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「じゃあ、またね」

 さわやかにそう言って、何の邪気もない笑顔とともにあっさりと去っていく香取先輩の後ろ姿を、あのときのわたしは茫然と見送っていた。もっと言いたいこととか伝えたい気持ちもあって、手渡したいバレンタインのチョコレートも持っていたのに、それらはすべて自分のところに残ったまま、わたしの初恋は実にあっさりと終わった。

 またこの夢かあ。

 うんざりしながら、日曜日の朝のベッドの上でため息をつく。

 ここ数年、高確率で夢に見るのは、中学校一年だった時の記憶だ。当時、わたしは同じ中学校の「香取先輩」に恋心を抱いていて、先輩が卒業を控えた二月に思い切って気持ちを打ち明けようとした。だが、その淡い恋心は実を結ぶことはなく、先輩に思いを伝えることすらできずに二月の寒空へ溶けて消えた。なのに、その記憶だけは頭の中に強固に残り続けていて、今も夢となって現れては、わたしの気持ちをどん底に突き落としてくれるのである。

 先輩との接点は、図書室だった。わたしは中学時代に図書委員をやっていて、香取先輩は毎週欠かさずに図書室に本を借りに来るので面識があった。ぱっと見がかっこいいとか、超絶イケメンというわけではないものの、生徒会長を務めるくらい、華があるというか、存在感があった。同級生にも、香取先輩かっこいいよね、と言っている子が何人かいるくらいの感じだ。

 先輩に告白したとて、つい先日までランドセルを背負っていた中一と高校生になろうとしている中三ではかなり年齢的な隔たりもあるし、面識もあって会話もしたことがあるとはいえ、実は僕もキミがずっと好きだったんだ、付き合おう! と言ってもらえるなどとはさすがに思っていなかった。ただ、自分の気持ちを伝えることで、先輩にとっての「その他大勢」から一歩近づいて、SNSとかで繋がったり、連絡先交換したりして、先輩が高校に進学してからもちょっとコンタクトが取れるくらいの間柄になれたらいい、っていう意図のもとに、気持ちを伝えるという行動を起こしたわけなのである。

 その日、朝学校に行く前についダウンロードした占いアプリでは、恋愛運は最強、という結果が出ていた。AIに相談しても可能性はある、と断言してもらったし、家を出ていくときに親が見ていた朝の情報番組で、わたしの星座は幸運ナンバーワンであるようだった。そういうの全部ひっくるめて、わたしは若干期待を大きくしてしまったのは否めない。そしてそれが逆に、先輩との距離は一歩も近寄らず、むしろちょっと離れたという現実を受け入れがたいものにしてしまった。

 その後、接点がないまま先輩は中学を卒業していき、わたしは先輩のいなくなった学校に取り残されて不毛な二年間を過ごすことになった。先輩のことを引きずり続けるのもよくないなと思って、クラスで唯一なんとか話すことができた男子と付き合うなどということをしてみたのだけれど、続いたのは一週間とか、一ヵ月とか、そんなもんだった。先輩の存在が大きかったというより、先輩に振られたトラウマが根深く残ってしまった、という感じだった。だからだろう。今日みたいに、あの時の光景をめちゃくちゃリアルに夢に見て、寝起き最悪、みたいな朝が二週間に一回くらいは必ずある。

 寝ながら少し泣いていたのか、朝から目元がむくんで、洗面台の鏡に映った寝起きの顔は、自分でも引くほどブサイクだった。わたしがもうちょいかわいかったり、垢抜けたりしていたら、あの時、少し自信をもって告白くらいできていて、連絡先くらいは交換できたんじゃなかろうか、などと思うと、毎朝歯を磨くたびにコンプレックスが爆発して鏡にパンチしたくなる。

 せめて、もうちょっと自分で自分を認められるようになりたい。そう思って、わたしは高校では部活に入らず、バイトをして服やメイクにお金をかけられるようにしよう、と決めていた。受験が終わって中学を卒業し、いざバイト先を探そうとしたときに一発目に見つけた求人が、『サンセット・オレンジロード』というカフェでのバイトだった。

