スピカを連れてスラムを進むジャンは、北西に向かって歩き出し、角を右、右、ひとつ飛ばして左、ふたつ飛ばして右、左、の順で曲がった。ずいぶんスラムの奥地で暮らしているらしい。歩き方を見ても武闘派とは思えないので、よく無事に生きてるなと感心してしまう。
「あれが僕の家です」
そう言って、ジャンが前方を示す。
ジャンが我が家と呼ぶのは、壊れかけの小屋だった。雑な作りのプレハブで、壁が剥がれたところは、ぼろぼろのカーテンで覆われている。カーテンが玄関扱いなのか、名も知らない植木の鉢に傘が立てかけられていた。
「大昔に、九龍城塞というものがありましてね。たぶんこのスラムと少し似ていたのだろうと思います。雑多で、ごちゃついた、なんでもありの無法地帯。さ、どうぞ入って」
促されて、スピカはビニールカーテンをくぐってプレハブ小屋に入った。ジャンがスイッチを操作して照明をつける。
「……なんだ、これは」
思わず小さな部屋を見回したスピカをジャンは振り返った。
「本です」
それくらいは、スピカにもわかった。
ジャンのプレハブ小屋には、イルからちらっと聞いたことがあるだけの〈本棚〉がある。ひとつやふたつではない。いくつもある。それも、ギルド所属の大男たちのだれよりも背丈が高いものだ。小屋の壁はすべて本棚で覆われて、そこにぎっしりと〈本〉が収められている。
「軍部にばれたら死ぬぞ」
スピカはそう忠告したが、口にしながらジャンは命くらいは失う覚悟でこの本を集めたのだと理解した。イルがよく言っている。「六番ユニオンで本を手に入れるのは文字通り命がけ」と。命は、そう簡単に懸けられるものじゃない。
「テキストのために死ねるなら本望です。書記法は悪魔の法律ですから。僕は悪魔に抗う人生を選びたい」
ジャンはうっすらと微笑んだ。スピカは、この発言を軍部の情報マイクに拾われたらそれもやはり死に直結すると思ったが、ここは北スラム。その心配はない。軍部も、この地域の統括はあきらめているし、スピカの電子義眼もカメラやマイクを検知していない。部屋には寝床がないから、ジャンはここで寝起きしているわけではないだろう。本を隠すために、軍部が捨てた北スラムを利用しているのだ。
「チップの金額が高すぎる理由がわかってきた。おまえ、わたしに本を運ばせたいんだろ」
本棚に並んだ本の背に目を走らせながらスピカは尋ねた。背に書かれた文字がなにをどう表しているのか、スピカにはさっぱりわからない。それでも、ジャンが強烈な執念の持ち主だということは理解できる。
「そうです。いや、少し違うかな。僕が運んでほしいものは、日記です」
にっき? と思ってスピカは首をかしげた。伝わっていないと気づいたのか、ジャンは「日々のことを、人々が自分の言葉で独自に書き残した記録のことを、日記といいます」と説明した。
「ああ、それなら知ってる。たぶん、わたしの友達が書いているやつだ」
イルを思い出しながらスピカは答えた。そして、ジャンの右中指にあるタコは、ペンを握ってできたものだろうと見当をつける。イルの左手親指にも、たしか似たものがあった。
「あなたのご友人はずいぶん覚悟が決まっているようだ。それに、恵まれた環境で育ったんでしょうね」
あいつはただ反軍部活動家を親に持った変わり者だけどな、と思ったが、スピカは無難に黙っておいた。そういう話をしたいわけではない。
「日記は、だれが書いたものだ」
「僕の曾祖母です」
「そう、そぼ?」
「父の、父の、母です」
ジャンは見たところ六十歳くらい。その父親の、父親の、母親。嫌な予感がスピカの頭の中をよぎり、たいしてできもしない計算が繰り広げられる。一世代三十年と考えたら、だいたい九十年前──WW4開戦前まで遡る。
「運んでほしいのは、第四次世界大戦中に書かれた日記です」
嫌な予感が確信に変わる。
六番ユニオンは、WW4こと第四次世界大戦で世界の都市のほとんどが壊滅し、多くの文明が失われた後、復興優先地域〈ユニオン〉として興った都市のひとつだ。もとはアジア連合の東方軍事拠点として使われた小さな人工島で、WW4が終わるまで民間人の出入りはなかった。
「スピカさん、あなたには荒野にある僕の曾祖母の家から、日記を持ってきてほしいんです」
「こ、荒野か……」
思わずスピカはうなった。
荒野とは、ユニオンではない地域の総称だ。そこに、まともな社会はない。ただ人間の愚かさによって壊され尽くした都市と文明の瓦礫が残っている。
