目に鮮やかな黄金色で、悪いが、こんなにくすんだ色じゃあないんだ。俺の中でのモンブランっていうのは、あの黄金のモンブランなんだよ。あれ以上のものはこの世界にはない」
栄さんが、「この話、二百回くらい聞いたわ」と笑いながら、先生が「くすんだ色」と言ったモンブランを口に含み、おいしーい、とフォローしてくれる。わたしの中での「モンブラン」は、栄さんがまさに食べているコレで、先生の言う「黄金のモンブラン」というものがあまりぴんと来なかった。
「あの黄金のモンブランを超えるモンブランがあるのなら、死ぬ前にぜひ食ってみたいもんだ」
「黄金の、ってのはさすがに思い出補正かな」
「そんなことはない。明確に記憶に焼きついてるからな」
店長が真顔で「思い出補正」と言うと、我孫子先生は、すかさず反論した。思い出補正もあるにはあるのだろうけど、きっとその「黄金のモンブラン」は、五十年も記憶に残るくらいおいしいものだったのだろう。
「人間の記憶なんてあいまいだから」
「そりゃ、あんたに比べりゃみんなそうだ」
「例えば、先生があの賞を受賞したときの授賞式の日は、雨降ってないからね。午前中にちょっと通り雨がぱらついたくらいで」
*
ねえ、ヒューちゃん、明日の天気は?
わたしがスマホに打ちこむと、AIアシスタントである「ヒューちゃん」こと『Hugh-3』がすぐに答えを返してくる。明日は残暑が厳しくて、気温もかなり高くなる。夕方ごろに雷雨の可能性あり、だそうだ。ええー、やだあ、とため息が出る。明日はバイトの日だし、大雨になるなら行き帰りは母親に送ってもらわなければならなくなる。天気、天気かあ、と、何気なく、わたしはもう一つの質問を打ちこんでいた。
我孫子一宮先生の授賞式のときの東京の天気。
便利なことに、ヒューちゃんはあっという間に我孫子先生がいつどの賞を受賞したという事実を突き止め、その賞の授賞式の日付を調べてきてくれて、さらにその日一日の天気を語り出した。店長も咲良さんももともとAIの技術者だったらしいけれど、こういうアプリを作る側の人だったのかなあ、などと漠然と考える。わたしにはこういうものを作る仕事というのはまったく想像もつかない世界で、できあがったものを使うということしかできない。店長と咲良さんの話にもついていけなくて、自分の将来がどうにも不安になる。高校で三年間勉強して大学に行って四年間勉強したとしても、店長の話を理解できるようになれる気がまったくしないし、本当に社会に出て働けるんだろうか。こんなんで大丈夫か自分は、と思うのに、じゃあ勉強せねば、とならないのが、わたしがわたしという人間にとどまっている理由な気がする。
『――当日の天気は終日曇りで、東京二十三区内では午前中に小雨がぱらつくこともありました。気温は最高気温が――』
は? と、もう一度「ヒューちゃん」の回答を凝視する。日付は、わたしがまだ生まれてもいない、今から三十年以上前だ。その日は一日曇りで、授賞式が行われている時間は雨が降っていなかったようだけれど、午前中には東京都内で少し雨が降ったらしい。たぶん、そういう天気の記録が残っていて、「ヒューちゃん」はその情報を引っ張ってきているんだろう。わたしと同じようにAIに聞いてみたり、記録を調べてみれば答えは出てくるのかもしれないけれど、あの会話の流れの中で、さらっとこんな話が出てくるのかな? と思う。いや、出てくるわけがない。そんなわけない。
働き始めた頃は、店長って記憶力がめっちゃいい人なんだな、くらいに考えていたのだけれど、長く働いているにつれて、ちょっと異様なくらい記憶力がいい、ということにだんだん気がついてくる。お客さんがいつ来て何を頼んだかとか、店の牛乳やそのほか材料の消費期限を全部覚えている、くらいはまだかわいいもので、夏のクリームソーダの着色料の組み合わせを何千通りも覚えているとか、お客さんが賞もらった日の天気を覚えている、というレベルになると、もうこれはちょっと普通の人間にできるようなことではない気がする。