『サンセット・オレンジロード』は開店して一年ほどの新しいカフェで、地元でもまだあまり知られていないお店だった。海辺町は曲がりなりにもリゾートっぽく作られた街であって、田舎ながらも海も近い場所なので、カフェ自体はあちこちにちらほらあって珍しいというわけではない。でも、妙な地元ネットワークのあるわたしの母が新店の存在を知らなかったのはなかなか珍しいことだった。たぶん、今までほとんど宣伝もしていなくて、テレビとか雑誌にも取り上げられたことがないから、地元民ですら認知度が低いのだ。そう言えば、道路から獣道みたいな細い道に入らなければならないのに、看板も一切出しておらず、認知されようという気がそもそもないんだろうと思う。

 あまり儲けが出ないからか、肝心の時給はというとさほど高いとも言い難く、別荘地にあるコテージの掃除とか、チェーンの飲食店の方が時給はよかった。でも、わたしが『サンセット・オレンジロード』をバイト先に選んだのは、求人サイトに並んでいた店長と咲良さんがあまりにもおしゃれに見えたからだった。ここで働けば、お金をもらいながらセンスを磨くことができて、自分もおしゃれになれるのではないかと思ったわけである。そんな都合よく行くわけないと思われるだろうけれど、わたしは本気だ。

 幼稚園の頃までは自分をプリンセスなんだと信じて疑わなかったわたしも、高校生にもなると分別というものがついてきて、自分の容姿というものの現実を受け入れざるを得なくなってくる。少しでもよく見られたいという欲求を満たすには、メイクやファッションで「かわいい」を作る必要があり、それをうまく作り上げるにはセンスが必要だ。わたしはそのセンスを磨くために、高時給を捨ててカフェで働くことにしたのだ。

 せっかくの休日、このままベッドの中で夕方まで寝倒したいという根源的な欲求に抗って、無理やり目を開いた。窓から日の光が入ってきていて、目を開けた瞬間、体が溶けてなくなりそうな気がした。起きようとしても関節がぎすぎすと音を立てて反抗するが、時計を見るともう余裕がない。このままではまた出勤がギリギリになってしまう、と、わたしは猛獣が鎖を引きちぎろうとするかのごとき呻き声をあげながらベッドから転がり落ちた。

 

 

 日曜の午前中の『サンセット・オレンジロード』は、比較的のんびりとしている。お客さんは常連さんが中心で、少し遅めの朝食を食べに来る人が多い。キッチンスペースの前のカウンター席には、常連中の常連である男性が座っている。なんでも、海辺町の別荘地に住む作家さんだそうで、我孫子一宮、というペンネームだそうだが、あいにくわたしは名前を存じ上げなかった。中学三年間は図書委員だっただけに、それなりに読書はしている自負はあるのだが、これまで読んできたわたしの守備範囲の中に我孫子先生の作品はなかった。

 土日の朝、我孫子先生は必ず同じ時間に来て、「ホットケーキとコーヒー」を注文するのだけれど、そもそも「ホットケーキ」というのはお店のメニューにはない。バイトを始めた頃、わたしが「パンケーキでよろしいでしょうか」と聞き返すと、むっとした表情で、「ホットケーキだ」と言われて困惑した。お店のパンケーキはスフレっぽいふわっとしたものだったはずなのに、いつも我孫子先生に出されているのは昔っぽいぺたっとしたタイプのもので、「ホットケーキ」は、どうやら店長が特別に我孫子先生だけに出している裏メニューであるようだ。店長は一人一人のお客さんの嗜好を覚えているだろうからいいんだけれど、わたしにはそんな芸当は無理なので、裏メニューとかを増やされると困ってしまう。カフェとして、お客さん一人一人に合わせたメニューを出すというのは理想なのかもしれないし、常連さんになってもらうには大事なのかもしれないけれど、やりすぎるときりがないからあんまり決まったメニューから逸脱しないでほしいなあ、と思ってしまう。

