海辺町で一番の観光スポットはどこ? と言われたら、たぶん海辺町の住人のほとんどは、ここ、虹島海岸、と答えるかもしれない。海辺町にはごつごつとした岩や崖の海岸線が多い中、砂浜があって、海水浴やシュノーケリングができる数少ない場所だ。海岸からすぐ沖には虹島という小島があって、「虹の橋」などというネーミングの砂浜がその島に繋がっているので、島まで歩いて渡れる。小学校の社会科見学でここを訪れて、砂浜を「陸繋砂洲」、虹島を「陸繋島」だと習うのは、海辺町の小学生のあるあるだと思う。勉強したことはわりと頭から抜け落ちてしまうわたしでも、なぜかその二つの言葉は強烈に残っている。
その虹の橋を渡っているのは、季美さんだ。久しぶりだー、などと言いながら、長靴で波打ち際をざぶざぶ歩いている。化粧っ気もなく、服装も地味だけれど、下ろした髪をなびかせて歩く季美さんは、やっぱり絵になる人だった。
『満腹亭』で野菜タンメンを食べ終わり、外に出たわたしを待っていたのは、笑顔の季美さんだった。暑い中、お店の軒先でわたしを待っていた季美さんは、ちょっとだけお散歩に付き合ってくれない? 一人じゃ寂しいから、と、手を合わせた。行先は、駅前から自転車で十分ほどの距離にある虹島海岸。少し日が陰って暑さが和らいだこともあるし、わたしも季美さんと少し話してみたくて、一緒に行くことにした。わたしは乗ってきた自転車で向かい、その横を、よく農家の人が使う軽トラックに乗った季美さんが、のんびりした速度で並走した。まさか季美さんがこういう車に乗るとは思ってもいなかったので驚いたが、季美さんの実家は農家で、今日の午前中は畑仕事の手伝いをしていたそうだ。手伝いが終わって、そのまま農作業で使っていた軽トラックに乗って、『満腹亭』にお昼を食べにきた、ということだった。
波打ち際をひとしきり満喫した様子の季美さんはわたしのところまで戻ってきて、そのまま砂浜に腰を下ろした。わたしはスクールポロシャツに制服のスカートといういでたちで、汚したらまた母がキレるかな、と内心躊躇したけれど、季美さんの隣に腰を下ろすことにした。
「あのさ」
「は、はい」
「私の友達、あのカフェによく来る?」
友達、というのは、季美さんが初めてお店に来た時に集まっていた人たちだろう。わたしが知る限り、それほど頻繁に来るわけではなく、たまに来店する程度なのでそう伝えると、季美さんは、そっか、と少し笑顔をひきつらせた。
「私が満腹亭でご飯食べてた、とか、秘密にしておいてほしいんだ」
「え、はい。たぶん、言う機会もないんじゃないかと思いますけど」
「この間、都会人ぶってさんざんかっこつけちゃったから、バレたら恥ずかしくて。なんかほら、女の子ならちょっとわかってくれると思うんだけど。仲良さそうに見えるけど、みたいなのあるでしょ?」
仲が悪いわけではないけれど、女子同士になるとどうしても嫉妬やマウントの取り合いみたいな関係性はある、というのはわたしにもわかる。あれだけきれいになってしまった季美さんを相手にすると、東京はさすが、みたいな持ち上げ方をしないと他の人たちも立場がないし、季美さんも下手に謙遜せずにそのポジションをあえて引き受けないと、かえって関係がぎくしゃくする気がする。だから、あえて都会人を演じた、ということなのだろう。本当の季美さんは、Tシャツにデニムパンツ姿で『満腹亭』のセットをペロッと平らげ、長靴を履いて実家の農業を手伝い、すっぴんで軽トラを運転して、波打ち際で子供のようにはしゃぐ人なのだ。
「まさか満腹亭で会うとは思わなくて」
「そうだよねー。でも、私、高校のとき女子サッカー部だったから、あそこもよく通ってたし、懐かしくなって」
