サイフォンのぽこぽこという音とともにコーヒーのいい香りが漂う中、接客待ちのわたしは洗い上がったお水用のガラスコップを拭き上げつつ、コンロに向かうアキラさんの手元をガン見している。アキラさんが作っているのは、あの「大葉のペペロンチーノ」だ。ペペロンチーノの材料や作り方は本当にシンプルで、フライパンにオリーブオイルを注ぎ、刻んだニンニクや唐辛子を入れてゆっくり火を通し、それで準備完了。あとは、深めの鍋の中でポコポコと茹でられているパスタがいい頃合いになったら、みじん切りの大葉を加えて、香りを移したオリーブオイルと絡めて終わり。
成田先輩が絶賛するウチのお店のペペロンチーノだけれど、作っているところを見ると、特別な材料も使っていないし、特別なやり方もしていないように見える。でも、確かに、わたしが食べたときも、家で母が出してくれたものより、味がはっきりしておいしかったな、という気がする。いったいどこに秘密があるのか、と、覗き込むように見ていると、急に、後ろから「ねえ」という声とともに、わき腹をつつかれた。えうう、という普段あまり発音しない音が口から飛び出して、自分でも驚く。振り返ると、咲良さんが怪訝な顔でわたしを見ていた。
「は、はい、なんでしょう」
「なんでしょう、って、全然返事しないから」
「え、わたし呼ばれてましたか」
「うん。三回くらい」
「す、すみません」
「いやいいんだけど、なんかずいぶん険しい顔してたから」
「え、わたし険しい顔してましたか」
まだしてるよ、と、咲良さんが笑いながらわたしの眉間を親指でほぐす。そんな顔してたかな、と、無理やり表情筋を動かして、最終的になんとか笑顔に着地させる。
「何見てたの?」
「いや、特に何かを見ていたわけでは」
「ペペロンチーノ」
サイフォンでコーヒーを淹れていた店長が、ひとことぼそっとつぶやく。ずっとコーヒーを見ていたと思ったのに、いつわたしの様子を見たのだろう。調理していたアキラさんがわたしをちらりと見て、なに? と言うように首を傾げた。
「アキラくんがカッコイイ、って思って見てたとか?」
「あー、いやー、その」
咲良さんがリアクションの取りづらいことを言ってくる。
「いっちゃんは一個もアキラなんか見てなかったよ。ずっとフライパン見てた。だから気になってるのはペペロンチーノ」
店長が断定的にそう言って、カウンターのお客さんにコーヒーを持っていく。ホットコーヒーは、サイフォンのフラスコとカップを持っていって、お客さんの前でコーヒーを注ぐ。本来はわたしの仕事だけれど、店長は余裕があるときは全部一人でやってしまう。
「なあに、お腹空いたの?」
「まだ大丈夫です」
「なんか気になるもの入ってた?」
「ええと」
咲良さんがぐいぐい詰めてくるので、わたしは観念して、実はかくかくしかじかで、と、成田先輩がペペロンチーノを絶賛していた、という話をすることになった。
「ああ、あの子。一回、うちの面接にきたのよね」
「聞きました。その、ペペロンチーノがおいしくて、働いたら作れるようになるかも、って思ったみたいで」
咲良さんが、ええ? ほんとに? と聞き返しながら笑った。
「あの子、そんなにかわいい子だったんだ」
「かわいい? うん、そうですね」
「そういうかわいいこと言っちゃう感じに見えなかったけど、彼に作ってあげたりするのかな」
わたしが決して触れまいと思っていたところに、咲良さんが最短距離で足を突っ込んでくる。
「アキラくん、教えてあげれば? おいしくなる秘密だって」
「秘密――、とか別にないすけどね」
「いすみちゃん、その子、どういうところを気に入ってくれたんだって?」
「あー、自分で作ったのはまとまりがなくて、物足りない、って言ってました。でも、ここのははっきりおいしい、って」
