3
坂下くんがそれを見たのは、先週の金曜日のことだったらしい。夕方の遅い時間で、校舎にはほとんど人気がなかった。彼はたまたま忘れ物を思い出して、部活が終わった後で教室に立ち寄ったそうだ。
そこで、星野さんを見た。誰もいない教室でゴミ箱の前に座り込み、ビリビリに破いた答案用紙をこっそり捨てている彼女の姿を。何の教科かまではわからなかったけど、テストの答案用紙だったことは間違いない、と彼はぼくに教えてくれた。
もちろん、それが彼女自身の答案とは限らない。誰か別の生徒のテストを破いて捨てていた可能性もある。でも、他人の答案用紙を破くことに意味があるとは思えないし、何よりそんなことを星野さんがするわけないと、坂下くんは知っていた。
「ちょっと心配だよな」彼はそう言って眉をひそめた。「あんまり落ち込んでなきゃいいんだけど。ほら、星野の親ってアレだろ」
坂下くんはいいやつだ。ぼくの代わりに学級委員を引き受けてくれたし、今日のお別れ会を企画してくれたのも彼だ。きっと、ぼくなら上手く彼女をフォローできると考えて、こっそり教えてくれたのだろう。
残念なことにそれは買いかぶりで、彼女をどう励ませばいいのかなんて、ぼくにはまったくわからなかった。
「二人が心配してくれていたことはわかったけど」
ぼくの話を聞いた星野さんは、困惑したように目を細めた。
「だけど、それでどうしてお父さんを埋める話になるの?」
「星野さん、さっき嘘を吐いたよね」
言いながら、彼女の反応を窺う。星野さんは腕時計に視線を落とし、また戻した。
「学年末テスト、ひどい成績を取ったんでしょ? わざわざ答案用紙を破いて捨てたくらいだもん。いい点数だったわけがないよ。お父さん、すごく厳しいらしいじゃない。前に一回、部活を辞めさせようとして学校に電話をかけてきたって聞いたよ。今回の学年末は来年の高校受験に繋がる大事なテスト。それなのに、ひどい点数を取ってしまった。だから破いて隠そうとしたんだ」
「それって意味ある? 答案を見せろって言われたら終わりじゃない?」
「うん。だから、言い争いになった。違う? 下手に隠そうとした分、余計に怒られたんじゃないかな。また部活を辞めさせるとか、そういう話になったのかもしれない。お互い冷静じゃいられなくなって、それで……」
ぼくは二人の足元に転がったブルーシートの塊を見つめた。風が吹き、シートの端がバタバタとはためく。視線を戻すと、生々しい彼女の脚の傷が見えた。
「きっと、事故だったんだと思う。揉み合いになって、転んで頭を打ったとか……。とにかく、星野さんはお父さんを死なせてしまった。だから、死体を埋めるのを手伝ってほしくて、ぼくをここに呼んだんだ」
右脚の傷口は新しく、滲んだ血はまだ乾ききっていない。おそらく、他にも何か所か怪我をしているのだろうとぼくは思った。痛みを感じていない様子なのは、アドレナリンのせいに違いない。
「すごい!」
星野さんは楽しそうに手を叩いた。
「すごいよ、東くん。そう来るとは思わなかった」
「それって……」
「うん。ひとつも合ってない」彼女は苦笑いを浮かべた。「そもそもわたし、テストの点数は良かったって言ったよね?」
「でも、それは嘘で……」
「わたし、東くんには嘘つかないよ」
星野さんは一歩近づき、ぼくの顔をまっすぐに見つめた。
「それじゃゲームにならないもんね。テストの点数は良かったし、もちろんお父さんと言い争いもしてない。そもそも、お父さんが学校に電話したのって、別に成績の話じゃないし。部活辞めろとか、そういう話もされてないよ。テストだって破いてないから、それは坂下くんの勘違いだね」
「……じゃあ、お父さんを殺してないの?」
「当たり前」星野さんはふき出した。「第一さ、その推理には無理があるよ。わたしがお父さんを殺したとして、どうやってここまで死体を運んでくるの? 自転車で二人乗りでもする?」
確かに、彼女の言う通りだ。中学生の女の子が、大人の死体を一人で運べるわけがない。
でも、だとしたら。
彼女はこの包みを、どうやってここまで運んできたのだろう?
