人間、どうしても忘れられないことってある。
そう思いながら、わたしは自宅の洗面台の鏡を見る。映っているのは、高校一年生の市川いすみという名前のわたしで、つい先ほど学校から帰ってきて「女子高生」の皮、もとい制服を脱ぎ捨て、地味な私服に着替えたばかりのなんとも言えない姿だった。ほんのり施したスクールメイクにちょっと描き足して顔面にせめてものかわいいを盛ろうとしたものの、それが無駄な努力のように思えてテンションが落ちる。
存在感のない大きさの目。
主張する高さのない鼻と薄い唇。
生まれてこの方、顔小さいね、って言ってもらえたことはないからきっと顔はデカめなんだと思う。身長体重ふつう。脚は太めで長くはない。むしろ短いまである。骨格ウェーブでイエベ秋。髪の毛は実家近くの母の行きつけ美容室で切ってもらっている量産型でなんのひねりもない黒髪ミディアム。ド近眼で、コンタクトを外したメガネ顔は人様にはとても晒せない。運動神経ゼロ。成績は学年ど真ん中より微妙に下。鏡を見れば見るほど、自分で自分を好きになれるポイントが何もなくて泣けてくる。
──だからフラれたんだよ。
よく、肩の上に天使と悪魔が乗っかっていて、交互にいいこと悪いこと言ってくるようなアニメがあるけれど、わたしの肩にはたぶん悪魔しか乗っていない。両肩から往復ビンタのようにネガティブワードがささやかれるだけだ。その言葉をまともに聞いてしまうと泣くしかないから、目を閉じて肩の悪魔の言葉をスルーする。それには非常に高度な集中を要するのに、デリカシーのかけらもない母が、大声で「バイト遅刻するわよ!」と叫んでいた。わかってるから、黙っててほしい。
べそべそと泣き出したくなるのを何とか堪えたわたしは、バッグひとつ背負って外に出た。半島の先っぽの方にある「海辺町」という時代に取り残されたような小さな田舎町が今のわたしの世界のすべてで、都会にはあるというアレがないコレがないと不満しか出てこない場所だけれど、唯一許せるのが、家から見える景色だった。自宅は海を望む高台の中腹くらいにあって、木々の間からギリギリ海が見える。もう少し高台に上ると古い別荘地があって、古いながらも大きい家が立ち並んでいるその辺りはさらにいい眺めなんだろうけれど、わたしの家は海を望む景観もちょっと味わいつつ、別荘地のめんどくさいルールにも縛られないという絶妙な位置にある。それで十分だ。
高校に入ったのをきっかけに買ってもらった通学用自転車にまたがり、面倒だけど母がかぶれとうるさいので、キャップ型のヘルメットをかぶる。そのまま車通りなどほぼゼロの道に向かって勢いよく漕ぎ出して、家の前の坂道を下る。海が見えているのはたったの数分だし、電動でもない自転車では帰りの上りは地獄でしかないけれど、わたしはこの景色が好きだ。海辺町という何もない田舎に住むことに決めた父の判断にはモノ申したいが、海辺町の中でこの土地を選んで家を建てたセンスは悪くないと思っている。
気持ちのいい坂道の先にある海沿いの道をひた走る。ちんたら走れば三十分ほどかかるところを十五分で駆け抜けなければならない。もう五分早く家を出ていればこんなに急がずに済むのに、どうしてこうわたしという人間は毎回その五分を家で浪費してしまうのだろうと後悔する。潮風を受けながら、ひたすらペダルを漕ぐ。息が上がり、もう、ちょっと、ムリ、ってなってきた頃、ようやく目的地が見えてきた。え? こんなとこ? と誰もが思うような獣道のごとき脇道に入ると、その先にはハンドルを持っていかれそうな砂利敷きの緩やかな上り坂が続く。道の両脇は木とか草とかがぼさぼさ生えていて先に何かあるとは思えないような場所だけれど、数分自転車を走らせると急に視界が開けて、海を見下ろせる岬に辿り着く。木や草がざっくり刈り取られた土を固めただけの駐車場の向こうには、半分森の中に埋まったようなメルヘン極まりない建物が静かに佇んでいた。