季美さんの友人が、「高校時代は真っ黒だった」と言っていたのが思い出された。女子サッカー部で屋外を駆け回っていたのなら、だいぶ日焼けしていただろう。海高の運動部なら、女子も男子も『満腹亭』に行かない人はいない。
「そうなんですね」
「こう見えて、結構サッカー得意だったんだよ。見た目も含めて、男みたい、って言われるくらいだったから」
「季美さんがですか? 想像もつかないですけど」
「そう?」
季美さんがスマホをいじって、一枚の画像をわたしに見せてくれた。高校の頃の季美さんの自撮りで、何人かの友達と一緒に、カメラに向かってなんにも作っていない全力の笑顔を向けている。確かに顔に面影は感じるものの、事情をまったく知らずに、『サンセット』に来ているときのモデルのような季美さんと同一人物、と言われたら、二度見するかもしれない。日に焼けて肌は真っ黒で、髪型は本当に男の子みたいなショートカット。顔のパーツは整っているけれど、全体的な雰囲気は、わたしが海辺町で見るありふれた高校生の範疇ではあるかもしれない。
「結構、垢抜けたでしょ?」
「いや、その、元がいいからって言うか」
「そんなことないよー。これでも努力したんだから」
「あの」
「ん?」
「どうやったら、季美さんみたいにキレイになれますか?」
わたしが純粋に知りたいことを吐露すると、季美さんは一瞬戸惑ったような表情を見せたけれど、やがてくすくすと笑いだした。わたしは、おかしなことでも言っただろうか、と、恥ずかしくなって下を向くしかない。
「高校卒業したら、東京に出てきたらいいと思う」
「それだけで?」
「うん。それだけ」
「わたしでもですか?」
「いすみちゃんはたぶんかわいくなると思うなあ。今でもモテるでしょ?」
「いや、そんなことは。全然。ほんとに全然ないです」
「かわいくなりたい、とか思う?」
「男子にモテたい、とかじゃないんですけど、自分に少し自信が持てたらいいな、って」
「自信ないの?」
「ないです」
そっかあ、と、季美さんは海に目をやった。
「いすみちゃんが、私が行ってた大学に来たらさ、たぶんすごいかわいくなると思う。かわいくならないといけなくなるから」
「ならないといけない?」
「もうさ、周りの子がみんなびっくりするくらいかわいいんだよ。おしゃれだし。そういう世界に突然放り込まれて、うわヤバい、って思うの。私、田舎丸出しじゃん、って」
「そんなに、ですか」
「私もね、ちょっときれいになりたいな、とか、おしゃれになりたいな、みたいな気持ちで東京に出ていったから、自分なりに結構気を遣ってたつもりなんだけど、もー、全然だめ。だから、たぶん、大学四年間で私が一番勉強したのは、学部の科目とかじゃなくてメイクだと思う」
「そんなに」
「もうさあ、家で完璧に仕上げないと、怖くて大学に行けないんだよ。あいつ芋じゃない? って言われちゃったら、違う文化圏の人、みたいに扱われちゃうし。家がお金持ちの子も多いから、みんなお金かけてくるんだよね。同じくらいのコスメ買ったり服買ったりするのに、バイト三つくらい掛け持ちして、夜ご飯が水だけ、とか。早起きして二時間かけてメイクしてから大学行く、とか。そんな毎日。だから、半強制的にメイクも覚えるし、ファッションにもお金かけるようになるし、だいたいみんな垢抜けるよ」
わたしは絶句してしまい、なんと言っていいかわからなくなった。そこまでしないといけないのか、という気持ちが半分、でも、季美さんくらいきれいになるためにはそれくらいの努力が必要なのかも、という気持ちが半分。
わたしに、そんな努力ができるのだろうか。
そこまで努力してかわいくなれたとして、その先は──?
