空はスピカの領域だ。
まだらな銀の髪をなびかせて、鳥よりも高く、雲よりも速く、身体ひとつで風を切る。
免疫管理剤にメラニンを壊された皮膚の下、これでもかと埋め込んだ増設神経と人工の強化筋肉が、燃えるような夕焼け色を映したカメレオンステンレス製の義翼を大きくしならせる。震えるほどに湧き上がる感覚が孤独と怖れであることを、彼女はまだ知らない。
西に広がる大陸のはるかな地平に、夕日が沈もうとしている。東の空が暗くなるにつれ、眼下の六番ユニオンの明かりは強く、濃くなっていく。壊滅した列島と社会機能が失われた大陸のはざま、東洋の荒波に浮かぶ人工島は、輝く三日月のようだ。そんなに美しくないことくらい、スピカだってよく知っている。それでも、遠くから見ればだいたいのものは美しい。
〈──ごきげんよう、六番ユニオンのクソ市民。ラットラジオが午後七時をお知らせするよ。今晩も明日の朝も明日の夜も、うんざりするほどの暑さだ。軍部が公開してる記録だと四日前にまとまった雨が降ったことになってるけど、降ってないよな。貯水槽の残量がまずいから検閲修正が入ったってことか。このまま日照りが続くと、公称百二十万人の市民がカラッカラに干上がっちまうかもしれない〉
耳殻に仕込んだマイクロイヤホンから、突風の轟音に紛れて機械合成音声が聞こえてくる。違法ラジオのパーソナリティ、ラットの声だ。いまどきめずらしい重加工が丸わかりの性別不詳な音声に、スピカは耳を澄ます。
一般市民の情報発信は六番ユニオンでは書記法違反だ。ここでは、軍部の検閲と修正を経た情報しか、存在を許されない。音声だけなのに書記法違反というのはおかしい気もするけれど、とにかくラットのラジオ配信はそこそこの重罪になる。
〈そうだ、今夜はラジオネーム夢見るドブネズミから音楽のリクエストが届いてる。「熱帯夜を吹き飛ばすいい感じの曲をおねがい」って、漠然としすぎだろ。選ぶこっちの身にもなれよ〉
文句を言いつつも、ラットはこれから流す音楽を楽しそうに紹介する。WW3の終戦よりも前──つまりは二百年よりもっと昔に作られた音楽のデータサルベージに、ちょうど成功したところらしい。八十年ほど前に世界のほとんどを滅ぼしたWW4よりも古いデータは、しかるべき機関にしか復元許可が下りていないから、このサルベージもまた、重罪だ。こういうことをしているから、ラットはスピカが六番ユニオンに流れ着いた二年前にはすでに、軍部から指名手配されていた。夜警のたびに違法電波を受信している元不法移民の自分をさておいて、ラットが一生捕まりませんようにとスピカはいつも思う。
音楽が流れ出す。
スピカが知らない楽器の音が聞こえる。この音を奏でる楽器が、今も存在するかはわからない。この歌声の持ち主は、スピカが生まれるよりずっと昔に生きて死んだ。二十二歳のスピカとそれほど年が変わらないであろう若い女の声は、みずみずしくきらめいている。
この声がなにを歌っているのか想像したところで、答えはわからない。WW3からWW4への戦間期からゆっくりと時間を掛けて、言葉は共通言語に切り替わった。古語となった言語を学のないスピカが知っているわけもないし、六番ユニオンでは軍部検閲局の言語学者くらいしか、かつての言葉を理解できない。
スピカにできるのは、歌声や楽器の響きから込められた思いを想像することだけだ。
だけど、それでもいいような気がする。
なにを歌っているかはわからなくても、心地よい旋律に乗ったさまざまな音は、スピカの空を彩った。沈みゆく夕日も瞬きはじめる星々もいっそう美しく見えるし、身体に吹きつけ体力を奪っていく強烈な風すら不思議と心地よく感じる。
風は歌う。鳥も歌う。雨が降れば、雨も歌う。
そこに昔の人間の音楽が加わるのは、スピカの大きな楽しみだ。音楽好きのラットはよくサルベージした古い音楽を放送してくれる。
ふと、マイクロイヤホンから流れる音楽を割いて、着信音が響いた。左人差し指にはめた指輪型端末に触れると、連携した電子義眼に通話通知のマークが表示される。せっかく、曲が盛り上がってきたところだったのに。
「こちらスピカ」
奥歯に埋めたマイクを起動して声を発する。一連の流れは、息をするようにスムーズだ。身体機械化をはじめたのは、もう五年も前。生来の順応性も手伝って、付け加えたパーツは生まれ持った手足のようにスピカの身体になじんでいる。
『こちらイル。きみに依頼がきたんだけど』
マイクロイヤホンから、事務所で待機するイルの声が低く響く。スピカはまばたきのリズムで電子義眼のモニターを切り替え、時間を確認した。この友人だってわかっているだろうが、今日の受付時間はもう過ぎている。
「急ぎか?」
『基本料に加えて、会いに来てくれたらチップを五万ユニ追加って言うし、早めに知らせないと怒られると思って』
「五万ユニかぁ」
六番ユニオンで都市中心部のまともな大人が一日働いて得られる賃金の目安が五千ユニ。五万ユニは、チップとしてはかなり高額だ。
『しかも、実際に依頼を受けて成功したら追加で十万ユニ』
「依頼人の居場所は?」
食い気味にスピカが尋ねると、通話の向こうでイルが苦笑いした。
『知らせておいてあれだけど、ちょっとあやしくない? なんていうか、場所が場所なんだよ』
「多少危険でも、まあ、なんとかなる。わたしだから」
自信たっぷりにスピカは言い切った。イルの苦笑いがため息に変わって、電子義眼にマップが表示される。遠隔操作が入ったらしい。
イルが独自に構築した六番ユニオンの立体マップ上でポインターが示すのは、北のスラムのはずれだ。北スラムは軍部に追われる犯罪者や、六番ユニオンへの不法移民がうようよいる場所で、無法地帯という言葉がよく似合う。イルが「場所が場所」と言った理由がわかった。
だけど、十五万ユニも余分にもらえるなら、アリだ。
「北スラムには行ったことがない。ナビを頼む」
『受けるんだ。あそこ、スピカが思ってるより治安悪いけど』
「おまえが生き残ったんだから大丈夫だろ」
スピカが言うと、イルが不満そうに『僕が育ったのは西スラム』と訂正した。似たようなものだとスピカは思う。
『とにかく……危ないと思ったらすぐに逃げろよ。金ばっかり優先せずに。合言葉は先方がきみに伝えるって。〈言葉が種になる〉』
通話が切れ、眼内モニターのマップに着陸推奨地点からの経路が表示される。WW4のころに打ち上げられた人工衛星は、地上の管理者を失ったことも未曾有の戦争が終わったことも知らずに、宇宙空間で自己修復を繰り返し、最新データを発信し続けている。その情報を拝借しているおかげでイルのマップは詳細らしい。スピカには、自分が飛ぶより高い場所に人間が物体を飛ばせるなんて信じられない。こちらの無知をからかう作り話ではと疑っている。
着陸推奨地点を目指しながら、スピカはちらっと西の空に視線を向けた。
夕日はもう、地平線の向こうへ消えた。つやつやとした紺碧の夜空に、細かな星が輝いている。
そこからひとつ、星がこぼれ落ちる。
星の光を追いかけるようにして、スピカも地上へ急降下した。
『燃える夜空に星ちりばめて』は全3回で連日公開予定