「エマルションだな」
近くに戻ってきた店長が、さらっとそう言ってアキラさんの腰のあたりをポンポン叩き、おいしいってさ、と真顔で言った。褒めたのかイジったのかがわかりにくい。ただ、まるで投げ捨てるように置いていった「エマルション」という言葉を説明しようという気はないらしい。店長に聞いても、どうせわたしのようなアホには詳しく説明してくれる気がなさそうなので、わたしは小声で、アキラさんに「エマルション」ってなんですか? と声をかけた。
「専門的にわかってるわけじゃないけど、乳化すね」
「にゅうか?」
「水と油を混ぜるってこと」
「え、そんなことできるんですか?」
「乳化、って言うくらいだから牛乳がそう。水分と乳脂肪が混ざって分離してない」
「その、乳化ってのがパスタでも起こるんですか?」
「そうそう。オリーブオイルと、パスタの茹で汁が乳化して、ソースになる」
はえー、と、話の半分も理解できていないわたしを見て、アキラさんが少し憐れむような目をした気がした。アキラさんは、まあ、見てて、と、銀色のフライパンに火を入れて、ニンニクと唐辛子入りのオイルを沸かした。再びニンニクがしゅわしゅわ言い出したタイミングで、パスタを茹でている鍋からお湯をフライパンにざっと移し、オイルと混ぜるようにぐるぐるかき混ぜた。だが、なんとなくオリーブオイルの色は白っぽくなるものの、混ざっているようには見えない。
「これがエマルションですか?」
「ここから」
アキラさんは鍋からパスタを引き上げると、フライパンに豪快に放り込んだ。そのまま、少し汁を馴染ませて、ふつふつと沸かす。ピンセットのようなトングでつんつん触って様子を見ていると、やがて、そろそろかな、と、激しく鍋を振り出した。
「じゃ、マンテカトゥーラするから」
「ま、まんてか?」
アキラさんが、フライパンに刻んだ大葉をふぁさっと振ると、まるでチャーハンでも作るかのようにフライパンをがしがし振って、パスタを躍らせる。ぐるぐる混ぜたり、煽ったり。しばらくそれを繰り返していると、ほら、と、フライパンを傾けて、パスタをトングで持ち上げた。さっきまでしゃばしゃばだったオリーブオイルと茹で汁の混ざった液が、いつのまにか、とろっとして、フライパンを傾けてもすぐ下に溜まらないくらいになっていた。
「こうやってオイルを乳化させると、まあ、パスタとよく絡むようになるから」
「あ、それで、味がはっきりするっていう」
「だと思うよ」
「えっ、これ、ほぼ魔法じゃないですか」
「魔法ではないな。わりと基本」
料理に関しては経験もなにもないわたしは、そうなんだ、と感心するしかない。
「かき混ぜると乳化するんですか?」
「パスタの茹で汁を入れて」
「なんで茹で汁なんですかね?」
「ただそうなるって知ってるだけで、理屈はわかんないかな。店長、どうすか」
「アミロースとアミロペクチンが水相の粘性を上げて界面張力が低下するから、撹拌の剪断力でドロップレットのキネティックなコアレッセンスを抑制する」
ひぃ、と、わたしは短い悲鳴をあげそうになった。謎の呪文がよどみなくすらすら出てくる店長が怖い。理屈で理解することはやめて、茹で汁を加えて、マンテカナントカをするとおいしくなる、という程度にメモリすることにした。
「こんな魔法があったとは」
「まあ、非乳化のペペロンチーノでもおいしいすよ。オリーブオイルの香りがいいし。でも、味がまとまんない、って言うなら、乳化させた方がその子の好みかも」
「咲良さん、この話、成田先輩に教えたらダメですか?」
もし、これで成田先輩がおいしいペペロンチーノをマスターしてしまい、それを食べさせたいという相手が香取先輩であって、成田先輩のペペロンチーノが香取先輩に刺さりまくってしまったら、それこそ二人がエマルションしてしまうのではないか、などと無粋なことは考えたけれど、それでも、わたしはこの間、成田先輩に粗相した分を、なんらかの形で償わなければいけない。