「自信かあ。自信ねー。なんか、自信って見た目をいくらいじってもつかないんだよなー、って思うよ」
「え、季美さんでもですか?」
「その、垢抜けできたな、とか、メイクうまくなったな、みたいな自信はつくんだけどさ。きれいになったねって言われたら嬉しいし、男の人に声かけられる回数も増えるし。でもさ、それをやり続けないと自分には価値がないんじゃないかとか、歳とってしわが増えてきちゃったらどうしようとかさ。強迫観念みたいなのが常につきまとってる感じで、結局自信ないままだよ。ずっと」
「高校のときはどうでしたか?」
うーん、と少し考えたあと、季美さんは、何度か首を横に振った。
「この町を出ていくまでは、あんまり自信がどうとか考えたことなかったかも。子供だったからかもしれないけどね。なんも考えてなかったかな」
「高校のとき、彼氏がいた、んですよね?」
季美さんは、あー、と、雲がぷかぷか浮かぶ空を見上げて、まぶしそうに顔をしかめた。
「話、聞こえてた?」
「すみません、盗み聞きするつもりはなかったんですけど」
「私たち騒がしかったからね。そう、高校三年間付き合った彼氏がいたし、それで、あんまり自分に自信があるとかないとか考えなくてよかったってとこはあるかも」
わたしは名前こそ出さなかったけれど、頭の中にはちょっと筋肉質でたくましい体型と優しそうな顔のギャップがある大網さんの姿が浮かんでいた。さっき見せてもらった高校時代の季美さんを並べてみると、雰囲気的にしっくりくる。
「どうして別れちゃったんですか?」
「東京の大学に行くって決めたから」
「遠距離はやっぱり厳しいですか」
「距離って言うか、たぶん、もう人生の方向が違うって思っちゃったからかな。彼はこの町で家業を継ぐって決めてたけど、私は自分の人生決められなくて。都会にも出てみたかったし、高校卒業した時点では自分の将来なんてまだわかんなかったし。海辺町に残るなら結婚も考えたんだろうけど、それもリアルに考えられなかったし」
「それは、そうですよね。わたしも、あと二、三年で人生決めなきゃってなったら、どうしていいかわかんなくなりそうで」
大網さんはきっと、ずいぶん前から『大網食堂』を継ぐって決めていたのだろう。わたしが仮に季美さんと同じ立場だったとして、大好きな彼氏がいたとしても、その人と一緒に過ごす人生が海辺町だけで完結すると思ったら、やっぱり迷ってしまうだろう。この何もない町だけしか知らずに一生が終わるのかな、とか、都会に行っていろんなものを見てみたいな、とか、絶対思うに違いない。というか、数年後、わたしはその問題に直面することになるのだろう。
「別れるとき、さびしい、とかなかったですか?」
「そりゃあったよ。仲良かったし、三年付き合ったし。まあでも、付き合いって言っても大したことはしてないけどね。ファミレス行って、ドリンクバーだけで四時間粘って話す、とかさ」
海辺町には、中高生がデートに使えそうな場所はほとんどない。ファミレスが二軒とハンバーガーのチェーン店が一軒、あとはたぶん全国的には誰も聞いたことがないようなカラオケ店が一店あるくらいだ。大網さんと二人でボックス席に向かい合って座り、ドリンクバーとフライドポテトを頼んで何時間もしゃべり続ける二人の姿を想像すると、なんかいいよなって思う。ただ向かい合って何時間しゃべっても時間が持つ人がこの世界に存在してくれるなんて、そんな素晴らしいことがあるだろうか。わたしが自分の好きな本の話をして、それを受け止めてくれる人がいて、わたしも相手の話を聞いて。目の前には、少し小ぶりなドリンクバー用のガラスコップがあって、そこに注がれているのは、コーラとか、ジンジャーエールとか──。
鮮やかな緑色のメロンソーダとか。
『サンセット』で、目の前に緑のクリームソーダを置いて外を眺める季美さんの姿が思い出された。もしかするとあの時間、季美さんの向かい側には大網さんが座っているのかもしれない。その幻影を、毎日、季美さんが追っているのだとしたら。
