「本日はお忙しい中、このような会を開いていただき誠にありがとうございます。突然のことで申し訳ございませんが、このたび親の介護のために地元へ帰る運びとなりました。入社してから十八年間、上司や同僚の皆様方に支えられ、大変多くのことを学びました。ここで培った経験を活かして、新しい環境でも精進してまいります。手短ではございますが、皆様方のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。本当にありがとうございました」

 そう言い終えて一礼すると、形式的な拍手がぱらぱらと送られた。

 私と交代で席を立った幹事の男性が乾杯の音頭を取ると、会場のみんなが待ちわびていたかのようにグラスを掲げ「かんぱーい!」の合図で場が一転して明るくなった。周りの席の人たちと乾杯を済ませると、私は一仕事終えたような気持ちになって、ゆっくりと周囲を見渡しながら手に持っているビールにちびちびと口をつける。

 転出者と転入者をまとめて祝うこの歓送迎会は毎年三月に開催される恒例行事で、私は三月末に退職する〝転出者〟としてこの場に出席していた。

 地元の大学を卒業してすぐ東京へ引っ越してきて、就職してから一度も転職することなく十八年間勤めたこの会社を去ると思うと少しだけ感慨深い気持ちが込み上げてくるけれど、それよりも、工業用品を取り扱う中堅の専門商社の経理として特にこれといったやりがいや不満を抱くこともなくただ流されるまま十八年という時間を過ごしてしまった事実に〝果たしてこれでよかったのだろうか〟という考えが頭をもたげる。かと言ってやりたいことがあったのかと聞かれても思い当たるものなんて何もなくて、仮に今から見つけられたとしても四十歳の私には時すでに遅しだ。

 隣の卓からどっと笑いが起こる。反射的に視線を向けると、他部署からこの経理部に異動してくる若い女性社員が転入者として座っているテーブルだった。彼女の周りだけ、やけに雰囲気が明るい気がする。

 私のテーブルはというと女性は自分しかいなくて、先ほどの乾杯を終えてからは特にこれといった共通の会話もない。近くに座っている男性社員たちはみな隣同士でちまちまと固まって談笑しながら、卓上に並べられた大皿のサラダやら肉やらのありきたりの料理に手を伸ばし、沈黙を避けるように当たり障りのない感想を言い合ったり、たまに沸き起こる周囲の盛り上がりに羨ましそうな視線を向けたりしている。

 自意識過剰だと分かっていながら、微かに申し訳ない気持ちが芽生えた。きっと〝ハズレの席だ〟とか思われているのだろう。一刻も早くみんなに酔いが回って、入れ替わり立ち替わりで席を移動しながら酒を飲み交わす無礼講の喧騒に紛れてしまいたい、と心の中で念じていたところ、

「潮田さん、何か飲まれますか」

 突然、隣に座っていた男性に名前を呼ばれて「え?」と間の抜けた声が出てしまった。

「あっすいません、突然話しかけてしまって」

「あ、いえ私の方こそ、ぼーっとしてて、すいません」

「あの、僕もちょうどおかわり頼もうと思っていたところだったんで」

 もしよろしければ潮田さんも、とその男性が言って、ドリンクのメニューを私に差し出してきた。ゆっくり飲んでいるつもりだったけれど、率先して会話をするでもなく、周囲の談笑に終始曖昧な笑みを浮かべることの他にすることがないまま黙々と酒を飲んでいたので、気づけば手元のグラスはほぼ空になっていた。

「お気遣いありがとうございます。えっと……じゃあ、ウーロンハイにします」

「分かりました」

 男性が手を挙げて店員を呼び止め「すいませーん、ウーロンハイ二つお願いします」と言い終えると、店員に向けていた身体の向きを私の方にすっと変えて「あの、」と口を開いた。

「人事異動見たとき、潮田さんが退職されると知って、本当にびっくりしました」

 今度は冷静な「え」の声が出た。話しかけてくれたこの男性は、確か私より五つくらい年上の青あお羽ばさんという方だ。基本的に物静かで、私が言えた口ではないがとりたてて特徴のない彼が二年前に私の所属する経理部に異動してきて以来、特にこれといった職場での騒ぎや私との交流も一切なく今日この日を迎えていたので、彼の口から〝びっくり〟という言葉が出たことに少々面食らって、