「どうだ、仕事は少し慣れたのか?」

「はい、少し」

 水の注ぎ足しに行くと、我孫子先生が急に話しかけてきた。今までオーダーを取るときだけしか話したことがなかったのでびっくりしたけれど、なんとか当たり障りない会話ができるように言葉を選ぶ。

「あの店長の下で働くのは大変だろう、相当な変わり者だしな」

「変わり者、ですかね」

「変わり者だろう、そりゃ。私はね、彼の言うことは半分くらいしか理解できんよ」

 半分理解できるならすごいです、と思ったが、それを口には出さなかった。我孫子先生の言うように、店長の言っていることは意味がさっぱりわからないことが多々ある。秒速何万キロで飛ぶと太陽の道の先に行ける、とか。

「ちょっと変わってるところはあるかもしれませんけど」

「ちょっとやそっと変わってるくらいでは、こんなところにカフェなんぞ作らんだろう」

「海辺町にもちょこちょこカフェはあるんですけどね」

「店長夫婦はな、店出す前に数年間、世界中を旅して回ったらしいぞ。儲けようと思えばもっといいところなんていくらでもあったろうに、なぜかこんな辺鄙な田舎町に店を出したんだからな。変わってるよ」

 そうなんですね、と、わたしは相槌を打ち、確かにそれは変わってるかも、と思った。ただ、海の見える岬のロケーションはなかなかないだろうし、たくさんの選択肢があったなかで店長が海辺町を選んでくれたというのは、地元民のわたしにとってはちょっとうれしいことではある。

 わたしが暇にまかせて少しの間、我孫子先生と会話をしていると、来客を知らせる入口のカウベルがからんころんと鳴った。テイクアウトなら出入り口側カウンターで接客するのは主に咲良さんの担当で、テイクアウトコーナーから脇の通路を抜けて店内飲食フロアに来たお客さんに席の案内をするのはわたしの仕事だ。けれど、向こうから咲良さんが「お好きな席へどうぞ」と案内する声が聞こえてきて、わたしは席の案内をする役目を省略されて、お冷の準備にはいった。

 カウンター端に置かれている金属製のウォーターピッチャーに手を掛けて、フロアに入ってきたお客さんを見た瞬間、わたしは衝撃を受けて固まった。

 ついに、この日が来てしまった。

 咲良さんの声に導かれて飲食フロアにやってきたのは、高校生くらいの女子ひとりだった。海辺町には海辺高校というそのままのネーミングの公立校が一校しかないので、この辺に来る高校生はだいたい海高生であり、つまりはわたしと同じ学校の生徒だ。ここでバイトしている以上は、いつか同じ高校の人に見つかる、とは思っていたが、今日がその日になった。屋外が見えるテーブル席についたのは、うちの高校の三年生で生徒会副会長でもある「成田先輩」だった。

 成田先輩は、なんというか、佇まいに特徴がある人だ。

 髪の毛は女子高生の基本とも言うべき黒髪ロングのストレートで、眉下で前髪を切りそろえているのがミステリアスな雰囲気を演出している。姿勢がよく背筋がピンとしていて、ヒールなんて履いていないのに歩いているとカツカツと音が聞こえてきそうな感じがする。背はさほど高くないけれど、なんとなく近寄りがたいオーラを勝手に感じて、ちょっと雑に絡んでいけないというか、気楽に話しかけるのが難しそう、という印象がある。

 学年が違うと基本的に面識はなさそうなものだが、うちの学校は毎年五月の体育祭はチームを一年から三年までの縦割りにするので、そこで先輩方とも交流がある。間の悪いことに、わたしはその縦割りチームで成田先輩と同じチームなのだ。体育祭前のオリエンテーションで自己紹介もしているし、少し会話したこともあって、間違いなく顔を覚えられている。これから接客をしなければならないと思うと、ちょっと、いや、かなり緊張して、咲良さんがやってくれないかな、などと思ってしまった。そうもいかないので、お盆に水の入ったコップを載せ、エプロンのポケットに伝票とペンが入っていることを確認してから、大きく一つ深呼吸をして、成田先輩のテーブルに向かった。わたしの手元は依然として不安定で、トレンチの上のコップの水がこぼれそうなくらいゆらゆら揺れてしまうのが本当に恥ずかしい。

