夏休みに入ると、わたしのシフトは少し変わって、午前中から入ることが多くなった。『サンセット・オレンジロード』には小学生くらいの子供を持つお母さんアルバイトさんが何人かいて、自分の子供が夏休みで家にいると、なかなか昼の時間帯に入れなくなってしまうらしい。学校があるときよりも少し多めにバイトを入れて、今年の夏はしっかり稼ごう、と思っている。
わたしが開店少し前にお店に入ると、店長が何やら真剣なまなざしで、カウンターに置いたガラスコップに液体を注いでいた。少し背の高いグラスに注いでいるのは、どうやらオレンジジュースのようだ。
「今! 早く!」
厨房スペースでは咲良さんがマシンでエスプレッソを淹れている。店長の、今! という声にタイミングを合わせて、注ぎ口がついた小さなステンレスポットに入ったエスプレッソが、咲良さんから店長に渡る。店長は、オレンジジュースと氷が入ったグラスのてっぺんにバースプーンの先をひっくり返して、そのスプーンの裏面に添わせるようにエスプレッソを静かに注いだ。
「え、オレンジジュースにコーヒー入れるんですか?」
わたしが店長の手元を見ながらそう言うと、店長は、寄り目になるくらい視線をグラスの上に向けたまま、しっ、とわたしの言葉を遮った。
「レイノルズ数が高くなっちゃうから静かに」
「れ、れいのるず?」
「層流をキープしないといけないんだよ。乱流になったら混ざっちゃうでしょ」
店長が静かに糸を垂らすかのようにコーヒーを注ぐと、それはオレンジジュースとは混ざり合わずに、きれいな層に分かれていく。ええー、なんで? とわたしが目をぱちぱちさせていると、これはいっちゃんも学校で習ってるはず、と店長が真顔で言った。
「ヒントは、オレンジジュースにはシロップが入ってる。エスプレッソは淹れたて」
「え、やだ、クイズ形式にしないでください」
「はい、シンキングタイム」
わたしの言葉など聞きもせず、真顔のまま、残り二十秒、などと追い込まれて、わたしはパニックになる。別に答えなければいけない義務はないけれど、残り時間などを言われると、何か答えなければと焦ってしまう。
「お、お、お、温度!」
「――も含めて?」
「含めてっ?」
答えを出せないまま無事タイムアップを迎えたわたしを見て、咲良さんが声を殺して笑う。たぶん、咲良さんもかなり賢い人なので、答えはすぐにわかったのだろう。咲良さんが店長に、たまには解説して、と促した。
「いっちゃん、熱い水と冷たい水は、どっちが上に上がる?」
「お風呂のお湯みたいなことですよね? 熱い方?」
「じゃあ、糖度八十度のはちみつと、精製水だったら?」
「は、はちみつが、沈む気がします」
「熱い水が浮かぶ、濃度の高い水溶液は沈む。それはなんで?」
「そ、そう、神様が決めたから、とか」
まあ、この世界が神によって創造されたと仮定するならそれも間違いじゃないな、と、店長がうなずいた。絶対違うということはわたしにもわかっているので、変に肯定しないでほしいと思う。
「比重差ね」
温度が高くなると、物体の比重は軽くなる。確かに、そんなことを習った気もする。
店長が作っているのは、いわゆるオレンジコーヒーというもので、百パーセント果汁のオレンジジュースの上に、エスプレッソを注いだコールドドリンクだ。きれいな二層になるのは、オレンジジュースはシロップが加えられて濃度が高く、氷できんきんに冷やされていて比重が重くなり、そこに無糖で熱いままのコーヒーを注ぐと、比重の軽さでオレンジジュースと混ざらずに二層になるから、という理由だった。熱いコーヒーも、層を作る頃には氷で冷やされて温度は下がっていて、注ぎ終わるとちゃんとコールドドリンクになっている。いったん分かれてしまえば二層は結構しっかりキープされていて、少しくらい揺らしても混ざらずに二層をキープしている。
「なんか、夕焼け空みたいできれいですね」
わたしがそう言うと、店長の表情がぱっと明るくなった。え、なに? と少し腰が引けたが、店長がイメージしているのは、まさにお店の目の前の海に沈む瞬間の光景で、オレンジジュースが夕焼けの光に染まる海、そしてコーヒーが夜の帳が降りはじめた空、みたいなものを表現しているそうだ。メニュー名も「サンセット・オレンジ」で、お店の名前をつけている。完全に看板商品のポジションなのだが、はて? と思った。わたしがバイトに入ってから、「サンセット・オレンジ」の注文を受けたことが一度もないのだ。聞けば、全メニュー中屈指の不人気メニューで、日に一杯出ればいい方、という状態だった。お店の名前を背負ったメニューが不人気でいいのだろうか、とは思う。