「まあ、チャンスはまだ二回あるから」慰めるように、彼女が言う。
「でも、もう他に思いつかないよ。星野さんが殺す相手なんて」
「わたしが人殺しなのは確定なんだ」
苦笑いしながら、彼女は言った。
「まあいいけど。それよりほら、掘って掘って。早くしないと時間がなくなっちゃうよ」
ぼくはため息を吐き、再びシャベルを手に取った。なんだか一気に疲れた気分だ。肘の関節が鈍く痛む。頬を伝った汗の粒が重力に引かれて落ちた。彼女の言葉を反芻しながら、自分の置かれた状況について考える。
待てよ。
ぼくは手を止め、再び物置小屋の周りをうろつき始めた星野さんを横目で見た。
そもそも、どうして穴掘りなのだろう。ぼくが星野さんの立場だったとしたら、死体を運ぶところから手伝ってほしいと思うはずだ。彼女自身が言っていたように、一人で死体を運べるはずがないのだから。それなのに、星野さんはわざわざ自分で死体を運んでから、ぼくを呼んだ。
誰の手も借りたくなかったのだろうか? でも、それなら穴掘りだって一人でやるはずだ。どうにもちぐはぐで、辻褄が合わない。
気になることは他にもあった。一つは、彼女が時間を気にしているらしいことだ。何度も腕時計に目をやっているし、さっきも「早くしないと時間がなくなる」と口にしていた。もちろん、早く穴を掘り終えないと日が暮れるとか、そういう意味かもしれない。でも、本当に死体を埋めるのなら、人目につかない夜の方が適しているはずだ。〈水なし沼〉は滅多に人が来るような場所ではないけど、それでも万が一のことを考えるなら、日が沈んでからの方が絶対にいい。星野さんが、それくらいのことに気づかないはずはなかった。
きっと、別の理由があるのだ。なるべく早く、このゲームを終わらせなければならない理由が。
「ちょっと休憩」ぼくはシャベルを置いて腰を伸ばした。「そのへんを歩いてきてもいい?」
「五分だけね」少し迷って、彼女が答える。「あんまり遠くに行かないで。心配だから」
「大丈夫。そこの物置を見てくるだけだよ」
その瞬間、星野さんの表情がはっきりと変わった。
ぼくはズボンについた土を払い、五メートルほど先にある物置小屋に向かった。周りには、星野さんの足跡がたくさん残っている。数が多すぎて、何かを隠しているんじゃないかと思えるくらいだ。
気になっていることは、もう一つあった。このゲームの問題文だ。〈わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由〉を当ててほしいと彼女は言った。ぼくの言葉を律儀に訂正したということは、この表現自体に意味があるのに違いない。そして、この問題文には死体のことも、穴掘りのことも含まれていない。正解の条件は、あくまで彼女がぼくを呼び出した理由を当てること。つまり、地面に転がったブルーシートの中身を当てるだけでは不十分ということだ。
あるいは別の可能性もある。この包みはただのミスリードで、ゲームの答えには関係がない、ということも。
物置小屋はほとんど寄木の残骸だった。昔はもう少し綺麗だった記憶があるけど、この数年で一気に劣化が進んだらしい。横板は何枚も腐り落ち、トタン屋根が危なっかしく柱の上に載っている。少し押しただけで、扉は簡単に開いた。錆びた蝶番が音を立てる。
小屋の中は薄暗く、隅の方は影になってほとんど何も見えない状態だったけど、予想に反して空気は綺麗だった。土埃が一斉に舞い上がるようなこともない。とはいえ、散らかり具合は相当なものだった。プラスチック製の青いバスケット、錆だらけのペンキ缶、柄の折れたチリトリと箒、斜めに倒れた脚立。様々なガラクタが小屋中に散らばっている。風で倒れたにしては、派手すぎる散らかり方だった。まるで誰かが小屋の中で暴れ回ったか、あるいは何かを捜し回った後みたいだ。
ぼくは薄闇の中で目を細め、あたりの様子をじっと見つめた。記憶の中の物置小屋と、何かが違っている。たぶん、物が多すぎるのだ。散らかっているからそう見えるだけなのか、それとも……。
壁の隙間から差し込んだ夕陽が、黒い染みのような何かを照らしていた。壊れかけた棚のそばで膝をつき、目を凝らして正体を探る。乾き始めた誰かの血だった。棚の柱に付着している。
記憶が蘇ったのは、その時だった。点と点が、鮮やかに頭の中で繋がっていく。ブルーシートがないのだ。ぼくと由佳が秘密基地に使っていた頃、小屋のガラクタ類はブルーシートで覆われていた。物が増えたように思えるのは、そのシートがなくなったせいだ。いったい、どこに消えたのか?