「海辺町にいたほうがよかったかも、とか、彼と別れないほうがよかったかも、みたいに、後悔ってあったりするんでしょうか」
「後悔かー」
答えとして選んだ言葉を何度か変えたのか、季美さんの唇が少し複雑に動く。
「ないよ。後悔はしてない」
「そうなんですね」
「だって、時間なんて絶対元に戻らないんだから、後悔したら辛くなるだけだもん。だから、昔を振り返って後悔はしない」
それってつまり、ちょっと後悔があるってことなんじゃないかな、とわたしは思ったけれど、それを口には出さなかった。
「今は、お仕事はお休みなんですか?」
「うん、ちょっと休職中なの。仕事探してるんじゃなくて、お休み中のほうの“きゅうしょく”ね」
「休学、と同じようなことですか?」
「そう。会社辞めてはいないけど、ちょっと休んでる。なんかちょっと、職場に疲れちゃって。相容れない人もいて、人間関係難しいんだ。仕事も激務だし、このままだと本格的に病みそうだったから、少し貯金もあるし、一回仕事から離れて実家帰っておこうかなと思って」
「東京で仕事するのって、やっぱり大変ですか?」
「私の場合は仕事がちょっと大変だけど、普通はそんなに大変じゃないよ。仕事もすぐ見つかるし、ありとあらゆるものがあるし、楽しい。刺激も多いし、友達もできるし。田舎にいるとさ、結婚しろとか変にうるさい人いるけど、そんなことも言われないしさ。自分で働いてお金稼いで、自分の好きなライフスタイルを選ぶ自由があるんだよね。男の人と結婚して人生が決まっちゃうような田舎とはやっぱり違う」
「いいことだらけ、ですね」
「そうだねー。少なくとも私にはね」
「海辺町に帰ってくると、なんにもないなって思いますか?」
「そりゃそうだよ。なんもないもん、実際」
「ですよね」
「でもさ、海辺町にあって、東京にないものが一個だけあるんだよな、って気づいちゃったんだよね」
「そんなの、なんかありますか?」
「若かりし頃の、思い出」
何年住んでも、東京は私の故郷にはならないからさ、と、季美さんは笑った。その笑顔は、『サンセット』でクリームソーダを飲みながら外を見ているときのように、すごく寂しそうに見えた。
*
伝票を持って会計に向かおうとする季美さんに、ありがとうございましたー、と、軽く頭を下げる。いつものように季美さんは夕方の時間帯にふらりとお店にやってきて、クリームソーダを飲みながらしばし外を見ていた。先日、一緒に虹島に行った時のラフな季美さんは幻であったかのように、今日はナチュラルではあるがきちんとメイクもして、イメージ通りのおしゃれな服装の都会女子っぽい季美さんだった。あいにくの雨で夕日が見えなかったからか、いつもより滞在時間は短い。
「あ、いすみちゃん」
「は、はい」
「この間はありがとね」
「あ、いえ、こちらこそ。いろいろ話聞いてもらってありがとうございました」
「聞いてもらったの私の方だよー。楽しかったね」
「いや、そんな。でも、楽しかったです」
「ぼちぼち、私、東京に帰ろうかなと思っててさ。休みすぎちゃうともう頭が怠けて戻れなくなって、働く気なくなっちゃうだろうし」
「大丈夫、ですか?」
わたしの、大丈夫ですか、という言葉に、季美さんは直接返事をしなかった。
「寂しい、とか思ってくれる? ほぼ毎日来たもんね。ここ、気に入っちゃって」
雨の降る窓の外に目をやりながら、季美さんが悪戯っ子のように笑う。わたしは心から、寂しいです、と答えた。もっといろんな話を聞きたかったなと思うし、聞いてほしい話もいっぱいあったけれど、わたしには、お客さんとアルバイト店員という距離から先に踏み込めるほどのコミュ力はなかった。虹島海岸で並んで座った距離が、わたしが近づける一番近い場所で、季美さんもそこより先に踏み込んできてほしいとは思っていないんじゃないかと思う。