「秘密でも何でもないから全然かまわないけど、あの子と話す機会あるんだ? 学年違うんでしょ?」
「もうすぐ体育祭なんですけど、同じチームで。うちの学校、チームが学年縦割りになるんですよね」
「なるほどね。いすみちゃんはなんの競技に出るの? リレーとか?」
「わたしは足遅いので、二十人二十一脚という、一番その他大勢でやる競技に」
わたしがそう言うと、店長が横から、「いいじゃん面白い」と、なぜか食いついてきた。もしかしたら、店長は二十人がものすごい速さで走っていくようなレースを想像したのかもしれないけれど、体育祭までの練習期間だけでそんなにクオリティが高くなるわけもなく、全チームが、走っては転びを繰り返すお笑いレースになる予感しかしない。
「わりとグダグダになりやすいと思うんですけどね」
「外部刺激を反復提示して位相同期を起こせばいいだけだよ」
わたしが、また、ひぃ、と小さい悲鳴をあげながら咲良さんに「助けて」という視線を送ると、咲良さんはツボに入ったのか、くっく、と肩を震わせて笑っていた。笑い事ではない。
「要は、いすみちゃんが、大きな声で、イチ、ニ、って掛け声をかければいいよ、って店長は言ってる」
どこをどう解釈したらそうなるの、と思いながら、わたしはまた、店長の言葉の意味を理解するのをあきらめた。
*
「シラコ、知ってる?」
「なに」
「おいしいパスタの秘訣は、エマルションだよ。乳化。パスタの茹で汁で油を乳化させるんだよ。知ってた?」
学食でわたしがそう言うと、シラコは食事の手を止めて、わたしにゆっくり視線を向けながら、ソース? と言った。わたしが、うんうん、とうなずくと、やや深めのため息をついた。
「あんたね、これ、ナポリタンだから」
今日は学食の「日替わりパスタ」はナポリタンで、わたしもシラコも一緒のテーブルでナポリタンを食べていた。シラコはさらにミニカレーもつけている。せっかく最近覚えたばかりの言葉を使ってみたかったのだけれど、シラコの言う通り、ナポリタンに乳化されるべきソースはない。日本で生まれた料理で、イタリアのナポリにナポリタンはない、という雑学はよく聞くけれど、確かになんだか毛色が違う。まず、パスタの食感が違う気がする。プリッとしていて、真ん中に一本芯が通ったお店のパスタと違って、ナポリタンはアルデンテという概念の外にあるかのような、もちもち食感の芯のない感じがする。それはそれでおいしいのだけれど。
アルデンテに茹でられた、ぷりぷりで芯の通ったパスタが成田先輩なら、わたしはこのナポリタンに近いのかもしれない。芯がなくなるまでくたくたに茹でられて、わかりやすく甘じょっぱいケチャップをぶっかけて炒めたもの。おしゃれ感と素朴感。香取先輩はどっちが好きか――、などと変な妄想にふけっていると、視界に成田先輩の姿が入った。
成田先輩はランチの載ったトレイを持ったまま、席を探して辺りを見回していた。昼休みが始まって十五分が過ぎていて、学食はほぼ満席だ。席がないのか、成田先輩は一人で立ち尽くしたまま、なかなか動かない。いつもの、「凛」と音が鳴りそうな雰囲気はそのままなのに、騒がしい学食の空気にはなじんでいない。体育祭の練習の時も、成田先輩はほとんど参加しないで、校庭や体育館の隅っこにいる。先輩が出るのは女子徒競走だから、もくもくと準備運動をして、校庭で何本かトラックを走って、それで練習は終わりだ。組のリーダーの先輩が言っていた通り、一つに結んだ黒髪をなびかせて走る成田先輩は、女子としてはぶっちぎりで足が速い。たぶん、徒競走は成田先輩が一位になるのは見えているし、陸上部でさんざん練習してきていることを、わざわざ体育の時間にやることもないのだろう。
