海高体育祭はやや曇り気味のいまいちな天候のもとで行われた。前日は雨で、校庭にはちょっとだけ水たまりができている。ただ、午前中は各チームかなり熱戦になり、わたしたちは二位で前半戦を折り返した。
前半戦のハイライトは、なんと言っても成田先輩の女子徒競走だった。長い髪の毛をたなびかせながら、後続にぶっちぎりの差をつけて駆け抜けていく成田先輩は、控えめに言ってもカッコよかった。普段はおしとやかで凛としていて知的な優等生が、あんなに躍動感に満ち溢れたフォームで走るのか、と、少しうらやましくなった。今まで、別に速く走りたいと思ったことはなかったけれど、自分にもああいう輝きを放つ何かがあればよかったのに、という気持ちにはなる。種目の表彰台に立った成田先輩は、トラックを駆け抜けた白馬のような躍動感とは打って変わって、すらりとした足を揃えて背筋をピンと伸ばし、実行委員会の生徒から金メダルを受け取って、笑顔で写真に納まっていた。わたしなんかは日々、先生からダメ出しを受けることが多いけれど、今の成田先輩に何かダメ出しをできる先生はいないだろう。
でも。
成田先輩について、店長が言っていた「バリアンスが高い」というのは、裏を返すと「バイアスが低い」ということになるそうだ。「バイアス」はわたしでも聞いたことがある。「なんとなくこうだろう」みたいな思い込みのことで、バリアンスと言うのはそのバイアスを受け入れるかどうかってことみたいだ。バイアスが低くてバリアンスが高いということは、あいまいなことが許容できずに、過去に勉強してきたこと、学んできたことにものすごく依存してしまうということらしい。咲良さんに説明してもらった内容で、わたしもぼんやりと理解した。先輩は、その場その場であまりにも「正しく」なりすぎるのかもしれない。
学校では、間違いない優等生に。バイト先のカフェでは、そのお店のルールを完璧に理解して、そのカフェのアルバイトとしてはものすごく有能に。ただ、そうやって完璧になっていくと、わたしみたいにバイアス高めの適当な同級生とか、『サンセット・オレンジロード』みたいに、ルールもなにもあったものではなく、店長の思いつきでいろんなことが決まるような場所にはなかなかなじめない。あまりにも違い過ぎるルールや周囲の人間の突拍子もない行動にびっくりして、逆に何もできなくなってしまうかもしれない。それで、店長は成田先輩を選ばなかった。
成田先輩は、常に「よい自分」であろうとしているんじゃないかと思う。容姿はいいに越したことがない。成績もいい方がいいし、運動もできた方がいい。礼儀正しい方がよくて、健康的であった方がいい。でも、それを全部突き詰めていくと、人と距離が離れていく気がする。わたしが、ものすごいスピードで走っていく先輩を見ていた時も、すごいな、とか、かっこいいな、とは思ったけれど、成田先輩と勝負したい、とは思わない。勝てっこないもん、って思ってしまうから。
午後の最大のメイン競技は、わたしが出場する「女子二十人二十一脚」だ。せっかく二位につけているのだから、どうせなら一位を目指したいところだけれど、あいにく、わたしたちのチームはそこまでチームワークがいいわけでもなく、たぶん勝てないだろうな、という空気だった。
昼休憩が終わる直前、少し雨が降った。校庭はだいぶ水たまりが増えたけれど、もうここまで来たら、という感じで体育祭は続行になった。二十人二十一脚でもし転んだら、だいぶ泥だらけになりそうだ。
「お腹痛い?」
いよいよ二十人二十一脚の準備、という段階で、組リーダーの先輩が、ええ、と大きな声をあげた。その前でお腹を押さえていたのはシラコだ。どうやら腹痛を起こしたようで、トイレに行きたい、と呻いていた。さては、お昼をドカ食いしたな、と、また共感性羞恥が爆発して自分が恥ずかしい気分になる。先輩たちに、早くいきな、と言われてシラコはよたよたと校舎に小走りで戻っていった。いろいろ間に合えばいいなと思ったが、おそらく二十人二十一脚には間に合わない。
「誰か、白子さんの代わりに出てもらわないと」
困り顔のリーダーに、わたしは駆け寄って、はいはい、と手を挙げた。友達の失態はわたしが取り戻さなければならない。
