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『サンセット・オレンジロード』の裏手は、こぢんまりとした菜園になっている。今の時期に植えられているのは、トマトとかナス、ピーマンといった夏野菜が主で、大葉やイタリアンパセリなどのハーブ類もある。もちろん趣味で栽培しているわけではなく、収穫したものはお店で食材として使われる。わたしに課せられた仕事は、その菜園にはびこる雑草の殲滅だ。菜園を作った咲良さんは、どうせ小規模だし、お店で出すものくらい無農薬にしたい、という考えのようで、除草剤を使わないから油断すると雑草がわさわさ生えてくる。いつもは、店長と咲良さんで手分けして手入れしているらしい。

 今日、わたしはシフトに入っていなくて、バイトは本来お休みだ。にもかかわらず、どういうわけか店に現れたわたしに全員きょとんとしていたが、わたしは、季美さんと大網さんの話をかいつまんで説明し、先ほど、『大網食堂』に行ってきたことも話した。店長と咲良さんはアキラさんからふわっと話は聞いていたようで、わたしがそこまで詳細に説明しなくても、事情を理解してくれた。そこで、どうしても二人を見届けたいから、無給でいいので仕事に入らせてほしい、とわたしは店長に頼んだのだけれど、今日は、店長と咲良さん、アキラさん、そして、名前は知っていたけれど実際会うのははじめましての野田さんという主婦アルバイターさんが働いていて、ホールは咲良さんと野田さんでカバーできているらしく、わたしが入ったところで何もやることがない。なんか仕事はないですか、と食い下がると、店長が、じゃあ、指数関数的に増殖中の草をむしってもらおうか、と言った。

 もちろん、なんでもやります! と意気込んで手袋をはめ、咲良さんの麦わら帽子を借りて店裏の菜園の草むしりを始めたのだけれど、これが思っていた以上に辛い。雑草の数がまず多い。本業の農家さんの畑に比べれば小規模とは言っても、わたしの家のささやかな庭に比べると三倍くらいの広さがある。毎日とっていてもなかなかとり切れない、という店長の話の通り、とにかくあちこちにわさわさと雑草が生えている。屋外で午後の凶悪な太陽に晒されると汗も止まらないし、中腰での作業が体力と足腰の筋力をがんがんに削って、運動不足気味の体が悲鳴を上げた。アキラさんがパスタを作っているときに、無造作にどばっと掴んで入れているハーブも、こうして手間を掛けられて作られていると知ると、あんなにどっさり使うなんて贅沢だなと思う。

 咲良さんに口酸っぱく言われた水分補給に気をつけながら一心不乱に草をむしり、むしった草を入れるかごがいっぱいになった頃、店に続く私道を一台の車が通りすぎていくのが見えた。虹島に行ったときの軽トラックではないけれど、かわいらしい雰囲気の外国っぽい車。季美さんの実家の車らしい。ちょうど、店裏に出てきたアキラさんが中に入るように言ってくれて、上がり時間になった野田さんの代わりにわたしがホールに入ることになった。バックヤードで汗だくの体をタオルで拭いて咲良さんのTシャツを借り、いつものエプロンを着て、ホールに出た。

 季美さんはすでにクリームソーダを頼んでいて、咲良さんがアイスクリームを載せているところだった。わたしはそれを受け取って、季美さんに持っていく。わたしが何も言わなくても、明日帰るよ、と季美さんがつぶやいた。

 時間は、もう十七時を過ぎていた。昨日の雨が嘘のように、今日は一日晴れた。太陽はずいぶん西に傾いて、空は鮮やかな赤に染まり始めている。わたしは店内を見渡したけれど、大網さんの姿はなかった。刻一刻と日は西の空に沈み始めて、それにつれて季美さんのグラスに入っているソーダの量が減って、溶けたアイスクリームと混ざり始める。そのまま、時間は戻らない。今日という日の、十七時二十一分は、もう二度とやってこない。

 季美さんがいる間、何度か入口のドアが開く音がして、その度にわたしは入ってくるお客さんに目をやったけれど、大網さんではなくてがっかりする。なんか、こういうのって、映画とかだったら来る流れじゃないの? と思うのだけれど、現実は映画のようにはいかないのだろう。大網さんにとってわたしは、いきなり食堂に押しかけてきておかしなことを喚き散らして帰っていった客、という認識かもしれない。