「あ、いや、その、突然の退職ですいません……。しかもこの繁忙期にご迷惑をおかけして、本当に申し訳ない限りです……」

 と、途切れ途切れに言葉を返す。

 私が所属している経理部は、決算関連事業や株主総会がある三月から六月が繁忙期なので、この三月末のタイミングで欠員が出ることがどれほどのダメージであるかということは入社以来十八年間経理をやってきた身として痛いほど分かっていた。異動による欠員は同じように他部署からの異動で賄われるけれど、会社の退職申告時期である九月を過ぎてからの申告については新規採用の確保が間に合わないので、大抵の場合しばらくの間欠員状態が続く。今年の一月、つまり今から二か月ほど前に突然退職を申し出た私にはそういう後ろめたさもあって、本来なら溜まっていた有給休暇を消化できるはずの三月もこれまでどおり出勤し、最終日の三十一日まできっちり働いて少しでも会社に報いることに決めたのだった。

 そういうわけで青羽さんの〝びっくりしました〟にはおそらく〝これから忙しくなるこのタイミングで突然退職するなんて非常識過ぎてびっくりしました〟という皮肉が込められているに違いないと思い、彼の真意を掘り下げることはせず、とりあえず今は謝罪に徹するべきだと考え、

「最終日までしっかりと働かせていただきますので、本当にすいません」

 と、へこへこ頭を下げる。すると、青羽さんは胸の前で手をあせあせと振りながら「いや、あの、違うんです」と一言一言絞り出すようにして声を発した。

「もし誤解されているようなら、訂正させてください。あの、決して責めているわけじゃないんです。ただ、潮田さんが退職されると知って、その何というか、本当に驚いてしまって」

 退職を責められているわけではないのなら逆にどう反応していいのか分からず、「はあ」という声が出そうになる気持ちを一旦抑えて返答を考えている私に、青羽さんが労ねぎらうような笑みで付け加えた。

「それにご迷惑だなんて、そんなこと気にされないでください。潮田さんもご両親のことでお忙しくなるでしょうから」

「両親?」

「あ、いや、先ほどの挨拶で確か〝ご両親の介護〟とおっしゃっていた気がして」

〝介護〟という言葉を聞いて私は一瞬ぽかんとする。そしてすぐに思い出した。そうだった。上司に退職を相談したときも、そして先ほどの退職の挨拶でも、親の介護という理由で話を〝通して〟いたのだった。

「ああ、介護のことですね。そうなんです。二つ上の姉がいるんですけど、姉はずっと実家と疎遠なので、私が地元に戻ることになりました」

「なるほど。潮田さんは、これまでずっとこの会社で?」

「はい。二十二で上京して、この歳までずっと、ですね」

「それなら潮田さんが久しぶりに帰ってこられて、ご両親もきっと喜んでいらっしゃるでしょうね」

 社交辞令のように発せられた青羽さんの言葉に私も「はは、まあ」と形式的な愛想笑いで返すと、まるで会話の終わりを見定めたかのように「お待たせしやしたぁ、ウーロンハイお二つでーす」といかにもアルバイトのような風貌をした若い男性店員がぶっきらぼうに言いながら私と青羽さんの間にグラスを二つガンッと置いた。

「すいません、私、お手洗いでちょっと抜けます」

「あっどうぞどうぞ。あそこの扉を出て、すぐ右手側の奥にありましたよ。お気をつけて」

「ありがとうございます」

 隣に座っている青羽さんに小さく頭を下げてから席を立ち、酒が回って段々と乱れ始めた喧騒の隙間を縫うように「すいません、後ろ通ります」と小さく声を発しながら外に出る。板張りの広い廊下は、宴会場とは打って変わって静かだった。ぐっと酸素が濃くなったような気がして、私はそこでようやく深い息を吸い込んだ。

 そのまま廊下の突き当たりにあるトイレに行って用を足し、他に誰もいないことを確認してから、少しだけメイクを直そうとポケットからリップを取り出しておもむろに洗面台の前に立つ。