「団体戦に出る人と入れ替わればいいですよね?」
「ああ、うん。そうだな」
わたしたちは、それぞれ個人戦一種目、団体戦一種目に出場する。わたしは午前中に障害物競走に出て惨敗し、プラス、午後の団体競技に出ることになっている。残りの団体競技は二十人二十一脚と大縄跳び競争だから、大縄に出る人とシラコを入れ替えればいい、ということになる。
「成田先輩なら」
成田先輩は、大縄の縄を回す役に回っていた。成田先輩とシラコを入れ替えれば、どちらも団体競技をこなせるし、シラコが団体戦に出られずに体育の評定を落とされることもないだろう。跳ぶのは怪しくても、縄を回すのならどっしりしたシラコは適任のようにも思う。
「いやあ、成田はこういうのはやらないだろ」
「頼んできます!」
もう他のチームはみんな脚を結び終わりそうで、わたしは控え場所の端っこに座っていた成田先輩のもとに駆け寄って、シラコがトイレに行って、という話をまくしたてた。お願いします! と言いながら、成田先輩の手を取って引っ張り、半ば強引に二十一脚の出発点まで連れていく。
「いすみちゃん、わたし、やったことないから――」
わたしは有無を言わさず先輩の足首を自分の足首に縛りつけ、大丈夫です、と何が大丈夫かよくわからないのにそう言った。
「先輩より足速い人、誰もいないので!」
もうはじめるぞー、という先生の声が聞こえる中、わたしと成田先輩を挟むように全員が連結して、一つのラインができあがった。成田先輩はまだ動揺した様子だが、わたしが、掛け声に合わせて走ってください、と、それは言われなくてもだいたいわかるであろうことを伝えた。
本番を前に緊張感が高まっているのに、競技プログラムはそんな気持ちを汲もうともせず、あっという間に始まる。もうスターターの先生がスタートラインで電子ピストルを構えていた。隣では、成田先輩が、「ちょっと待って!」と、急転直下のできごとに適応できずに動揺していた。
スピーカーから火薬のような、ぱん、という音が鳴って、レースが始まった。二十人ひとチームの四チームが校庭いっぱいに並ぶので、なかなか壮観だ。レースが始まると、まずは両サイドにいる三年生の先輩が「せーの!」と音頭を取り、イチ、ニ、の掛け声をかけて全員が走り出す、という手はずになっていた。が、そんな事情を何も知らされていない成田先輩はいきなり走ろうとしてしまって、最初から中央エリアの数人が転んだ。わたしも思いっきり転んだ。他のチームはのっしのっしと先に行く。成田先輩が焦った顔で、待って、待って、と繰り返していた。
「せーの、って掛け声がかかるので、みんなの掛け声に合わせて脚を出してください!」
なんとかわたしたちが立ち上がったのを見て、両サイドの先輩が、また「せーの!」の声をかける。イチ、ニ、の掛け声で足を出したけれど、わたしは「どっちの足から先に出すのか」を成田先輩に伝え忘れていた。数歩歩いた後、また成田先輩を中心に倒れ込んでしまい、わたしたちのチームだけ完全にビリになっていた。強引に連れてきておいて、説明不足のポンコツですみません、と申し訳なくなるが、今はそれどころじゃなかった。練習でもこんなにわたわたしたことがなくて、二十人全員の焦りが伝播して、わたしも気が気じゃなくなってくる。
「せーので、次のイチ、で、右足からです!」
転んで水たまりに突っ込み、泥まみれになった成田先輩は、今にも泣きそうな顔をしていた。もし両足が自由だったら、成田先輩はこのままごぼう抜きでゴールするだろう。なのに、両脇に十九人のお荷物を抱えて、自由を失っている。一人なら誰よりも脚が速いはずなのに、圧倒的な個の能力を持つ先輩でさえ、集団に入ると足を引っ張ることになってしまう。
また「せーの!」の掛け声が聞こえて、わたしはお腹に力を入れた。エマルションだ。並んだ二十人は水と油で、それをうまく乳化させないとひとつにならない。乳化させるためには、乳化剤のでんぷんが要る。その役を何とかやろうとしているのが両脇の三年生の先輩だった。
「イチ! ニ!」
自分でもびっくりするくらい、わたしは大きな声を出した。乳化剤役が増えないといけない、と思ったからだ。その声量に驚いた成田先輩が目を丸くしてわたしを見る。わたしは、成田先輩を水の中に混ぜ込むべく、「イチ、ニ」と声を出すしかできなかった。