「イメージがわかないでしょうけど、危険なだけでなくかなりご苦労をかける依頼ですから、報酬は多めに用意させていただいているわけです」
「イメージならできる。わたしは荒野出身だ」
機械化が進んだ身体のあちこちが、荒れ果てた大陸を思い出す。そびえる瓦礫の山、肌に絡まる砂埃、命すら風化した乾いた風。
死んだ家族と、仲間たちの姿。
「そうですか。依頼は受けていただけますか? 報酬は、正直これ以上の金額は本部と相談になるのですが」
ジャンの言葉から、スピカは彼に支援者がいることを察した。下手を打てば面倒くさいことに巻き込まれるかもしれない。
しかし、ジャンは羽振りがいい。危険を冒す対価として、提示された金額は充分に前向きな検討の材料になる。
「荒野まで行くとなると、わたしだけでは判断できないから、持ち帰らせてほしい。配達は夜警のついでにやっているが、範囲は六番ユニオン上空のみで届けを出している。ボスの許可と、軍部からの荒野遠征許可が必要だ」
「わかりました。あなたとはどのように連絡を取ればいいですか。ドクター・イルを経由する形でしょうか」
聞かれて、スピカは左のアームカバーをずらした。二の腕に彫ったスキャン用のコードを見せる。
「端末でこれを読み取ってくれ。イルだけじゃなくて、うちのギルドのボスにもつながるアドレスだ。基本的に、三十六時間以内には返事をするらしい。もちろん、軍部対策の暗号化は厳重にしてある」
「あなたとの連絡は?」
「わたしは文字が読めない」
ほんの一瞬、ジャンの表情に哀れみの色がくっきりと浮かんだのを、スピカは見逃さなかった。「そうですか」と消え入りそうな声でジャンが呟く。
「数字ならわかるから、金額はごまかせないぞ」
同情されたくなくてスピカは言葉を重ねたが、ジャンの表情に浮かぶ哀れみはむしろ増した。
「……言葉が人と人とをつなぐ架け橋なら、文字や記録は、人を導く星あかりです。もしよければ、僕が教えますよ」
「べつにいい。書いたところでどうせ、なんだかっていうシステムに手直しされるんだろ。読むものは全部、組み替えられた偽物だ」
「《フギン》、ですね。自動検閲システム《フギン》。手書きなら、《フギン》の手は及びません」
「だけど書記法違反だ。大丈夫、文字が読めない程度で死にはしない。──とにかく、一度うちのボスに依頼を受けていいか確認する。読み取ったアドレスに向けて、わたしと会ったことを伝えておいてくれ。そのメッセージに返事をすることになってる」
ジャンはまだなにか言いたそうな表情をしたが、黙ったままうなずくと、スピカに前金と、約束の五万ユニ分のチップを渡した。「どうも」と受け取り札の枚数を確認する。スピカはチップから三万ユニをジャンに返した。
「さっき、リュイとリャナという姉妹と友達になった。二人が困っていたら助けてやってくれ」
「見ていましたよ。やさしいんですね」
スピカは自分をやさしい人間とは思わないが、否定するのも面倒だ。なんとなく肩をすくめることで返事をする。
「もしかして、スピカさんもスラム育ちですか。ここにも荒野から逃れてきた人が何人かいるようです」
「荒野で生まれて、戦場で育った。人さらいに家族と仲間を殺されて、気づいたらゲリラ部隊に売られていたんだ。いつも食べ物が足りなかったし、妹に会いたかったからな。ああいう子どもは、放っておけない」
残りの二万ユニをボディバッグにねじ込んで、しっかりとファスナーを閉める。
「では、依頼の件は検討する」
軽く敬礼して、スピカはジャンのプレハブ小屋を辞した。
来た道を来た通りに戻ると、さっきの路地で身を寄せ合って眠るリュイとリャナを見つけた。二人に身近な危険がないことを確認しながら、スピカはほんの数秒、その寝顔を眺めた。
懐かしい故郷の歌が、スピカの頭にそっと流れる。歌詞は覚えていない。ただ、穏やかな旋律の記憶は、妹と過ごした瓦礫だらけの荒野の風やにおいを思い起こさせた。
「また会おう」
二人に小さく囁いて、スピカはスラムを去った。来たときと同じ廃ビルの屋上に上り、義翼を展開して大きく助走をつけると空へ舞い上がる。
雲が晴れたから、月が明るい。夜空がぼうっと光って見える。
反対に、見下ろしたスラムは、そこだけが闇の底のように暗い。
ユニオンの中央にそびえる軍部塔の周辺には、三代目であるユリ将軍の豪奢に飾り立てたホロアバターが映し出され、やわらかな声が六番ユニオンの穏やかな夜を願っている。
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