二十五年目の正直

 

 人生で一度だけ、人を裏切ったことがある。そのことに触れずに生きていくこともできたが、今なら逃げずに向き合える気がして、書いてみようと思う。

 

 これまでの人生、多種多様なことで表彰されたり賞を貰ったりしてきたが、後にも先にも腰丈ほどある巨大なトロフィーを貰ったのは、中学三年生の時だけだ。毎年開催される鳥取県中学校優勝弁論大会の二十九回大会で、私は優勝した。作文のタイトルは「私にとっての一歩」。祖母が発した部落差別に立ち向かった私の話だ。出たくて出たのではない。ある日職員室に呼び出され、お前の作文は出来が良いから弁論大会に出ろと言われたのだ。各中学校が生徒を一人選出せねばならないなか、私に白羽の矢が立ったらしい。悪い気はしなかった。それでも練習をほぼしないままに出場したのは、単純に弁論に興味がなかったし、練習と大会の時間は堂々と学校をサボれることだけが楽しみだったからに他ならない。私の優勝に一番驚いていたのは引率した国語教諭の中尾先生で、「あなた、凄く練習してきた人もいっぱいいるのに運がいいわね。でも文章は上手だったから」と言われた。「運がいい」「文章は上手」にすっかりいい気になって気づかなかったが、よくよく考えてみると皮肉だったのかもしれない。

 

 それでも、文章が上手だから全校生徒の前で改めて表彰状を渡されたりもすれば、私には文才があるのだと、十五歳時分の私が思い上がるのは無理もない。以降も作文や小論文の課題が出る度に、得意分野だと認識して取り組み、それは大抵褒められた。

 

 思春期真っ只中の私は、いつも特別な誰かになりたかった。合唱のピアノ伴奏だとか、体育祭のクラス旗のデザインとか、自分の能力が発揮できそうなことにはいつも張り切った。そんな、高校生らしい毎日が過ぎていたある日、頭を殴られたような衝撃を覚えた出来事が起きた。その日、テレビのニュースを賑わしていたのは、十七歳の現役女子高生が「文藝賞」を受賞したという快挙。文学賞に詳しかったわけではないが、そんなのは、大人たちが腕を競い合う何かだと思っていた。そこに、私とさほど歳の変わらない女の子が選ばれた。無いと思っていた次元が突然現れ、身体に閃光が走った。その時私は十六歳だった。

 

 図書館で借りてきた「インストール」を読んだ。読み終わってしばらく呆然とした。自分のご自慢の文章が酷く幼稚なものに思えて恥ずかしくなった。同時に、そんなに大したこともないな、などと生意気にも思った。十代の思考なんてそんなものなのだから仕方ない。読み終わった後、私にだって書けると思った。私もあんな風に世間に旋風を巻き起こしたい。そんな衝動に駆られて、見様見真似で書き始めた。

 

 大人が書きそうな文体で、あるいは文学賞を取りそうな高校生のような筆致で言葉を紡ぐ。最初の方は大体とんとん拍子で進んだ。書ける書ける、私にも書ける。そう勢いに任せて進めていくも、いつも必ず途中で筆が止まる。どこに向かっているのかわからない。いや、どこに向かうべきかは何となくわかるものの、そこまでの何万字もの隔たりを、どうやって埋めればいいのかまるでわからなかった。

 

 そんな調子で、書き始めては躓く、という煮え切らない文章を何度か書くうちに、飽きてしまった。途中で投げ出してはまた、合唱曲のハモリを作曲したり文集の挿絵を描いたりすることに勤しんだ。それでもことあるごとに書くことへの衝動はぶり返した。金曜ロードショーの「耳をすませば」で、雫が受験勉強そっちのけで文章を書く姿を見た時に。あるいはMr. Childrenの「君が好き」の歌詞の巧さに惚れ惚れした時に。何かが自分の琴線に触れる度、真っさらなルーズリーフを引っ張り出してきては、湧き出る感情に名前をつけようとした。それでもやっぱり、私はいつも、最後まで書けなかった。

 

 日大芸術学部だけを受験したのは、音楽の勉強もできて、その上総合芸大の刺激的な環境に身を置けると思ったからだ。安アパートを改造し、自室で現像をする写真学科の友人や、下北の本多劇場でステージに立つ演劇学科の友人らに感化され、私も何かをやりたいと思った。ひょんなことで武蔵野美術大学の連中とつるんでいた時期もある。NORAというクリエイター集団に参加し、今や漫画家として大活躍するかっぴー氏が創刊編集長を務めた美大生のためのフリーマガジン「PARTNER」に影響を受け、私も雑誌を作ろうと思った。

 有志の同級生らと、日芸生のためのフリーマガジン「NUAnce」を創刊した。評判も出来も上々。私は誌面デザインの他、卒業生へのインタビュー記事や編集後記を執筆し、それから自作の詩もこっそり寄稿した。やりたいことの全てが詰まったことのように思えた。それなのに私はまた、続けることができなかった。

 