季美さんが寂しげに見えるのはなんでなのかな、と、ずっとわたしは気になっている。努力して、誰が見ても振り返るくらいの美人になって、東京でキラキラした生活をしているはずなのに、どうしてあんなに寂しそうに見えるんだろうか。わたしだったら、きっと自分に自信を持ちまくって、胸張ってキラキラできるんじゃないかと思うのに、現実の季美さんはまだ自信が持てないと言う。あれで自信が持てないなら、わたしはどうやっても自信を持てそうにない。『サンセット』で店長や咲良さんからおしゃれを吸収して垢抜けたとしても、いつまでたっても自信というのはつかないものなのだろうか。
結局、人間は「スペクトル・クリームソーダ」と同じようなもので、人から見える色を変えたところで、そのものの味は変わらないのかもしれない。ただ、色が変われば周りの見る目と印象が変わるだけ。自信っていうのは、自分のそういう根っこの部分の味みたいなもので、もし味がおいしくないのなら、色だけ変えてもおいしくないままだ。
悲しいことに、それは確かにそうなんだろうなって理解はできてしまう。でも、じゃあ、生まれ持った優れたところなんて何もないわたしは、どうすれば自分に自信が持てるようになるって言うんだろう。
わたしのそういうじっとりした視線からするりと抜けて季美さんが店を出ていくと、つかの間、お店はお客さんがいない静かな空間になった。
お客さんが残していった食器を回収して、厨房スペースの脇の棚に持っていくのはわたしの仕事だ。お店では「バッシング」と言っている。ネットとかで人を叩くバッシングじゃなくて、路線バスのバスの方と一緒で、物を運ぶ、みたいな意味になるらしい。
テーブルの上には、季美さんが飲み終えた後のグラスが残されていた。少しだけ飲み残しがあって、溶けた氷と溶けたアイスクリームで白く薄く濁っている。飲む前のクリームソーダの色が美しいだけに、濁った飲み残しは少し残念なものに見えた。でも、一回混ざってしまうと、もう元の色には戻らない。クリームソーダが美しかったころには戻らないし、わたしも、小学生くらいの、将来に不安とか何も感じていなかった時期には戻れない。
でも、季美さんは、巻き戻らない時間を巻き戻そうとして、お店に来ている。
わたしがそう確信したのは、『大網食堂』で大網さんとアキラさんが話していたことを聞いたからだ。今、『サンセット・オレンジロード』が建っている場所は、以前は別荘だったのだけれど、持ち主が出ていって別荘が売りに出されてからしばらくは空き家のまま放置されていたようだ。土地の目の前は海に続く崖になっていて、その頃から天然の展望台になっているのだけれど、大網さんや季美さんが高校生くらいだった一時期、カップルでその展望台に行き、並んで夕日を見るのがちょっと流行ったことがあったらしい。海辺町にはほぼないデートスポットになったというわけだ。大網さんも季美さんと夕日を見に行き、その時に告白して付き合い始めた、という思い出があるそうだ。
その後、不動産会社さんから中高生が私有地に立ち入らないようにしてほしい、というお願いが海高や周辺の小中学校に回って立ち入り禁止が徹底されて、その文化は数年で滅びることになった。その、かつての「恋人の聖地」にオープンしたのが、『サンセット・オレンジロード』というわけなのである。立ち入りが禁じられていた季美さんの思い出の場所にカフェができて、また立ち入ることができるようになったということだ。
時間が巻き戻らないということはわかっていても、もしあの頃に戻れたら、と考えてしまうのはきっと誰しもあることだ。季美さんの中にも、東京に行かずに海辺町に残って、大網さんと『大網食堂』を継いだらどうなっていただろう、みたいなことを考えてしまう気持ちはあるんじゃないかと思った。
アキラさんにわたしがそんな話をすると、アキラさんもまた、なんかそんな気もしますね、と言ってくれた。大網さんもきっと、完全には吹っ切れていないから、酔って泣いたりするんだろう。
わたしが、もう元の色には戻らない濁ったクリームソーダのなれの果てを食器の下げ口に戻し終わり、ようやく一息つくと、お客さんがいなくなったのを見計らって、もう店長がカウンターにグラスを置き、「サンセット・オレンジ」を作っていた。「サンセット・オレンジ」の不人気っぷりは相変わらずだけれど、店長はどうしても人気メニューに押し上げたいらしく、暇さえあれば使うコーヒーの豆やら、オレンジジュースとの比率やらを変えて、試行錯誤を繰り返している。わたしとしては、結局ぐるぐるかきまぜて濁らせてから飲まなきゃいけないという視覚的ハンデがある以上、なかなかクリームソーダには勝てないと思うのだけれど、店長はまったく諦める様子はない。どこからその情熱が来るんだろうか。
