あの日に約束した、空想を綴ろう。
☆
人は死んだら星や風や花になるんだよ。いや死体だろ。
まとわりついてくる強い倦怠感にはもう馴染みがある。頬や腕に当たる床の冷たさとは何度も肌を合わせている。頭痛や口の渇きから飽き飽きした不快感を味わう。
彼女はそれらを、自ら望んで受け取っている。
手足に力が入らないので、体をよじり天井を向く。目をつぶってなお蛍光灯が眩しい。見栄えの為せめて仰向けで寝ていろと、友達からアドバイスを受けている。
吐き気にも、指先の痺れにも、強弱の波がある。耐える以外に回復法もない。こみあげてくるものを、深呼吸のリズムを早めて押し戻す。誰も心配してくれなくていい。
だらんと投げ出した指先で、廊下の床を撫でる。固くて、決して分かり合えなそうで、死んだ後こんな場所に寝かされるのは寂しいなあと、改めて思った。
この学校ではよく、彼女が倒れている。
☆
始は知りたかった。そして家にいても暇だった。だから一年を空けて、学校に来た。
「人は死んだら、花や風や星になるらしいんだ」
「骨だよ」
クラスメイトの空想に、始は靴を脱ぎながらすごく冷たい返し方をした。去年高等部の先輩が一人死んだという話の流れからだった。
「君はすぐそんな風に言うんだから、夢がないね」
そうかもしれないと、始は言われたことに無言で頷く。
「死ぬ時にね、綺麗なものになると思って目をつぶれるよ」
一方で彼、巡がとても夢見がちであることは、始の目からも分かっていた。学校に来ると、毎日いたるところで教えてくれるからだ。
「綺麗なものになりたいと思って、なれるもんなのか」
「そんなの僕に分かるわけないじゃん」
上履きの中に両方の踵を押し込む始は、他のクラスメイトから苗字を呼ばれ、おはようと言いあう。巡には声がかからなかったが、気にせず話を続けている。もし気にしていたとしても、始の気にすることじゃない。
「でもなれるかもしれないから君も願っといた方がいいよ」
「期待してなれなかったら嫌な気分になるんじゃないかな」
「山下くんは死んだあと何になりたい?」
ファンタジーだし、不謹慎な話題だ。余談だけれど、山下始という名前で生きている始は、絶対に山登りを趣味にはすまいと心に決めている。
「じゃあ綺麗な骨。ちょっと職員室に寄ってくる」
「僕も行こうか」
「別に来なくていいよ」
巡を追い払い、始は高等部の教室が集まる棟の一階職員室へと足を向ける。
中高一貫カリキュラムを組むこの学校の校舎は広い。職員室に行くには、下駄箱から始まってコの字形の廊下を、ちょうど左上からなぞることになる。囲まれた中庭は綺麗に芝生が整備されていて、昼休みになれば多くの生徒たちがそこで弁当を食べたり、ベンチで話していたりする。文化祭の日にはここにステージが出来ると始は聞いた。去年のその様子を始は知らない。
朝の中庭は、全校生徒が示し合わせでもしたかのように静かだ。壁に掛けられた絵画にも見える開いた窓の向こうに、仲間のいない雀が一羽降り立った。夢のある巡だったら、あの鳥は元々人間で時々学校を懐かしんでやってくるんだ、なんて言うのかもしれない。
職員室での用事は、社会科の原田先生からプリント集を受け取ることだ。もうその範囲の授業は一年生の時に終わってしまったけれど、自己学習用に持っておいたほうが良いらしい。昨日の授業終わり、明日以降荷物が少ない時いつでも取りに来いと言われた。
始とは違う色の上履きを履く高校生男子が、始の前で放送室と札の掲げられた部屋に消える。始は、顔も名前も覚えてない先生達が談笑している声を壁越しに聞き、職員室のドアを開けた。
原田先生と話していた高等部の女子が立ち去るのを待つ。