 書くことは、社会人になってからも形を変えては私に付き纏った。レコード会社に入社して宣伝部に配属されると、新曲宣伝用のチラシに書く文言だとか、ライブのレポート執筆などの業務が私に回された。なるべく多くのニュースメディアに拾ってもらえるように、タイトルや出だしに頭を捻る。上司や先輩はいつも、「タキは文章をまとめるのが上手いなあ」と褒めた。その度に私は、そんなことは知っているのだけどと思った。

 

 東日本大震災をきっかけに退職の意を固め、今度こそ自らで作り出す人になるのだと決意した時、真っ先に私の頭をよぎったのは書くことだった。大した形も成せぬまま、いつも中途半端に褒められて、中途半端に能力を発揮してきた。世界に飛び出し、ありったけの自由を手にいれて、見たことも聞いたこともない景色や出来事に巡り会えば、きっと書かずにはいられない。私は書けなかったのではない。一度も本気を出したことがなかっただけなのだ。

 

 そんな、私の人生の新しい章をスタートさせる、とびきりの名案を思いついた。世界を旅しながら、リアルタイムでマガジンを発行しよう。訪れる国ごとに、その美しさを写真に収め文章に綴り、誰かに届けよう。旅を終えたらそれを書籍にして、写真展だって開こう。そんな壮大な野望を、私はクラウドファンディングに託すことにした。

 

 何かが欲しいとこんなにも声高に叫んだのは、人生でこれが初めてのことだったと思う。Facebookに渾身のメッセージを載せ支援を呼びかけ、Twitter(現X)でも拡散をお願いすると、多くの友人知人が迷いなく呼応してくれた。それは紛れもなく、頑張れよのエール。人生の舵を百八十度大きく切った私への、大好きな人たちからの餞別だった。

 瞬く間にプロジェクトは広まり、見知らぬ人たちをも巻き込んで、私は目標金額を達成した。

 

 何が待ち受けているのかわからない。どこに辿り着くのかもわからない。それでも私の心は希望に満ちていた。たくさんの人の応援を背に、新しい章への出場通知を握りしめ、私は成田空港に立っていた。二〇一四年一月四日、友人たちに見送られる中、私は日本を後にした。

 

 世界遺産や壮大な自然を目指しては、何ひとつ見落とすまいとカメラを構え続けた。何の変哲もないローカルのストリートを目的もなく歩いては、心躍る出会いを待った。その全てを、私の感性というフィルターを通して、言葉にしたためようとする。したためようと何度もした。でも、筆は思ったようには進まなかった。私が今まさに見ていること、感じていることを言葉に変換しようとするも、うまくその輪郭を掴むことができない。

 不意に過去がフラッシュバックして虚を衝かれる。私はこの感覚を、知っている。この、書けない無音に、余りにも身に覚えがある。途端に、この旅の醍醐味だと思っていたはずのことは、巨大な重りに姿を変えた。

 

 それでも粘った。何日も宿に籠っては、納得のいく文章が出来上がるまで粘った。そうやって、もしもゆっくり時間をかけて向き合うことが出来たのなら、違う結果になっていたのかもしれない。けれど旅の進度は、私の閃きを待ってはくれなかった。歩みが遅くなればなるほど旅の資金は減り、訪れることのできる国も少なくなる。リターンで約束した二十冊を遂行するためには、書くことも旅をすることも、どちらも同時進行で進めなければならない。気づけば三ヶ国前、五ヶ国前と、あとにしてきた国に追われるように書いていた。リアルタイムでこの世界の美しさを届けることを約束したプロジェクト。相変わらず思うように書けない自分と、どんどん滞っていく冊数に、息苦しくなっていった。ただの自分だけで掲げたプロジェクトなら、またいつものように早々に見切りをつけていただろう。だけどそうはいかなかった。多くの人に応援と支援をお願いしたのは私なのだ。もう上手くいかないことは自分が一番よくわかっていたけれど、どうやって切り出していいのかも、どうやって責任を取ればいいのかもわからなかった。マガジンを作るために貰った資金は、約束通りにマガジンを出すこともできぬまま、旅の資金に蝕まれていった。

 

 世界のどこかで黄昏れているような気分を、味わってもらいたい。そう願って名付けたリアルタイムマガジン「タソガレタイムス」は、第十号のドイツ・ポーランド編を最後に、誰にも何も説明せぬまま発行を停止した。自分の未熟さを晒す勇気もなく、旅を途中でやめて補償をする責任感も持ち合わせられないまま、私はただ、旅の中にじっと息を潜めた。誰からも問い合わせがきませんようにと願いながら、日本からどんどんと遠ざかった。自分の無能さと弱さ、そして狡さに打ちのめされながら。こんなにも恵まれた環境を手にしてなお、まるで書けない自分に、心底失望しながら。私には、書く才能なんてなかった。

 

 