成田先輩、もしかして、友達が――。
そんな言葉が頭をよぎって、またもやっとした気持ちになった。そのもやっとがお腹の中に溜まって、ナポリタンを飲み込みづらくさせる。わたしはオレンジ色の芯なしパスタを巻いていたフォークをお皿に置き、立ち上がった。そのまま、成田先輩の視線上に躍り出ると、わかりやすく手を振って、成田せんぱーい、と声をかけた。
「あ、いすみちゃん」
「わたしとシラコのテーブル、席空いてますよ。一緒にお昼食べませんか?」
「いいの?」
「もちろん」
「ありがとう」
成田先輩は、あまり表情を変えないまま、素直にわたしたちのテーブルに来て、トレイを置いた。ランチの内容はお魚の塩焼き定食で、それとは別にサラダをつけていた。なんというか、成田先輩とはこういう人だな、と思った通りで、日替わりで安いナポリタンを食べて口にケチャップつけることもないんだろうし、ナポリタンを大盛にしてあまつさえミニカレーをつける、なんてこともしないんだろう。でも、その隙のなさが、そのまま近寄りがたさになっている。嫌いと言うわけでもないし、仲良くしてほしいと思うこともあるけれど、わたしは成田先輩にとって邪魔なんじゃないか? などと思ってしまいそうになる。
そう思っているだけに、せっかく席に招いたのに、話題が見つからない。成田先輩は静かに「いただきます」と手を合わせて、スズメが食べるくらいの量のご飯を口に入れた。きれいな所作で焼き魚の背を開き、驚くほどきれいに身を剥がしていた。あー、もう、と思いながら、わたしは自分の中に唯一ストックしてあった話の種を、さっそく使うしかない。
「成田先輩、あの、ペペロンチーノの秘密、わかったんですよ」
「秘密?」
「エマルションです」
成田先輩が、乳化? と首を傾げた。うわ知ってんのか、と、わたしは慌てる。エマルションってなに? って聞かれる想定しかしていなかった。パスタの茹で汁のでんぷんが水分をドロッとさせて、その水と油を勢いつけて混ぜると油が細かくなって、それが戻らなくなって、それから――。
「そっか。私、ペペロンチーノってオイルパスタだと思ってたから」
「なんかたぶん、それはそれで、みたいな感じみたいですよ。アキラさん――、あの、調理担当の、が、言ってたんですけど、乳化させてもいいし、させなくてもおいしいけど、うちのは乳化させてあるって」
「乳化かあ。ちょっとやってみようかな。ぐるぐる混ぜる感じだよね」
「そうです、マンテカナントカ」
マンテカトゥーラだろ、と、シラコが横からツッコんでくる。さすが、飯ガチ勢は食に関することには詳しい。
*
カウンターにシフォンケーキの載ったお皿と、最近よく出るようになったアイスのカフェラテが並んだ。スイーツは基本的に咲良さんが手作りしていて、わたしはシフトがかぶらないので直接面識はないけれど、野田さん、というアルバイトの主婦の人が来て手伝っているそうだ。この咲良さんのデザートが「罪」と言いたくなるほどおいしそうで、お客さんに運んでいくのが苦痛だ。
ふわっふわのシフォンケーキからは紅茶のいいにおいがして、ぽてっとしたクリームがその上に惜しげもなくかけられている。少しだけクラッシュしたピスタチオが散らされていて、ミントみたいな見た目の、わたしの知らないハーブがてっぺんにちょこんと飾られていた。運んでいくたび、これを持ったまま逃走して、人知れぬ場所でばくばく食い尽くしたい、という欲求にかられるけれど、さすがにそんなことはできない。咲良さんのシフォンケーキは人気で、いつもわたしのシフトが終わるころには売り切れてしまうから、帰りに買って帰ることもできないでいる。最後のひと切れに注文が入るたび、また今日もダメだった、と絶望するばかりだ。