 綺麗に磨かれた鏡に、自分の顔がくっきりと映し出されている。ここ最近忙しく、今日が久しぶりの飲酒だったせいか、あるいは滅多にない大人数の飲み会に緊張していたのか、いつもならなんてことないビール一杯で割と酔いが回って頬がほんのりと紅潮していた。

 酔いが手伝って何となくいつもより恐怖心が薄れていた私は、洗面台の鏡に映る自分の顔を試しにまじまじと見つめてみる。目尻の細かい皺、たるんでぼやけ始めた輪郭、うっすらと浮かび上がるマリオネットライン、所々に目立つシミや白髪の数々。年々衰えている視力でも、目の前の〝老い〟がはっきりと確認できた。頬を赤らめている自分が途端にバカみたいに思えて、水で濡れた両手をパンッと頬に当てて顔面を冷ます。

 東京に来てから十八年。私がここで培ってきたものは、今この目の前にある〝老い〟だけだ。これといった恋人も作らず友達も持たず、かといって自分のために贅沢にお金を使うわけでもなく、うんと長い時間をかけて死んでいくように生きてきた。何かに没頭するでもなく、そして深く絶望することもなく、〝ここじゃないどこか〟にぼんやりと思いを馳せながら、この歳になるまでひとりで生きてきてしまったのだ。

 就職を機に上京してきた当初は、この東京という街でなら自分の人生を変えることができるかもしれないという淡い期待があったけれど、都会の圧倒的な複雑さに付いていくことだけで精一杯で、会社とアパートを往復する満員電車の毎日で精神と体力は次第に擦り減っていった。それでも最初の頃は貴重な休日に胸を高鳴らせながら知らない場所にわざわざ足を運んでみたり、地元では出会えなかったような人種と友達になってみようという思いで精力的に行動してみたりしたものだったが、性根が内気で人見知りな人間にとっては東京のレジャーはどれも高カロリーなものばかりで、そして友達を作ろうにも職場以外のコミュニティを見つけられず、その唯一の職場でも人間関係は驚くほどさっぱりしていたことから結局誰とも深い関係を構築できず、外出そのものに段々と腰が重くなった私は休日の大部分をベッドの上かテレビの前で過ごすようになった。派手にお金を使う動機も気力もなく、それでも東京という街で暮らすだけでお金は流れるように無くなっていくので、たまの贅沢と言えば休日の夜に少しのアルコールを買ってきて、割引されたスーパーの総菜やらスナック菓子やらをテーブルに並べてひとり宅飲みをするくらいだった。そしてネトフリ、アマプラ、YouTubeといったインスタントな娯楽が世の中に流行してからは輪をかけて出不精が加速し、買い物もほとんどをネットショッピングで済ませるようになるとついには仕事以外の用事で外に出る機会がほとんどなくなった。平日は会社に出勤して、休日は一日中家に籠ってドラマやアニメを見ながら、夜にはそこに安酒が加わり、あっという間に一日が終わる。決して満ち足りているわけではないけれど悲観するほどの不満や絶望もない単調な日々。それでも、東京にいればいつかきっと何かが訪れるはずだ、なんて都合のいい妄想に縋すがって、私はいくらでも惰性に浸った。複利で増えていく惰性の毎日で時間は着々と過ぎ去っていき、いよいよ中年と呼ばれる年齢が目前に迫ってきたあたりから〝このままじゃダメだ〟という焦りがさすがに芽生え始めたけれど、そんな焦燥感も手近な娯楽ですぐに紛れて、あとは無限ループのようにごまかしの毎日を懲りもせず続けた結果、とうとうひとりで四十歳を迎えてしまったのだ。家族も友達も、何も持たずに。

 来月には地元の田舎に帰って、始まってもいない人生がまた振り出しに戻る。駒を進めたところで、山も谷もない緩やかな下り坂を、ただ長い時間かけてまっすぐ下りていくだけのあまりに退屈な人生ゲーム。ここじゃないどこかに私のゴールがあるはずだと常々考えているけれど、そもそも私が本当に行きたいところなんて、実はこの世のどこにもないのかもしれない。

 トイレを出て宴会の場に戻ると、さっきまで私が座っていた席には例の若い女性社員が座っていて、隣にいる青羽さんや周りの男性社員たちに笑顔でお酌をしているのが見えた。

 

『パーティーはいつか終わる』は全4回で連日公開予定