穴はすでに膝下くらいの深さになっていた。膝と腰がとにかく痛い。もう少し掘り進めれば、それを埋められる深さにはなりそうだった。それまでに、彼女が求める答えを見つける必要がある。
勇気が必要だ、と星野さんはぼくに言った。それはきっと、悪い方ではなく良い方に考えろという、彼女なりのヒントだろう。
でも、この状況をどうやったら、良い方向に考えることができるのだろう?
もう一度、彼女の言葉を思い出す。
〈わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由〉。
どうして「今日」なのだろう、とふと思う。
考えてみれば、このタイミング自体が不自然だ。修了式のせいで学校は午前中で終わり。おまけにぼくは引っ越しの前日。荷造りで忙しいかもしれないし、友達と遊びに出かけているかもしれない。突然電話をかけてきたところで、ぼくがたまたま暇を持て余している可能性は低い。星野さんだって、それくらいのことは考えるはずだ。
それなのに、電話口の彼女の声には、確かな自信が宿っていた。絶対にぼくが電話に出るはずだと──呼び出しに応じるはずだと確信していたようだった。
星野さんはぼくの予定を知っていたのだ。正確に言うなら、ぼくに予定がないことを知っていた。ぼくが誰からも、何にも誘われていないことを知っていたのに違いない。
それは、つまり──。
「星野さん」ぼくは彼女の不意を突くように訊ねた。「これは誰のアイデアなの?」
「何のこと?」
星野さんはとぼけた表情で訊き返した。でも、そこには微妙なわざとらしさが滲んでいて、その顔を真っすぐに見据えると、彼女はすっと目を逸らした。
やっぱりだ。このゲームは星野さんだけのものじゃない。
「星野さん」
ぼくはシャベルを地面に刺し、両手を離した。穴から這い出し、彼女と目の高さを合わせる。北東から吹いてきた風が、彼女の髪をふわりと乱した。
大きく吸い込んだ息が、肺に留まる。いざ口にしようとすると、言葉がなかなか出てこなかった。
「何?」促すように、彼女が訊いた。緊張した声だった。
ああ、とため息がこぼれる。
良い方に考えるって、自分ごとだと、結構しんどい。
ぼくはもう一度息を吸い、言った。
「本当はさ、寄せ書きが欲しかったんだ」
「寄せ書き?」
「うん」ぼくは頷いた。「ごめん。さっきは嘘ついた。今日のお別れ会、満足だって言ったけど本当は違う。嬉しかったのは間違いないけど、満足なんてしてないよ」
星野さんは静かに頷いた。知ってたよ、と言うように。
「正直に言うと、寄せ書きくらいもらえるだろうって思ってた。それくらいは、みんなに好かれてるつもりだったんだ。当てが外れて、がっかりしたよ。でも、どこかで納得してる自分もいた」
爪先を土に刺す。もがいている小さな蟻を、靴底で踏んで地面に押し込む。
「星野さんは昔、ぼくのことをいい人だって言ってくれたけど、違うんだ。いい人なんかじゃなくて、誰かと仲良くするのが怖いだけ。誰とも仲良くできないから、いいところしか見ないし、見せられない。だからまあ、当然だよね。寄せ書きなんてもらえるわけないよ。だって、誰とも仲良くなんてなかったんだから」
「そんな風に思ってたの?」
「うん。そんな風に思ってた」
口の中が乾いていた。土埃で喉が痛い。爪の隙間に土くれが入って気持ち悪かった。
「でもさ……」ぼくは顔を上げた。「違うんでしょ?」
「違うって?」
「知ってるくせに」
「うん」星野さんは言った。「でも、東くんが言わなくちゃ」
言いたくなかった。
だって、そんなの……恥ずかしすぎる。
「どうしても、言わなきゃダメかな」
「そういうルールだもの」
ぼくは両手を強く握った。
「つまりさ、ぼくが思っていた以上に、みんなはぼくのことを友達だと思っていたんだ。ぼくの転校が悲しかったし、寂しかった。仲良くないなんて、ぼくの勘違いだった」
彼女は何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