コーヒーは、サイフォンで淹れるブレンドは店長の担当だけれど、マシンを使ったエスプレッソは咲良さんが担当している。咲良さん曰く、サイフォンみたいな面倒くさいのは性に合わなくて、短時間ですぐ出てくるエスプレッソの方が性に合うのだそうだ。咲良さんは見た目はふわっとした感じなのに、意外とせっかちなところがあるのかもしれない。
わたしは、手のひらの上に載せたトレンチに、シフォンケーキのお皿とカトラリー、カフェラテ、ストロー、紙ナプキン、ガムシロップなんかを次々と載せていく。グラスは手前に、お皿を左斜め奥。自分がお客さんの前に置く順番を考えながら配置を決めないとあとで困る。最初にコースターとストロー、カトラリーを置いて、次にカフェラテ。ケーキのお皿は最後だ。そのイメージをしながら、トレンチの下の手で重心を感じる。手を広げて五本の指で支えているけれど、一番仕事をしているのは三本の指だ。親指、中指、小指、とか。親指、人差し指、薬指、とか。そのメインの支えになる指で三角形を作って支えると、トレンチが安定する。残り二本の指は、傾いちゃったりしたときに補助で重心を支えたり直したりする。
腕で支えようとすると肩に力が入ってふらふらして、それを支えようとする腕がプルプルするので、肘をきゅっと固定して手のひらまで一直線になるようにする。トレンチと地面が平行になるように持って、トレンチをそのまま滑らせるようなイメージで歩き出すと、まるで手に吸いついているかのように安定して、ふらふらもゆらゆらもせず、手元を見ながらおっかなびっくり歩かなくてもよくなる。
お客さんのテーブルに着いたら、お客さんの正面からではなく、横に回ってトレンチをテーブルの高さにして、グラスやお皿を水平に動かすように腕を動かす。その方が無駄な力がかからないから、手に力が入りすぎず、カタカタしない。アイスカフェラテのような背の高い飲み物は倒れるのが怖いので緊張するけれど、今日はうまく運べたと思う。お客さんの前に全て並べ終えて、ごゆっくりどうぞ、と決め台詞をキメると、お客さんが、ありがとう、と言ってくれた。
わたしが外の見えるテーブル席のお客さんにシフォンケーキを届けるのと同時に、テラス席のお客さんが席を立っていった。後に残ったお皿をついでに片づける。持ってきたトレンチにお皿やカップを重ねてまた持っていこうとすると、テラスの砂を掃いていた店長が近づいてきて、いっちゃん、と声をかけてきた。
「最近、うまくなったね」
「うまく?」
「配膳」
店長がわたしのトレンチを指さして、ニコッと笑った。ほんとに、何気ない仕事を全部見られているのだな、と、ちょっと怖くなる。
「少しだけコツを覚えたんですよね」
「コツ?」
「指で三角形を作る、っていう」
「いいね、こいつと同じ、ユークリッド幾何学の平面の決定だ。面白いね。三点支持は安定するから」
店長が、テラスに設置している円テーブルの十字型の脚を、自分の足で軽く小突きながらそう言った。もちろん、わたしには何を言っているか意味が皆目わからない。ただ、「三点支持」という言葉は知っていた。教えてくれたのは、成田先輩だ。
成田先輩の姿は、あれからも何度も校内で見かける。その時、いつも先輩は一人だ。成田先輩は孤高の人に見える。周囲に溶け込まず、ただ一人、自分の美学とか佇まいを守り続けているような。近づきがたい、という気持ちはすごくわかる。わたしもなんとなくそう思うからだ。でもわたしは、自分が食べさせたい誰かのために、おいしいペペロンチーノの謎を知るべく、それまでずっと働いてきたバイト先をやめて、『サンセット・オレンジロード』で働こうとしていたかわいい成田先輩のことを知ってしまった。成田先輩は、わたしがコーヒーカップをカタカタ鳴らすのが恥ずかしい、という話を聞いて、放課後にわざわざ時間を取って、手取り足取り配膳の基本を教えてくれたのだ。その中で出てきたのが、「三点支持」という言葉だった。わたしがそれまでやっていたように、トレンチを手のひらでべたっと持つと、グラグラ揺れやすくなる。でも、五本指で支えて、特に三本の指で三角形を意識すると安定する、と教えてもらうと、本当にできるようになったのだ。
