北スラムにある廃ビルの屋上に、スピカは降り立った。
今にも崩れ落ちそうに不穏な音を立てる外階段を使って地上に下りる。ふと一瞬、風に乗って血と貧困と病魔をまるごと煮詰めた嫌なにおいがした。行く当てのないならず者ばかりを寄せ集めたゲリラ部隊と似たにおいだ。昔の記憶がカードを切るようにしてよみがえる。だけどあんなもの、振り返る価値はない。
ナビに従って狭い路地を行く。
前時代的にもほどがある裸電球が点々と照らす路地の片隅では、小さな子どもが二人、ぼろ布にくるまって身を寄せ合っていた。どちらも痩せっぽちで、もとの色がわからないほど肌が汚れ、暗がりに浮かび上がるみたいに白目がらんらんと光っている。身なりで、スピカがスラムの外から来たことに気づいたのだろう。子どものうち、少しだけ身体の大きい方がそっと割れた器を差し出した。小さい方が、器を差し出している子の左手をぎゅっと握りしめている。
「……親はどうした」
スピカは尋ねた。小さい方が少しうつむく。大きい方が首を左右に振る。
「そうか。わたしも同じだ」
ボディバッグを漁ってみると、携行食糧のパックが五つ、水のパウチが二つ入っている。ぴりっと注意を張り巡らせるが、周辺にスピカが勝てないほど強い人間はいない。
「ほら、仲良くわけろ」
スピカがボディバッグの中身を二人に渡すと、二人のうち大きい方が「ありがとう」と小さな声で言った。小さい方も「ありがとう」とそれに倣う。声がそっくりで、姉妹だとわかった。
物陰から、がさ、と音がする。殺意がこちらに向いたのを、スピカの全身が理解する。
「五秒間だけ、目を閉じろ」
ズボンのベルトに仕込んだナイフをホルダーから引き抜いて、スピカは姉妹に命じた。
よく研いだナイフの刃が裸電球のあかりを浴びてぎらりと光る。振り返れば、ねじれた釘をこちらに向かって振りかぶる男の姿を夜間モードの電子義眼が捉えた。小柄で痩せたスピカからすれば見上げるほどの大男だが、姿勢が素人くさい。
それに、
「釘じゃあ、わたしには勝てない」
ナイフをホルダーに戻しながら、上半身と同じく強化筋肉を移植した左足を振り上げる。狙い通りにブーツの先が男の右手を蹴り飛ばした。釘が飛んで、遠くから金属が転がる音が響く。
「貴様」
男はさも強そうな顔を作って、負け惜しみみたいに言った。強そうな、とスピカに思われた時点で雑魚だ。若い女が的確に攻撃してきたことに驚いたのだろう、すっかり怯んでいる。やはり、ガタイがいいだけの素人だ。そろそろ逃がしてやってもいいが、まだ二秒残っている。どうしようか。
「まあ、わたしに喧嘩を売ったのが悪いな」
以前イルに見せられた頭蓋骨の標本を思い出しながら、左足をもう一発、今度は顎関節を狙って強めに当てる。ぐあっ、と濁ったうめき声が響くのと同時に、軍部払い下げのブーツに仕込んだ鉄板がいい角度で当たった手応えがした。
「……もういい?」
姉妹の妹の方が小さく尋ねる。「ああ」とスピカは泡を吹いて昏倒した釘男を物陰に転がしてから応えた。物音を聞きつけて寄ってきた、暗闇の向こうのオーディエンスのなかに、スピカを追撃してやろうなんてやつはいないだろう。
「わたしがそばにいるうちに食べろ。身体に入れたものは奪えない」
「でも」
姉の方が携行食糧のパックを握りしめる。次にいつ、こうして食べ物を手に入れられるかわからないから、なるべく長持ちさせたいのだ。その気持ちはスピカにはよくわかった。
「また持ってきてやるから。絶対だ。約束する」
周囲の人間が聞き取れないくらいの声でスピカが囁くと、姉妹はぱっと表情を明るくして携行食糧を食べはじめた。見知らぬ大人の言うことを信じられる程度には、まだ希望を失っていないらしくて安心する。同時に、この調子ではすぐに死ぬな、と思った。
ずいぶん腹が減っていたのだろう、姉妹はあっという間に携行食糧を食べ尽くし、パウチの水を飲み干した。
「名前は? わたしはスピカだ」
尋ねると、姉の方が自分はリュイ、妹がリャナだと答えた。
「わかった。リュイ、リャナ、ときどきおまえたちに会いに来るようにするから、なにか悪いことをされたらわたしに教えてくれ。相手を見つけ次第、三秒でぶちのめしてやる。またな」
不自然にならない程度の大声で言ってから、スピカは二人のごわついた髪を両手で撫でてその場を離れた。途中で心配になって振り向くと、リャナがそっと手を振ってきたので、同じようにして返した。心配だ、子どもだけで生きて行くには素直すぎる。
「──あなたが郵便配達員のスピカさんですね」
保護してやろうか、だけどきりがない、そんなことを思っていると、暗がりから男の声が聞こえた。とっさにナイフの柄に手をかける。
「ペッパーズ・アーミーギルドのドクター・イルに依頼しました。なかなかいらっしゃらないので、探しに来たんです」
電子義眼をまた、夜間モードに切り替える。視界に浮かび上がった男は、中肉中背というには少し小柄で、ひびの入ったメガネをかけている。年齢は六十近くだろう。北東アジア系、あるいは中央アジア系に見える。目元のくっきりした印象がイルと似ているので、もしかしたら、南方の血も少し混ざっているかもしれない。六番ユニオンではありふれた顔だ。
「依頼人なら、合言葉を」
「ああ、そうでした。──〈言葉が種になる〉」
ナイフの柄から手を離し、代わりに依頼人に向けて差し出した。
「よろしく。スピカだ」
「こちらこそ。ジャンです。ここではなんですから、我が家にご案内しますよ。といっても、家と呼べたものではありませんが」
ジャンがスピカの握手に応じる。ちらりと見たジャンの右手の中指の節のところには、武器とは違うものでできたタコがあった。
『燃える夜空に星ちりばめて』は全3回で連日公開予定