 そっか、現実ってやだな、現実ってやだ。わたしが、こうなってほしいと願うことは、だいたい現実には起こらない。現実世界では、シンデレラは一生灰をかぶり続けるし、桃太郎は鬼に負ける。森で迷った兄妹は森から帰ってこられないし、王子のキスごときで呪いは解けない。なんか、人生ってつまらないな、と、わたしは一人で口をとがらせていた。わたしにしては最大の勇気を出して神様のルールを覆しに行ったのに、やっぱりルールはルール通り、時間は進んでいく。

 季美さんの唇がストローから離れた。グラスの中に、もうソーダは残っていなかった。名残を惜しむように、季美さんが外を見る。今日の夕焼け空は残酷なまでにきれいだった。鮮やかな赤に、深い夜がかぶさっていって、やがて太陽は海の向こうに沈んで、ほのかな輝きを残して消えていくことになる。その前に、季美さんは立ち上がってしまうだろう。なんかやだ、やだやだ、と、駄々っ子のように繰り返しながら、わたしはせめてもの抵抗とばかり、季美さんのテーブルに近づいて、「他のお飲み物をお持ちしましょうか」と言った。季美さんは、えっ、という顔をしたけれど、何か注文しようとはしなかった。わたしは携えていたレギュラーメニューの一番後ろのページを開いて、こちら、「サンセット・オレンジ」というお店の看板メニューで、などとあることないこと並べ立てた。

 そのときだ。

 店内スペースに入るための細い通路に、男性が一人立っていた。いつの間に入ってきたのだろう。わたしにはカウベルの音が聞こえていなかった。ややオーバーサイズのカットソーとカーキのパンツといういでたちのその男性に向かって、わたしは声を張った。

「こちらの席にどうぞ」

 少し息を弾ませた大網さんは、わたしを見て、うん、とうなずいた。わたしが案内した「こちらの席」は、季美さんの向かいの席だ。大網さんは決心したように歩きだして、わたしが指示した席までやってきた。季美さんは、後ろを振り返らないまま、前に回ってきた大網さんに目を向けた。

「あー、ええと、久しぶり」

「うん」

「ここ、座ってもいいかな」

「うん」

 わたしは急いでカウンターの端に戻り、ガラスコップに水を注ぐ。なんでかものすごく手が震えて、少し水をこぼしてしまった。慌てて布巾で拭いてから、ペーパタオルを添えて、大網さんの元に戻って、コップの水などのウェルカムセットを置いた。向かい合って座った二人は、まだ何もしゃべっていない。

「ご注文はお決まりですか」

「え、あー、どうしよっかな」

 大網さんが、あからさまに動揺しながら、メニューをめくる。でも、たぶん頭が動いていなくて、目が滑りっぱなしになっている。

「これにしたら?」

 季美さんが、自分の手元の空になったグラスをつまみ上げて、ふるふると振った。

「な、なんだった、それ」

「クリームソーダ。好きでしょ?」

「あー、じゃあ、それで。それでお願いします」

 わたしが、例のメニューをひっくり返して、狂気のカラバリを見せると、大網さんは泣きそうな顔をして、普通の、緑のメロンソーダのやつ、と言った。かしこまって、ご注文を繰り返して、わたしはオーダーを伝える。わたしにできることは、ここまでだ。

「まだ好きなの?」

「ふぁっ、えっ? 好き?」

「メロンソーダ」

「ああ、ああ、そっちか。うん、まあ、もうあんま飲まなくなったけど、たまに無性に飲みたくなるから」

「ばかみたいに飲んでたもんね。ファミレス行くと、ずっと緑のソーダ」

「ああなあ。なんか、あると飲みたくなるんだよね」

「そんなにおいしい?」

「おいしい、って言われると、どうだろう。味は普通。でも、なんか戻れる気がするでしょ、緑色の炭酸飲料ってさ」

「戻れる?」

「子どもの頃に」

「戻りたいの?」

「戻れないってことはわかってるよ。でも、だいたいこういう飲み物飲んでるときって楽しい時だから。いい思い出がよみがえってきて幸せになれる」

 できあがったクリームソーダを持っていくと、一口飲んだ大網さんが、うわ、なつかし、と、ようやく少し微笑んだ。

「久しぶりに飲んだ。やっぱうまいね、メロソー」

「昔から思ってたんだけど」

「昔から?」

「メロンソーダって、メロンの味する?」

「まあ、どうかな。果物の味はしないけど、“メロン味”っていう名前の味」

 わたしは隣のテーブルを意味もなく拭きながら、二人の会話に耳をそばだてた。もちろん、ちゃんと空気を読んで、そのソーダはメロン香料すら使ってないんですよ、とは言わなかった。緑のソーダを視覚で感じたことで、あのソーダが二人の間でメロン味に感じられるなら、それでいい。