「あ、あれ?」

「お、お疲れ様です。いらっしゃいませ」

 成田先輩は、わたしが頭の中で「きっとこういうリアクションを取るだろうな」と思っていたまんまのリアクションを取り、こちらを見て目を丸くした。わたしも気まずいが、先輩もだいぶ気まずいだろう。お互いの間に、気まずさの壁、のような目に見えないけれども結構な弾力がある空気が生まれて、顔や体をぎゅうぎゅうと押す。

「いすみ、ちゃん? ここでバイトしてたんだ」

「はあ、そうなんです」

「いつから?」

「ええと、先月の頭からです」

「あ、そうなんだ」

 先輩の顔が、心なしか少し曇ったように見えた。なんだろう、何か悪いことを言っただろうか、と心配になる。

「あの、注文、決まってるから、頼んでもいいですか?」

「あ、はい、どうぞ」

 わたしはトレンチを置いて慌てて伝票を取り出し、ペンを構えた。先輩の細くて透明感のある声が耳に心地よい。

「大葉のペペロンチーノを一つ。ドリンクは後でまたお願いしようかな」

 先輩が頼んだ「大葉のペペロンチーノ」は隠れた人気メニューで、本来イタリアンパセリを使うところを、細かく刻んだ大葉を使って和風に仕上げたものだ。わたしも一度賄いで食べたことがあるけれど、オリーブオイルやニンニクの味のなかに大葉がいても全然違和感がなくて、むしろイタリアンパセリよりわたしはこっちの方が好きだ。具材も味つけもシンプルなのに、なんでかしっかり味を感じておいしい。

「先輩、このお店、初めてですか?」

「ううん。去年オープンした頃から、何度か来てて」

「あ、そうだったんですね」

「ここのパスタがおいしくて、たまにね」

 オープン当初から宣伝も何もしないカフェを見つけるとは、成田先輩はさすがのアンテナ感度だと思った。ただの偏見ではあるが、成田先輩はなんでも質の高いものを好みそうな感じがする。お店のパスタがおいしいと言っていた、と伝えたら、店長もアキラさんも喜ぶかもしれない。

「よくカフェとか行くんですか?」

「ああうん。そうだね。ずっとカフェでアルバイトしてたから、いろんなカフェを回るのも好きだよ」

「え、バイトしてたんですか」

「チェーンのとこだけどね」

 成田先輩が働いていたというお店の名前を聞くと、ああ、とすぐに思い当たった。隣駅の駅前にあるチェーンのカフェで、ちょっと年齢層が高めの人が行くような「喫茶店」に近い感じのお店だ。どうやら先輩は高一から二年間もそのお店でバイトしていたようで、わたしがカタカタ音をさせながらペペロンチーノを持ってきたら、先輩にめちゃくちゃ白い目で見られてしまうかもしれない。薄い笑いで場の空気をごまかしながら、どうしよどうしよ、と激しく動揺しつつ、オーダーを店長に伝えに戻った。

 

 

 ああなあ、と、同級生の白子七栄が、教室の端っこの窓辺の席に座ったまま、メガネの奥の目を細めてにやにや笑う。白子七栄は海高には珍しい海辺町の外から通っている子で、小中学校時代は別の学校だし、初めてお互いを認識したのは高校の入学式だったのだけれど、同じクラスで席が近いということもあってよく話すようになり、そこから急激に打ち解け合って、今は一番一緒にいる時間が長いクラスメートになっている。最初の数日は、わたしも遠慮して「ななえちゃん」などと呼んでいたものの、口が悪かったり、食べることにしか興味を持ってなかったりといった特性が掴めてくると、だんだん「こいつはななえちゃんなんていうキャラじゃないな」という確信を持つに至り、今は「シラコ」と結構ぞんざいな呼び名で呼んでいる。