「いっちゃんさ、ちょっと飲んでみてくれない?」
「え、いいんですか?」
「若い子の感性でさ、どこがいまいち、とか教えてほしいんだけど」
店長がなんだかおじさん臭いことを言ったが、そういえば店長はおじさんだった。とはいえ、若者代表のように扱われるのは正直荷が重いし、コーヒー自体もあまり得意ではないのだけれど、目の前の美しい飲み物には興味を惹かれた。じゃあ、いただきます、と、ストローを手に取ってはみたものの、まずどこからどう飲んでいいかわからない。ためしにストローを差し込んでオレンジの層だけ飲むと、そのままでは甘ったるいオレンジジュース、というだけのものだ。上の層はわたしの苦手な苦いブラックコーヒー。つまり、この二層を混ぜて飲まないといけない。店長があれだけ慎重に作った層を、ストローでぐるぐるかき混ぜないとおいしくは飲めないわけだ。
少し層の部分を混ぜると、オレンジとコーヒーの境界線が滲んで、濁る。それがなんだかもったいなくて躊躇した。海と空をぐるぐるかきまぜてしまったら、この世界はどうなってしまうのかな、などと思ってしまう。
わたしは、はい、と手を上げた。
「お客さんは、きれいなものを、きれいなまま飲みたいんじゃないですかね?」
「それだとあんまりおいしくないから」
「たぶん、今一番注文多いドリンクって、コーヒー以外はクリームソーダだと思うんですけど、すごい色がきれいだし、アイスで濁るのも最後のほうだし、基本、きれいなものを飲める、っていうのがいいのかなって」
「そっか」
店長は少し遠い目をして、カウンターテーブルに頬杖を突いた。そして、また店長らしく「エントロピーが下がることはないからな」とわたしにはよくわからないことをつぶやいた。
*
「おすすめは、スペクトル・クリームソーダです」
えー、スペ? なんて? と、一人の女性が笑ってわたしを二度見した。これです、と、メインのメニューとは別に立てかけてある夏のおすすめメニューを見せると、困惑が一転して、え、きれい、という声が上がった。夏に入ってから、一番人気のコールドドリンクは、この「スペクトル・クリームソーダ」だ。要は、ソーダの上にバニラアイスと缶詰のチェリーがちょこんと載ったアレなのだけれど、よく見る緑色のソーダだけではなく、青や赤、黄色、オレンジ、紫、藍色、といったレインボーカラーのクリームソーダの写真がメニューに載せられていた。わたしが「結構どんな色でも作れますよ」と言いながら、メニューの裏面を見せると、そこにはちょっと狂気を感じるくらいの数のカラーサンプルが並んでいる。女性四人の集団が食い入るようにそれを覗き込んで、ほんとに? ときゃいきゃいはしゃぎだした。
わたしもこれだけの色が本当に作れるのか半信半疑なのだけれど、店長曰く、濁った色や白とか黒は無理だけど、透過色なら理論上五千四百五十六色作れる、と言っていた。逆に、そんなに作れてどうするんだ、と思うけれど。
四人組の女性たちは、それぞれ、何色がいい、この色って何味になるんだろう、などと言いながら、話に花を咲かせていた。最終的に、三人の女性は、ひとりが「普通の緑でいい」と言い、もう一人が「ターコイズブルー」、もう一人が「桜色」を選んだ。色を選ぶというのは、不思議と性格が出るよな、と思う。なかなかない色を選ぶ人もいれば、定番の色を選ぶ人もいる。淡い色を選ぶ人もいるし、鮮やかな色を好む人もいる。
「ねえ、きみはどうする?」
一人の女性から「きみ」と声をかけられた女性が、メニューを見ながら、うーん、と首をひねる。どうやら「きみ」というのはその女性の名前であるようだ。女性たちのグループは同級生っぽい二十代くらいの四人組なのだけれど、この「きみ」という女性がひときわ美人で衝撃的だった。たぶん誰が見てもそう思うんじゃないだろうかと思うくらい、メイクもファッションも明らかに一番洗練されている。ノースリーブのタイトなワンピースは上品に体のラインをなぞっていて、小柄ながらスタイルのよさがよくわかる。髪の毛はロングのくびれヘア。毛先にレイヤーが入っていてとても大人っぽい。店に入ってきたときはおしゃれなサングラスもかけていて、わたしはてっきりどこかのモデルさんが来たのかと思ったくらいだった。