自分の番になり、始は先生から分厚いファイルにまとめられたプリントを受け取る。ついでに、「慣れてきたか?」と訊かれた。その声と被って、廊下で何か物が落ちたような音がする。反射でそっちを一回見てから始は、「分かりません」と答えた。ネガティブな意味じゃなかった。本当に、不登校からの復帰という初めての経験をしている最中の始には、今の自分の感覚がこの状況に慣れてきていると呼べるものなのか、分からなかった。クラスメイトで小学生の時に同じ経験をしている女子、田所さんからは「最初は混乱しちゃうかもだけど、なんか困ったことあったら遠慮せず誰かに訊いたらいいよ」とアドバイスをもらった。そうしようと思ったし、クラス内には始に協力しようという空気があった。だから、時が来たならみんなに甘えるかもしれない。
「興味ある部活とかあったら、今、顧問の先生いるかもしれないぞ」
「考えてます」
これも本当だった。始には知りたいことがあって、人を探している。そういう学校に来た目的を果たす為には、部活に入って先輩達と関わることが近道に思えた。とはいえまるで興味のない団体に所属するのは気が引けるので、吟味している最中だ。
原田先生に別れを告げる。今日の時間割に社会はない。プリント集を左の脇に抱え、他の先生達とは目を合わせずに職員室内を歩く。その先で右手を、ガタついたドアに伸ばした。
一年前から変わらないこのドアを、始は覚えていた。始には、なんとなく世界ではこのドアが直らないことに決まっているような気がした。自分が過ごした一年はガタついたこのドアによく似ていると、始は思った。
体ごと職員室の方に向け「失礼しました」と一言室内に残す。誰も受け取らないのに、残さなければ注意される。不思議だ。開けたドアを後ろ手に閉め、教室に向かう為に自分の体の右側を見る。
ボーイミーツガール。
廊下で人が、仰向けに寝ていた。
始は全身を使ってびくつく。
見知らぬ女子だった。高等部の制服で、スカートの下から伸びる足にジャージを穿いている。彼女の顔と腕は日に焼けていた。体のそばに、黒い学校指定鞄が投げ出されてもいる。さっき廊下から聞こえた物音を思い出す。
始は浮き上がった体を留め、踵を床につけてから、寝ている誰かを覗き込んだ。
するとその先輩が行儀悪く寝転んでいるわけじゃなく、倒れているのだと分かった。彼女が苦悶の表情で荒い呼吸を繰り返していたからだ。かすかに、ううう、と呻いてもいる。
「大丈夫ですか」と尋ねた。返事はなかったが、瞼が薄く開く。はっきり、開いた口の塞がらない始を一度見た。それからまた目をつぶった。意識はあるみたい、だからと言ってこのままにしておいていいはずもない。幸いちょうどここは職員室の前だ。助けを呼べる。
そう考え早速、踵を返そうとしたところ、聞き知らぬ声に呼び止められてしまった。
「大丈夫、それただの二日酔いだから」
振り返る。やはり知らない高等部の男子が、こっちを冷たい目で見て立っていた。彼は倒れている人間がそこにいるとは思えない落ち着いた顔で、始の横を通り過ぎ去ろうとした。
「二日酔い?」
質問というより、ただ自分の中で言葉を繰り返しただけだったのだけれど、男の先輩は職員室のガタついたドアを開けてから始の方を向き、答えてくれた。
「そいつ星空中毒なんだ」
無愛想で親切な先輩は、誰にも受け取られないのだろう挨拶をして、職員室に入っていく。星空中毒。
始は頭の中にある知識を抽出しようとした。でも先に目の前の事実に対処することの方が大切なように思えた。倒れた女子が苦しそうにしてる。
せめて水でも買ってきた方が良いと考えた。二日酔いの気持ちは分からないけれど、始のお父さんも水を飲むようにしていた。
「水買ってきます」
倒れている彼女に言いおいて、始は小走りで売店に向かう。こんな時間の売店は混んでない。朝練を終えた部活生はちらほらいた。一番安い水を一本買ったら、また小走りで職員室前に持っていく。
しかし二日酔いらしい彼女は既にいなくなっていた。
すれ違う知らない高校生に行方を訊くわけにもいかず、わざわざ職員室に入って彼女の安否を訊く筋合いもない。始は喉が渇いてもないのに水を一口飲んでから、自分の教室に向かった。
まるで運命の出会いみたいだ。
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