咲良さんが言われるがままエスプレッソを淹れて、店長にパスする。オレンジジュースと氷の詰まったグラスに店長が慎重にコーヒーを注ごうとするけれど、急に店長がくしゃみをして、コーヒーが一気に入ってしまった。勢いよく注がれたコーヒーは、オレンジの層と混ざり合って、境界線が濁る。ああ、これが前に店長が言っていた「乱流」か、と理解した。
「あーあ、失敗」
そう言うと、店長は新しいグラスを出してきて、また新しくオレンジコーヒーを作ろうとする。失敗したほうは、このまま廃棄されてしまいそうだ。なんかもったいなくなって、これ、捨てちゃうんですか? とわたしは店長に聞いた。
「失敗したからね。いっちゃんがよかったら飲んでいいよ」
「でも、これ、ほっといたらまた二層に分かれたりしないですか?」
「分かれないね。増大したエントロピーは不可逆だ」
「えんとろ、ぴー?」
「日本語では、乱雑さ、って言う。きれいに二層の状態を保っていた状態は乱雑じゃないから低エントロピーの状態。そこから、液体同士が混ざり合ってエントロピーが増大していくと、もうそれは元には戻らない」
「なんでですか?」
「熱力学第二法則に反するから」
「ねつりきがく……?」
「いっちゃんの言葉を借りると、神様がそう決めたから」
神様、と言われるとぐうの音も出ない。要するに、この世界とか宇宙にはルールみたいなものがあって、エントロピーとやらが大きくなって、きれいな状態から、ごちゃごちゃの乱雑な状態になったら、それが自然にきれいになることはない、というのがルールとしてある、という意味のようだ。
「でも、水と油は分離しますよね? だから、乳化剤がないと混ざらないですよね?」
「あれは水分子の結合力が油分子を弾きだしてるから、そもそも混ざってないってだけ。コーヒーもオレンジジュースも水分子同士だから、結合するともう戻らないね。だから、時間を巻き戻さない限りは元に戻ることは理論上ありえない」
「時間って、やっぱりどうやっても戻せないもんなんですかね。その、めちゃくちゃ科学が発達したりして、タイムマシンを作ったりするとか」
「タイムマシンってのはありえないね」
「そう、なんですか」
「エントロピーは減少しないってのが神様のルールだから。過去に戻るってことは、増大したエントロピーも減少することになるから、それはルール違反。神様のルールに違反することはつまり、不可能、ってこと」
時間は元には戻らない。それは当たり前だってわかっているけれど、よくよく考えると怖いことだな、と思う。未来なんて何にも見えないのに、わたしは日々、何かを選択しないといけなくて、それが間違っていても、失敗したな、と思っても元に戻せないってことだ。そんなの理不尽じゃない? と思ってしまう。
「エントロピーっていうのは、乱雑さ、ってことなんですよね?」
「そう。その通り」
「わたしの部屋が、だんだん散らかってぐちゃぐちゃになっていく、みたいなのも、エントロピーの増大ってやつなんですか?」
「そうだよ。ほっといたら部屋が元通りきれいになる、なんてありえないだろ?」
「それが、ごくたまにそういうことが起こるんです」
「起こる?」
「見かねた母が片づけてくれて、またきれいになるんですよ。わたしから見たら、自然に部屋が乱雑じゃなくなるってことですよね?」
店長は、少しだけきょとんとしたけれど、やがて笑い出して、いっちゃんはいい発想するよねえ、と言った。ほめられてるのか、馬鹿にされてるのかはよくわからない。
「熱力学第二法則ってのは、前提っていうか、条件がある」
「条件?」
「そう。閉鎖系であるっていうことね」
*
これ、うんまぁあ、と、思わず声が漏れる。