「私、炭酸ちょっと苦手だからなあ」
「ああ、そっか。ソーダじゃないやつ頼む?」
「すいません、ハーブティーとかありますか?」
きみさんから話を振られたわたしがメニューをめくって、紅茶のコーナーを開く。
「あ、バタフライピーあるんだ。私それにしよ」
「ホットとアイス、どちらにされますか?」
「あ、ホットで」
この暑いのにホット? という周囲の視線を感じたのか、きみさんは、私、すごい体冷えちゃうんだよね、と、先回りしてそう言った。わたしは伝票片手に注文を繰り返した後、カウンターにオーダーを伝えに行った。午後の少しまったりとした時間で、店内には先ほどの女性四人グループの他には、端の方の席でイヤホンをしてスマホをいじりながら少し遅めのランチをしているお客さんがいるだけだった。おかげで、女性グループの話し声が結構響いて、カウンター近くで待機していても会話が聞こえてしまう。
「でもさあ、ほんときれいになったよね、きみはさ」
「ねー。やっぱ東京に出ると違うね」
「そんなことないってば。でも、仕事が美容系だから、ちょっと見た目とか気をつけなきゃいけなくなっちゃって」
「高校の頃なんか、日焼けして真っ黒だったのに」
「言わないでー。そこから、めっちゃ頑張ってシミとか消したから。今日もすごい日焼け止め塗ってるからね」
話の内容からすると、四人は高校の同級生で、きみさんは東京で働いているらしい。他の人たちは地元に残っているのだとすると、もしかしたらみんな海高の卒業生かもしれない。
店長がまた理科の実験のごとくシロップを混ぜ合わせてクリームソーダを作っている間に、咲良さんがバタフライピーのハーブティーを用意してくれた。透明な耐熱ガラスポットに入ったハーブティーは、南国の海を思わせる鮮やかなブルーだ。同じく耐熱ガラスのティーカップを用意して、シュガーポットとはちみつ、レモンスライスを載せた小皿を添える。トレンチの上にすべて載せて、三点支持、などと意識しながら、わたしは四人組女子の席に向かう。
「おまたせしました、バタフライピーティーです」
やや舌を噛みそうなメニュー名を伝えながら、わたしはきみさんの横に回って、ティーセットを並べた。横に立っているだけなのだけれど、きみさんは信じられないほどいい匂いがする。香水とは違う柔らかい香りで、これはエグい、などとおじさんのようなことを考えてしまった。どうやったらこんないい匂いを漂わせる女子になれるのだろうか。
そんなことを考えているのが伝わったのか、きみさんが急にわたしを見上げて、にこりと笑った。細めた目が弓形になって、口角がふわっと上がる。まるで絵に描いたような笑顔で「ありがとう」と言われると、女子のわたしでもどきどきした。
「店員さんは高校生?」
「はい、そうです」
「地元?」
「はい」
「じゃあ、海高生だ」
「そうです」
わたしがうなずくと、全員が、後輩ちゃんだ、と、わっと盛り上がった。きみさんは、私たちも元海高生でー、もうずいぶん前だけど、と笑った。
「今の海高の子うらやましいなあ」
「え、そうですかね」
「私が通ってた頃は、こんなに雰囲気のいいカフェなかったもん」
自分が褒められたかのような気になって、わたしはなぜか、ありがとうございます、などと頭を下げて定位置に戻る。
「きみのハーブティー、めっちゃきれいだね」
「ねー。きれいなブルー」
きみさんがカップにレモンをつまみ入れて、そこにお茶を注いだ瞬間、一人の女性が、えっ、えっ、と声を上げた。何事? という感じで他の二人も、きみさんのティーカップに視線を移すと、同じように、えっ、と声を上げた。
「色変わってるんだけど!」
「うん、そうだよ。バタフライピーだから」
バタフライピーのハーブティーにレモンを加えると、それまで透き通るようなクリアなブルーだったお茶が、ピンクっぽい紫色に変わっていく。メニューには「色が変わる」みたいなことは何も書いていないので、わたしは、初めて頼んだ人が驚くリアクションを見るのが大好物である。わたしも最初に、うぇっ、というリアクションをして、何を驚く必要があるのか、みたいな店長の視線にさらされたことがあるので、驚いている人を見ると、心の中で、ですよねー、そうなりますよねー、と思って安心できる。ただ、きみさんはバタフライピーのことを知っていたようだ。