両親の話によると、四十年くらい前に、この辺にあったいくつかの小さな村が合併して、わたしの家の一帯からこの建物の辺りも含めた「海辺町」という新しい町ができたらしい。海にほど近いこのあたりの住所は「海辺町海辺」という冗談みたいな名前になっている。村同士が合併するときの話し合いの席で、新しい町の名前を決めるときに、「海辺でいいよ、海辺だし」という話にでもなったのだろうか。
わたしが生まれるずっと前は、日本というこの国も景気がよかった時期があったそうで、その頃は全国各地にゴルフ場とかリゾートマンションとかがぱかぱか作られた。ド田舎過ぎて何もないけどそこかしこに海が見える高台があるこの辺に目をつける人もいて、そういう人たちが別荘地や高級住宅街を中心にしたリゾートっぽい街を作っていこう、と考えたらしい。新しい駅ができて、海水浴場が作られ、海沿いの道路が整備されてヤシの木なんかが植えられ、高台の別荘地にお金持ちの人の家が建ち、学校や住宅地もできて一つの街ができあがるところまでは良かったのだけれど、日本人みんなお金持ちみたいなボーナスステージはいつの間にやら過ぎ去って、海辺町は何十年かの間に、まただんだん何もない田舎に戻りつつある。わたしが自転車を漕ぎまくって辿り着いたこの空間も当時の夢の残り香みたいなところで、おそらく誰かが「海を見下ろしながら過ごせる家に住みたい」と思って広い別荘を建てたものの、いつしか建物だけを残して人は離れて、忘れられかけていた場所だ。
その忘れられた家を改装して、一年ほど前、なんとカフェがオープンした。
そのカフェが、わたしの今のバイト先である。
わたしは駐車場の端っこに自転車を停めてスマホを取り出した。時刻を見ると、バイトの開始時間ギリギリ三分前だ。間に合った、とほっとしつつ、速足で花壇に囲まれたアプローチを抜け、建物の扉を開ける。ころん、というかわいらしい音が鳴って、正面のカウンターの内側にいた女性と目が合った。バイト先のお店の副店長で、店長の奥様である咲良さんだ。
「すみません、遅くなりました」
「ギリギリセーフ。早く用意してきてね」
咲良さんはめちゃくちゃ優しい。そう言われると、学校から帰って来てから、ちょっとでも「バイトいくのダルい」と思ったことを懺悔したくなる。
今日も頑張って働こう。
スタッフオンリー、と英語で書かれた札のついたドアを開けてバックヤードに入り、ロッカーに上着を入れてエプロンを身に着け、髪の毛を後ろで束ねる。アルバイトするぞモードに入って、よっしゃ、と気合を入れた。狭いバックヤードのロッカーの扉についた小さい鏡に映るわたしは、さっき自宅の鏡で見たわたしとあまり変わらない。でも、ここで働いていれば、いずれはきっと変われる。それが今のモチベーションだ。
*
「コーヒー、ブレンドで」
「ブレンドコーヒーお一つですね。ホットでよろしいですか?」
「ああうん。ホットで」
お客さんとやりとりしながら、わたしは伝票に「HB」と書き込む。ホット・ブレンドの略だ。カフェオレは「C」で、アメリカーノは「A」、カフェモカは何だっけ……、と、頭の中でメニューの記号を繰り返す。バイトを始めて一ヵ月だが、伝票に書く記号がまだまだ頭の中に定着していなくて、たまにすぽんと抜けてしまうことがある。忘れたい記憶はやたら頭にこびりつくのに、必要なことが覚えられないのはなんでだろうといつも思う。
伝票をカウンターに持っていくと、咲良さんがそれを受け取る。この咲良さんに、わたしは今、全力で憧れている。なにしろ、わたしの理想を詰め込んだような人なのだ。年齢は四十代半ばくらいだと思うのだけれど、女子のわたしが見ても美人過ぎる。その上、どうしてそんなに、と暴れたくなるほどおしゃれだ。
服装はいつもナチュラルテイストでシンプルなのに、どういうわけかそれがダサく見えることなく、カフェの雰囲気との一体感がすごい。今日も、自然素材っぽい生地のヘンリーネックのシャツと、少しゆったりしたテーパードのパンツに、いつも着ている生成りのエプロンをあわせているだけなのに、視線が吸い寄せられるような華がある。わたしが同じ服を着たらたぶん壮絶な地味子になるだけなのになんでだろう。ゆったりとしたうねりのある肩くらいのセミロングヘアは、今日は左後ろで一つにまとめられていた。メイクは濃すぎず薄すぎずの絶妙な加減で、一からメイクの仕方をレクチャーしてほしいと思うくらいだ。