最初は、ゆるゆるとしていたテンポが、しだいに勢いに乗ってきた。成田先輩も元々運動神経がいいから、リズムを取ることに慣れてきたらしい。必死にわたしの声を聞きながら、右、左、と足を出す。それでも、足の速い成田先輩とわたしのテンポ感が違い過ぎる。足に、ぐん、と抵抗を感じて、何度も転びそうになった。「イチ、ニ!」と、成田先輩に向かって声を張り上げていると、成田先輩もまた、「イチ、ニ!」と声を出すようになってきた。
わたしたちが最後尾からようやく追い上げを始めた頃、前を走っていたチームが次々に転んでいるのが見えた。最初はそろっていても、中盤から後半になると、だんだん足の速い遅いとか歩幅とか体力のあるなしとか、そういうのが影響してきてバラバラになり、転ぶことが多い。だいたい、後半はグダグダの泥仕合になるのだけれど、わたしたちのチームはそうはならなかった。
わたしと、成田先輩の「イチ、ニ」が揃い出すと、わたしたちの横にもそのリズムがだんだん伝わっていく。成田先輩の声は高くて澄んでいるからよく通る。それが伝播していって、全員が声を張り上げてその声に合わせにいった。いつもと違うところは、だんだん成田先輩の「イチ、ニ」のリズムが速くなって、練習でもそんなスピードになったことがない、という速さに引っ張り上げられていったことだ。
バラバラに動いていたたくさんのメトロノームが、だんだんそろって全部同じリズムで動くようになる、という理科の実験みたいに、わたしたちの足の動きが成田先輩とシンクロする。急激に加速しだしたわたしたちは、グダグダになり始めた他の三チームを後ろからぐんぐん抜き去った。わたしの心臓と肺が限界を超えて、もう死んじゃう、と思った頃、わたしたちはゴールテープを切って、そのまま雪崩れこむように全員で前に倒れ、水たまりに突っ込んだ。わたしも顔面から思いっきり水をかぶることになった。
おしゃれだなんだとうるさい女子高生二十人が、見事なまでに泥だらけになって、全員ぐしゃぐしゃだ。でも、無理だと思っていた一位を取って、みんな慌てて脚の連結をほどき、きゃあきゃあと歓声をあげながら隣のチームメイトと抱き合った。わたしも立ち上がった成田先輩に抱きつき、顔を真っ赤にした成田先輩も、ハグし返してくれた。そこに周りのみんなも集まってきて大きな団子のようになる。わたしと成田先輩は真ん中になってしまって、泥だらけのまま、もみくちゃになった。
成田先輩は、いつもつやつやのはずの髪の毛が乱れて、いつも涼やかなはずの顔が泥だらけで、それでも、なんだか楽しそうに笑っていた。わたしもそれがめちゃくちゃ嬉しくて、ちょっと泣きながら一緒に笑った。
*
どういう状況? と思いながら、わたしは『サンセット・オレンジロード』のカウンターに座って、料理をしている店長とアキラさんの背中を見ている。わたしの右隣りには、なぜか成田先輩とシラコが並んで座っている。
海高体育祭も無事終わって、わたしたちのチームは結局三位に終わった。女子二十人二十一脚で一位を獲って一旦はトップに立ったものの、その後の競技では振るわず、特に急遽成田先輩の代わりにシラコを入れた大縄競争は大惨敗に終わり、全体三位に沈むことになった。まあ、仕方ないことではあるけれど、一時はトップに立ったので、なんか悔しくはある。
その悔しさをきれいに成仏させてしまおうと、今日は、わたしのバイト終わりにシラコと体育祭の打ち上げに行こう、と話していた。それが、シラコがカフェの入口の道端で待っていると、偶然成田先輩が通りかかり、シラコが打ち上げに誘ったらしい。そこにさらに、所用のためにちょっと車で外に出ていた咲良さんが帰ってきて、二人がわたしを待っていると聞き、じゃあうちのお店で打ち上げやったらいいよ、と、招き入れてくれて、今に至る、という感じだ。わたしは当初、駅前のファミレスでドリンクバーで粘りながら、お昼の食べ過ぎでチームを惨敗に導いたシラコをイジり倒そうと思っていたのだけれど、そこから急転直下、思いのほか緊張感のある状態になっている。