「なにこれ、マジック?」
「違うよー。学校で習ったでしょ?」
「え、習った?」
「酸性、中性、アルカリ性」
二人の女性が、あー、とうなずき、一人がまだきょとんとしている。
「リトマス紙とか、BTB溶液とかあった」
「わ、なんか懐かしっ」
やったっけ? と首をかしげる一人に、全員が、やったよぉー、と笑ってツッコんだ。わたしもそういえば、ムラサキキャベツを使った実験など小学校の頃にやった記憶がある。レモン汁を入れると、色が変わるやつだ。
「バタフライピーのブルーはアントシアニンっていう物質の色で、レモンを入れて酸性に傾くと、紫色になるんだよね」
「なんでそんなこと知ってんの?」
「アントシアニンて抗酸化ポリフェノールだから、美容の世界でも結構使われるんだ。それこそ、私のシミ消しにも使うからさあ。見るとつい頼んじゃうようになって」
「ウチら、こんなのあるって今日初めて知ったんだけど、東京だとカフェに普通にあるもんなの?」
「んー、どこにでもあるってほどじゃないけど、珍しいってほど珍しくもないかなあ」
やっぱ東京かあー、と声をそろえる四人の女性と一緒に、わたしも、やっぱ東京かあー、とため息を吐いた。わたしが、『サンセット・オレンジロード』みたいなおしゃれなカフェで働き、店長や咲良さんのようなおしゃれ上級者のいる空気を摂取していれば多少は自分も近づけるかもしれない、などと思ったのはあながち間違いじゃなくて、そういう「おしゃれ」が日本一密集している東京に出れば、わたしもきみさんのような女性になれるのかもしれない。でも、海高に通っている間はここから離れるのは無理だし、海辺町にいるわたしは、きみさんのようにはなれないのかも、と思うと、海辺町に生まれたことを呪いたくなった。もし、両親が東京に住んでいたら、今頃わたしももう少しヴィジュアルのいい女子高生になれていて、変なコンプレックスに苛まれる必要もなかった。海辺町のことは好きでいたいけれど、違う人生があったかもしれないと思うと複雑な気持ちだ。
「そういえばさ、きみはおおあみくんとはもう会ってないの?」
「え、会ってないよ。だって、大学行く前だよ、別れたの」
「今は彼氏は?」
「今は、いないけど」
「なんか、高校のときめっちゃ一緒にいたじゃん、おおあみくんと。あのまんま結婚するってみんな思ってたのに」
「え、そうなの? まあ、仲はよかったと思うけど」
きみさんなら高校時代もモテたんだろうなあ、と漠然と思っていると、勤務時間が終わって帰ろうとしていたアキラさんが、へえ、あの子「おおあみくん」の元カノなのか、と、ぼそっとつぶやいた。
なんとなく、その言葉が頭に残り続けたまま、わたしはクリームソーダを運ぶことになった。持っていったクリームソーダを見て、緑はメロン味? あとは何味? などとはしゃぐ三人の女性の中に溶け込まないまま、きみさんは開け放たれた外の風景を見ていた。
*
海沿いの道を、バイクの後ろの席に乗せてもらって走る。自転車のスピードを超えて風を切って走るのがこんなに気持ちいいというのを知ったのは初めてだ。ただ、いまいち乗りこなしかたがよくわからなくて、バイクが赤信号で停まる度に、上半身ががくんと前に倒れて、ヘルメットをかぶった頭で後ろから運転者の後頭部に頭突きをしてしまう。
「す、すいません」
「あ、いいすよ。別に」
「でも、何度も」
「店長なら、これも慣性の法則だから、とか言いそうすね」
それは言いそうだ、と思いながら、わたしは少しズレてしまったヘルメットを直す。バイクを運転してくれているのは、アキラさんだ。
先日、お店に来たきみさんという女性が頭から離れなかったわたしは、その元カレを知っているというアキラさんについ話を聞いてしまったわけだけれども、「おおあみくん」というのは、海辺町の隣町にある『大網食堂』という食堂をやっている人らしい。本名ではないようで、『大網食堂』の息子だからという理由で、ずっと「大網くん」と呼ばれているんだそうだ。アキラさんはよく『大網食堂』にごはんを食べにいくこともあって、「大網くん」とは友達らしい。ちょうど行こうと思ってたんだ、とアキラさんが言うので、あんまり深く考えずに、わたしも行ってみたい、と反応したところ、親御さんの了解が取れるなら連れていこうか、という話になった。