 シラコは食べること以外の人生のすべてを諦めている、と公言するくらいで、よくものを食べ、それ相応にぽっちゃりしている。恋愛とか芸能人とかファッションとかに興味は皆無だそうで、規定通りにきっちり制服を着て、校則どおりノーメイクで学校に来ている。ストレスがないからか、肌は赤ちゃん肌レベルでめちゃくちゃきれいだ。性格を端的に言い表すと、「皮肉屋」「若さゼロ」「めんどくさい」なので、仲良くなれる要素は皆無にも思えるけれど、それがなんだかわたしにはいい感じに刺さって、飾ったり遠慮したりする必要の一切ない楽な相手、という希少な友達となっている。シラコは良くも悪くも裏表なく本音をずばずば言うし、今の言葉はどう思われたかな、などと変に気を回す必要もないので、わたしも、だいたいなんでも話すようにしていて、今日は休み時間に、昨日バイト先に成田先輩が来た、という話をしたところだ。

「何にやにやしてんの」

「いやだって、よりにもよって成田先輩じゃん」

「何そのよりにもよって、って」

「だって、ライバルなんじゃん?」

 やめてよ、と、わたしの口からちょっと鋭い声が出る。周囲のクラスメートがわたしとシラコの会話を聞いていないか入念に確認して、視線を向けている人間がいないとわかると、ほっとひとつ息をついた。

 シラコが言う「ライバル」とは、成田先輩が生徒会副会長であることに関係がある。現在、この学校の生徒会長は、あの香取先輩だからだ。

 香取先輩は中学校を卒業後、海高に進学した。海高はそれなりに偏差値は高めではあるけれど、あくまで「それなり」ではあるので、香取先輩ならもっといい高校を目指すのだろうと勝手に思っていたのだけれど、人づてに海高に入ったと聞いて驚いた。わたしが海高に入ったのは、両親から「交通費のかからない高校に行け」「私立は無理」などと言われた結果、自転車で通える公立校という海高が選択肢の一番上にきたからなのだけれど、入学式、高校でも生徒会長となった香取先輩が壇上に上がり、新入生にメッセージを読み上げる姿を見て、わたしの中でずっとくすぶり続けていた恋心とコンプレックスが同時に噴き上がり、その苦しさに耐えかねて中学の頃の出来事から今までの香取先輩に関するアレコレを洗いざらいシラコに話してしまい、シラコには定期的にイジられるようになってしまった。王様の耳がロバであることを胸に秘め続ける苦しみに比べればシラコに多少イジられるくらいの方が楽なので後悔はしていない。

「シラコはさ」

「ん?」

「付き合ってると思う? 香取先輩と成田先輩」

「しらんわ」

「返しが早すぎる」

「まあ、噂にはなってるよね」

 女子高生の習性と言おうか悪い癖というか、いい感じの目立つ先輩がいると、勝手にその間のストーリーを想像してカップリングしてしまうことがある。一年の間では、生徒会の集会の時の、会長と副会長の並びのお似合い感というか、安定感をみんなが感じており、自然発生的にあの二人は付き合っている、などという噂がまことしやかにささやかれていて、もちろんわたしの耳にもそれがばしばし入ってくる。もし、それが本当だとしたら、入り込む隙間は一ミリもない。いや、そもそも入ろうとしているのか? 入ろうとすべきなのか?

 わたしの思考が暴走を始めたのに気づいたのか、シラコが、おい、と言いながら、わたしの肩口にグーパンチを入れる。痛みで目が覚めたが、その痛みが結構な痛みで、わたしは再び、やめてよ、と言わざるをえなかった。

「なんか、いいとこのお嬢さんらしいよ、成田先輩」

「そうなんだ」

「家も高台の住宅地の方だしさ。お父さん建築デザイナーらしくて、この辺の別荘も結構手掛けてる」

「なんでシラコがそんなことまで知ってんの」

「ママ」

「ママかあ……」

 シラコの母親はウチの母を凌駕するくらいの強固な情報ネットワークを持っているらしく、海辺町のありとあらゆる情報、ゴシップがシラコのママに集まってくる。おかげで、シラコもかなりの情報通になっていて、シラコ自身もなぜか学校内の情報にやたら詳しい。