決まっている。星野さんだ。ぼくを呼ぶ前に、小屋の中を物色したのだろう。小屋にあった材料を使って、あれを作り上げたのに違いない。右脚を怪我したのもその時だ。
「五分ぴったり」
足早に小屋を出て戻ると、彼女がほっとした声でそう言った。
「星野さん」ぼくは彼女に訊いた。「この包み、持ち上げてみてもいい?」
「ダメ。言ったでしょ。触ったら反則だって」
やっぱり、そうだ。瞬きをして、足元の青い包みを見つめる。さっきまで死体袋にしか見えなかったそれは、今やすっかり不気味さを失っていた。
死体なんかじゃない。おそらくこれは、彼女がぼくとのゲームのために作り上げた、ただのダミーだ。触ったら反則というルールも、それを隠すためだろう。いくら見た目をそれっぽく作れたとしても、実際に持ち上げればすぐにバレてしまう。
第一、本気で死体を隠したいのなら、たとえばもっと山奥の、確実に見つからない場所を選ぶはずだ。穴だってもっと深く掘らなければ意味がない。浅い穴でも構わないというのはつまり、本当は死体を隠す気がない──つまり観念している──のか、そもそも死体ではないかのどちらかだ。
だいたい、とぼくは思った。星野さんが人を殺すわけ、ないじゃないか。
「わかったよ、星野さん」
ぼくは自信に満ちた表情で口を開き──そして閉じた。
ダメだ。星野さんが人殺しじゃないとわかったところで、問題の答えにたどり着けなければ意味がない。むしろ、振り出しに戻ってしまったとさえ言える。これが死体でないのなら、どうしてぼくはこんなところで彼女とゲームをしているのだろう?
「ちょっと待って」ぼくはシャベルを強く突き刺した。「もう少しでわかるところだから」
「ふうん。ま、急いでね。時間がなくなっちゃう」
時間。また時間だ。
何をそんなに急いでいるのだろう。これが死体埋めでなくただのゲームなのだとしたら、それこそ急ぐ理由なんてないはずだ。
「ねえ、この後なにか予定でもあるの? 随分急いでるみたいだけど」
「まぁ、あると言えばあるかな。はっきりとは言えないけど」
つまり、とぼくは思った。この後に控えている〝予定〟が問題の答えに関係しているのだ。でも、彼女の予定なんてぼくにはわかりようがない。
「確認なんだけど、このゲームって考えれば解けるようになってるんだよね? そんなのわかりっこないって答えだったりしない?」
「解けると思うよ」彼女は笑いながら唇を噛んだ。「東くんに、ちゃんと向き合う勇気があればね」
「勇気?」
その言葉で思い出す。
いつだったか、彼女と話した名探偵の条件を。
4
但野くんがぼくらの教室を訪れたのは、夏休みが終わってすぐのことだった。
「ちょっといいですか」
「どうしたの?」
「秘密の話があって」
ぼくらを呼び出した彼の声は、緊張で震えていた。教室を出て、制服姿の男女でごった返した廊下を抜ける。校舎を出て、理科室へ向かう渡り廊下を歩いていると、わずかな秋の匂いがした。
理科室の隣には小さなビオトープの池があった。夏場は蚊やブヨが大量に湧くせいで、滅多に生徒たちは近寄らない。内緒話にはうってつけだと、ぼくらをそこに案内してくれたのは星野さんだった。
「時々、昼休みに来るんだよね」と彼女は言った。「教室にいたくない時とか。結構いいよ。静かだし、そこの石に座って本とか読めるし。この季節はまだ虫が多いけどね」
細身のトンボが目の前を横切り、尻尾の先で水面を叩く。波紋が広がり、アメンボの足跡と混じり合った。
「それで? 急にどうしたの? 図書委員の相談とかじゃないんでしょ」
「その……、これが机の引き出しに入ってて」
彼はジャージのポケットから薄いブルーの封筒を取り出し、ぼくに渡した。封筒と同系色の便箋が、四つ折りになって入っている。ぼくらは彼に許可をもらい、それを読んだ。今日の放課後、旧校舎の裏に来てほしい、という内容の文章が書かれていた。
「これって……」ぼくはためらいながら訊いた。「ラブレター、的な?」
「ぼくは悪戯だと思います」
但野くんは断固とした口調で言った。
「ただ、先輩たちの考えも聞きたくて。東先輩は、人間の善意が見抜けるんですよね?」
「いや、別にそういう能力者とかじゃないんだけど……」
「星野先輩はどう思いますか」
彼は探るような視線を星野さんに向けた。
「ごめん。わたしにもわからないな」
「そうですよね」
落ち着いた様子の星野さんに、但野くんは少しだけ落胆したようだった。