両親に、アキラさんは料理上手なバイトの先輩で、と説明して、おいしいお店に連れて行ってもらっていいか、と確認すると、料理が上手い人に悪い人はいないだろうから、という謎の理由ですんなりOKが出た。そこで、わたしの家の近くでピックアップしてもらい、アキラさんのバイクで『大網食堂』に行ってみることにしたのだ。
なんで『大網食堂』に行ってみたいと思ったのか、と言われると説明が難しい。自分でも何か整理がついているわけではないけれど、たぶん、あのびっくり美人のきみさんがわたしと同じ海高生だった頃、どういう感じの人だったのかを知りたい、という気持ちなのだと思う。それを知ったところで今のわたしが変わるわけではないけれど、きみさんのような誰もが振り返るような美人が生きていた世界というのがどういうものなのか見てみたい。きみさんにも海辺町によくいる普通の女子高生だった時代があるなら、わたしも東京に出ていけばそれなりにきれいになれる可能性があるのかもしれない。でも、「大網くん」がびっくりするほどのイケメンで、当時から海辺町では突然変異のような美男美女カップルだっただろうと思われるなら、絶望するだけなのかもしれないけれど。
果たして、アキラさんのバイクに乗って辿り着いた『大網食堂』は、海沿いを通る県道沿いにある素朴な雰囲気の食堂だった。たぶん、かなり古い民家を改装してお店にしていて、入口もガラガラ音のする引き戸でレトロ感がある。店名が書かれた木の看板と暖簾がなければ見た目はほぼ民家で、わたし一人だったら入る勇気が出なかっただろう。アキラさんが先頭になって店の中に入ってくれて、わたしも後に続く。外のヴィジュアルの渋さと違って、中は比較的きれいな内装だった。
「大網くん、久しぶり」
「あ、アキラさんじゃないですかー」
お店の厨房から、「大網くん」が出てきて、アキラさんと軽くハグをかわした。アキラさんがわたしを「同じバイト先の子」と紹介すると、「大網くん」が、どうも、と、わたしに向かってあいさつした。たぶん本名を名乗ってくれたと思うのだが、少し人見知りなのか声が小さくて聞こえなかった。さすがに本人を目の前にして年上の人を「くん」呼ばわりはできなくなって、わたしの頭の中では「大網さん」という呼称に落ち着くことになった。
わたしはアキラさんとテーブル席に通されて、とりあえずまずは注文をする。『大網食堂』は、もともとは大網さんのお母さんが経営していて、漁師である大網さんのお父さんが獲ってきた魚を店で出していたそうだ。その後、お父さんも引退し、店も大網さんが引き継ぐことになったが、お父さんのつながりで毎日入ってくる新鮮な魚が自慢らしい。わたしが真っ先に目が行ったのはカレーだったけれど、アキラさんに海鮮を勧められて、「地魚の海鮮丼」を選んだ。アキラさんが頼んだのは「黄金根アジのアジフライ定食」で、そっちも心惹かれる。
厨房で料理をしている大網さんは、体を鍛えているのか、腕や胸板に厚みがあってたくましい感じだった。体型に反して色白で結構童顔なので、優しそうなお兄さん、という感じがする。ただ、わたしの中のきみさんのイメージからすると、ちょっと素朴すぎるかもしれない、とは思った。勝手なことを考えていると、ほどなく料理が運ばれてきて、わたしの意識はちょっと大網さんから離れた。出てきた料理があまりにもおいしそうだったからだ。
地魚、というだけあって、マグロやらサーモンやらというおなじみの面々はいないのだけれど、名前も知らない魚がびっくりするくらい新鮮でおいしい。今が旬でアキラさんが激推しだというアジは脂がノリノリで仰け反りそうになった。口の中で溶ける食感のアジのお刺身は初めてだったし、アキラさんから一口分もらったアジフライは身がふわっふわで、お刺身とはまた違ったおいしさがたまらなかった。アキラさん曰く、「根アジ」というのは、本来、群れを作って海を泳ぎ回っているはずなのに、群れを離れて陸地に近い海に棲み着いたアジだそうで、エサが豊富なところにいてあまり泳がなくて済むのでよく脂がのって身が柔らかくなるのだそうだ。魚でも、ぬるま湯の環境でぬくぬく育つと太るらしい。ただ、食べてみればその脂の乗りははっきりわかるくらいで、正直、今まで食べた魚の中で一番おいしいんじゃないかと思った。