「答えはサプライズパーティ。みんなでぼくのために、本当の送別会を準備してるんだ。違う?」
沈黙が下りた。
火照った耳たぶを、北からの風が冷ましていく。息を吸うと、夜の先触れの匂いがした。
ぱちぱちぱち、という音が響く。星野さんの手のひらが、夕暮れの空気を鳴らしていた。
「でもさ、そうだとしたら、この包みは何?」と星野さんが訊く。
「星野さんが作ったダミーでしょ。物置小屋にあったブルーシートをそれっぽく丸めて、ロープで縛っただけ。だいたい、本物の死体ならもっと深く埋めなきゃ意味がないもの」
「わかんないよ」彼女はわざとらしくにやっとした。「最初から隠すつもりなんかなくて、東くんに共犯になってもらいたかっただけかも。ロマンチックじゃない? そういうのって……」
「穴掘りはただの口実」
星野さんの歪んだユーモアを無視して、ぼくは続けた。
「時間稼ぎだよね。ぼくを家から引き離すことが出来たら、何でもよかった。大事なのは、時間が来るまでぼくをここに留めておくこと。だから、星野さんはずっと時計を気にしてたんだ。もうすぐ準備が終わって、パーティが始まる時間になるから。あんまり遅くなると、心配して誰かが様子を見に来るかもしれないしね」
おそらく、クラスの全員がぐるなのだろう。それなら、星野さんがぼくの予定を知っていたことにも説明がつく。何しろ、みんなが共謀しているのだから、遊びの予定が入るはずもない。
思えば、両親の様子も変だった。母さんはずっと台所にこもっていたし、父さんは不自然にそわそわしていた。リビングの荷造りを一番後回しにしていたのも、引っ越しの段ボールをそこに置きたがらなかったのもそれが理由だ。二人とも、パーティのことを知らされて、協力していたのに違いない。
「きっと、言い出したのは坂下くんあたりじゃないのかな」
ぼくはそうあたりをつけていた。彼は本当にいいやつなのだ。
「サプライズパーティだからね。ぼくに気づかれないように、内緒で準備していたんでしょ? でも、学校でも何かしないと流石に不自然だから、ホームルームの時間を使ってあっさり済ませたんだ」
彼女は黙って頷いた。否定も肯定もしなかった。
「星野さんが妙に余所行きの服を着てるのは、これから直接パーティに向かうつもりだから。ぼくにだけ穴を掘らせてるのも、それが理由だよね。ぼくは自分の家で着替えてシャワーを浴びればいいけど、星野さんはそういうわけにはいかないから」
ぱちぱちぱち。
再び、空気が震える。三月の大気はまだ冬のそれで、相変わらず乾いていたけど、少しだけ春の湿り気を帯び始めてもいた。
「──それが、東くんの答え?」
ぼくは頷いた。
刹那。ほんの一瞬だけ、星野さんは躊躇うような表情を見せた。それから、口元に微笑みを浮かべてぼくを見た。
「安心していいよ」彼女は言った。「寄せ書き、ちゃんとあるから」
「じゃあ、正解?」
「うん」
ぼくは大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。よかった、と心の底から思う。もし間違っていたら、自意識過剰の恥ずかしいやつになるところだった。天を仰ぎ、夕空を見上げる。汚れた雑巾みたいな雲が、黒々とした送電塔に引っかかって茜色の空に浮かんでいた。
「ねえ、東くん」
呼びかけられて、顔を戻す。星野さんの真剣な顔が目の前にあった。スカートの裾を丁寧に押さえ、ぼくの正面にしゃがんでいる。
「一つだけ教えてあげる。君は、君が思っている以上に、ちゃんと人に好かれてるよ。自分のことを冷たいとか、そんな風に思わないで」
「でも」ぼくは肩をすくめた。「淡泊なのは事実だし」
「それって悪いこと?」
星野さんは立ち上がり、スカートの裾を払った。
「いいじゃない、他人のことを詮索しない、深入りしない。それって、優しさだと思う。東くんのそういうところに救われた人も、きっといたんじゃないかな」
くるり、と星野さんが背を向ける。一瞬見えたその横顔に、ぼくは思わず息を止めた。シャベルを拾おうとした手が空を切る。心臓が肋骨を強く打った。