「ご注文いただきましたー」
「はーい、ありがとう」
わたしが持っていった伝票を受け取ると、咲良さんは手際よくコーヒーカップを用意し、黒い使い捨てのゴム手袋をつける。カウンターにはずらりとコーヒーキャニスターが並んでいて、中にはいろいろなコーヒー豆が入っていた。色の薄いものから濃いものまであって、豆の産地も様々で、世の中にはこんなにたくさんの種類のコーヒーがあるのかと驚いた。わたしが知っていたのなんて、たぶんこの中の三種類くらいしかない。
ねえ、アルくんさ、と、咲良さんがとなりに立っていた店長にそう話しかけた。
店長は「ツクモ」という名前だ。どういう理屈でツクモと読むのかはさっぱりわからないけれど、漢字で書くと「九十九」となる。さらに不思議なのは、咲良さんは店長を「アルくん」と呼ぶ。どこをどうするとそうなるのか全く理解できない。
店長こと花見川九十九を一目見て、大方の人が述べる感想は、カッコイイ、だと思う。そりゃ、こういう人が咲良さんみたいな人と結婚するんだよ、と思い知らされる感じがする。長身で手足が長く、顔はどこの俳優だよという整い方で、外国人風の黒髪パーマが彫りの深い顔によく似合っていて、整えられた口周りのひげがワイルドに見える。上はシャツ姿で、袖をまくった二の腕は細身ながらも筋肉の陰影が濃い。腰にエプロン。そして、ちょっと怪しげな雰囲気の丸メガネ。わたしの父の見た目がこうだったら、わたしももうなんぼかマシな顔して生まれてきたに違いない。
「アルくんさ、あのお客さん、どの豆がいいんだっけ」
「コロンビアとグァテマラ。ブラジルちょい足し。南米トリオ」
焙煎はどう、比率はこう、と、店長はすらすらと咲良さんの問いに答える。オッケー、と指で丸を作った奥さんが、言われたとおりに豆をブレンドして挽き始めた。ほどなく、コーヒー豆のいい匂いがしてくる。わたしはミルクとかをだぶだぶ入れないと、苦いコーヒーは飲めないけれど。
「いっちゃーん」
「えあっ、はい!」
「二番さんに水」
「あれ、お水ならさっき出しましたけど」
「常温のやつ。別でもってって」
ええー、と思いながら、店長に言われるがまま浄水器から注いだだけの水を持っていくと、ちょうど二番テーブルの男性が手を上げて、水もらえます? 常温の、と言ってきた。わたしが、こちらでよろしいですか、と持っていた水を差しだすと、きょとんとした顔をした後、ありがとう、気が利くね、と微笑んでくれた。
店長を語るとき、わたしがまず第一に述べなければならないのは、その端整なルックスではなく、これである。バイトのわたしを、面接のときに「いちかわだし、いすみだし、いっちゃんだな」といきなりニックネームを決めた馴れ馴れしさではない。なんでそんなお客さんの好みまで全部覚えてるの? という記憶力である。どうやら、店長はあのお客さんが常温の水を頼む、ということを覚えていたらしい。
お店には、それなりに常連もいるし、数は少ないが観光客もいたり、初めて来た人もいるのだが、店長は大体、誰が何回来たとか、前回いつ来た、この人は初めて、とかいうのを把握している気がする。毎回頼むものや、前回頼んだもの、お客さんから聞き取ったコーヒーの好みなど、とにかくだいたい覚えているようなのだ。巷の飲食店の人はみんなこれできるの? と、頻出英単語百個覚えるのにもひぃひぃ言っているわたしには、とても信じがたいことだった。なにか、メモを取ったり、覚えるコツのようなものがあるのかもしれないけれど、店長は作業をしながらでも、咲良さんにすらすらとお客さんの情報を伝えている。
咲良さんがミルでコーヒー豆を挽いている間に、店長がカウンターの端に並べられた理科の実験装置のような器具の準備をする。丸いフラスコとか、筒みたいなガラスの容器とか、そういうもの。コーヒーサイフォンと言うらしい。店長がフラスコにお湯を注いで、フラスコの下にビームで熱するヒーターを置く。何そのロボットアニメの武器みたいなやつ、と思うが、ヒーターが真っ赤な光を放つと、それに照らされてフラスコが光り輝いた。店長がフラスコの上に容器を中途半端に差し込み、お湯がボコボコと沸き出す。それで準備完了のようだ。