前回、アキラさんに連れてきてもらったときに食べたアジの味が忘れられず、でも、もっと他のものも食べてみたい、というわたしの欲望を詰め込んだ「大網定食」は、完璧にわたしに刺さる定食メニューだった。あのふわふわアジフライが一つと、びっくりするほどとろけたアジを含むお刺身三種類、岩ガキのカキフライが一つ、それに、サバの塩焼きがひとかけ、小鉢とサラダとハマグリのお味噌汁までつく。値段は高校生のランチとしては少々お高めだけれど、バイト代が出たので奮発してしまった。
アジフライは相変わらず感動的なふわふわで、口に入れた瞬間のサクサク衣のクリスピー感の後に来る軟らかい食感がたまらない。カキフライは一つと言っても、その大きさが普通のコロッケくらいあって、中には海の香りがいっぱいの牡蠣がむちむちに詰まっていた。ソースで食べてもおいしいし、自家製だというタルタルソースがこれもまた濃厚なのにしつこくなくておいしい。タイミング的に炊きたてに当たったっぽいお米のおいしさ、甘さもびっくりするほどで、どんなおかずでも包み込んでくれる包容力がすごい。これはでも、カロリー的にはやってしまったかもしれない、という少しの後悔を抱えながらも、お箸が止まらなくなった。もう、注文する前の時間には戻せないのである。わたしは美しく盛りつけられた定食をひたすら食べ散らかして乱雑にし、エントロピーを増大させていくことしかできない。神様のルールなんだから仕方がないのだ、と自分に言い訳をした。
お盆最終日でも『大網食堂』は混みあっていて、お客さんは観光客というよりは、地元の人が多いように見えた。小さなお店ではあるものの、大網さん一人で切り盛りしているので、結構忙しそうだ。わたしはカウンター席の端っこでとりあえず「大網定食」をいただいているのだけれど、今日は食事を楽しみに来たわけではない。目的は、大網さんに『サンセット・オレンジロード』に来てもらうことだ。
いろいろ考えたけれど、わたしはやっぱり、季美さんは大網さんを待っているんじゃないか、という気がしてならなかった。それは、虹島海岸で季美さんと話したこと、アキラさんから聞いたお店の前の展望台の話、クリームソーダを飲みながら外を見る季美さんの表情、というすべての要素を足して出た答えだった。数学ははっきり言って苦手だけれど、この式と答えは間違っていないんじゃないかと思った。
自分たちの選択で別れを選んだ以上、季美さんも大網さんも、なかなか自分から会おうとは言えないのかもしれない。一度離れてしまった道は元に戻らなくて、時間が巻き戻ることもない。二人が高校時代にタイムリープするというのもどうやらこの宇宙のルール上、不可能みたいだった。アニメやマンガのようなことは現実には起こらない。
きれいに整頓されていたものが乱雑になっていく、コーヒーとオレンジジュースが混ざり合う。そういったことが起きたら、もう元に戻ることはないのが宇宙のルールだということは店長の説明もあって一応理解した。店長は、ただそれはクローズドシステム、閉鎖系の中での話、とも言った。閉鎖系とはなんぞや、と思ったけれど、わたしの部屋を考えてみたらいい、と言われた。
わたしが生活していると、だんだん部屋は散らかって汚れていく。本棚の参考書を机の上に置いたり、埃が積もったり、脱いだパジャマがベッドの上に放り投げられたり。その部屋からわたしが出ていってドアを閉めた状態で、自然と参考書が本棚に戻っていったり、積もった埃が積もる前のように消えたり、パジャマが洗濯されてたたまれた状態になるなんてことは絶対にあり得ない。これが閉鎖系、ということだ。でも、外から母が入ってきて片づけたのであれば、参考書は本棚に戻り、埃は掃除され、パジャマも洗濯されてたたまれた状態で整えられたベッドの上に置かれてもおかしくない。部屋の外から、何か、誰かが干渉したら、それは神様のルール外で、上がったエントロピーを下げることもできることがある、ということみたいだ。