星野さんは笑っていた。でも、それは全てを諦めたような、かなしい笑顔だった。
「──星野さん」ぼくはゆっくりと訊ねた。「あのさ、本当に正解なんだよね?」
「そうだよ」
違う。
ぼくは直観した。これが正解でいいはずがない。だって、星野さんはさっきからずっと、張りつめたような──今にも壊れてしまいそうな、脆い偽物の笑顔のままだ。
「みんな待ってるよ。急がないと──」
「待って」
気づいたときには立ち上がって、彼女の腕を掴んででいた。星野さんがびっくりした顔でぼくを見る。頬が熱くなるのを感じたけど、手は離さなかった。そうしていないと、彼女がどこかに消えてしまいそうな気がした。
「あと一回」ぼくは言った。「三回だったよね。答えるチャンス。まだ、一回残ってる」
ぼくは星野さんを見た。星野さんもぼくを見た。不安げな、落ち着かない目をしていた。
そう。ここに来たときからずっと、彼女は様子がおかしかった。妙にはしゃいでいるように見えたかと思えば、時々どうしようもなく不安げな表情を覗かせたりもしていた。なぜだろう? 最初は人を殺した後だからだと思った。アドレナリンか何かで、様子がおかしくなっているのだと思った。でも、違う。この包みは死体じゃないし、彼女は人を殺してない。それなのにどうして、こんなに落ち着きのない様子なのだろう? いったい何に緊張しているのだろう?
考えろ、と自分の脳みそに言い聞かせる。ぼくは何を間違った?
星野さんはぼくに嘘を吐かない。だから、たった今口にした二つ目の答えが正解であることは事実だ。正解だけど、不完全。事実だけど、真実ではない。まだ、何かが足りないのだ。
問題文は何だった?
〈わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由〉
呼び出した理由は、ぼくを家から遠ざけておくため。場所が〈水なし沼〉なのは、たぶん人目につかないから。なぜ今日なのかと言えば、引っ越しの前日で、送別会を開くにはうってつけの日だから……。
そこまで考えて、閃くものがあった。
どうして、星野さんなのだろう。ぼくを家から引き離すことが目的なら、別にその役目は彼女でなくともよいはずだ。それこそ、幼馴染の由佳の方が適任だろう。由佳なら、ぼくを呼び出すのにこの場所を選ぶ説明もつく。でも、ぼくを呼び出したのは、他の誰でもなく、星野さんだった。
「ねえ、東くん」
ぼくの心を読んだように、星野さんが囁いた。
「本当はね。この役、有賀さんがやるはずだったんだ」
ようやくぼくは気がついた。
今日は三月十四日。ホワイトデーの当日だ。
5
二月十四日は雨だった。その日の昼休み、星野さんは少し遅れて図書室に来た。
「ごめん、遅れちゃった」
上がった息を整えながら、貸出カウンターに腰を下ろし、足元にどさりと鞄を置く。半開きになった鞄のチャックの隙間から、ラッピング袋らしきビニールの角がちらりと見えた。
「いいよ。別に誰も来ていないし」
「ふうん。じゃ、二人きりだね」
ぼくは何も言わずに目を逸らした。星野さんも、ぼくに顔を見られないよう、なぜかそっぽを向いていた。
図書室は静かだった。もともと利用者は多くないけど、今日は輪をかけて誰もいない。きっと皆、何かと忙しくしているのだろう。
加湿器が電子音を鳴らし、タンクが空になったことを告げる。ぼくは立ち上がり、タンクを外して廊下に出た。男子トイレの手洗い場で水を注ぐ。たぷ、たぷと波の音がした。
ぼくが図書室に戻ると、星野さんは読んでいた本から顔を上げた。図書室の暖房のせいか、顔が赤い。
「ねえ」と星野さん。
「何?」
「もらった? 誰かから。チョコレート」
「ううん、まだ」
「まだ、ね」彼女はくすっとした。「これから、もらうつもりなんだ」
「そういうわけじゃないけど」
ぼくは誤魔化すように答えて、彼女の隣に腰を下ろした。いつもより、椅子の距離が近い気がする。でも、動かす気にはなれなかった。
「お相手はお母さん? それとも妹かな」
「一人っ子だよ、ぼくは」
ムキになって言い返すと、星野さんのくすくす笑いがひどくなった。むっとして、頬杖をついて顔を逸らす。