「心当たりはないの? こういう手紙をくれそうな相手とか」
「なくはないです、けど。夏休みに一緒に遊びに行った子とか」
「じゃ、その子じゃない?」
「でも、ぼくらが二人で遊びに行ったこと、クラスのやつらはみんな知ってるんですよ。だから、そいつらの悪戯じゃないかと思うんですよね」
「ちなみに」とぼくは訊いた。「それって、どっちから誘ったの?」
「向こうからですけど」
但野くんは再び星野さんの方をちらりと見た。
「でも、普通に遊んだだけですよ」
なるほど。
ぼくは唸りながら、もう一度手元の便箋を見返した。駅前の文具屋で買えそうな、何の変哲もない便箋だ。たぶん、細いボールペンを使ったのだろう。繊細そうな整った字が並んでいる。
「何となく、女の子っぽい字のような気はするね」
「そんなの、何の根拠にもならないですよ。こういう悪戯、女子だってノリノリでやるじゃないですか」
「そうだね」星野さんは訳知り顔で頷いた。「女子のいじめは結構えげつないからねぇ」
あまり知りたくない話だ。ぼくは話題を変えるため、別の手掛かりを探し始めた。封筒の方には、特に何も書いていない。差出人の名前も、宛名さえなかった。
「一番怪しいのは」と彼は言った。「自分の名前を書いてないってとこです」
「単に、緊張して書き忘れたのかも」
「そんなことありますかね」
「わかんないけど」ぼくは但野くんに向き直った。「とにかく、ぼくは悪戯なんかじゃないって思うけどなぁ」
「まあ、先輩はそう言いますよね」
「但野くんは悪戯だって信じてるんだよね? それって、何か根拠があるの?」
「ないですけど」但野くんは俯いた。「あんまり、他人を信じないことにしてるんです。他人に信じてもらえない人生だったので」
「ぼくは信じるよ」
「じゃ、例えば昨日の夕方に幽霊を見たって言ったら信じます?」
「それはまた別の話かな……」
「──但野くん」
星野さんが急に改まって彼に言った。
「じゃあ、こう言ってあげればいい? 手紙を信じなさい。今日の放課後、書かれた通りに旧校舎の裏に行くこと。ちゃんと相手に向き合ってあげて。これは先輩命令です」
途端に、但野くんの首に赤みが差した。ぼくの手から便箋と封筒を引ったくり、ポケットにねじ込む。失礼しますと短く言って、彼は足早に池を去った。
「どうしたのさ、急に」彼の背中を目で追いながら、咎めるように彼女に訊く。「良かったの? あんなこと言っちゃって」
「いいんだよ。但野くんだって、ああ言ってほしいから、同級生じゃなくて、わざわざ先輩たちのところに来たんでしょ」
「そうなのかな」
よくわからない。ため息を吐いて、池の縁にしゃがみ込む。アメンボたちの作る輪っかが重なりあい、複雑な波模様を生んでいた。
「……難しいよね」
ぽつり、と彼女が言う。
「悪い方に推理するのは簡単なんだ。外れたって誰も悲しまないし、なーんだ良かったね、でおしまいだもん。でも、良いことを推理するときは違う。外れたらがっかりするし、悲しいし、恥ずかしい。だから、すごく勇気がいる」
ああ。そうか、と思う。
だから、但野くんは頑なに悪戯だと信じていたのだ。手紙を信じて、裏切られるのが嫌だから。最初から悪戯だと信じておけば、きっと傷つかずに済むはずだから。
「但野くん、ミステリ好きでしょ。わたしもそうだから、気持ちがわかるんだ。ミステリってさ、ひどいことばっかり起こるんだよ。推理すればするほど、どんどん悲しい真実が明らかになるの。そういうのってね、すごく楽。世界では悪いことしか起こらないって思うと、とっても安心できるんだ。変だと思う?」
「変だとは思わないけど……」ぼくは躊躇いながら答えた。「でも、悪いことばっかり考えてたら、やっぱり悪いことしか起こらないんじゃないかな。名探偵なら、幸せな推理もできるようにならなくちゃ」
手紙は悪戯かもしれないし、本物かもしれない。悪戯だと思っていた方が、気持ちは楽なのかもしれない。でも、本物だと信じることでしか、手に入らない真実もあるはずだ。希望を持たなければ、幸せは掴めない。たとえそれが、目と鼻の先にあったとしても。
「だから、あんなことを言ったんでしょ」ぼくは星野さんの顔を見上げた。
「上手くいくといいけど」と彼女は言った。
「きっと大丈夫だよ」とぼくは答えた。
けれど、それから一か月間、但野くんはぼくらと口をきいてくれなかった。
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