家からそんなに遠くないところにこんないいお魚を出す店があったのか、と感動して、思わずスマホで撮った画像を母に送った。海辺町やその周辺のことは何でも知っているような気になって、「何もない」と思っていたけれど、わたしが知らないだけで、『大網食堂』みたいなお店はあちこちにあるのかもしれない。
アキラさんに、なんで『大網食堂』を知っているのかと聞くと、アキラさんは少し離れたところにあるホテルの日本料理店に勤めていたことがあって、そこに地魚を卸していたのが大網さんだったそうだ。アキラさん自身はこの辺りの生まれではなく、高校を卒業してから日本を転々としてあちこちの料理屋さんで働いていて、たまたまここ数年、海辺町近辺に引っ越してきて働いているらしい。今も、『サンセット・オレンジロード』の他に二つの飲食店をかけ持ちしている。『サンセット・オレンジロード』では開業からずっと働いていて、一年以上同じところで働いているのは、アキラさんの中では結構珍しいことだそうだ。
「じゃあ、またふらっとどこか行っちゃうんですか?」
「いや、サンセットはもうちょっと働いてよっかなと思って」
「どうしてですか?」
「店長、面白いでしょ」
「面白い?」
「言ってること意味わからないすよね?」
「何言ってるのかまったくわからないですね」
「もともと、結構大きい企業でAIとか研究してた人らしいから、僕らとちょっと頭の構造違うんすよ。だから、料理に対しても言ってることが最高に意味わからなくて、それがすごく新鮮で勉強になる」
わたしにはアキラさんの言っていることの意味もいまいちわからないのだけれど、店長がもともとAIの研究者だった、という話はなるほどと納得した。どうやら、咲良さんも同じ仕事をしていて職場結婚だったらしく、それもものすごく納得がいった。
ランチの時間帯としてはちょっと遅めだったせいか、わたしとアキラさんがちょうどごはんを食べ終わる頃に他のお客さんがお会計をして出ていって、店内にはわたしたちと大網さんだけになった。ちょうどいい頃合い、と思ったのか、アキラさんが、大網くん、と声をかけた。
「大網くん、前に飲みに行った時、高校のときに付き合ってた子が忘れられないって泣いてたじゃない?」
「えっ、うぇっ」
大網さんがわたしをちらりと見て、あっという間に茹でたカニのような顔色になっていく。いきなり知らない女子高生の前で酔った時の秘密を暴露されたら恥ずかしくてたまらないだろうと思うのだけれど、アキラさんは天然で悪気なくそういうことを言っているのではなく、ものすごくナチュラルに大網さんをイジっているようだ。アキラさんも店長に負けず劣らずなかなかクセが強いなとわたしは内心震え上がった。なにしろ、香取先輩のことをシラコがバラしてしまっているので、アキラさんにはすでに秘密を握られているのである。
「いやあ、あの時はすごい酔っぱらってて」
「それが、その子、“サンセット・オレンジロード”に来ててさ」
「え、なんで俺の元カノってわかったんですか」
「一緒にいた友達に名前呼ばれてたって。きみ、っていう名前」
「マジですか」
アキラさんから話を振られて、わたしがきみさんの特徴や一緒にいた友達の話をすると、恥ずかしそうにしていた大網さんの顔色がだんだん変わっていった。おそらく、わたしが見たきみさんは、大網さんの元カノであるというきみさんと間違いなく同一人物であるようだ。
「それは、確かにきみちゃんかも、と思いますけど」
「余計なお世話かもしれないんだけど、伝えておいた方がいいかなって」
「すみません、ありがとうございます。でも、まあ、もう別れた相手なんで」
「泣くほど引きずってるなら、一回話したらいいと思うよ」
「まあ、お酒のせいですよそれは。それに、向こうもちょっと実家帰ってきただけで、もう東京に戻ってるんじゃないですかね」
わたしとアキラさんが、思わず顔を見合わせて、うーん、と唸った。
「それがさ」
「はあ」
「ここ十日ぐらい、毎日ウチの店に来てるんだよね」