バイトに入ってから一ヵ月経ってもなおコーヒーカップをカタカタ言わせていたわたしは、自分にはもしやこういう才能がないのかもしれない、と思っていたから、揺らさず持てるようになった時は嬉しかった。学食で、自分と成田先輩とシラコの三人分のランチを載せたトレイを片手で持てるようになると、成田先輩はなんの嘘もない笑顔で、自分のことのように喜んでくれた。自分が働きたかったバイト先に滑り込んだ出来の悪い後輩に、こんなに親切にいろいろ教えてくれるなんて、なかなかできないんじゃないかと思う。その優しさやかわいさを知ってしまったからこそ、今までのようには成田先輩を見ることができなくなった。
パスタの話から、わたしもちょっとは「エマルション」について勉強してみた。水と油が混ざらないのは水と油が仲が悪いから、なんて昔教わったような記憶があるようなないようなだけれど、実際はそうじゃなかった。水と油を一生懸命混ぜたとき、油は水に混ざろうとする。でも、水同士ががっちり手を繋いでしまうので、油はどんどん水の中から押し出されて、結局軽いから浮いてしまう。だから、混ざろうとしている油を追い出しているのが水だ。
成田先輩も、水に混ざらない油みたいな人なのかもしれないな、と思っていた。でもそれは、油が水に混ざろうとしないんじゃなくて、水が油を孤立させて、浮き上がらせているのかもしれない。みんなが手を繋いで混ざり合えばおいしいソースができるのに、なぜか混ざれない人と、そういう人を孤立させる横の繋がりがある。学校じゃなくても、社会ってそうなんじゃないかって思う。
その水と油を繋げて混ぜ合わせるのが、「乳化剤」だ。パスタで言うと、それはパスタに含まれる小麦のでんぷんであるみたいだ。乳化剤は、油にも水にもくっつく。アキラさんがオリーブオイルにパスタの茹で汁を注いで、さらにパスタを少し早めに上げてフライパンに放りこんだのは、でんぷんを溶け出させるためらしい。その状態でアキラさんが、マンテカナントカをすると、油だけで固まっていたのが小さくバラバラになって、そのバラバラのところに乳化剤がくっつく。油は乳化剤に囲まれてめちゃくちゃ小さな玉みたいになるわけだけれど、乳化剤は水ともくっつくから、乳化剤が水と油の間に入って、両方とくっつく。それが水と油が混ざる、乳化だ。
成田先輩にも、そういう乳化剤みたいな人がいたらいいんだろう。あんなになんでもできて優しくてかわいらしい、高校生の鑑のような先輩が、学校という水の中に溶け込めずに浮いている姿は、なんだかもったいないというか、あんな人でも浮いちゃうの? という恐怖すら感じてしまう。
店長と一緒に厨房スペースに戻りながら、少し考える。「エマルション」という言葉を覚えて、ちょっとどういうことかを調べているうちに、わたしがずっと抱えてきたもやもやの正体がようやくわかってきた気がする。成田先輩が『サンセット・オレンジロード』という水の中に混ざろうとした時、それを弾きだしてしまったのはわたしなのかも、みたいな感覚がずっとあったからだ。誰かを押しのけて、自分だけが水に溶け込んでしまったような。最初は、気まずい、くらいの感覚だったけれど、成田先輩のことを知っていくと、本当に申し訳ないことをしてしまった気がしてきて、それがもやもやになって残っているのだ。