「なんかそのー、なんつうか」

「なに?」

「きれいになってて、びっくりしてる」

「お世辞?」

「いや、ほんとに。別人かと思ったよ」

「そんな変わってなくない?」

「まあ、しゃべると、うん。声とかは変わってないね」

 ぎく、しゃく、と音を立てながら巻き戻っていく二人の時間を、わたしは傍らで見守る。探り合いのような会話にもどかしさを感じるけれど、しょうがない。一言ずつゆっくり時間をさかのぼって、昔に──。

 そんなわたしの思いをよそに、急に店長がやってきて、なぜか二人の横に立った。ちょっと待って、なになになに、と、頭の中で言葉を並べた。この雰囲気の二人の間に割って入るとか何を考えてるの、と、さすがに店長の首根っこをひっつかんで厨房に引っ張り戻そうかと思った。わたしと同じように、なになになに? という顔をしている二人に向かって、店長は「行こう」と声をかけた。

「あと三分くらいだから」

「三分?」

 店長が追い立てるように二人をデッキから外に連れ出し、そのまま真っすぐ小さな展望台に向かった。店長が言う「あと三分」は、日が西に完全に傾いて、海にオレンジの道ができるサンセット・オレンジロードが始まる時間だ。どうやら、それでも見ながら話をしなさい、と店長は思ったようで、二人の邪魔をしようとしたわけではなく、ほっとする。

 店長が戻ってきて、いっちゃん、もう一時間くらい勤務できる? と言った。展望台に並んで夕日を見る二人の後ろ姿を遠目に見ながら、わたしは、もちろん大丈夫です、と答える。二人がさっきまで向かい合っていたテーブルには、空のグラスと、まだ飲みかけのクリームソーダが残されていた。少しずつ、アイスクリームがソーダと溶け合って、一つになっていく。

 

*

 

 平日の午前シフトは平和だ。

 

 わたしはまだ夏休み真っ最中だけれど、オトナたちはお盆休みが終わり、我が家でもお盆の間中だらだらし倒した父が、朝、きりっとした顔で出勤していった。それを送り出した母が、早く学校も始まんないかね、などと、嫌味たっぷりにわたしと岬に向かってわざとらしくため息をついて、変な圧をかけてきた。岬は気を遣って、ちょっと友達んち行ってくる、と早々に外出し、わたしも今日もアルバイトだから、と、少し早めに家を出て母の圧から逃れることにした。

 わたしは開店一時間前から勤務スタートで、主に掃除とテーブルのセッティングを担当する。その間に、早朝からスイーツの準備をしていた咲良さんが冷蔵ケースへのディスプレイを終え、店長がコーヒー豆の状態を確かめながらキャニスターに補充していく。わたしより少し遅く、開店直前にアキラさんがやってきて、かっちり固めた髪の毛をもう一度結び直し、エプロンの腰ひもをキュッと締める。時間になって咲良さんが出入口ドアの札を「OPEN」にかけ替えると、開店を待っていた数組のお客さんがゆるゆると店内に入ってきて、『サンセット・オレンジロード』の一日が始まる。

 昨日、わたしはアルバイトがお休みだった。季美さんが来るか来ないか気になっていたけれど、アキラさんの話では、夕方になっても季美さんは来なかったようだ。

 一昨日、季美さんと大網さんは、日が沈んで外が暗くなるまで、展望台に並んで二人だけで会話をしていた。さすがに盗み聞きにいくほどわたしも非常識ではないので、どんな会話があったのかはわからない。でも、高校を卒業するときの分かれ道まで一度戻ることはできたんじゃないかなと思った。あんまり無責任に、復縁したらいいのに、なんてことは言えないけれど、どうしてもそれを期待してしまう自分がいる。

「いっちゃんさ」

「は、はい」

 突然店長に話しかけられて、現実に戻る。店長はラミネート加工されたメニューをわたしに手渡してきた。「スペクトル・クリームソーダ」のように、メニュー表にない期間限定メニューとか、おすすめメニューとか、そういうものがこの形で席に置かれる。見ると、手描きイラストで描かれた「サンセット・オレンジ」だ。「サンセット・オレンジ」はメニューの最後のページに申し訳程度にちょこんと載っているけれど、ついに店長がおすすめメニューとして推すことにしたらしい。