「言っとくけど、もらう当ては他にもあるから」
家に帰れば、どうせ由佳が義理チョコをくれる。毎年のことだ。
「へえ、そうなんだ」
「うん」
「それ、断って」
「え?」
か細い音を立てて、加湿器が蒸気を吐き出した。
「だから、断って。受け取らないで」
「でも……」
「なんて、ね」彼女は笑った。「冗談だよ。本気にした?」
「いや、本気も何も、そもそも意味がわからないし」
「甘いもの、嫌い?」
「嫌いじゃないけど。何なのさ、いきなり」
「じゃあさ、一緒にこれ、食べない?」
星野さんは足元の鞄から、透明な袋を引っ張り出した。真っ赤なリボンが袋の口を縛り、中のチョコレートは元の形がわからないほどに砕けていた。
「どうしたの、それ」
「友達からもらったんだけど、落としたら割れちゃって」
淡々とした口調でそう言って、星野さんは貸出カウンターの下で袋を開けた。甘い香りが鼻をつく。
「ここで開けない方がいいよ」ぼくは忠告した。「誰か来たら匂いでバレちゃう。校則違反でしょ、それ」
「うん。だから一緒に食べようよ。一人で怒られたくないし」
星野さんは袋に手を突っ込むと、一際大きな欠片を掴んで、ぼくの手のひらに押しつけた。チョコレートの表面がじわりと溶け、ぼくは自分の熱を自覚する。
「ほら。早く食べないと溶けちゃうよ」
ぼくは諦めて、手のひらのチョコレートを口に入れた。とても甘い。でも、その奥に少しだけ確かな苦味が混ざっていた。
「これで共犯だね」
小さな欠片を口にして、星野さんは嬉しそうに呟いた。
二人分の影が、掘りかけの穴に沈んでいく。
今日がホワイトデーだということを、ぼくはすっかり忘れていた。由佳のせいだ。引っ越しの準備で忘れるといけないからとか、適当な理由をつけて、バレンタインのお返しを早めに渡すよう要求してきた。そのせいで、すっかり終わったものだと思い込んでしまったのだ。
夕暮れの中、蛙の声が寂しげに響く。
星野さんは、ぼくの手を振り払わなかった。ほっそりとした手首に、血管の筋が浮いている。生きている、とぼくは思った。馬鹿みたいな感想だけど、それ以上のことが考えられなかった。
あの日、鞄に入っていたチョコレートが、誰からもらったものなのか、星野さんは最後までぼくに教えてくれなかった。クラスの友達なのか、部活の友達なのか。それとも、はじめからそんな友達はどこにもいなくて、彼女の吐いた嘘だったのか。
もしも、あのチョコレートが友達からもらったものでなく、彼女自身が用意したものだったとしたら。誰かに渡すためのそれを、うっかり割ってしまったのだとしたら。
その相手は、誰だったのだろう。友達か、それとも──。
「星野さん」
「何?」
彼女の声は震えていた。握った手を通じて、その震えがぼくに伝わる。
「えっと、その──」
やっとのことで、声を絞り出す。喉がからからに渇いていた。手足の先が奇妙に痺れて、感覚がない。まるで宙に浮いているみたいだ。
「三つ目の答え、言ってもいいかな」
「うん」彼女は大きく息を吐いた。「でも、これが最後だよ」
「大丈夫」
ぼくはもう間違えない。
右手に力を込め、彼女まであと一歩の距離に近づく。地面に目をやると、長く伸びたぼくらの影が、互いに触れ合っているのが見えた。
形の良い、彼女の耳が目の前にある。ほんの少し波打った髪が、その耳を半分隠している。今にも飛び出しそうな心臓を呑み下し、やっとのことで、ぼくは最後の答えを囁いた。
「──何それ」彼女はふき出した。「告白みたい」
「うん」
「それが、東くんの答え?」
「うん」
「本当に、その答えでいいの?」
「うん」ぼくは頷いた。「でも、星野さんが嫌なら──」
不安にかられ、離れようとしたぼくの手を、星野さんが強く掴んだ。
「正解」
彼女は優しく微笑んだ。帰宅を促す防犯チャイムの音が響く。調子の外れたそのメロディを聞きながら、ぼくは初めての恋を噛み締めた。
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