わたしがバッシングした食器を洗い場に持っていくと、咲良さんにも、上手になったねー、と褒められた。嬉しいはずなのに、嬉しくなることが辛い。わたしは、あの、と、店長と咲良さんに向き直った。
「わたし、教わったんです。配膳のやりかた」
「教わった?」
「その、学校の、成田先輩に」
「ああ、うちの面接にきた子?」
店長の方針で、『サンセット・オレンジロード』には、お仕事マニュアルみたいなものが本当に何もない。一応、担当が決まっていて、やることは最低限教えてもらうけれど、あとは自由にしていいよ、と言われている。配膳の仕方も、お客さんに持っていって、とは言われているけれど、どうやって持っていくのかとか、何を使って持っていくのかとか、そう言うものは一切指示されず、全部自己流でやることになっている。お客さんが来た時に、いらっしゃいませ、と言ってもいいし、言わなくてもいい。なんか言わなきゃいけない気がして言うのだけれど。
なんでマニュアルがなくて、自己流でやっても何も言われないのか、店長の考えはよくわからない。普通のバイト先だと怒られそうな気がするのに。でも、なんとなく自己解決をしなさい、自分で覚えなさい、ってことを言いたいんだろう。わたしは自分一人ではうまくできなくて、成田先輩を頼ることになった。人に頼ってようやく、という人間より、そんな人間に教えられるくらいのスキルを持った成田先輩の方がここに居るべきだったんじゃないか。
「なんでわたしが採用されたんですかね」
お腹の中に溜まっていたもやもやが、自分でも意図せず口を突いて出てしまった。店長と咲良さんの視線がその言葉できゅっとわたしに集まって、なんでこんなことを言ってしまったのかと自分でも驚いた。
「いやそのお、わたしみたいな未経験より、経験者のほうがよかったんじゃないかなあ、なんて思ってしまって」
「だって。店長、どうだったの?」
「あの子、ちょっと過学習気味だったからさ。ウチの環境にデプロイするわけにもいかないでしょ。クラッシュしちゃうよ。かわいそうじゃない?」
「まあ、そうかもしれないけど」
「いっちゃんは最高にロバストだったから」
店長と咲良さんの間でかわされる会話が、わたしには一個もわからない。店長はともかく、咲良さんもこの会話に普通についていっているのがおそろしい。世界はわたしが知らないうちに未来に行ってしまったかのようだ。
「アルくんさ、どうだったら彼女を雇用したの?」
「まあ、ドメインシフトするなら、最低限、汎化させないと」
「どうやって?」
「んー、あの子の場合、バリアンスがかなり高いから」
「ああ、まあわかるかも。ちょっと優等生過ぎるもんね」
「本人もどうにもならないんじゃないかなあ」
「アンサンブル組んだら?」
「ああ、いいんじゃない? バギングするのはいいと思うよ」
「そんな機会あるかな」
「あるじゃん。いっちゃんの学校の体育祭、二十人二十一脚とかやるんでしょ?」
「あー、そっか。みんなで肩並べて」
わたしを置いたまま会話を進めていた咲良さんがはっと気づいて、わたしに向かって、おどけた表情でペロッと舌を出した。
「ざっくり言うと」
「はい」
「店長は、いすみちゃんがうちのお店にぴったりだと思った」
「ええ、なんでですか」
「ゴキブリに動じなかったからね。その頑強さがよかったんだって」
「そ、そんなこと?」
「大事なことなんだってさ」
あれが? と、わたしは首をひねるばかりだ。
「もう一つ、成田さん、だっけ」
「成田先輩ですか」
「もしできたら、二十人二十一脚に出てみるといいんじゃないかなって」
どういうことか説明してほしいけれど、その説明を理解できる前に体育祭は終わってしまう気がする。途方に暮れているわたしをよそに、店長はさっさと別の作業に入ってしまい、咲良さんもニコニコしているだけだった。