「ただいまー」
わたしが一人でリビングのソファに座ってスマホとにらめっこをしていると、玄関ドアが開く音がして、外出していた母が帰ってきた。手にはコンビニのレジ袋を提げていて、部屋に入ってくるなり、中身を次々にダイニングテーブルに並べていく。大半がスイーツとお菓子だ。その様子を見て、わたしはため息をついた。
「ねえ、修正テープ買ってきて、って頼んだんだけど」
「は? いつ?」
「今朝、学校行く前に」
「そうだっけ? 全然覚えてないわ。すぐにいるなら自分で買って来なさいよ」
多少イラっとはしたものの、頼んだ手前、あまり強く文句を言うこともできず、人間の記憶ってこんなもんだよな、と納得させることにした。わたしは、こうなったらせめてスイーツを食ってやる、とばかり、母が買ってきたスイーツの中から、たまたまあったモンブランと小さいスプーンを手に取った。モンブランには、「秋スイーツ」というシールが貼ってあって、コンビニの推し商品に母親がまんまとひっかかったようだ。
「ちょっと、ご飯前に食べんのやめなさいよ」
「今まで勉強してたから、脳が糖分を要求してるんだってば」
「あんたが勉強したくらいで、たいして糖分なんか使わないでしょうが」
「失礼な」
「それ、お母さん食べようと思ってたのにさあ」
早い者勝ちー、と言いながら、わたしはさっそくモンブランを一口食べる。コンビニのモンブランも我孫子先生が「くすんだ色」と言っていたようなもので、茶褐色のマロンクリームがたっぷり使われていた。カップの底のほうには一口サイズに切られたシフォンケーキが入っていて、食感もふわふわだ。咲良さんのモンブランもおいしいけれど、コンビニのスイーツも値段を考えれば十分においしい。企業努力ってすごいな、と思ってしまった。カフェも本気を出さないとコンビニにお客さん持っていかれちゃうかも、と、ただのバイトのくせに変な心配をしだして、『サンセット・オレンジロード』でも「黄金のモンブラン」みたいな、なにそれ、食べてみたい、と思わせるようなメニューを出したほうがいいのかもしれない、なんて勝手に考えていた。
「ねえ、黄金のモンブラン、って見たことある?」
「黄金? まあ、黄色っぽいのはあるよ。黄色い栗が載ったやつ」
「ああ、そうなんだ。なんで黄色?」
「え、なんでだろ。知らない。でも、お母さんが小さい頃は黄色いモンブラン普通にいっぱいあったけどね。最近見ないね、そう言えば」
「栗の種類が違うとか?」
「さあ」
「味は違うの?」
「味?」
全然覚えてないわ、と、母親が苦笑いをした。またイラっとはしながらも、まあまあ、普通の人間の記憶なんてこんなもんだよな、と、ちょっと安心する。
*
「小さい頃は海外にいたから、黄色いモンブランってあんまり知らないのよね」
「うちのお母さんも、昔は黄色いモンブランはあったけど、最近あんまり見ないって言ってました。味もあんまり覚えてないらしくて」