「雰囲気あるよね、成田先輩って」

「まあね。なんかまあ、独特のオーラみたいなもんはある」

「ああいう感じが好みなのかな、香取先輩」

「しらんわ」

「レスが早いって。少し話に乗っかってきてよ」

「しらないもんはしらないもん。しってることはしってるけど」

「なにそのなんとか構文みたいな」

「ただ、仮にああいう雰囲気の女子が好みな男だったらさあ」

「なに」

「あんたに勝ち目ゼロだよね」

 やーめーてーよー、と、わたしはシラコのぷにぷにした頬っぺたを両手でつねって報復したものの、思いのほか重たいダメージで下っ腹が痛くなり、トイレ行ってくる、と言って教室を出た。廊下を歩くとき、気持ち背筋を伸ばしてかつかつ歩いてみたけれど、たぶんそれがわたしなりの成田先輩のイメージだとは誰一人気づいてくれないだろう。

 

 

 海高体育祭は、毎年五月に行われる行事で、わたしたち新入生にとっては入学後初の大きな学校イベントになる。右も左もわからないまま「高校生」という属性に馴染もうとしてきた一ヵ月間だったけれど、いよいよ海高の生徒として学校の文化にも入り込まなければいけない、ということだ。勉強も新しいことをやり始めて、新しい同級生とコミュニケーションしながら、バイトも始める、というのは、なかなかやることが盛りだくさんだ。その上で、体育祭という非日常的なことをやらなければいけないのだから、時間がいくらあっても足りなくなる。

「ええと、市川さん、あと白子さん」

「はい」

 わたしとシラコの名前を呼んだのは、三年生の組リーダーの先輩だ。組リーダーは、一年から三年までの縦割りチームのリーダーで、メンバーをどの競技に出場させるのか、といった割り振りを行う。今は体育館でのチームミーティングの最中で、ついにわたしとシラコの出場する競技が決まるときが来た。

「すごい単刀直入に聞くけど、君たち、足速い?」

「自分でも引くほど遅いです」

「見た目通りの鈍足です」

 わたしとシラコは即座に「いかに自分の足が遅いか」をリーダーの先輩に伝える。実際、わたしは運動についてはからっきしもからっきしで、悲しくなるほど足が遅いのは事実だ。シラコが走った姿をまだ見たことがないけれど、たゆんとしたお腹を見る限り、まあ速そうには見えないよね、とは思った。シラコが走ってその遅さを証明せずとも、先輩たちも納得した様子だった。

「困ったな、うちのチーム、足速い女子あんまいねえな」

「すいません」

「いや、君らが悪いわけじゃないんだよ。そんなのしょうがないからさ」

 思わず謝ったわたしに、先輩がひきつった笑みを浮かべながらフォローの言葉を掛けてくれた。優しい。

「やっぱ成田に任すしかないか」

「成田先輩?」

「成田はあんま体育祭とか興味ないだろうけど、あいつめちゃくちゃ足速えからさ。まあ、走る系の競技だけ頑張ってもらって、チームに貢献してもらえればいいか」

「え、成田先輩って、足も速いんですか?」

「陸上部の短距離エースだから。なんでもできちゃってすごいわ、あいつ」

 マジですか、と思わずこめかみに手がいった。神様というやつは、ずいぶん二物も三物も一人に与えるじゃないか、人類みな平等とか言ったやつは出てこい、と心から思う。すごい文句を言ってやりたい。そんなわけあるか、と。

 結局、わたしたちの出番は、「女子二十人二十一脚」に決まった。鈍足女が自分の責任を人に負わせることができる、なんとも素晴らしい競技に振ってもらえたと思う。

 