店長が合図も何もしていないのに、その瞬間にピタッと合わせていたかのように、咲良さんが挽いたばかりのコーヒーの粉を持ってくる。普段、何を考えているのかわからないような顔をしている店長がコーヒーを受け取ると、ぐっと表情が変わった気がした。香りを嗅いで確かめながらフラスコの上のガラス容器に粉を入れ、容器をフラスコにくっとさしこんだ。その瞬間、フラスコからお湯が上の容器に上がってきて、コーヒーの粉が浮き上がっていく。たぶん、空気圧とか水圧とか、そういう化学関係のやつがうんぬんかんぬんでああなるんだろうけれど、中学校の理科の知識がすっぽり頭から抜け落ちたわたしには、まるで魔法のように見えた。地球の重力に逆らってお湯が上の容器に上り切ると、店長が何度か木のヘラでコーヒーを混ぜた。ヒーターを切ると、今度は自然にコーヒー色に染まった液体がフラスコの中に戻っていく。上の容器の底に布のフィルターがあって、コーヒーの粉はそこに残るみたいだ。一ヵ月の間に何度も見た光景なのに、何度見てもついついじっと見てしまう。最初にこの方法でコーヒーを淹れようと考えた人は、相当頭がよかったんだろう。偶然でこんなコムズカシイ方法が見つかるとは思えない。
「いっちゃーん、できたー」
店長に声をかけられて、わたしは慌ててステンレス製の丸いお盆を抱えて店長の前に行く。コーヒーの入ったサイフォンのフラスコと、小さくてセンス抜群のかわいいカップをお盆の上のソーサーに載せて持っていかないといけないのに、いまだに手が震えてカップがカタカタ鳴ってしまうのがかっこ悪い。
こぼさないように細心の注意を払いながら二番テーブルに持っていき、不器用な手つきでフラスコからカップにコーヒーを注ぐ。「ごゆっくりお過ごしください」というセリフをやや甘噛みしたけれど、お客さんは表情を変えず、ノートパソコンを覗き込んだまま、ミルクも砂糖も入れずにコーヒーを口に含んだ。感想は特にない。おいしかったのか、いまいちだったのか、どうだったんだろうと気になるけれど、お客さんは答えをくれない。
カウンターの少し奥には、コンロや鉄板といった設備が整ったキッチンがある。そんなに大きなスペースじゃないのでレストランみたいな料理はできないけれど、店には軽食メニューも豊富だ。そのキッチンから、じゅわ、というフライパンで何かを焼く音が聞こえてくる。調理をしているのは主にフードメニューの調理を担当する「アキラさん」だ。年齢不詳で、大学生くらいにも見えるし、三十代と言われても、ああ、と思ってしまうかもしれない。目は切れ長の一重で、眉が薄い。髪型は左右を刈り上げたツーブロックで、トップの髪の毛は後ろで束ねてある。見た目が若干いかついので、正直、話すのに少し緊張する。
わたしの仕事は、いわゆる「ホール」だ。お客さんの注文を取って店長や咲良さんにオーダー票を渡し、出来上がったドリンクやフードをお客さんのところまで持っていく。お客さんが帰るときのレジ打ち、食べ終わった食器の回収とテーブル清掃を行う「バッシング」がだいたいわたしの担当になる。最初のうちはまごついてばかりだったが、週三日、一ヵ月続けていると、なんとか少しずつできるようになってくるものだ。コーヒーカップは依然としてカタカタするけれど。
「市川さん」
あまり感情がのっかっていない淡々としたアキラさんの声。声のトーンは優しい感じだし、口調も穏やかだけれど、わたしはちょっとドキドキしながら、カウンターの外からアキラさんの前に立った。
「はい」
「申し訳ないんだけど、バックヤードから牛乳一本持ってきてもらっていいすか。ぼちぼち一本使い切りそうなんで」
「あ、はい。牛乳ですね!」