混ざってしまったオレンジジュースとコーヒー、ソーダとアイスクリームを分離して元通りにすることは難しい。でも、混ざってしまった液体を一旦捨てて、新しいものに作り替えたら。宇宙全体で見たら、オレンジジュースとコーヒーが混ざったら元に戻らない、というルールは変わらないけれど、そのグラスの中の世界だけでは、一度混ざったオレンジジュースとコーヒーが、再び元のように二層に戻っているってことになる。時間が元に戻らないのは変わらないけれど、オレンジジュースとコーヒーが混ざる前の状態に戻すことはできる。店長がグラスの外から新しいオレンジジュースを注ぐことができるなら。
それってもしかして、誰かが背中を押して季美さんと大網さんを近づけることができたら、その二人だけの空間は高校時代に戻るかもしれない、と、わたしは考えたわけだ。
わたしは、季美さんに笑ってほしい。なんか作ったような笑顔じゃなくって、虹島海岸で見せてもらった高校のときの画像みたいな、心から満面の笑みを浮かべて笑ってほしかった。同じ海辺町で生まれ育って、東京に出て努力してあんなにきれいになった人が、ずっと自分に自信が持てないまま寂しい顔をし続けなきゃいけないなんて、夢も希望もなさすぎる。わたしはたぶん、季美さんに自分を重ねてしまっていて、純粋に季美さんを思ってのことではないという自覚はある。勝手だし、余計なお世話かもしれない。かもしれないというか、百パーセント余計なお世話でしかないだろうけど、黙って何もしないでいて、寂しい顔をしたままの季美さんを見送るのも嫌だ。
ボリューミーな定食をぺろりと平らげてしまった後、お茶をちびちび飲みながら、大網さんに話しかけるタイミングを探した。忙しく動き回る大網さんを見て、話しかける暇なんかないかな、と諦めかけたとき、ちょうど注文の狭間が来たのか、大網さんがキッチンの中で、ふう、と息をつくのが見えた。今だ、と、わたしは伝票を持ってレジの前に行く。一息ついたばかりで申し訳ないけれど、大網さんが会計に出てきてくれた。ありがとうございます、と言いながら伝票を受け取った大網さんに、わたしは心臓をばくばくさせて、しどろもどろになりながら話しかけた。
「あの、わたし、この間、アキラさんと一緒に来て」
「ああ、はい、覚えてますよ。また来てくれてありがとう」
「突然なんですけど、お願いがあって」
「お願い?」
「今日って、お店は何時に終わりますか?」
「ええと、うちは営業時間は十五時までだけど」
「あの、今日、夕方五時くらいに『サンセット・オレンジロード』に来れたりしませんか?」
「へ?」
「あの、その」
季美さんがたぶんお店にいます、と伝えると、大網さんの表情がちょっと変わった。
「季美ちゃんが」
「お盆休みの間、毎日ウチのお店に来てるんです」
「毎日?」
「たぶん、季美さんは、大網さんが来るのを待ってる気がするんです。ウチのお店の目の前、お二人の思い出の場所なんですよね? あそこにいたら、もしかしたら再会できるかもって思ってるんじゃないかなって」
わたしは、周りに聞こえないくらいの声で、用意してきた言葉を全部まくしたてた。おそらく、季美さんが店に来るのは今日が最後だから、どうしても今日、この後に来てほしい。わたしが言うことじゃない。それはわかっている。でも、今日また季美さんがお店に来て、寂しそうにクリームソーダを飲んで、さようなら、と言って別れるのは、わたしは嫌だ。それだけ。『大網食堂』に来たのも、昨日一晩眠れない夜を過ごして、頭の中で何度も迷って、朝方になってようやく出した結論だった。
「いやでも、季美ちゃんはもう……」
「わたしの思い込みだし、余計なお世話だし、勝手なことを言ってるのはわかってるんです。わたしの言ってることが正しいかもわからないんで、もちろん、来るとか来ないとか、そういうのはその、自由っていうか、なんていうか」
でも、お願いします!
自分でも、ヤバ、と思うくらい大きい声が出て、背中に人の視線がざわわと集まってきたのを肌で感じた。慌ててお金を払い、わたしは外に飛び出した。あーもう、何やってんだろう。今日もギラギラの夏の太陽がわたしを見下ろして、何やってんだおまえは、と言っている。