 学年トップクラスの成績と俊足を持ち、そこに立っているだけでも目を引くような存在感を持つ成田先輩は、体育館に集まった面々がわいわい騒いでいるのをよそに、壁にくっつくようにして体育座りをし、輪の中には加わってこなかった。組リーダーの先輩が、徒競走に出場して、と言いに行ったけれど、成田先輩は異論もなくあっさりと承諾して、それで会話は終わったようだ。そのまま成田先輩はまた周囲から離れて一人で座っていた。「あんま体育祭とか興味ないだろう」というリーダーの言葉通り、成田先輩は居心地悪そうにしていた。いつもはあれだけ凛としたオーラを放っているのに、体操服姿の成田先輩は、そういう空気ごと自分を包んでいるものを剥ぎ取られてしまったように、小さく頼りなく見える。単にわたしの思い込みなのかもしれないけれど、そのきっかけになったのは、三年生の先輩たちの会話からそこはかとなく感じる、成田先輩との距離感だった。成田先輩が嫌われるようなことをしているわけではないし、みんなも嫌っているわけではない。けれど、どことなく、「自分たちとは違う人」みたいな空気を感じる。

「この間は、なんかその、すみませんでした」

 成田先輩がぽつんといるのが気になって、わたしは半ば衝動的に近寄り、成田先輩の隣に座っていた。わたしは前世でどんな過ちを犯したのか、重症レベルの共感性羞恥持ちであって、成田先輩が気まずそうにしている、という状況を見るだけで自分がいたたまれなくなってくる。その自分のいたたまれなさをなんとかしたくて、成田先輩の横に座っていた。

「すみませんでした?」

「いやその、お見苦しいところをお見せして……」

 お見苦しい、とわたしが言ったのは、先日、成田先輩が『サンセット・オレンジロード』に来店したときの話だ。先輩はパスタを注文した後、カフェモカを注文したのだが、わたしが緊張していたこともあり、いつも以上にコーヒーをカタカタさせてしまい、コーヒーの水面が揺れて一口分くらいこぼしてしまった。成田先輩は気にしない、と言ってくれたが、店長がコーヒーを作り直す事態となり、わたしとしては土下座して全員に詫びたくなるような状況になったのだ。それをまず謝っておかないといけない。

「別に、気にしてないよ」

「いやほんとに、情けなくて」

「まだ、バイトはじめたばっかり、だよね?」

「そう、なんですけど。先輩はずっとカフェでバイトされてたみたいだし、そんな人の前で大失敗を」

 わたしがそう言ってしゅんと縮こまると、余計にいたたまれない空気に包まれて、おえ、となりそうになった。先輩が醸し出す空気を中和すべく隣に座ったはずなのに、さらに悪化させることになってしまって辛い。先輩もなんと言葉を返していいのかよくわからなかったのか、わたしに視線を向けないまま、少し沈黙してしまった。変な空気の中で、どうしよう、と瀕死になっているわたしをよそに、成田先輩が、まるで独り言のようにぽつんとつぶやいた。

「私も、あそこのバイト面接受けたんだよね」

「えっ、ほんとですか?」

「うん。たぶん、いすみちゃんと同じ求人に応募したんだと思うんだけど、不採用になっちゃって」

 そんなばかな、と、頭に店長の顔が浮かぶ。もしそれが本当だったら、わたしのようなド素人を雇うより、経験者である先輩を雇ったほうが即戦力でよかったのではないだろうか。

 そもそも、『サンセット・オレンジロード』の面接はまったく意味のわからないものだった。面接は店内のカウンター越しに行われて、店長は履歴書も名前と年齢くらいしか見ないまま、なぜか手のひらを上に向けてカウンターに置くように指示して、「これ見てもらっていい? いっちゃん」と、わたしの手の上にスマホを載せた。フルスクリーンで表示されていたのは、手のひらの上を這いまわる“G”、つまりゴキブリの動画だ。めちゃくちゃ不愉快で何の嫌がらせかと思ったのだけれど、店長はじっとわたしのリアクションを見た後、案外平気だね、と笑ってスマホをひっこめた。なんだったんだ今のは、と思いながら、わたしが手のひらを元に戻すと、なんと、そこに本物の“G”が張りついていた。わたしは、とっさにというか、本能的にというか、空いている手で“G”を叩いて押さえ込み、「すみません! ティッシュ下さい!」と訴えたのだけれど、店長はティッシュを取ろうともせず、カウンターに片肘をついて、にこにこしながら、「いつからシフト入れる?」と言った。むちゃくちゃだ。