わたしはすぐに反応して、近くのバックヤードに飛び込んだ。室内にはパソコンが置かれた小さなデスクと、着替え用のロッカーがある。ただ、それ以上に空間を占拠しているのが、ドカンと置かれた業務用のでっかい冷蔵庫だ。中には食材がみちみちに詰め込まれていて、開けて中を見るだけで迷子になりそうな感じがする。確か牛乳はここ、と、一番端の扉を開け、飾り気のない真っ白なパッケージの業務用牛乳パックを一本抱えると、またアキラさんのところに戻る。調理をするアキラさんの代わりに牛乳パックを受け取った店長は、パックの頭のところをサラッと見ると、まるでさも当然といった感じで、「期限がもう二日早いやつあるから」と言った。わたしはまた言われるがままバックヤードに戻って冷蔵庫を確認すると、店長が言った通りの場所に、わたしが持っていった牛乳より二日消費期限が早いものが確かにあった。もしかして、この冷蔵庫に詰め込まれている食材の種類や位置、期限まで全部把握しているのだろうか。
戻って牛乳をアキラさんに届けると、店長がトーストを仕上げていた。一皿はクロックムッシュ。もう一皿は生ハムとルッコラのトースト。お店の屋外のテラス席の女性客二人が注文したものだ。半分に切り分けられたクロックムッシュは、切り口からとろっとろのチーズが流れ出していて、ホワイトソースが上からしっかりかかっている。近くのパン屋さんに特注で作ってもらっているというパンは厚切りでも軽いと評判で、トーストは表面のカリカリ具合が見ているだけでわかる。ルッコラは、つい今しがたまでそこに生えていたものを使っています、というくらい新鮮で、持っていくのが苦痛だ。お腹が空く。
「テラス一番さんねー」
お皿を二枚、片腕で持つ方法は咲良さんから教えてもらったが、まだ途中でひっくり返しそうで怖い。ちょっと迷って、わたしは右手と左手に一皿ずつ料理を持つことにした。
お皿を持って、改めてお店の中を見る。外から見ると木々に埋もれてそれほど大きな建物には見えないけれど、中は吹き抜けの天井が高くて、かなり広々とした印象だ。壁や床には黒光りするくらいつやつやの木が使われていて、落ち着いた印象がある。元は別荘だったということで、ここに住んでいた人はお金持ちだったんだろうな、などとゲスいことを考えてしまった。
正面入口を入ってすぐに冷蔵ケースとレジカウンターがあって、出入口側はテイクアウトのコーヒーや焼き菓子、ケーキ類なんかを販売するスペースになっている。そこから脇の通路を通ってカウンターの裏側に回ると店内飲食用のフロアに行ける。通路沿いは大きな棚になっていて、置きものとか小物とか、店長が選んだものが飾られて販売されているのだけれど、今のところ、あの棚にあるものを買っていった人をわたしは見たことがない。外国の物っぽい若干気味の悪い人形とか、動物の角で作った工芸品とか、ラインナップが独特過ぎて、これは本当に売る気があるのだろうかと思う。半ばインテリアとして置いてあって、大して売る気はないんだろう。
フロアには、壁づけになっている一人掛けのカウンター席が五席と、テーブル席が五つ。店長や咲良さんの作業しているところにもカウンターがあって、こちらも五席。海の見える西側は開放的な全面ガラス窓で、晴れた日は全開放することもできる。その先はテラス席だ。パラソルつきの丸いテーブルが三つ置いてあって、あとは一人掛けの椅子が三脚、海に向かって置かれている。テーブルや椅子はすべて木製のシンプルなデザインのもので、店員のわたしもなんとなくゆったりした気持ちになる空間だ。
お皿二枚を手に持って、気持ちよくばーんと開いた西側から外に出る。楽しそうに会話していた女性二人組の邪魔をしてしまわないかとちょっとまごついたけれど、二人とも笑顔で料理を迎えてくれたのでほっとした。
わたしの平日のシフトは、十六時半から二十時半までの四時間だ。今日も、時刻は十八時を過ぎて、バイトの時間は後半戦に入った。この時間になると、今の季節はテラスから見る夕焼け空がきれいだ。本州からぴょこっと飛び出た陸地の先っぽの方にある海辺町は、晴れていれば西の海に太陽が沈んでいくのが見える。もう太陽は水平線近くまで傾いてきていて、海がきらきらしていた。
「よし、行こう、いっちゃん」