今日のアルバイトは遅番で、わたしは学校から帰ってきてからシフトに入ったのだけれど、昨日、「ヒューちゃん」に聞いた通り、天気はわたしが働き出した頃から下り坂になって、窓の外の空が見る間に真っ暗になっていった。そのうち雷がゴロゴロ鳴り出して、まるでAIの回答が予言であったかのように、すごい土砂降りになった。さっと降ってさっとあがる夕立という感じではなく、どうやらしばらく降り続きそうな気配で、お客さんもいなくなってしまって、今日は早めにお店を閉めることになった。いつもより早い時間に締め作業を終えて、車で迎えに来てほしいと母親に連絡をしてから待っている間、わたしはがらんとした店内で咲良さんと雑談をしていた。話題は例のモンブランのことで、咲良さんも我孫子先生が言っていた「黄金のモンブラン」が気になっている様子で、「黄金」って響きがいいよね、などと言っていた。にこやかに見えるけれど、実は、最初に作ったモンブランは咲良さんにとっては結構自信作だったらしく、先生が「黄金のモンブランよりうまいモンブランがあるなら食ってみたい」みたいなことを言ったのがちょっとショックで、じゃあ先生のモンブランを超えるモンブランを作ってみせるんだから、と、心に火がついたようだった。
「ネットとかで調べると、昔のモンブランはちょっと和菓子っぽい作り方みたい」
「和菓子?」
「モンブランって結構昔から日本に入ってきたケーキだから、最初はたぶん、日本人になじみのある和菓子に寄せて作ってたのね」
「和菓子にも似た感じのものがあるんですか?」
「栗あんとかもあるし、昔のモンブランはマロングラッセじゃなくて、栗の甘露煮をてっぺんにのっけてたって」
「それ、マロングラッセとは違うんですかね」
「マロングラッセは二、三日かけてシロップをじっくり中まで染み込ませるんだけど、日本の栗でそれやると崩れちゃうから、シロップでちょっと煮るのが甘露煮」
え、と、わたしは、思わず咲良さんの顔をまじまじと見てしまった。
「咲良さんのモンブランって、日本の栗を使ってるんじゃないんですか」
「基本的に、モンブランってヨーロッパ栗を使うのよ。日本の栗ってほくほくしてるけど、ねっとりしないから、ペーストにするだけじゃ絞り出せるようなペーストにならないのよね。だから、製菓の世界だと、和栗のことはマロンとは言わない」
「栗って全部同じものだと思ってました」
「全然違うの。和栗とヨーロッパ栗じゃ、ジャガイモとサツマイモくらい違うかな」
わたしは、栗を英語で言うとマロンというのだと思っていたのだけれど、咲良さん曰く、栗は英語で「チェスナット」で、「マロン」はフランス語なんだそうだ。でも、フランス語で栗は「シャテーニュ」で、「マロン」というのはマロニエという植物の実のことなのだそうだ。めちゃくちゃややこしいのだけれど、シャテーニュ、つまり栗の中で、お菓子に使うのに適した大粒の物を「マロン」と言うらしい。カタクリの粉じゃなくてジャガイモのでんぷんなのに「片栗粉」って言うのと同じ、と咲良さんは説明してくれたのだけれど、わたしはそもそも片栗粉がジャガイモのでんぷんであることも、カタクリという植物があることも知らなかった。知らないことが多すぎてほんとに恥ずかしい。
「野田さんだったら知ってるかな。聞いてみよっか」
咲良さんのスイーツ作りを手伝っている野田さんは、今はたぶん五十代くらいで、海辺町にずっと住んでいる。最初はオープンして間もない『サンセット』のお客さんだったけれど、お菓子作りが趣味で咲良さんと意気投合し、アルバイトとして咲良さんのスイーツ作りを手伝うことになったそうだ。お菓子作りもプロ級だそうだけれど、知識も豊富なんだそうで、スイーツに関しては何か困ったらとりあえず野田さんに聞く、というのが咲良さんの中で決まっている。昭和のモンブランについて咲良さんが野田さんにメッセージを送ると、ほどなく、駅の近くに昔ながらのモンブランを売っている洋菓子店がある、という返事が来た。さすがである。