「改良できました?」

「できた。最高傑作」

 そこまでか、と、わたしは新しい「サンセット・オレンジ」の仕様を確かめる。以前と変わったのは、コーヒーとオレンジジュースの比率。そして、オレンジのコンポートと、オレンジの皮を使ったハートの飾り切りがガーニッシュになっていた。裏の菜園で採れたミントの小さな葉っぱがちょこんと添えられて、え、なにこれかわいい、と思わず声が出る。もう一つの大きな変更は、グラスが前より縦長の三角錐みたいな形状に変わっていて、グラスの底に赤いシロップが追加されたこと。グレナデンシロップというものらしく、ザクロ味なのだそうだ。全体的にシンプルだった以前の「サンセット・オレンジ」よりも、ぱっと見かわいくなったと思う。これなら、飲んでみたい、と思う人もいるんじゃないかと思う。

「お客さんに出すときにさ、底からガッツリ混ぜてお召し上がりください、って案内してくれる?」

「え、そんななんかかわいくない言い方します?」

 店長としばし議論した結果、「よく混ぜてお召し上がりください」と伝えることになり、ストローとは別にマドラーもつけることになった。

 わたしがこうやってトレンチに載せて、この順番でお客さんの前に出して、と考えていると、またカウベルが鳴って、お客さんがやってきた。咲良さんの、お好きなお席にどうぞ、という声が聞こえて、お客さんがまた一人入ってくる。わたしは、すかさずガラスコップに水を注いで、ペーパータオルを用意した。臨戦態勢を整えたわたしの前を、コロコロがついたスーツケースを引きながら女性が通って行って、外の見えるデッキ前の席を迷いなく選んだ。わたしは息を呑みながら、トレンチを持って席に向かった。

「いらっしゃいませ」

 わたしの挨拶に、サングラスを外してにこやかな笑顔を返したのは、季美さんだった。初めて来た日を思い出させる、おしゃれ度MAXの服装で、メイクも髪も完璧に仕上がっていた。何人かのお客さんが、驚いた様子で視線を向けたくらいだ。

「今日、東京に帰るんですか?」

「うん。今からね。だから、最後にまた来ちゃった」

 季美さんの傍らに置かれたスーツケースを見て、そうか、季美さんは東京に帰るのか、と思った。これだけ完璧に顔も服装も仕上げているところを見ると、たぶん、海辺町に戻ってきて、大網さんとヨリを戻す、という道は選ばなかったんだろうと、鈍いわたしにもわかった。今の季美さんの世界は東京にあって、海辺町にはない。夕日を見る季美さんと大網さんが立っていたあの空間だけは、二人の高校時代まで時間を巻き戻せたのかもしれない。でも、世界全体、宇宙全体でみれば、時間が止まったり戻ったりすることはやっぱりないのだ。海辺町を離れるという選択をした季美さんの人生が、そこからまたやり直せるわけじゃない。わたしも、これから進路を決めるときは、よく考えなきゃいけないな、と思った。一度選んだら、もう選び直しはできないから。

「ご注文、お決まりですか?」

「あー、どうしようかな」

 注文がクリームソーダじゃないのはちょっと寂しいけれど、大網さんのことは季美さんの中で何か整理がついたのかもしれない。海を見ていた寂しそうな表情はもうなくて、きらきらというか、ぎらぎらというか、シゴデキ美人女子オーラがすごい。わたしも、香取先輩がらみのトラウマを早いところ克服しないと、いつまでも陰キャ感を背負ったまま生きていかなければいけなくなりそうだ。

「あの、よかったらおすすめのメニューがあって」

「おすすめ?」

 わたしが、さっそくリニューアルした「サンセット・オレンジ」を見せる。

「この前おすすめしてくれたやつ?」

「ちょっとリニューアルしたみたいで」

「え、夏のど真ん中のタイミングで?」

「一応、メニュー自体は夏前からあったんですけど、看板メニューのはずが、地味で注文数少なくって、リニューアルしたみたいです」

 季美さんが、あはは、と笑って、じゃあそれにする、と言ってくれた。わたしが厨房にオーダーを通すと、店長の目つきがきりっと変わって、咲良さんに、エスプレッソ、と指示を出していた。