 結局、その“G”はおもちゃで事なきを得たわけだけれども、一体あの面接で店長が何をしたかったのかわからない。聞けば、成田先輩も同じ憂き目に遭わされたようだ。先輩はいきなりの出来事に驚いて悲鳴も上げられずにしばらく固まってしまったらしく、それが普通の女子の、あるべき反応な気がする。“G”をとっさに掴んでしまったわたしの方が異常なのだ。わたしは人生初めてのアルバイトで、面接というものの常識を知っているわけではないけれど、少なくともあれが常識的な面接とは違う、ということくらいはわかる。その非常識な面接で、自分がさらに非常識なことをしてしまったのかもしれないと思うとこめかみのあたりがツーンとする。

「成田先輩は今年受験だから、長く働けないかも、って店長が思ったんですかね」

「さあ。わからないけど。でも、ちょっと残念」

 わたしは、すみません、と言いそうになって、すみません、というのもなんか逆に失礼な感じがする、と言葉を呑み込んだ。

「もしかすると、下心を見抜かれたのかなー、って」

「下心?」

「私、前も食べたんだけど、あのお店のパスタが大好きで」

「言ってましたね」

「自分でも家で作ってみるんだけど、なかなかあんな味にならなくて。実は、働いたら味が盗めるかなって思っちゃった。それで、元のバイト辞めて応募してみたんだけど」

 お料理女子でもあるのか、と、わたしは舌を巻く。勉強も運動もできて、さらに料理までできるとなれば、人生に向かっていくための手持ちの武器が揃いすぎる。成田先輩はいったいどこまで完璧になろうというのか、と、ため息が出そうになった。一方でわたしは、と思ってしまうからだけれど。

「パスタはアキラさんっていう調理担当の方がいて、その人がいろいろレシピも考えてるみたいなんですよ。あちこちのお店でキッチン担当してるような人なので、そもそも料理が結構上手なのかもしれないです」

「そうなんだ。すごくおいしいんだよね。何か秘密があるのかな」

「秘密は、ちょっとわたしにはわからないです」

「私が作っても、なんかまとまりがないというか、パスタもきちんとアルデンテに仕上げて、レシピ通りの分量と手順で作ってるつもりなんだけど、なんかものたりない、って印象になっちゃう。『サンセット』のは、はっきりおいしいって感じるんだよね」

「自分に厳しすぎる、とか。きっとおいしいですよ、成田先輩のパスタ」

「そんなことないよ。自分で作ってるから採点基準甘いけど、それでもやっぱり『サンセット』のパスタに全然近づけなくて。もう何回も作ってるのに」

「すごい一生懸命練習してるんですね」

「うん。そうだね。おいしいパスタ作れるようになりたいから」

 その時、わたしの頭の中には、この言葉は絶対に言うべきではない、という言葉がむくむくと盛り上がって、脳内を埋め尽くしていった。言うな。言ってはならない。自分にそう言い聞かせても、その声は非力で、両肩の悪魔がわたしに執拗にささやく。言え。言ってしまえ。

「もしかして、誰か食べさせたい人がいる、とか」

 軽口のようなふりをしてわたしが吐き出した鉛のごとく重たい言葉を聞いて、成田先輩は少し驚いたような表情を見せた。そんなんじゃないよ。パスタが好きなだけ。欲しい言葉はそれだった。その言葉さえ聞ければ、今日はとりあえずなんかほっとできる気がする。先輩はわたしから視線をそらして、ころころと上品に笑った。

「うん、そうなんだ。ペペロンチーノが大好き、っていう人がいて」

 ぎしゃああ、という潰れたゴキブリの断末魔みたいな声が出そうになるのを、わたしは鉄の心でなんとか抑え込んだ。これって、やっぱり。ああ。

 

(つづく)