店長が飲み物と食事をおごってくれると言うと、遠慮という価値観が存在しないシラコは好物のナポリタンを頼み、わたしはレモンクリームパスタというまだ食べたことのないメニューを注文した。成田先輩はもちろん、大葉のペペロンチーノだ。
「全部使うパスタが違うんですね」
食い入るように厨房内をのぞき込んでいた成田先輩が、ぽつりとそうつぶやいた。わたしは全然そんなところに気が回っていなかったけれど、言われてみると確かにそうだ。わたしと成田先輩の分のパスタは違う種類のものを使っていて、シラコのナポリタンは店長がバックヤードから保存容器に入った半茹でのパスタを持ってきていた。
「これは表面ざらざらのやつとつるつるのやつね」
アキラさんが、わたしと成田先輩のパスタの乾麺を一本ずつ持ってきてくれた。わたしのは表面がざらざら、成田先輩のパスタはつるつるだ。パスタの生地を麺の形に絞り出すとき、その形を作る金型が青銅だと表面が摩擦でざらざらに、テフロン加工されたものだと摩擦があまりないのでつるつるになるのだそうだ。
アキラさんが銀色のアルミのフライパンでペペロンチーノのマンテカナントカをしている横で、店長が黒い鉄のフライパンでケチャップをぶっかけたパスタを炒めている。パスタは昨日半茹でにしたものだそうで、オイルを絡めて冷蔵庫で一晩寝かせたものだ。アルデンテじゃないのは学食のくたくたナポリタンだけかと思っていたけれど、ナポリタンに使うパスタは茹でた後にしばらく置いて、芯まで水分が入った方が食感がモチモチしてケチャップの味が入りやすいのだとかなんとか。同じパスタなのに、性質も作り方もおいしさの理屈も全部違う。パスタと聞くと、機械的にアルデンテがいいものだと思っていたけれど、そういうわけではないらしい。
出てきたパスタは、どれもおいしそうだ。一口ずつ交換して、これもおいしい、それもおいしいと三人で真剣に議論する。成田先輩のペペロンチーノは大葉が鮮烈でニンニクの香りもいいし、シラコのナポリタンは学食の物より数段モチモチして食べ応えがあった。わたしのレモンクリームパスタも、表面ざらざらのパスタにソースがからんで、クリームのまろやかさとレモンのさわやかな初夏みたいな酸味がして、レモン合う! と驚いた。厨房からは、咲良さんが淹れるエスプレッソの香りが漂ってきていて、おいしいものが食べられる人生っていいな、としみじみ思う。
その間、成田先輩はアキラさんとペペロンチーノの作り方の話を熱心にしていた。その姿を見て、また香取先輩の顔がむくむくと頭の中に浮かぶ。成田先輩、そんなに学習しないで、そんなに完璧になんなくていいんですよ。
「成田先輩、おいしいペペロンが作れそうですかぁ?」
シラコがなんだかわざとらしく成田先輩に話を振る。成田先輩は、少し恥ずかしそうに、作れるといいな、などと笑っているが、わたしだけはその横で、心臓痛い、と思いながら、動揺を隠すように、レモンクリームパスタを頬張る。
「喜んでもらえるといいですよねえー」
「だといいんだけど」
「そりゃ、絶対喜びますって。娘が父の日に大好物を作ってくれたら」
父の日っ? と、口の中にまだパスタが入っているのに、すこんと抜けたような声が出た。父の日? 娘? じゃあ、成田先輩がパスタを作ってあげたい相手っていうのは? ずっとお腹の中に重く溜まっていたものがすぽんと抜けて、安心なのかなんなのか、うはあ、とレモンのにおいがするため息が出た。そんなわたしの様子を見ながら、シラコがへらへら笑う。あとで頬っぺたをつねり上げてやろうか、と殺意が湧いた。成田先輩は眉下ぱっつんの前髪の下からわたしを覗き込むように見て、ふっと微笑んだ。その微笑みは、なんとなくいつもの優等生な成田先輩とは違う、小悪魔っぽい表情に見える。
「いすみちゃん」
「は、はい?」
「あのー、わたしね、別に香取くんと付き合ってないから」
あまりの衝撃に、わたしの大脳がマンテカナントカされてくっちゃくちゃになる。ぎゃん、と勢いをつけてシラコに視線を向けると、シラコはナポリタンを口からはみ出させながら肩をふるわせ、むせかえるほど笑っていた。前言撤回、予定変更。わたしは今すぐに、あのぷにぷにの両ほっぺたを、力いっぱいつねり上げなければならない。