 グレナデンシロップをまずグラスの底に注いだら、シロップを混ぜて少し糖度を高くしたオレンジジュースを静かに注ぐ。そこに氷を入れると、グレナデンシロップの赤とオレンジジュースのオレンジが少し滲んで、グラデーションを作った。それが夕焼け空みたいできれいだ。そのタイミングに合わせて、咲良さんがエスプレッソを店長に手渡す。店長がバースプーンを使って静かにエスプレッソを注ぐと、コーヒーとオレンジジュースがきれいに二層に分かれた。この層ができる位置と味のバランスを、店長はめちゃくちゃこだわっていたと思う。

 かわいいガーニッシュが飾られて、わたしが待機しているコーナーに「サンセット・オレンジ」が置かれた。実物はほぼメニューのイラストどおりで、前よりもずっときれいになった。ストローとマドラーを添えて、わたしは季美さんのテーブルに戻る。背中に店長の視線を感じながら。

「わ、かわいいね、これ。おいしそう」

「マドラーでよく混ぜてお召し上がりください」

「あ、混ぜちゃうんだ」

「混ぜないと、飲み物としてあんまりおいしくないんですよ」

 店員さんがおいしくないとか言っちゃうの、と、また季美さんが笑った。

 二層の状態をスマホで何枚か撮影した後、じゃあ、と、マドラーを手に取った季美さんが、くるくるとかき混ぜた。コーヒーとオレンジジュースが少しずつ混ざって、まるで、日没の時間、ゆっくりと夜の帳が降りてくるように、コーヒーの色がオレンジ色を塗りつぶして、全体が深い黒に染まっていく。

「これ、メニュー名なんだっけ」

「サンセット・オレンジっていいます」

「そこから見える夕日をモチーフにしてるのかな」

「そうみたいですよ」

 少しだけ、季美さんの表情が変わった。グラスの中は次第に夜になっていく。でも、底に残ったグレナデンシロップだけはうまく混ざらなかった。グラスの尖った先っぽに溜まっているので、マドラーでうまく混ぜられないし、糖度が一番高くて比重が重いからか、底に沈んだままかき混ぜても浮かんでこないのだ。ある程度は混ざるけれど、最後までグレナデンシロップの赤が残り続ける。

 それが、まるで日没の最後に残った、残り香のような夕日の光に見える。

 一昨日、季美さんと大網さんが見ていた夕日みたいな。

 店長が、一昨日の空をイメージしたのかはわからないけれど、わたしがあの空を連想したように、季美さんもまた、同じイメージを持ったのかもしれない。マドラーを置いて、ほんのり赤みを残したグラスの中の日没を見ると、季美さんの顔がくしゃっと歪んで、目から涙がこぼれた。わたしが、あっと思う間もなく、季美さんは元の顔に戻って、取り出したポケットティッシュで、マスカラが落ちないように目を押さえた。

「いただきまーす」

 季美さんがわざと陽気な声をだしながら、ストローを挿して、真ん中あたりから「サンセット・オレンジ」を吸い上げた。口の中に液体が入っていくと、今度は表情がぱっと明るくなって、うまっ、と驚いた様子でわたしを見た。

「めっちゃくちゃおいしい、これ」

「え、ほんとですか。よかったです」

 店長が喜びます、と言いながら厨房の方に目を向けると、こっちをガン見していた店長が、この上ないほどのドヤ顔をしていた。

「初めて飲んだけど、オレンジとコーヒーって合うんだね」

「東京にもあんまりないですか?」

「んー、あるにはあると思うんだけど、こんなにおいしくてきれいなのはたぶんない」

「ほんとですか」

「困ったな」

「困った?」

「また、東京になくて海辺町にあるものが一個増えちゃったんだけど」

 若かりし頃の思い出と、『サンセット・オレンジロード』のオレンジコーヒー。

「また戻ってこなきゃだ、これを飲むために」

「また絶対来てください」

「また来るよー、絶対」

 季美さんが、満面に笑みを浮かべて、ありがとう、と笑った。お顔のきれいさ、みたいなのはともかく、表情を含めたヴィジュが最高で、やたら胸がどきどきした。女子のわたしでこれなのだから、男子は一発で心を持っていかれるのではないか、と、そのすさまじいまでの笑顔の威力に戦慄する。

「ごゆっくりどうぞ」

 季美さんのテーブルを離れて、わたしは持ち場に戻る。またカウベルの音が鳴って、お客さんがやってきた。わたしは、季美さんの顔をイメージしながら口角を上げて、笑顔を作ってみた。わたしがどうあがいても季美さんほどの美人になれるとは思えないけれど、少なくとも、季美さんみたいな笑顔で笑える人間になりたいな、とは思ったのだ。

 

(つづく)