 心に時限爆弾を抱えたまま、何事もなかったかのように私は旅を続けた。一ヶ月、二ヶ月、半年、一年。誰にも触れられぬまま時間が経つにつれ、私の罪悪感も鈍化してゆき、この出来事を思い出さなくなっていった。というより、もう二度と振り向かないようにした。それと引き換えに、私は日本に帰れなくなった。掲げた目標を果たせぬまま、どの面して帰れというのだろう。それに帰りさえしなければ、まだ模索している最中でいることができた。何かを見つけるまでは、帰れない。そうやって、意地になってひたすら旅を続けた。途中イギリスに立ち寄り治験でお金を貯め、オーストラリアにワーホリに行きお金を貯め、何度も旅に舞い戻った。一年半の予定だった旅が四年になる頃、私は遂にアフリカで、やりたいことを見つけた。

 

 ケニアでファッションブランドを始めようと奔走していたある日、一件のメールが届いた。嫌な予感がした。本文に並ぶ、「クラウドファンディング」「マガジン」の文字に息が止まる。動悸が走り、携帯を閉じ、ベッドに傾れ込んだ。それはある支援者の方からの、現状確認の問い合わせだった。

 

 返金して赦してもらえるのなら、今この瞬間にもそうしたかった。でも銀行口座の残高は、開かなくたって私が一番よく知っている。返せる余裕はなかった。ベッドから微動だにすることができなかった。返信は、できなかった。

 

 私はその人を裏切った。見知らぬ女性の新しい挑戦を応援しよう、と思ってくれたその人の、期待を踏みにじり、時間もお金も持ち逃げだ。支援してくれた人たちだけではない。私は大切な人たちを裏切った。行方を見守ってくれていた友人知人にも沈黙を貫いて、あたかも何事もなかったように振る舞い続けた。この間、この事実がなくなったことなど一度もない。静かに蓋をして触れてこない彼らの優しさを逆手に取り、誤魔化してきただけだった。

 

 そうして謝罪も説明も果たさぬまま、私はファッションデザイナーに転身した。

 

 

 服を作り始めて七年経ち、四十歳を迎えようとしていたその年、私は性懲りもなく、新しく何かに挑戦したいと思っていた。人生も後半戦だからこそ、腰を据えてやってみたい、何か。そう思い耽っていたら、それがまだ、私の側にいた。書くこと。何度も何度もやろうとして、やり遂げたことのないこと。無責任に放置して、一度も直視できなかったこと。そのことに、もう一度だけ向き合ってみたい。最後に書こうとしてから十年。今の私なら、書けやしないだろうか。

 そう筆を取り直し、持ちうる全てを詰め込んで、一篇の随筆を書いた。その文章は大きな賞を受賞して、私はエッセイの本を出版することになった。四十一歳で、念願の作家デビュー。十六歳の私が憧れたことが、遂に実現する。沢山の人に祝福され、与えられたチャンスを噛み締めながら、私は怖かった。なぜなら知っている。本はただ完成したりしない。私が書かなくては出ない。

 打ち合わせでは、書籍化を見据えて連載が始まることが告げられた。締め切りという言葉に古傷が疼く。私はまた、誰かを失望させてしまわないだろうか。喜びと不安は境界線もなく、私の中を蠢いた。

 

 原稿の執筆作業が始まると、案の定筆が止まった。何を書くべきなのか。何が求められているのか。そんなことばかりに囚われ自らを追い詰めては、余計に苦しくなる。迫り来る締め切りを前に気持ちだけが逸り、丁寧に感情を掬うことができない。環境を変えたり、気分転換に出かけたりしては焦りを飼い慣らし、最後の最後で閃いて、なんとか締め切りに間に合った。そうして安堵する間も無くまた、次の締め切りが立ちはだかる。必死に食らいつき、焦って、粘って、何とかまた書き終える。

 そのまた次の原稿も相変わらず進まない。今度こそ間に合わないと、自分を缶詰めにすることにした。庭が綺麗なコテージを借りて二泊三日。静けさに身を置き日常を脱すれば書けるはずと、一人朝から晩まで向き合えど、途中で止まったワードファイルは積み上がるばかり。遂に一篇も完成しないままチェックアウトを迎えたその朝、ホストが滞在はどうでしたか? と笑顔で尋ねる。よかったです、と上の空で答えながら、私は絶望していた。こんなことなら来るんじゃなかった。締め切りにはもう間に合わない。

 すると、本当に締め切りの問題だろうか、と過去の私が言う。そうか。私にはどうせ書けやしないのか。投げ出してしまおうか。このままフェードアウトしてしまおうか。

 

 

 でも私はもう、逃げたくないのだ。書けない私からも。自分の弱さからも。狡さからも。償うことからも。何度やっても竜頭蛇尾の書く人生を、もう繰り返したくない。

 

 呆然としながら、担当の田中さんに締め切りに間に合いそうにない旨をメールした。

 では連載を一回スキップしましょうか、と言ってくれた。

 

 

 私はまだ、書いている。今でも書けない日が続くと、やっぱりと疑う自分がいる。それでも私は、書きたい。

 

 だから私は今日、これを書いている。これからも書き続けるために。もうどこにも逃げ隠れしないように。もう二度と手放さないように。

 

 

タキアユミさんの連載『明日死んでもいい、そう思えるほどに今日を生きたくて。』は、今秋書籍化が決定! 詳細は双葉社公式サイトよりお知らせしていきます。刊行をどうぞお楽しみに!