「え? え? え?」
わたしが数秒ほど海に沈みゆく太陽に見とれている間に、いつの間にか隣に店長が立っていた。店長はこなれた様子でテラス席のお客さんに手を振ると、さあ行きたまえ、と、わたしにテラスの先へ行けと言うように指を差した。
「あの、わたし、戻ったほうがいいですよね?」
「なんで?」
「仕事中ですし、怒られちゃうかなって」
「店長が隣にいるのに?」
「いやそれはそうなんですけども」
「あと、三分くらいだからさ」
「三分?」
店長はそう言いながらテラスを降りて、とことこ歩いていく。店のテラスの先は海の見える小さな広場のようになっているのだが、崖になっているので落下防止の柵が作られている。店長はその柵にもたれかかるようにして海に目を向け、こっちにこい、とわたしに手招きをした。いいのだろうか、と思いつつも、店長を置いていくわけにもいかず、隣に並ぶようにして立ったのだが、あまりしゃべったことのない相手と無言で過ごす三分間というのは、なかなかの地獄だ。空腹で死にそうなときのお昼前の授業のラスト三分くらい長い。そもそも、三分後に何があるのかも店長は話してくれない。ただ海を眺めるだけの店長の横顔をうかがいながら、わたしはどうしていいかもわからず、いつも通りの海を眺めるだけだ。
「はじまった」
「はじまった?」
何が始まったのか、と、店長の視線の先を探ったが、特に風景は先ほどと変わらないままだ。船が通ったわけでもないし、季節外れの花火が上がったわけでもない。ただ、太陽が西の海に落ちていこうとしている。それだけの風景だった。
「ほら、道ができてきた」
道とは? と思いながらよく目を凝らしてみると、鈍いわたしもようやく、あ、と気がついた。日が落ちてくると、まるでその太陽に向かっていくように、光が海の水にきらきら反射して、夕焼け色の道ができる。その道はゆっくりと、真っすぐこちらの方に向かって延びてくる。
「きれいですね」
「そうなんだよ。こんなにきれいに見えたのは久しぶりだ」
「わたし、ずっとこの辺に住んでるのに、意識して見てなかったです」
「いっちゃんさ、この道の先に何があると思う?」
ふぇ? と、急に飛んできた質問に頭が真っ白になる。意味も意図もよくわからないし、何と答えるのが正解かもわからない。店長は時折、こういう不思議な話をしだすので、正直、結構困っている。
「地球は丸いから、いつかは陸地に着くんじゃないかなって思いますけど」
「まあ、地表を移動するなら陸にぶつからずに地球一周できるルートはないね」
「そうなんですね」
「でも、時速四万三百キロ出せば、夕日に向かって真っすぐに進めるじゃない?」
「時速四万……?」
「時速六万百キロで進めば夕日を超えていけるし、そのままどんどん光速に近づいて、そのうち光そのものになれたら、人間から見える宇宙の外までいける。ローレンツ係数が増大して時間は無限になるからさ」
「ひかりそのもの、じかんはむげん?」
「そこまで行けたとき、そこに何があんだろなあ。いっちゃんどう思う?」
いやわかるか、と言いかけたけれど、若干スピリチュアルな話かと思って、わたしは当たり障りなく「なんか天国みたいなとこがあったらいいですね」などと話を合わせた。その答えが正解だったのかなんなのか、店長の顔がぱっと明るくなって、だよね、だよね、と、見た目渋い感じのイケオジが、小学生の男子みたいなリアクションをした。
「天国。いいね。それが最高だ。重力から逃れて、あのオレンジ色のキラキラした道をまっすぐ進むと、なんかすごい楽しい世界に辿り着く。どう楽しいかわかんないけど、とりあえず笑ってられるような」
いつか行ってみたいよなあ、と言いながら、店長が店の中に戻っていく。わたしも、行けるといいですよねえ、などと一つも心のこもっていない合いの手を入れながら、店長の後に続いた。森に埋もれるような、緑に囲まれたバイト先のカフェ。店名が書かれた看板を見て、あ、そういうことか、とわたしは思った。
その看板に書かれているのは──。
サンセット・オレンジロード
―Sunset Orange Road―