咲良さんは、いずれわたしにスイーツ作りを手伝ってほしいから、という理由で、今日の早じまいの分のバイト代出すから一緒にその洋菓子店に行こう、と言ってくれた。わたしがスイーツ作りの戦力になる自信はなかったけれど、手伝ってほしい、と言われると、認められたようで悪い気はしない。断る理由もなく、ぜひぜひ、と返事をしたところで、そろそろお店の前に着く、という連絡が母親から来た。モンブランを買いに行く日は別途連絡するから、と咲良さんに言われて、わたしはとりあえず帰宅することにした。
自分の荷物を取りにバックヤードに向かう。けれど、扉の前で、わたしは妙な違和感にいったん立ち止まった。バックヤードの中から、なんだか変なうめき声みたいな音が聞こえるのだ。中の事務スペースではたぶん店長が売り上げの計算をしているはずなのだけれど、聞こえるはずのない不気味なうめき声は、まるで獣のようで気味が悪かった。おそるおそる、わたしはドアノブに手をかけ、ゆっくりひねる。そのまま、うっすらドアを開けた瞬間、わたしは心臓が止まりそうなくらい驚いてその場に立ち尽くしてしまった。
「さ、咲良さん!」
ドアを開け放つと、目の前には、バックヤードの事務用の椅子から滑り落ちて床に座り込んだ店長の姿があった。まるでくたびれたテディベアみたいにペタンとお尻を床につけていて、手足には力が入っておらず、力なくぐったりとしていた。顔面は真っ青、うっすらと開いた口から、ううう、といううめき声が漏れている。わたしがさっきドアの向こうで聞いた音は、間違いなくこの声だ。
そして、店長は泣いていた。
店長の目はうつろで、視線が定まっていない。そして、ぽたぽたと絶え間なく涙がこぼれていた。そのあまりにも異様な雰囲気に近づいて抱き起こすこともできなくて、わたしはおたおたと情けなく動揺したまま、咲良さんを呼ぶしかなかった。
咲良さんは、少しだけ表情をこわばらせたけれど、すぐに厨房からやってきて、大丈夫だから、と言ってわたしを少し下がらせた。「アルくん」と咲良さんが店長に声をかけても、店長は反応しない。「救急車を……」と言いかけたわたしをよそに、咲良さんはまた厨房に走って戻って、何かを手にして戻ってきた。瓶は、コールドドリンクに使う液体のシロップだ。咲良さんはそれを店長の手に握らせると、自分の手も添えて瓶の口を店長の唇に持っていかせた。いったい何を、と思っていると、店長はゆっくりとシロップを飲み出し、やがて、ごくごくと喉を鳴らし、スポーツドリンクでも飲むかのように瓶を傾けた。シロップは、かなり濃い砂糖水という感じで、とてもじゃないけれど甘すぎてあんな風に飲めるようなものじゃないはずだ。わたしの目の前で起きていることは、何もかもが異様だった。
シロップをほぼ一本分すべて飲み切ると、店長は深いため息をついて、涙を拭い、咲良さんに引っ張られてよろよろと立ち上がった。そのまま椅子に座らせられると、こめかみを押さえて、ああ、と声を漏らした。さっきまでのうつろな目はどこかに行って、いつもの店長の目が戻ってきているように見えた。
「ごめんね」
咲良さんがそう言いながら、ロッカーの中のわたしの荷物を持ってきてくれた。店長は大丈夫だから、上がって。そうぴしゃっと言われてしまうと、いったい店長はどうしたのか、大丈夫なんでしょうか、といった突っ込んだ話は聞けず、咲良さんの無言の圧に押されて、後ろ髪をわしづかみにされたような気分のまま、お疲れさまでした、と言うしかなかった。
「モンブランの件は、また明日、連絡するね」
「はい、じゃあ、明日」
今、体験したことを呑み込めないまま、わたしは持ってきた傘を差してお店の外に出た。頭上から叩きつけてくるような粒の大きい雨が、あっという間に傘がカバーしきれない足元を濡らしていく。母の車のヘッドライトに向かって小走りに走りながら、崩れ落ちた店長の顔を頭の中から追い出そうと、わたしは何度か首を左右に振らなければならなかった。